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2001年02月01日(木) 旧暦 [n年日記]

眼鏡をかけて、血の海わたりな!

 ってワケで「 屈折リーベ 」ようやく刊行。5年ぶりだものなぁ。長かった。
 ってワケで西川魯介に興味のない人はここでさようなら。読まないのなら帰れ。
 世の中のダメな方面で「眼鏡っ娘(めがねっこ)」という言葉がある。要は眼鏡をかけた女性(娘さん)を指す言葉なのだが、主に「眼鏡を掛けた婦女子にフェティッシュ的嗜好を持つダメ人間」が使う言葉である。眼鏡は主に視力矯正器であり、それをことさら取り上げるというのは「巨乳」「貧乳」と同じように身体的特徴を取り扱う行為に似ているのだが、普通は眼鏡に性的嗜好性は含まれないのでまあまずセクシャルハラスメントととられることはない。確かに眼鏡に性的興奮を感じる奴なんてのがいたらそんな奴には近づきたくない、というか病院行き一歩手前だろう。
 この漫画の主人公はその病院行き一歩手前の眼鏡フェチで、眼鏡の女の子に告白するところから始まる(で、その次の瞬間鉄拳を食らう)。そのわりには実は骨子はオーソドックスなラブコメものである。そりゃもう背中が痒くなるくらい。後書きには当時の担当に「ディスコミみたいな奴を描け」と実に身も蓋もない注文のされ方をされたと書いてあるが、ディスコミは「恋愛感情→変態的行動」という流れであるのに対し、リーベの方は「変態的行動→恋愛感情」という流れであり、実は「変態少年が主人公であるラブコメもの」という要素以外はまったく一致していない。全7回という中期連載だったので、最後はちょっと無理矢理な力技っぽいところはあるが、筋はオーソドックスで良く出来てる。これだけであれば良く出来た佳作であるが、そうはならない要素がある。
 よく、その作家の全てはデビュー作に詰まってる、と言われる。「リーベ」は作者のデビュー作ではないが、この言葉があてはまるように思える。筋とは直接関係ないところに現れる作者のおカルト・クトゥルフ・旧独軍その他諸々の趣味。「筋とは関係ない」のではあるが、漫画というのは筋を追っていてもコマ全体、そしてページ全体が目に入ってくる。背景、小道具、描線etc.そういったものが雰囲気を作るのであり、それを作り出せる場合それは作家の個性となる。「リーベ」は作者の個性がある意味決定した連載である。西川魯介に興味がある人は試金石として、別のコミックで西川魯介に興味を持った人はその原点を見るという意味で見て良いと思う。
 個人的には安易に「眼鏡っ娘萌え」なんて言ってる奴の頬っぺたをこれで平手打ちにしてやりたいですがな。


2001年02月02日(金) 旧暦 [n年日記]

時の果てのフェブラリー

 今、小学生二人が窃盗・放火というニュースが流れたけど、「学校では普通で特に問題を起こす生徒ではなかった」と言っていた。多分、「学校の教師の目に見える部分で普通である」とかそういう部分とは別の部分に問題があるのに、「普通の子」ということを強調しても仕方ないと思うのだけど…異常であることにしろ、ということではないのだけど。
 昔角川スニーカー文庫で出ていた「時の果てのフェブラリー」が徳間から出てたので読む。昔出た時には買おうと思ってる間に姿を消してしまったのだ。
 ハードSF系のヤングアダルト小説というのは、今でこそ野尻抱介氏などが出てきてそれなりのシェアを確保するに至ったが、かつては「固い」層と「柔かい」層の間のニッチすぎてシェアを確保するまでに至らなかった。そんな時代に出た本である。
 主人公のフェブラリーは「第六感」を科学的に解析した能力であるオムニパシーの持ち主の少女。半年ほど前から地球上各地で起こる重力異常地帯「スポット」の発生により環境に深刻な影響が与えられており、彼女はその「スポット」内部への調査隊の切り札として参加していた。重力異常により起こる空間、時間的な様々な異常現象。そして未確認飛行物体。スポットの中に取り残された人々。スポットの深淵まで分け入った時、フェブラリーが目にしたのは想像を絶する謎の正体だった。
 正直、あちこち人物描写が理想論過ぎるのでないかとか、類型的っぽいとかそういう部分もある。しかし、そういう部分を差し引いてもメインとなる人々の葛藤、そして決意の描写は感銘を残す。著者は「と学会」の会長なので、その手のオカルトに対する描写はちと鼻につくところはないではないけど、全体的にお薦め。
 ところで「宇宙の中心のウェンズデイ」はホンマに出るんか?


2001年02月03日() 旧暦 [n年日記]

動くな、死ね、甦れ!

 「なんつータイトルだ」と思うかもしれませんが、これ、映画のタイトルです。ホント、ホントよ〜。
 ごくごく一部に「傑作」との声があったので興味があったのだが、名古屋シネマテークのロシア映画祭で再上映されてたので見て来やした。
 大戦終了後のソ連、強制収容所の近くの町に住む少年ワレリアのエネルギッシュな生……と、チラシには書いてあるんですが…苦労したんだろうな、この映画の粗筋を考えるの。
 この映画には筋らしい筋はありません。少年ワレリアの目を通して淡々と日常を描いて行きますが、主人公のワレリアも別に主人公らしく理知的だとか正義感が強いだとか何かに打ち込んでるとかそういうことは『まったく』なく、別にソ連に限らずどこにでもいるような少し考え足らずで何かをしたくてうずうずしてるような悪童です。もしろ知的で溌剌としてるのは少年の幼馴染のガリーヤなんですが。その悪童の目を通して描かれるのは、ソ連の末端の人々の喜び、怒り、そして諦め……連想するに、タイトルの「動くな」は共産党統制下における息の詰まるような生活を、「死ね」というのは権力の無慈悲な力を、「甦れ」というのは怒りを込めた希望を示してるのではないかと勝手に思います。最後は全く救いのない映画ですが、その救いのなさですら人生に折り込まれているかのようです。1点。

ネタ色々

 ん〜と、最近ネットへの接続が不安なので、 こういうもの を試しに導入してみたり。まあ、ネットの接続の監視ツールなのだけど、ないよりはあった方が安心できるくらいか。
 他には 秋葉原に第二東京タワーの構想 とか。秋葉原もオタク街化の激しい昨今と聞いてますが、もし実現してしまったら名実共に「電波系の街」になるわけですね? あまり近寄りたくなくなってきた…
  大宮で市民によるいじめ監視組織を検討 とか。「生徒よくし隊」というネーミングセンスもどうかと思うが、特殊な子供社会である学校に、大人を入れて本当にいじめの防止になるのか? というのは個人的にいささか、というよりはなはだ疑問。いじめというのは不安解消システムである。いじめる側は無意識、有意識的に不安を持っている。それを自覚できるか、あるいは経験によりその無害な解消法を持っている大人と違い(いや、大人にだっていじめはあるのだが)、子供はより直接的に、不安を発散させる対象を見つけて解消、というより八つ当たりする。それに集団心理が加わる。いじめ行為に加わる事による無意味な結束感(弱者を設定してそれにより結束するなど、ナチスのユダヤ迫害に等しい)、皆もやっているという安心感、加わらない場合には阻害されるのではないかという恐怖。その他諸々。子供の時から散々見てきた。最近の場合は特に歯止めが効かないことが増えてるようだがそれはまた別の話。いじめる側は成長するにつれ、不安が別の形に転化したり、別の発散方法を見つけるなりして、そのようなことがあったこと自体すら忘れてしまう。罪悪感など覚えるはずもない。自動的に自分の不安を発散させるべく、システムに従っただけだから。だがいじめられた方は? 決して忘れない。泣こうが頼み込もうが止む事のなかった暴力を絶対に忘れない。いじめた側を恨むとかそういうレベルでなく、精神に体験を刻み込まれる。いじめがいけないとしたら、その為だ。大人による虐待と変わるところはない。
 防ぐ方法は二つ。上の計画のように監視の目を増やすというのもそうだ。しかし、いじめる側の不安、ストレスの方向性を自覚させどこにどう向けさせるか。既に存在している場合には、どのようにそのシステムを解体するか。「いじめはいじめられる側に問題がある」というのは、問題解決に支払うコストを渋っている人間の言い分に過ぎない。
 人間はある意味では非常に原始的な欲求に支配されてるソフトウェアなのだ。それを意識する事なしにいじめは止まない。

占守島攻防戦

  2ちゃんでこんなスレッド が立ってたので覗いてみたり。
 占守島攻防戦というのは、 GPM の人型戦車「士魂号」の名前の由来となった「第九十一師団隷下第十一戦車連隊」通称「士魂部隊」が参加した、太平洋戦争における一般にはあまり知られてないソ連との国土防衛戦です。
 って私もこの話題に上るまで、全然知らなかったんですが。あちこち参考にするとポツダム宣言受諾後の8月15日、千島列島最東端の占守島に侵攻したソ連軍と駐留日本軍による戦闘が起こり、それが「占守島攻防戦」と呼ばれているらしいです。士魂部隊はこの戦闘に友軍として参加、95名死亡という被害を受けながら占守島を守り切りました。
 予想より激しい抵抗を受けたソ連軍はそれ以上の侵攻を断念、停戦調停を結びます。
 検索したら池上司著「八月十五日の開戦」にその様子が記されているらしい。メモメモ。


2001年02月04日() 旧暦 [n年日記]

クラミジア…

 「 八月十五日の開戦 」は角川書店刊、1700円だそうな。見つけたら考えるか。
 最近色々物騒なので、NortonInternetSecurityを導入したら、IEを含む一部アプリケーションでのネット接続が出来なくなりました。まあIEはどうしようもない時しか使わないので被害は大きくないのだけど、すっきりしないなぁ。ユーザー登録が済まない内はサポートへの連絡もままならないし。うむ〜。
 なんか、十代女性の半数がクラミジアだというニュースをどっかで見ました(ニュースソース忘れた)。 クラミジア っていうと所謂寄生虫で性感染症なんですが。やはり一度きっちり性教育(性感染症予防も含めた)しといた方がいいんじゃないでせうか? ところで「十代女性の半数」となってるけど、男はどうなんだ?
#後注:「検査に来た女性の半数」なのだそうです。びっくりした…(2/14)
 ちなみにここ一日で「屈折リーベ」「西川魯介」で検索してこの日記に来た人が二人もいます。そんなに注目されてたんか?


2001年02月05日(月) 旧暦 [n年日記]

イメージ喰らい

 今日もバイト。生徒どもが「スカイラブハリケーン」だの「ジャミラってなんか液体に弱かったよな?」(バカモノ。ジャミラは灼熱の惑星に適応したから水を掛けられると崩れるのだ!)とか古過ぎるネタばかりを話してやがりました。ちなみにレッドキングの回に他に出てきた怪獣はチャンドラーマグラとピグモン。しかしチャンドラーマグラってピグモンより印象薄いよな。
 それはさておき、友人が「屈折リーベ」読んでの感想で、「眼鏡萌えは被対象者の側からしてみると狭い狭窄な見方で、残酷だってことなのかな?」という事を日記で書いていた。秘密日記なんで抜粋意訳のみにて御免。
 合ってるけど間違っている。それは眼鏡云々だけではなく、「萌え」と称する物全般に言えることなのである。
 ここで非オタクに説明。「萌え」というのはダメ用語で、まあニュアンス的には「(ある対象を)可愛いと思う状態」というところである。実際にはただ「可愛い」とかというのとはちょっと違って、多かれ少なかれ不純なニュアンスが含まれるのだが。
 その可愛い、というのも、どちらかというとあくまで愛玩対象物的な可愛い、である。つまり、対象の表層的なある要素を抜き出してその部分に対し「萌え」とか言ってるのである。
 問題は、「萌え」というのがその対象部分を中心にして、あるいはそれ以外は全く無視している状態が多い、ということである。
 GPMの来須(無口で優しい系。男)萌えな、戦記ライターでもある仲村明子さんという方は、「公式設定なんか関係ない、それがキャラ萌えだ!」とアルファシステムの社長に面と向かって喝破したらしいが、これは「萌え」というものを端的に表してると言える。
 もし創作、あるいは実在のキャラクターのごくごく一面のみを取りだし、さもそれがキャラの全て、中心であるかのように扱う時、その人にとってそのキャラはそういう「記号」となる。しかし実際には記号的人間などいない。人間とは複雑な物であり、幅広い要素、あるいは相対する要素ですらも含む物であり、単純に記号化できるものではない。また、その複雑性は対人関係の複雑さにそのまま反映される。
 むろん、例えば異性の好みなどとして「こういうのがタイプ」というのはあるだろう。しかし人間が他人と付き合い、人を好きになったりする時(異性に限らず)タイプでない部分、あるいは全く気に入らない部分という物とも同時に向かい合わねばならない。もしそういった部分を敢えて無視して他人を扱おうとするのなら、それはその人を一個の人間として認めていないということになる。
 はっきりいうと、私は「萌え」という言葉にある種の気味悪さ、気持ち悪さというのを多かれ少なかれ感じる。それは、つまりそういうことなのだ。人間を愛玩物のように、あるいは愛玩物を擬似人間のように扱っている、そういった居心地の悪さはいつでも感じる。
 無論、市販のアニメ、小説、マンガなどの商品の場合、キャラクターといえども「商品」である。記号化したイメージを商品として売り、あるいは消費する。そういう品物であり商売である、と言われればそれまでではある。所詮はホンモノの人間ではない。誰も傷つかない。また、人によっては濃厚な胃にもたれるフランス料理ばかり喰っていると疲れる。たまには軽く食べられるスナック菓子も悪くない、という人もいるだろう。別に否定はしない。ただ、それを自覚しているか、していないかというのは大きな違いであるように思う。世の中、短小軽薄の時代と呼ばれるようになって久しい。流行も生活スタイルも娯楽もめまぐるしく変わり、消費され、捨てられていく。その中で、擬似とは言え「人格」ですらそういった流れの中に乗ってしまうということは、人間の不可侵の部分であるはずの精神ですら、大量消費の対象と思われてしまうような、そんな危機感が若干の不快感とともに感じられる。
 「人はパンのみにて生きるにあらず。人間はイメージを食べている」ではイメージの暴飲暴食の行きつく先は?


2001年02月06日(火) 旧暦 [n年日記]

アニメとかあれ以外の何かとか

 元偽春菜「 あれ以外の何かwith“任意” 」に対する翼システムのブラックメール…もとい、要求に対しての 考察roughbox さんとこで紹介されてました。私が漠然と感じていた矛盾点、不整合をきちんと法的に突っ込んでいるので、興味のある方は是非。
 なんか 地球少女アルジュナ がだんだん笑えない展開になってきた……
 前回の「農薬散布は生き物殺すからめーなのよ」な展開は笑えるというか、牧歌的エコロジーを信じる無邪気さに思わず微笑まじりになってしまったのですが、今回は医療にその魔手が伸びてます。ってえか、スタッフは抗生物質や薬品投与で生命を繋いだ人達をどう考えてるのでしょうか? 気力があれば、自然治癒するとでも思ってるのでしょうか? それともそういう連中は死んでもいいから、自然治癒と民間療法だけで医療をすべきだと? 色々現場に問題点がないとは言いませんが、こいつはちょいと納得が行きません。民間療法や東洋医学をけしてないがしろにするわけではないのですが、医学に敬意を払わず、むしろ侮蔑するような構成は…
 それと個人的にはなかなか楽しいと思ってる 仮面ライダーアギト ですが、 スタッフの方は中々苦労されてるようです。
 前作的存在の「クウガ」で折角主人公が身を削って平和を取り戻したのに、その平和な世界でまた新しい戦いを起こすなんて前作をないがしろにしてる、という意見もあるようですが、私から見ると的外れな意見としか思えません。
 例えば中東で和平が実現してもアフリカ、ユーゴなど、他に血で血を洗うような紛争を繰り返すところがあるから、中東和平には意味がないとでも? もしくはそのうちどうせ戦争が起こるのだから和平自体に意味がないと? そんなことはないでしょう。もし一時的であっても平和に意義がないわけはないし、それに尽力した人の努力が報われなかったということではないはずです。逆に私から見ればそういう意見は、「恒久的平和でないと意味が無いから前作の主人公の行為も意味が無い」と言ってるに等しいです。意義を否定されたのでなく、むしろ積極的に意義を否定している意見のように思いますが如何か。


2001年02月08日(木) 旧暦 [n年日記]

順調なんか?

 ボスと実験の方針について相談。最近出たデータの仮定を話したらえらく興奮していた。リアクションが結構オーバーな人なので、かなり割り引いて考えなければいけないが、それでもこの仮定はそれなりに面白いと思ってくれたよう。
 急にナニ書いてるかってえと、オタク話ばっか書いて真面目に実験して無いだろうとか思われるのも癪なので。
 ふと思い立ち、買い置きのレトルトパウチの「牛カルビ」を使って肉じゃがを作ってみる。成功。玉葱は後で入れてシャキシャキのままにしたのは正解だった。
 ニュースで名古屋の資産家が行方不明で埋められてるのを掘り出すという話が出る。「ふ〜ん」と思って見てると、記者会見が行われた警察署は目と鼻の先だった。思わずミーハー根性で見に行こうかと思ってしまった。
 それだけでなく、KSD疑惑への地方商工会の抗議活動の幟の中に「小笠掛川商工会」の文字が。地元やん。
  goo.co.jp (エロサイト)と goo.ne.jp (検索サイト)は昔から紛らわしくて、研究室などで間違えて「goo.CO.jp」などと打ってしまうと誰も見てなくてさえ気まずい事この上ないのだが、どうやら エロサイトにgoo.co.jp使うな との裁定が。ほっとする反面、 goo.co.jp の方が昔からあるのだよなぁと思うと本当にこの裁定が妥当なのかというのは首をひねったり。
 いや、最近は主に google 使ってるからあまり関係無いのだけど。
 他には キャノンがLinux向けのプリンタドライバ出した り、 ボーランドがLinux上で動くGUIベースの開発環境を発表 とか。正直、Windows以上にLinuxがメジャーになるとは思えないけど(ビデオの予約も出来ないおっさんが流行だからという理由でPCを買うという状況では)、やはり多様性と広がりはなくてはいけない。「標準的」であるということは罪ではないかわりになんらかの免罪符にもなりえないのだ。
 あと、それと最近呆れたのはやはり コレ 。こういう声明文が載ったから、何らかの合意が偽ペルソナウェア側と出来たのかと思ったが、実は 最初の警告メール以外他には何の通達もないという 。正直、今回の場合はあまりに先方の言い分が不明確でしかも根拠が薄い物が多い。あちらが好きな法律に照らし合わせるのなら極端な話、刑法第222条( 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する )もしくは第223条( 生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、3年以下の懲役に処する(未遂も処罰の対象) )にのっとって脅迫罪で提訴する事も可能だと思う。(勝算はあると思うが、日本では個人対企業の裁判では個人の方が財政的に不利なのが問題なのだよなぁ…)


2001年02月09日(金) 旧暦 [n年日記]

あ、はいった

 となんか拍子抜けしたマヌケな声を上げてしまいそうなほど、あっさりと 日本ゲーム大賞大賞ノミネート作品 として「 ガンパレード・マーチ 」が…
 まさかワシの アレ (↑)のせいとかじゃないよな……
 確かにWWWは注目度のわりに積極的参加人数ってのは少ないので、千人規模を突っ込めれば十分ノミネートくらいは勝算はあるという目測はあったのは否定はしないが、誰でも知ってる大作ゲームのドラクエ、FF、それに任天堂の目玉ゲームのゼルダ、DCの生産中止が決定して昨今勢いがそがれがちとは言え、年末のセガのキラーソフトだったPSOに並んで大賞ノミネートとは…
 ってここまで書いて気が付いたが、他の大賞ノミネート作って、みんな「続編」ばっかやん! 「面白いゲーム」ということは否定しないが、なんかそれって間違ってないか? 「売上本数が一桁から二桁は違うのに、いくらなんでも実際に大賞まではなあ」とかそういう話に持っていこうと思ってたけど、続編ばかりが売れる世の中なんて気に食わないので引き続き応援決定!
 先日、何故か全く無関係な二人から、ほぼ同時期に「今オタクに受けてるアニメって何かある?」みたいなことを聞かれる。そういわれても、私自身ここしばらくほとんどアニメを気を入れて見てなかったのだけど。しかし、オタクの中でムーブメントになってるようなアニメがないのはそんな私でもわかる。仕方ないので友人に「なんかあるのかねえ」と聞いて見る。やっぱり「特に無い」という答え。それだけならまだしも「東京ミュウミュウ」とか答えやがる。ってえか「東京ミュウミュウ」て何? と調べてみると「なかよし」で連載中の漫画らしい…って少女マンガかい!?
 「読まない方がいいよ〜、頭痛くなるから」という兆発に乗せられて店頭で立ち読み。見事に頭が痛くなりました。(^^;
 いや、なんでレッドデータアニマルやねん? とか何が「ご奉仕するにゃん」なのか、そもそもイリオモテヤマネコとネコは違うだろう、とか、突っ込んですりつぶして灰にして遠い海に流したい部分満載なのだが、それでも少女向けマンガとして、かなりツボをおさえていることは読み取れる。そう、 少女向けマンガとしては。
 だからおっきいお友達が萌えるっつーのは間違ってるんだって。(読むまではまあ許容するとしても)


2001年02月10日() 旧暦 [n年日記]

原潜と漁船

 そういえば以前も似た事故があった気がしたけど、今回は 米国原潜と日本の水産高校の訓練漁船との衝突 。行方不明者がまだおられるそうです。この場合はおそらく米原潜側になんらかの不手際があったのだろうと思うけど(そりゃ普通の漁船に対潜水艦用のソナーがあるわけもないし)、まず怒るより、行方不明者の無事を祈るべき。
 事故に遭った宇和島水産高校のページは こちら 。見てもこちとら何もすることはできないのだけど。
 バイト先のテストを作る資料にも必要なので理科年表を買ってくる。最近のはデフォルトでビニールのカバーがついてるのか? 内容的にはそんなに変わるわけも無いのだけどね。って言うか大きく変わったら困る。
 そういえばまだ書いてなかった。私は4年前のキャプテン休刊からことあるごとに突然の休刊(マジで突然。作家や編集ですら寝耳に水だった)を事あるごとに愚痴ってたわけだが、「屈折リーベ」も刊行された事だし、当時の徳間社長も故人になってしまったことだし、その恨みはきっぱり忘れます。いや、ワシが恨んだり許したりしたからってどうってことはないのだけど。
 ところで何故かここ暫く1〜2日に一遍「屈折リーベ」で検索してくる人がいるのだけど…一体どういう事なのだ? 屈折リーベのこと調べるならもっとイイページに行きなさいって。
 あと検索というと、時々変な組み合わせで来る人がいる。「アダルト小説+いじめ」とか。いじめは話題にしたことがあったが、アダルト小説なんて話題にしたか? と思ってたが、ヤング アダルト小説 なら話題にしたかもしれず。以前の「黒人+女子高生」ってのも相当謎だった。何を考えているのか。


2001年02月11日() 旧暦 [n年日記]

公定歩合引き下げ

 って、金利を下げて借りやすくしても、実際に必要としてる人が借りられなきゃ意味がないと思うのだけど……
 街中を自転車で走るとよくわかる。空きテナントのなんと多いことか。別に人通りが少ないという事でもないのにである。古典的な経済理論を盲目的に信じ過ぎ、何の為にその行為をするのかを考えてないのではないだろうか、と思ってしまう。そらこっちは素人で向こうはプロだからどうこう言うのはお門違いってのはわかっているのだけど、現状を見るとなんともいやはやなのだ。
 例の宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」と米原潜の衝突事故は米原潜の緊急浮上訓練時に起きたものだとか。いずれにしても原潜側の不注意の誹りは免れえぬのだけど。
 あと、事故直後の救命活動についても、意見が別れてる。米原潜側は波が高くハッチがあけられなかった為救難者を艦内に入れる事が出来なかったというが、救難者側の証言ではそんなに高い波はなかったという。行方不明者捜索中の映像では、確かに海は非常に穏やかだったように見えたが……
 まあ、一報が入ってもまだゴルフしてた総理もいるんで、米原潜だけを云々いうつもりはないのだけどね。
 あ、来週の日曜洋画劇場は「シュリ」で再来週は「レオン」だ…

あ、「ゲーム批評」の間違い

 今売り中の「ゲーム批評」のGPM記事で間違い、あるいは意図的な嘘(ってほどのこともないけど)がある。公式掲示板で「士魂号」の由来が「士魂部隊」であることを指摘したのはライターの方ではなく、祖父が山砲兵として占守島攻防戦に参戦した方という、一般の方である。その話題に乗ってきたのが記事の中で触れられてるライターの方、という流れなのだ。まあ話をわかりやすくするためにはしょったのだろうけど、一応、補足って事で。


2001年02月12日(月) 旧暦 [n年日記]

名古屋市の記章って…

 丸に「八」なんだけど、なんか八百屋のマークみたいに一瞬見えた。だからなんだということはないけど。
  駅ホームからの転落者を救う勇気、全国に広がる だそうで……いや、転落者をたすける事は立派な事だと思いますよ、そりゃ。無論、「駅はそもそも危険な場所なんだから、そんな当たり前の事への認識不足がそもそも問題だ」なんて論調もいささか的をはずしてることもわかってますよ(携帯で話中に注意力散漫になって事故に遭ったって人もいるがそれは論外。携帯による注意力と、危険への対応速度の低下って案外と気にされてないのね。閑話休題)。ただ、こう無言の善意を祭り上げるような報道ってどうかなと思う。身を呈して他の人を守って名前も立ち去らずに去った。美談ですよ。確かに立派だと思う。でもさ、例えばホームに落ちた人を助けるってのは、それ自体が危険な行為なわけですよ。記事ではその辺の前後事情は書かれていない。確かに下りて助けなければ危険だったかもしれない。そうでなかったかもしれない。記事の断片から察するに、駅員にまず連絡して、その上で救助したようであるから多分最善の手だったのだろうと思う。しかし記事はそこを褒めてない。ヒロイズムを安易に褒めている。ヒロイズムの安易な賞賛は、安易なヒロイズムの模倣を招きかねない。その場合、危険なのは記事にのせられてしまった人だ。まずすべきなのは、当たり前の手順である。身を呈して助けるかどうかは、ぎりぎりの部分の判断だ。下手をすれば事故死者を自ら増やすことになるかもしれない。
 ヒロイズムの安易な取り上げは好きではないし、それ自身が危険性を孕んでいる。記者はその事に気付かないのだろうか?


2001年02月13日(火) 旧暦 [n年日記]

まーず・あ・たっく

 なんかこないだ入れたばっかの シマンテック のインターネットセキュリティがピコピコ警告出してたので、何かと思ったら「Hack 'A' Tac Trojanのアクセスを受けたけど、アクセス拒否の対象なので拒否しました〜」ということらしい。で、「Hack'A'Tacって何?」と思って検索かけたら見つかったのが こんなページ
 どうもremoteでWin9xにアクセスするツールらしい。で、トロイの木馬をし込んで云々すると、人のPCにあれこれできるらしい。つまり人のPCをクラックしようとしたってことかい!
 ワシのシマ荒すんは誰じゃ! とログのIP調べたら同じプロバイダからのアクセスという事がわかった。こっちには変なトロイの木馬は仕掛けられてなかったので被害は無いのだが、くそ、アクセス日時はわかってるからプロバイダに連絡してやろうか?
 Winのセキュリティは穴だらけだけに、やっぱり何らかの自己防衛策は必要だよなぁ。一応フリーでも前に紹介したものの他にも こういうところ でどこのどいつがしかけてきやがったか調べる事ができたり、 こういうWin用個人ファイヤーウォール があったりするわけで、面倒でも前もって注意しといた方が後悔は少ないかも。
 それと、展開に腹を立てつつやはりなんとなく見つづけてしまう「アルジュナ」。ひょっとしたら作り手の策中にはまっているのかもというかすかな不安もないではなし。それでも「ヒヲウ戦記」の方が数倍面白いのは間違いなかったり。しかし先週ほどではないにしても「なんだかなぁ」な展開には変わらず。教師がルーチンワーク化してるのが多いってのは否定はしないが、それでも思考錯誤してる人も多いわけで、それを無視してネガティブな材料だけ取り上げるってのも。それと、それなりに理想の人生ルートからはずれたって人間生きていけるわけで、何があれかっていうと「不良気取ってるくせに堅実な人生設計を崇め奉ってるんじゃねえよ」というところか。でも実際は不良とか族って結構そういう人間多いのだけどね〜。
 ついでにやっぱり Napster社不利 。まあそうだろうなぁ……

えひめ丸の事故とか

  連絡待ってただけだもん。間違ってないもん。な首相の言い訳 はなんだかなぁ、な感じ。釈明のタイミングからして、非常に言い訳くさい。何せ意識不明だった前首相の使命で後釜に座った人だから、そういう不思議な事もあるかもしれない。そのついでに もう三ホールばかりコースを回っても 問題はないのだよね。非常にわかりやすい人ではあるのだけどね。
 それもあれなのだけども 原潜側の救助対応に問題無し という声明はなんなんだか。どうも米国との云々ってのが透けて見えていやだ。


2001年02月14日(水) 旧暦 [n年日記]

えひめ丸とグリーンヴィル関連

  http://odin.prohosting.com/maneuver/special/greeneville/ とか。
 まあその話は取り敢えずいいや。
  アルファシステムの芝村氏インタビュー 。どの芝村氏かわからんし、写真も多分偽者だけどね。口調が芝村口調で無いってのはどうでもいいのだが。(でも話してる内容はまぎれもなく芝村ティックだなぁ)
 ヲイラが GPMキャンペーン とかやったり 星雲賞非公式ノミネートページ を引き継いだりしたかってのは、やっぱ何もやらずに後で「だからあの賞はダメなんだ」とか、グチグチ文句言うだけなんてのがイヤだから、というより「ミッシング・ゲイト」の一件でそんなのはもうまっぴらだと思ったから。誰かが得するとか損するとかじゃない。もし損得勘定でやるというのだったら、それは応援でなく投資だ。ファンの応援なんてのは自己満足だ。応援される側が望んでいるかさえ関係ない。そこら辺は、迷惑にならないよう注意しなければならないのだが…
  2ch でGPMキャンペーン取り上げた掲示板だけど、面白い事にGPMノミネート後、それを話題に取り上げたのはキャンペーンに否定的な意見が多い方だった。つまり、気にしてるのに最初から諦めて何もしない人が多いのだ。最初から大手の出来レースなんだからノミネートすらされることはないと。私はそんなことないと思ってるし、ないよと言いたい。それは伝わっただろうか?
 帰りに「ギャラクシークエスト」見てきたので、明日はその感想でも。


2001年02月15日(木) 旧暦 [n年日記]

まずは宣伝。

 知人の本の宣伝。広告スペースじゃないって? いいんだよ。ヲイラの書きたいように書くんだから。
 エンターブレイン社刊ファミ通文庫「GUNNER」5月19日発売。
 パイロット版はヲイラも読みましたが面白かったです。ってワケでよかったら買うように(言ってる事滅茶苦茶だな)。ただし「萌え〜」とかそういう方面の本ではないので予め悪しからず。
 次に昨日の反省。ヲイラはファンの代表でも指南役でもないんだから偉そうに説教するような真似をする資格なんざないのだよな。何もしなくて文句いうことに怒っても、そいつらに偉そうにああしろ、こうしろという権限などないのだ。敢えて言いたいのなら、「お願いですから文句言うくらい悔しいなら、まず行動を起こしてください」とお願いするしかないのだよな。なんかお願いしてる文章に見えないけど。
 で、やっと昨日の予告通り「 ギャラクシー・クエスト 」の感想。
 ジョンソン・ネズミズを始めとする5人は昔の人気SFテレビ番組「ギャラクシー・クエスト」のレギュラーメンバー。同番組は今も熱狂的なファンに支持され、番組の決め言葉「ネバーギブアップ・ネバーサレンダー!(諦めるな、降伏するな!)」が合言葉の大会が開催されるほど。ところがそんなファンの熱狂とはうらはらにメンバーは昔の番組に引っ張りまわされるのにうんざり。しかし他に仕事につこうにも番組の役のイメージが強過ぎて他の役が回ってこず、しかたなくファン集会やイベントに出て糊口を凌ぐのがやっと。メンバーの中で一番人気の司令官役のネズミズだけがいい気で人気者気取りだが、陰口を叩かれてるのを耳にしてすっかりしょげかえってしまう。そんなファンの中に自分たちの星に来て侵略者から守って欲しい、という変な連中がいた。ネズミズはイベントの仕事の話だと思って大乗り気で受けてしまうが、実は彼らは本物の宇宙人のネビュラ星人サーミアンで、本当の星間戦争の助っ人に地球で放送されていた“ドキュメンタリー番組”ギャラクシークエストの歴戦の勇士を頼ってきたのだ。番組に出てきた宇宙船までそっくり再生し、彼らに指揮を執って欲しいという。レギュラー+無理矢理ついてきた番組ではやられ役専門の役者の合計6人は地球で昔の栄光を引きずって冴えない毎日を過ごすよりは宇宙をまたにかける本物の勇者になった方がいいじゃないか、と開き直り、疑うと言う事を知らない純情な宇宙人たち相手にすっかり上機嫌。ところが腐っても本物の戦争。番組そっくりだと言ってももうそんなの昔の話。船の操縦もチームワークもてんでばらばら。一方的にやられた挙句に船の内部に乗り込まれ、自分たちを信頼していたサーミアンの前で自分たちは偽者だと吐露して命乞いまでしてしまう。しかし彼らが一方的に敵になぶられる姿を見て、メンバー達の中に番組を打ち切られて以来の闘志が燃え上がった…
 まず、この映画の中の番組「ギャラクシー・クエスト」はあからさまに実在の人気テレビ番組「 スタートレック 」のパロディ。同番組には「トレッキー」と呼ばれる熱烈なファンが今でも全米、全世界におり(日本にもいるのだ)、スペースシャトルのエンタープライズ号は同番組の宇宙船にちなんで名付けられたもの。続編として「ネクストジェネレーション」「ディープスペースナイン」「ボイジャー」が製作されて今でも放映されている。知らなくても笑えるが、知っているとなお笑える。昔の役に引っ張りまわされてうんざり顔の元メンバーたちや、そんな出演者達を尻目に異常とも思える熱狂振りを示してマニアがコンベンション(ファン集会)を開催するのは、全てスタートレックで実際に起こってることである。冒頭のファン集会のシーンだけで思わず笑ってしまったのは、流石に劇場でも私一人だったなぁ…(いや、SF大会と重なってしまって…)
 最初苦笑まじりに何から何までバカっぽいメンバーやファン達を冷ややかに見ている観客だが、見ているうちにそのバカバカしいテレビ番組とその出演者、ファン達がなんとなく可愛く、そして共感すら覚えてしまうのである。いや、ヲイラがオタクだからってことじゃなくって。でも、メンバー達も知らない宇宙船の構造を通信機経由で訊ねられ、「やっぱギャラクシークエストは本当だったんだ!」と叫んでしまうお馬鹿なマニアなど、苦笑をかみ殺しつつもファン冥利に尽きるだろうなぁと、マニア心をくすぐるところもあったりする。製作者は絶対トレッキーだ。
 昔テレビのヒーロー物とか見ていた頃の郷愁をさそい、なおかつ溜飲の下る、マニアにもそうでない人にもお薦めの快作。2点。
 ところで「西川魯介」とか「屈折リーベ」とかで検索して来る人、お願いだから 何が望みか言ってください 。出来るだけ善処しますので。


2001年02月16日(金) 旧暦 [n年日記]

御科学様萬々歳?

 アルジュナで何が一番むかつくのだろうと考えたが(この「むかつき」とは極めて私的なものなのであしからず)、どうもあからさまな「敵意ある科学(文明)反対主義」を隠してないところの気がする。
 え〜、科学者(よくよく考えたら定義が曖昧な言葉だ)とか研究者とかって科学万能主義の急先鋒みたいに思われるかもしれないが、実際はむしろ逆で、まっとうな研究者や科学者なら科学(この場合は自然科学だな)が万能でないことは嫌になるほど知っているはずである。何故なら、科学が既に万能なものだとするなら研究などする必要はないからである。その場合必要なのは解析の流れ作業だけだ。
 科学は万能になる かもしれない 。ならないかもしれない(こっちの方がありそうだが)。科学というのは言ってみれば手法に他ならない。ものごとを捉える一つのアプローチのし方、考え方だ。万能の道具がないように、科学もまた万能の道具ではありえない。必要に応じて道具を変え、あるいは新しい道具を作り出さねばならない。科学が万能だからそれに準じてるのではない。問題設定があり、それに対してどうアプローチするか。それだけの話であり、ある意味科学というものの曖昧な全体像を憎むのは、科学の恩恵を受けてるくせにという反論以前に非常に的外れである。
 自然は人知の及ばぬところがある。それは否定しない。むしろそれを知ってるのも(まっとうな)科学者のはずだ。だが、だからといって挑戦してはならないということにはならない。
 万能でないことを知ってるのなら、何故それに頼り続けるのか、という物分りの悪い人間もいるだろう。まず、第一には使い方によっては設定された問題の解決に有用である事がわかっていること。第二には、万能でないからと言って神秘主義者のように安易に他の万能の(に見える)ものにすがろうとしないだけである。
 無論驕りがないとは言わないが、神秘主義に傾倒して科学の有用性を否定するのもこの上なく愚かな驕りである。
 あ〜。すっきりした。
 まあ、こんな固い話ばかりでもなんなので、 こういうもの で気持ちを落ちつかせるのもいいかも。(要 ここのVB6ランタイム
 あ、それと Mozilla の新しいバージョン出ています。


2001年02月17日() 旧暦 [n年日記]

Quoth the Raven, "Nevermore!"

 ポオの出世作、「大鴉」が急に読みたくなったのだが、書店で収録してる作品集が見つからなかった。これは著作権も切れてることだし、ネットで探した方が早いか? と思ったのだが、なかなかどうして、これが見つからない。
  青空文庫 でもポオの作品は「アッシャー家の崩壊」くらいしかない。これは原文で探すしかないか、と思ってなんとかみつけたのが ここ
 この中の The Raven が邦訳では「大鴉」と訳されている物。なんのことはない、これを探してたのは最後に大鴉が叫ぶ言葉「Nevermore」までの流れを読みたかったからだけなのだが、短い散文とはいえ詩である上に、古語がまじってて結構読みにくい。英米文学の専門家などというものが世に必要なわけである。流石に全部まるまる読むのは結構時間がかかるので、検索サイトの excite翻訳サービス を使ってみた。結果は惨敗。やはり詩歌の一見非論理的文章構造というのは訳し難いらしい。ま、それでもなんとか読み取れないことはないのだけど、原文を見たほうがマシな個所もあるし。
 やっぱ世の中が便利になっても、人間の地道な努力という物が世界には必要なのである、という教訓。(なんて大袈裟な)


2001年02月18日() 旧暦 [n年日記]

雪の進軍氷を踏んで

 どうも、「プロジェクトX」より「その時、歴史が動いた」の方が面白いと感じる今日この頃。226事件のアレなんかは、世の中陰謀と策略と裏工作で動いているのだとわくわくしてしまうではないか。昨今の浅はかな政治家に見習わせたいものである。
 面白いといえば、クウガの後番として色々過剰な期待とかなんとかを背負って始まっている アギト だが、個人的にはクウガより面白い。無論、この面白さはクウガのお膳立てがあってこそ、という面があるのも否定はしないが。
 主演クラスの役者達の演技をどうこう言う人も多いけど、何故かワシの場合気にならない。多分演出とケレンの魅力が役者の未熟さを上回っているからだろう。
 クウガの時は変身ヒーローと警察のマッチングというアプローチに対して、主人公が戦う理由というのが腑に落ちない部分があったのだが(主人公ののーてんきさで演出的にはカバーできていたが)、アギトの場合、典型的石ノ森ヒーローの系譜を継いでいる。つまり、自己のアイデンティティ模索、人間(じんかん)にいながら本質的に世界の異邦者であるという矛盾、そういったものを抱えた主人公ということである。ダークサイドのヒーローであるギルスも救いの少ない展開になりそうで○。正直「三人のライダーが出る」と聞いた時には不安だったのだけど、この調子だと期待できそう。

 ディスカウント酒屋の「三祐」で平行輸入品のジャックダニエルを買ってくる。やはりこっちの方がサントリーのものよりずっと口当たりが良い。こういう珍しいものが置いてあるのは良いなぁ。ただしこの店、アイリッシュがブッシュしか置いてないのがちとタマに傷なのだけどね。


2001年02月19日(月) 旧暦 [n年日記]

非常識

 自分が非常識であることはわきまえてるつもりだけど、最近はどこが非常識かわからないけど非常識なはずだ、と思うようになってきた。ただの被害妄想ってこともあるかもしれないけど、あとから「あ、あの部分は非常識だったな」とか「自分はバカなことやってたな」と思うと言うのは昔から変わらない。そういうのは多分誰にでもある事なのだと思うけど、自分がその「誰にでもある」の誤差の範囲内にいるかどうかというのがわからない。
 もし、自分が誤差の範囲内にいると思ってしまうと、そのうち自分のすることに何の疑問も持たなくなってしまうかと恐くなる。逆に、気にしすぎてそれに振りまわされるのも恐い。ま、この状態が振りまわされてるのかもしれないけど。
 自己嫌悪に陥るのはたやすいのだけど、それより先に次の一歩を考えなければならない。
 多分読んでも何のことかわからないと思うけど、自分の考えを整理したかったので。


2001年02月20日(火) 旧暦 [n年日記]

勝利無き戦い

 昭和20年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。7年にわたる戦争の終了である。しかし1ヶ月以上前にソ連は日本との不可侵条約を一方的に破棄していた。これは戦後の資本主義・社会主義の対立を見越して日本に資本主義への橋頭堡を築くべく、千島列島、北海道、対馬の占拠事実を作る為の布石だった。
 日本側もこの情報を事前に得、八月と予想されるソ連の本格的上陸を前にそれへの対策を練る。ソ連の北海道侵出が始まったら喉元にナイフをつきつけられる形になる敵国であるはずのアメリカにソ連侵攻の抑止を政治的に行ってもらう。その工作に必要な間、北海道にソ連軍が揚がって来る前に緒戦が開かれると予想される日ソの国境、南樺太と占守(シェムシュ)島で方面軍は物資も戦力も圧倒的に不足する状況下でソ連軍を食いとめねばならない。しかもソ連軍の勢いをおしとどめるほどの打撃を与えつつ、更になおやむを得ない防戦という形を取って……
 工作に必要になる最低期間と、兵站も戦力も不足する部隊による徹底抗戦の兼ね合いで出されたギリギリの線は、三日……この間にアメリカとの裏交渉をまとめ、なおかついかなる犠牲を払っても勝利せねばならない。さもなければソ連の侵略により北海道民は蹂躙され、敗戦後の日本はドイツのように分断されてしまう。
 誰もが起こらねばいいと思っていたその事態が、ポツダム宣言受諾三日後の八月十八日、ついに発生してしまう。ソ連は国際的な非難を敢えて覚悟し、和平勧告が行われるまでに占拠を既成事実としてしまうつもりなのだ!
 ソ連の上陸部隊の出鼻をくじきつつ、航空部隊が上陸前に出来るだけ敵戦力を反復攻撃により削ぐ。そして一旦退いて内陸に敵を誘い込み、唯一の戦車部隊、十一戦車連隊により叩く。
 有利な点、ソ連軍は上陸作戦に関しては錬度が低い事、不利な点、圧倒的な戦力差、物資の不足、自軍戦車の砲と装甲の弱さ、敵戦車の砲と装甲の強さ……何もかもが絶望を示す中で、生還さえも期されず、勝利などありえない事がわかっていながら、日本の最後の戦闘が幕を開けた。
 「八月十五日の開戦」で描かれるのはこの占守島攻防戦の三日間である。殆どの現代の日本人には知られることのない、しかし戦後日本をある意味で守った戦闘で、皆傷つき、死に、そしてそれでも前に進んでいく。戦争は賛美されるべきではないかもしれないし、私もすべきでないと思う。しかし、それでも戦う事により誰かが護られたという事実は残る。大事なのはその事実であり、また戦闘に意義があるとしたら、その事実が残る事だけである。
 戦闘前に、全ての兵士が連隊に残って戦うことを選んだその前で隊長が「これで諸君らは孫を膝に載せて自慢話をやることができるな。孫は退屈がるだろうが」と部下を笑わせるシーンは不覚にも涙が出てきた。この「孫」たちの内から、祖父の語った思い出を誇りとし、それをゲームに込めた人間が出てきたのだから。ゲームがどれだけ意味を持つのかはわからない。しかし少なくともその孫達には確かに何かが伝わったのだ。そして我々も彼らの流した血肉の結果を享受している。どう思うか、どう考えるかはともかく、それは忘れてはいけない。

 26日追加。 26日の日記 に補足を書いたので、出来れば併せて読んでください。


2001年02月21日(水) 旧暦 [n年日記]

しまった。

 ここの日記を アルファシステム のドメインから検索で飛んできた人がいました。何もないと思ってそのまま帰ってました。ちっ!
 やっぱゲーム大賞ノミネートがどう思われてるか、気になってるのね。
 一昨日昨日今日と、非常にオタクなネタで会話が盛り上がる。こちらにも事情というものがある為だが、しかしええんかという気にもなったりならなかったり。
 パヴァーヌの感想を書こうと思ったが、どうにも書きにくい。面白いことは間違いない。また、落ちを読むまで「SF?」と思う人もいると思う。ちょっと時間に余裕がある時だな。
 少し前の話だが、郵便局で窓口が一つ、係員が別の仕事を抱えて閉じていたのだが、何故閉じてるのかと怒り、その理由を説明されるとそれがわかるようになってないと怒ってるおじさんがいた。局員は決して暇なわけでなく、せわしく動いてるのは傍目に明らかであるのにだ。そうやっておじさんがうっぷんをぶつけてる分作業が遅れ、その窓口が再開するのが遅れるのにだ。
 先日は、エレベーターに乗っていたのだが、行き先階数ボタンパネルの近くにいたおじさんが誤ってインターホンのボタンを押したらしく、スピーカーで係員の人の「どうされました?」という声が何度か聞こえた。私が「すいません、間違いです」と答えるまで止まなかった。言った瞬間、満員に近いエレベーター内の人の視線が一斉に私の方を向いた。怪訝な色を浮かべてだ。
 無関心、というのならそれでもいい。しかし、何故こう世界に対し無駄に敵意を見せるのだろう? 男子ひとたび表に出れば七人の敵がいる、とはよく言われる。しかし、忙しいのでも没頭してるのでない状況で、外部の一つ一つの挙動を見て、その背後を推測するという当たり前の事が出来れば、敵意を見せる必要はないとわかるはずだ。自動的に外に対して興味をシャットアウトしてしまっている事に疑問を抱かない、自動的である事に任せて思考を停止させる、常識、普通というものにその一つ一つを検証するということすら思い及ばずそれに合わないものを排除しようとする。
 この人たちが親として、あるいは親になって子供に「人には親切にしなさい」とか「相手の事を思いやりなさい」などと言ってるかと思うとそら寒くなる。また、森首相の非常識を同じく自動的に責めるのを考えてもぞっとする。自動的であることで失った物は大きいというのに、まだそれがわからないのだ。
 時代を責める事勿れ。そういう時代を作ったのは他ならぬ我々なのだ!


2001年02月22日(木) 旧暦 [n年日記]

時代劇の時代

 いや、カラオケ行って「夢ん中」とか「負け犬の歌」とか探すってよくやるよね?<やらねーよ
#第一ないし。
 なんかテレビで「八丁堀の七人」とかいう時代劇をやってたので横目で眺める。なんつーか、ひでえっつーか、お約束もここまでお約束だけだと見難いし醜いという例だなぁ。
 火付けが起こった、下手人は誰だ、火事で儲けてるのは材木問屋らしいぞ、じゃ、そいつが怪しい…ってオイオイ。疑うのはいいが、それだけで既に下手人扱いするなよ。
 しかも旗本の次男坊に、お前が疑わしいから来いとか出し抜けに言ってるし、これ見て誰もおかしいとか思わないかなぁ。むちゃくちゃ笑える。
 出鱈目なら出鱈目でもいいけど、仕置人とかみたいに、確信犯的出鱈目さとかやってくれればいいのに。「時代劇はこういうものである」という規制概念が固まってしまった為に、視聴者も製作者も頭が硬くなってしまったのかなぁ。ちらっと人と話をして、大岡越前とかで、定番の三方一両損とか子供争いとか、いわゆる講談が元の定番ネタでも、昔作った物の方が面白い、ってことが話題に出たりもしたし。確かにヲイラも時代劇がつまらなくなって見なくなってしまって久しいけど、再放送の物はちらちらと見てたりするものなぁ。固定化することで新しい刺激を加える事が出来ず、それで変な受け狙いばかり入れて、様式の美ですら存在しない。時代劇やばいっすよ。鬼平とか、面白いのもあるのだろうけど。
 あ、ところでファーストコンタクト(異星人との初接触)シミュレーションコンベンション、「 コンタクトジャパン 」の日帰り企画(普通は数日かけて行うのだ)、「 Day CONTACT 1in Nagoya 」が行われます。私はまだ参加したことがないのだけど、レポートを見るだけで感じる濃密な合宿企画の楽しさを、1日でどれだけの要素が詰め込めるか、というのが大変楽しみです。これが上手く行けば、もっと気軽にこういう企画が行う事ができるわけですしね。


2001年02月23日(金) 旧暦 [n年日記]

TAXI DRIVER

 今日、ちょっとタクシードライバーのおじさんにタクシー業界のあれやこれやという話を聞く機会があった。大変面白い話でした。
 収入のシステム、なわばり、契約の形などなど、ちょっとしたトラブルの話とか、ちょいときれいでない話とかにも触れたり。全く知らない業界のお話というものはやはり面白いものです。
 やはり、比較的入りやすい業界ではあるけども、不安定かつ生活サイクルが定まらない世界ではあるようで、ご苦労は絶えないよう。
 話聞いて「タクシードライバー」とか「男たちの挽歌」を思い出し、ピンと来る所もあったり。
 知人の日記から「八月十五日の開戦」の感想の部分にリンクが貼られてたので、「こんなきたねえ文章、人様にホイホイ見せられねえ」(って見せてたじゃん)と、少し手直しするが、あまり飛んでこないようである。杞憂か。
 「ラピュタ」をやってたので見てみる。良く見れば突込みドコロ満載の映画だが、それと同じくらいかそれ以上に「面白い」ということが言える。欠点をなくすことが名作を作る条件ではなく、長所を伸ばす事が重要なのだという良い例だな。
 作品の欠点をあげつらうようなことばかりに陥らぬよう、気をつけねばなぁ。


2001年02月24日() 旧暦 [n年日記]

さすらいエマノン

 「おもいでエマノン」の続編「さすらいエマノン」が出てたので買う。買うのだが、どうにも違和感がつきまとう。今回に始まった事ではなく、「おもいで」の途中から既に感じていたことなのだが…
 この違和感の正体に途中で気付いたのだが、エマノンが観察者でなく、超能力を持った行使者になってしまっているということなのである。エマノンは、生命が生まれた時からその記憶をずっと蓄積しつづけている。母から娘へ、記憶だけが受け継がれ、エマノンの本体は肉体でなくその記憶であると言える。地球の生命の歴史を記憶して行く事。それがエマノンの存在意義の全てである。そのはずだった。しかしどうにも前作の途中から既に「おや?」と思うようになった。エマノンが、積極的に何か、進化の方向性に関わっている部分が多くなったからである。それでは記憶者でなく、先導者だ。それがいけないということではないが、一代毎にその生その生を精一杯生きてるはずのエマノンの魅力が削がれるような気がする。つまりは、視点がメタ生命な部分に移ってしまい、共感し難いということなのだが…ううむ。


2001年02月26日(月) 旧暦 [n年日記]

戦争と戦争

  20日の日記 に関して「それ、(その意図は無くても)戦争賛美にとられかねないよ」という指摘があり、読み返してみると確かに煽ろう煽ろうという書き方を意図して行ってるので、そう読まれて不思議はない事を認識。「あ、こりゃちとやばいなぁ」とは思ったものの、削ってしまうというのも何か違う気がするので、補足としてちと色々書いておきます。
 まず大前提として、日中戦争から太平洋戦争、もっと言えばそれ以前からその要因というのは積み重ねられて来てはいるのだが、それらは根本的に「間違い」であるということがある。「間違い」と言うと生温いかもしれない。もっぱら日本の判断、行動は「最低」であり、その結果は「最悪」であったという方がぴったり来るだろう。
 無論、日本が世界制服の野望を持って、という能天気で幸せな一方的な史観は正しいわけではない。ある意味、日本は追い詰められたというのも間違いとは言えない。しかし、追い詰められたのはもっぱら日本の内情と外交の失敗によるものであり、他国に行った行為の言い訳にはなんらならないのだ。
 日本の戦争参加者も被害者である、というのは正しい。しかし、同時に国全体として見れば積極的加害者であるという事実は、如何に言葉と証拠を重ねようと消えない。無制限な罪悪感を持つ必要はないと思う。しかし、過去をしっかりと認識し、それがどのようなことであったのか、どのような結果をもたらしたのかを把握することは、戦争を語るのであれば最低限必要な義務であろう。
 終戦後のソ連の侵攻についても、ソ連の横紙破りというニュアンスがあるととられかねない書き方をしたが、八月十五日のポツダム宣言受諾というのは停戦の日ではなく、停戦・講和のための全軍の武装解除を含めた前段階というのが正しい(補足:更に言えば、ソ連はポツダム宣言に連名してない)。したがって、一応名目上は日本が武装解除を拒否し積極的戦闘および侵攻の意図ありと見なされれば攻めることは必ずしも国際的非難を受けるようなことではない。もっともソ連はドイツのポーランド侵攻に乗じてポーランドに攻め込んだりとかなんだりとか、色々あれなんで、ソ連に否が無いってのは言えないと個人的には思うのだけど(国際法は破られやすいという実情はとりあえず置いといて)、日本にしたってそれまでしてきたことがしてきたことなので(一連の戦争全体で見れば)一方的に被害者面できないことは忘れてはいけない。戦中における外交、大局での戦略を欠いた行動については言うまでもなし。
 次に作戦全体の意義。実は件の小説のみを鵜呑みにするとあぶない部分があって、その一つがアメリカとの裏工作を指示した松岡洋右元外相なのだが、この人は日本を戦争に叩き込んだ外交上の失敗のかなりの部分の責任があるのである。残念ながら史実の「占守島攻防戦」における役割というのは資料が見つからず、まだ調べるのに時間がかかりそうなのだが、太平洋戦争前のハル・ノートに至るまでの外交の失敗の数々に加わってるのは確かである。松岡外相は主戦論派ではなく、むしろ米国との関係修復を望んでいたのは確かなのだが、却って関係の悪化を招いた強気の外交と、米国が破棄を求めていた三国同盟に非常に固執していたというのは間違いなく、結果から言えば全てとは言わないが少なくない部分は責任がある。そういった失敗や無責任の積み重ねは、松岡外相に限らず開戦前、開戦後と積み重ねられて、終戦時の事態を招いたのである。ソ連が攻め込んできたのだって、非常に見とおしが甘いソ連外交の結果であると言っても言い過ぎではない。従って、「横紙破りのソ連対国土防衛の日本」という、幸せな見方が出来るほど単純ではないし、そういう見方は間違っている。
 そしてもう一つ、敢えて言えば、占守島の攻防戦が行われなかったとしても、必ずしも北海道がソ連領になったとは限らない。個人的にはアメリカを始めとする欧米諸国はこれにかならず反対をしたと思う。無論、どう転ぶかは断定できないので無意味であったとは思わないし、北海道民が戦火を免れたというのもおそらく事実だ。
 私の見方では、「占守島攻防戦は日本国民にとって最悪の中の最悪の結果を防ぐ要因になったかもしれない」というのが偽らざるところである。しかし日本の行為そのものが最悪であったことは忘れてはいけない。ただ、この戦闘を含んだあの戦争が(他人事で無い意味で)悲劇であるとは思うし、そう思って欲しいし、何故起きたのか、今後起きない様にするにはどうすべきか、そのことに想いを馳せるきっかけになれば、とは想う。
 プロイセン参謀本部のシャルンホストだったか誰の言葉だったか、細かい事は失念したのだが、「最も輝かしい勝利であってなお、戦争は不幸である」というのがある。全くその通りだと想う。


2001年02月27日(火) 旧暦 [n年日記]

明日という字は明るい日

 忙しいという字は心を亡くすと書く。ので、心が死んでない限りは時間が少なくても疲れても忙しいのではないのだろう。だから多分私もまだ忙しいのではないのだろう。
 とは言え色々慌ててたことが原因で、昨日の日記に別方面からのツッコミを受ける。意図が良くわからない部分もあったけど、明かに意図が誤解された部分、こちらの書き方が明かに悪かった(あるいは間違ってた)部分があるので修正。誤解されるようなことを書くというのは、大抵はこちらに非がある場合である。まあ感情的部分と、史実の部分と全然分離されてない文章なので、それだけでも問題であるかもしれない。事実を挙げていき、冷静な判断を仰ぐというのは分量がかかるということもないではないが、やはり歴史、特に戦争を語ることは難しい。


2001年02月28日(水) 旧暦 [n年日記]

鬱だ

 久々に鬱っぽい。無理矢理ガンパレード状態にしようにも、ガス欠状態に等しい。こういう時は気分転換か大人しく引き篭もりにでもなるのが一番なのだが、どちらも許される状況ではない。
 笑っていても、なんか笑いが乾いてるのが自分でもわかるの。とかくこの世はままならぬ。トホホ。