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2001年05月02日(水) 旧暦 [n年日記]

大人はダメダメ星人

 実は隠れた名作揃いというもっぱらの評判の「クレヨンしんちゃん劇場版」。去年はバタバタしてるうちに上映期間を過ぎてしまい悔しい思いをしたが、とりあえず今年は見なければということで行って来たり。本当は「隣のヒットマン」とかも見たかったんだよう。
 今回は大人を懐かしがらせ、日本全体を20世紀にもどそうとするケンとチャコが敵。(おお、ケンちゃんチャコちゃんだったか。ケンの見た目はどっちかというとジョン・レノンっぽいが)
 毎回毎回ある意味ナンセンスな世界観なのだけど、今回もそれにたがわず。しかし、実はテーマ性としてはかなりはっきりしている。「未来」であったはずの21世紀になってもワクワクするようなことはおこらず、懐かしいものが消えていくだけで前途はどんどん多難になっていく。昔に戻りたいとまではないにしても、昔は良かったとは誰しも一度は思ったことはあるはず。
 しかしそんな大人の懐古心は、「子供」であるシンノスケたちには無縁である。ひたすら現実から逃避するように「20世紀」に没頭していき、子供のことをわき目もふらなくなる親の姿に、怯えと共に疑問を呈する。カザマくんがはからずも「『懐かしい』ってそんなに楽しい事なのかな?」と言った台詞がそれである。親にとっては懐かしいことでも子供にとっては生まれる以前の知らない世界のことにすぎない。同様に、親にとっては嫌な現実でも、子供にとってはそれこそが「子供時代」だ。「今の世の中は駄目だ」と繰言をするのは、自分の過去だけでなく、子供の未来まで親が放棄していることになる。
 実際、この映画で一番よく動き、頑張っている(特に最後の方はテレビでは飄々としたシンノスケがボロボロになりながら必死になってる)シンノスケだが、その役割はむしろ象徴、「今ってそんなに駄目なのか?」「昔ってそんなにいいの?」という疑問の具現という位置付けである。この映画の主題の中心となる葛藤は、実は野原ひろしをはじめとする「懐かしさ」と「今」の間で揺れ動く大人たちが起こす。子供のため、でなく、自分のために悩むのだ。無責任に希望だの未来だのを謳歌するのでなく、「懐かしさで頭がどうにかなりそうなんだよ!」と顔面をくしゃくしゃにして泣きながらも、あくまで20世紀を過去のものと封印しようとする姿は、単に無邪気な子供ではなくなった、いろいろなものを抱え込んだ大人が「未来への期待」を持ちつづけることの難しさ、苦しさという負の面も折り込んでいる。
 と、いっても「クレしん」だから悲壮になりすぎることはない。野原一家が狂言回しで終わることもなく、その辺り、非常に上手くできている。
 この映画は確信犯的に大人、特に家族連れのお父さんに向けた映画である。「子供向け映画」としぶしぶ親子連れで行くのではなく、むしろそういった親御さんこそ、見てほしい映画だ。あ、でもブリブリ左右衛門は出てないや。2.5点。


2001年05月03日(木) 旧暦 [n年日記]

誕生日おめでとう>姉へ

 メール出すのがなんかおっくうなので。<おい

 え〜、ここんとこ野菜が多い健康的な食事(おいおい、健康的な食事ってのはいろんな栄養素を満遍なくバランスよく取ることだぞ?)を採っているのだけど、やっぱ肉類・油分を減らすと、皮膚の油っ気が減っていくっす。皮膚が油ぶらぶらしてたんで、この効果にはびっくり。今までどれだけ油取りすぎだったかってことですな。
 あともうひとつ、びろうな話で失礼だが、排泄物の色が変わった。ふむ、なるほど。狩猟者の人が獲物の糞とかでその体調とかを調べるというのがちょっとわかる。体調のバロメーターのひとつなのだな。某筒井氏みたいに、皿に自分の排泄物を持って対峙しつづけ、糞を食べる異星人の気持ちになりきるとかいうまではさすがに出来ませんが。(^^;


2001年05月04日(金) 旧暦 [n年日記]

わさび?

  リュック・ベッソンの新作 らしいんすけど、「WASABI」って…小津安二郎じゃないんだから。向こうの人が感じるニュアンスと、こちらのニュアンス、やっぱ食い違いがあるんだろうなぁ。
 今日、東京から来た友人を栄→大須案内。有体に言います。オタク方面の友達です。でもそういうとこばっか案内するのはとてもつまらないんで、 栄のテレビ塔 方面から ナディアパーク を経由して、大須へ。大須でも、電気街ではなく、古着屋街とか、寺社とか、そっち方面をメインに。っつーか普通観光ってのはそういうものなんだよ。
 今回、同じ名古屋市内に住みながら、ネット上でちょこちょこ話をしてるだけの方も交えながらで、とても楽しかったです。って、んな事してる暇は本当はないんだよう!(;_;)
 いやま、現実逃避、現実逃避…


2001年05月06日() 旧暦 [n年日記]

重低音公害

 人間は可聴域スレスレの低周波数音波を浴びつづけると、体調を崩したり精神的に不安定になったりするそうである、なんて話をずっと以前に聞いたり。
 音のエネルギーという奴は音圧の二乗だそうで、音の大きさは「音圧レベル」で表されることが一般的らしい。この音圧レベルと言うのは音圧とはまた別物で、以下のような式により関係が記述されるらしい。(「らしい」ばっかですまぬ。ワシも専門外なので俄かに調べてるのだ。)
  SPL=20log(P1/P0)
 SPLってのが音圧レベルで、いわゆる「デシベル(dB)」。P1はHONDAのロボットでなく音の音圧、logは常用対数でP0は基準音圧と呼ばれるものだそうで、人間が聞ける最低レベルの音圧である。つまり、書き直すと音のエネルギーESっつーのは、
  ES=P1^2=P0*10^(SPL/20)
ということになる。従って「俺の歌を聞け〜!」とか言って「歌のエナジー」とか、そういうことをやってても、音自体のエネルギーはこんなものなのである。だから重低音で気持ち悪くなるってのはエネルギーの問題ってより、固有振動数の問題かなんかかな? ちなみに人間の固有振動数はおおざっぱには110kHz前後だそうです。部位とかなんとかによって違うだろうけど。
 なんでこんなことをいきなり言い出すかと言うと、近所でなんかよくわからん重低音が響きまくって気分が悪いからである。どこかの阿呆がウーファーのレベルを最大にして音楽垂れ流したのか、流しててる方は重低音だけ聴いてるわけではないからそれでいいのかもしれんが、こっちとしてはいい迷惑。頭はガンガンするわ気持ち悪くなるわで、「責任者出て来い!」な感じである。普段は温厚のふりを出来るだけしている私でも、さすがに堪忍袋の緒が切れて「こンのFucking Creature奴!」などと叫びだしそうなくらいである。いや、本当にそれくらい気持ち悪かったのよ。
 ってワケで重低音出まくりの音楽をお聞きの皆さん、重低音の垂流しには重々お気をつけを。でないと代わりに貴方の近所で藁人形に五寸釘叩きつける音が響くかも。っつーかワシが響かせる。


2001年05月07日(月) 旧暦 [n年日記]

辛くない「辛口」はもうたくさん

  プロ野球の観客動員数が減少してる らしい。アンチプロ野球の私としては無責任に嬉しい限りだが、肝心の巨人の動員数は変わってないじゃん。ダメじゃん。
 それとは全く関係ない話で。
 なんかネット上の文章で「辛口」という言葉をたくさん見るけど、その実「辛口」なんて思えるものはほとんどない。「辛口」というのは本来ポイントを抑え、批評の対象である事物の痛い点をズビシと指摘したもの、なぜそれがいけないのかをわかりやすくまとめられたものが「辛口」と呼ばれるものであるはずだ。だから本当に辛口が書けるという人はとても頭が良く、鋭敏な視点を持った人で、「辛口」なんて言葉を使っているのは「自分はそういう人物だ」とアピールしてるに等しい。しかし、本当にそうであるかは書いた文章を読めば一目瞭然である(その頭のよさと鋭敏な視点は文章を書く際において、ということであり、当然書いた文章にはそれが表れていなければならない)。もう一つ言えば、辛味も滋味である。その「辛口」の周囲には対象に対する愛がなければ滋味にはならない。「愛」というと臭くてバカバカしい浮ついた言い方のように思えるが、要は対象にどれだけ深く切り込んでるか、ということである。それは思い入れが原動力である場合もあるが、別にそうである必要はない。しかし対象そのものに深く切り込み、深く考察することは必須であろう。ともかく、思い連ねただけの雑感を書き連ねるだけでは、どれだけ悪口でも事実でも「辛口」にはなりようがない。一見刺激的なだけだ。しかも、ただ単調な刺激は慣れてしまうことで刺激ですらなくなってしまう。そしてそれにおぼれることで正常な味覚を見失う。
 別にそういったものが存在していることがいけないというのではない。だがそういうものが「辛口」を名乗ってはいけない。それは「おこがましい」と言うのだ。


2001年05月08日(火) 旧暦 [n年日記]

大人が懐かしがることもない

 「宇宙船サジタリウス」というとウチらが小学生の時だろうか。テレビで放映していて、 とてもじゃないけど子供にうけるとは思えなかった 番組なのだけど、主題歌の「オトナが懐かしがることもない」のくだりに反して、今でも懐かしがるいい年したオトナがたくさんいる。内容はと言うとまるでムーミンみたいな動物だか人間だかよくわからないキャラクターが宇宙船サジタリウス号で大活躍 しない 話だった。主人公はリーダー格で正義感が強いトッピー、ラザニアが好物で七人の子持ちのラナ、恋人のアン教授を追って半ばうやむやのうちに仲間になってしまったジラフの三人。あと、流れの楽師みたいななんだかよくわからない生物、シビップもいるけど、こいつらが傾きかけた零細企業(ってより本当に潰れるけど)「宇宙便利社」に舞い込む依頼を老朽宇宙船サジタリウス号で宇宙をあっち行ったりこっち行ったりして果たそうとするのだけど、毎回依頼が一癖も二癖もあって、必ずろくでもない悪事の片棒をかつがされそうになったり、一銭にもならないけど見捨てて置けない他人の危機とかが絡んでくる。しかしその場合も小市民的な正義感、小市民的な悩みが基本で、あくまで恋人や家族や子供や生活のことを真っ先に考えてしまう。こんなムーミンみたいな生き物(ラナはカエル、ジラフはキリンとして、トッピーは何だ?)で話を作ったのは失業とか生活苦とか、リアルなキャラでやったらしゃれにならなかったからではなかろうかと思われる。十五年以上経って改めて見てみると、本当に身にしみますわ。
 こんな地味で花がない話にもかかわらず、一年半もの間放送されたということは、やはりそれだけ視聴者がこの番組を支持してたということだろうと思う。
 こんな話を急に書いてるのは、今BSで再放送してるのを見て懐かしくなったからなのだけども、この番組のオープニングを見るたびに、最終エピソードで事故に巻き込まれるトッピーが最後の通信でずっと考えていた二人目の子供の名前を送るシーン(「フェロー(Fellow)…フェロー…みんながいなくちゃだめなんだ」というシーン)を思い出して泣きそうになるのだよなぁ。「オトナが懐かしがることもない」というのを聞きながら、なんか妙な気分になるのだけど。


2001年05月09日(水) 旧暦 [n年日記]

Mozilla0.9公開、しかし…

  Mozilla0.9 が公開されてたので、さっそく落としてみる。が…言語パッケージがメニューから選択できないエラーってなんじゃぁ! だから私みたいな地雷踏み以外はまだ落としちゃダメっす。多分0.9.1がそのうち出るのでそれまで待つべし。
 連休中に九州に帰っていた東京の友人が、帰省返りに名古屋に寄ってわざわざ置き土産をしていってくれた。その名も「 モリンダ・タヒチアン・ノニ・ジュース 」…ってこの原料のところにある「モリンダシトリフォリアピューレ」って何? 一回の服用量って何?(ジュースなのに…) 『頑張って飲んでね』って何? どうもマルチ販売で売ってるジュースらしい。味も壊滅的らしい。どうやって入手したかとかよりも、何故こんなものを置き土産に私に渡すのか、彼に問いただしたい。しかも1リットル瓶まるのまま。
 勘弁してくださいよ。トホホ。


2001年05月10日(木) 旧暦 [n年日記]

諦めは絶望よりも性質が悪い

 なんてここ暫くの自分を省みて思ったり。それがなんにせよくすぶりにせよ、何かに怒っていなくてはいけないのだろう。それが対外的な態度に直接あらわれるかはともかく。
 テレビで「隣人は静かにわらう」を見る。隣人の正体が暴かれていく過程がなかなか良く出来ていて面白かったが、後味は限りなく悪い。うひー。
 なんかこの春はイヤと言うほどアニメの新番組があって、ちょこちょこと検索かけたら公式ページがぽこぽこ立ち上がってるみたい。 学園戦記ムリョウ とか、 ジーンシャフト とか Z.O.E とか。ジーンシャフトはここ二回か三回くらいしか見てなくってギャルわんさかのオタク向けアピールアニメかと思ってたら、全体主義と遺伝子レベルまで徹底された個体管理が推し進められた社会と言う、ある意味ありがちと言えばありがちな設定だけどこれが意外ときちんとやってるのでちとびっくり。しかし話の盛り上がりは欠けるわな。
 今晩のプロジェクトXの再放送は見逃さないようにしないと…


2001年05月12日() 旧暦 [n年日記]

あ、早(本当は「白」に「十」)鉄絢のコミックがこんなところに!

  ブックオフ に寄って、ゲーム系アンソロジーの作家のチェックをしてたりしてたんですが、新声社の「虹色町の奇跡」アンソロジーに 早鉄絢 氏が描いてるのを発見。いや、それだけなんだけど。ついでに「オフィス北極星」を読み返してしまったり。同じ「真刈真二原作」でも、「勇午」よかこっちの方が好きだったんだけど…
 「ラスト・オブ・モヒカン」やってたので見たけど、声優が富田耕生やら青野武やらでちょっと嬉しい。アメリカ植民地化時代のラブロマンスものってことでちょっと偏見があったけど、意外と楽しめた。


2001年05月13日() 旧暦 [n年日記]

それ神田から、やれイッヒヒノヒ

 一日家でごろごろしたり論文読んだりいまさらプリズムコートやったりしながら、テレビをつっけっぱなしにしてたので17:20に突然 CLAMP 絵のアニメが流れ出す。「エンジェリック・レイヤー」って奴ですな。原作自体が個人的にはどうでもいいという評価なので興味はないが、絵は比較的安定してるとのことで一応見てみる。やっぱりどうでも良かったです。(おいおい)
 原作自体が「プラレス三四郎をパクった」という声があちこちから聞こえてくるのだが、人形サイズのロボットを使った格闘ものという点は確かに。でも「プラレス三四郎」がある意味「プラモ狂四郎」のパクリと言えなくないので、別にパクリだなんだというのは中傷に値しない。「プラレス三四郎」も決して大成功した漫画と言うわけではないし、そのネタを再利用してヒットを飛ばせたのなら、それはその再利用した漫画家の力量というものだ。
 …が、やはり一言言わすにいられまい。エル・ウラカンもタコ・ボーイもマッド・ハリケーンもブラッディーXもクレイジーホースも出てこないとはどういうことよ?! ってのは半ば冗談だが、そういった不満が出てくることが「エンジェリックレイヤー」と「プラレス三四郎」の根本的違い、ある意味欠点の表出である。
 まず、「エンジェリックレイヤー」はメカ的描写は殆ど出てこない。レイヤーはあくまで「動く人形」という以上の位置付けはなく、ハード的な興味と言うのは、おそらく作者自体に興味がないのであろうけど、一切存在しない。「プラレス三四郎」では、実際の技術的裏付けという点では飛躍があるが、「マイコン」だとか「新素材」、「宇宙開発」などなど、技術的なタームを盛り込むことでそれが一つの興味として人の目を引く一要素となってた。時代ということもあるが、「エンジェリック〜」の方はあくまで変形格闘もの・ロボットものの変形という位置付けでなく、あくまでキャラをその主眼としているということである。では、「エンジェリック〜」の方がキャラが立ってるかというとそうでもない。「プラレスラー」が過剰なキャラクター化がされ、まるで固有の意思を持ってるかのような描写がされ、また人間の方も本当にペットか、場合によっては友達のような扱いを見せるのに対し、レイヤーは「人形」の域を脱しない。前者は漫画的描写としても双方向的な描かれ方であるのに対し、後者はあくまで一方通行的、しかもかなりあっさり目である。
 人間キャラクターについても、黒崎など不必要なくらいに濃いキャラクターが存在した「プラレス〜」と異なり、「エンジェリック〜」の方はあっさり風味である。
 そもそもCLAMPのキャラというと、「かなり人を選ぶ濃さ」を持つキャラ(有体に言えば、オタク女性向け)であるのが特徴なのだが、「エンジェリック〜」では故意にそれを抑えているようである。しかし、それ以外のキャラを描ききる力量がないために結局は全般的に薄いキャラになってしまう。つまり、「エンジェリック〜」はCLAMPが一般市場向けに成分調整して世に出した作品なのだ。
 従って非絵画的キャラクター造形における魅力と言うのは皆無である。
 しかしコミックと言うのは、絵と一体になってキャラクター、設定、世界観が形成される。人によってはそっちの方を重視する。つまりぶっちゃけて言えば「萌え系の絵」であるがゆえに、人によってはそういう「キャラ造形の薄っぺらさ」は些細な問題になるのだ。
 私はそういう素養はないし、正直言ってそういうのはわりと御免なのだが、別にそれを作り出し、そういう層に確実にヒットさせる力量というのは大したものだと思う。しかし、無用なまでにキャラクター造形が濃く、ある話も意味正当スポコンの系統だった「プラレス〜」を読んでた人間にとっては、ネタがかぶるだけにその薄さが対比として目につくのである。
 今回見た話は特に最たるもので、「スポコンものではない」、つまり劇中のゲーム自体には重きを置いていない「エンジェリック〜」で「競技を通しての交流」を描こうとしてるために明らかに中途半端に終わってしまってる。
 個人的にはこういう中途半端さ具合では、とてもでないが入れ込む気にはならない。
 あ〜、ところでようやく念願の「ルパン音頭」(「ルパンVSクローン人間」のエンディング曲)を入手。歌うはかの今は亡き御大・三波春夫。
 ルパン三世の劇場版というと「カリオストロの城」が市場評価が高いのだけど(DVDも出たし)、「カリオストロ」は宮崎が「宮崎のルパン」として作ってしまっただけに、映画としては面白いけど「ルパン」としては評価しがたい部分がある(わかりやすく言えば、本来の「ルパン三世のキャラクター」とは食い違っているということ)。やっぱあれは宮崎映画であってルパン映画ではない。どっちかというと「ルパン三世」のキャラを徹底的に掘り下げていった、「ルパンVSクローン人間」の方が上だと思う。原作付きで原作のキャラを掘り下げ、昇華させたものってこれと、あと数えるほどしかないのではないかな。ルパン、不二子、次元、五右衛門、銭形のかっこよさもやや上回ってるし。


2001年05月14日(月) 旧暦 [n年日記]

日本のヒップホップは10年遅れてる?

 こないだ…っつってももう二週間以上前なのだけど、妹の結婚式に行く途中で読む用にニール・スティーブンソン「スノー・クラッシュ」を買って読んだ。映画と音楽とピザのフランチャイズくらいしか誇るもののなくなった未来のアメリカで、主人公が朝鮮系日本人と黒人米兵のハーフで剣の達人の凄腕のハッカー(クラッカーではなく)、おまけにピザの配達人と来ては「あ、こりゃダメすぎる」とダメな期待に惹かれて買ってしまうのはいたしかたありますまい。
 冒頭は予想にたがわずなんか勘違いしたような未来世界で、命をかけてのピザ配達が始まってなんだこりゃとなる。が、これが話が進むにつれ「マトモ」になっていくのだ。マトモというのはネットワーク描写の部分。回線負荷、オンライン・オフライン、接続料、ネットワーク作業etc.etc.
 話はネットワーク上の仮想世界コミュニティで蔓延した危険な新ドラッグ「スノー・クラッシュ」を中心に動いていく。ところがこれがどんどん話が広がっていき、太古の神話時代にあった人間の根本にアクセス可能な「共通言語」の存在と、それによる閉塞した世界を打ち破るために起こった「バベルの塔事件」、そして再びその「共通言語」を用いて世界支配をたくらむ富豪との対決と言う、ハード(っぽい)SF+陰謀ものの様相を呈する。
 最初のヘンさ具合からこの展開は思いつかなかったので何時の出版だ、と思ったらなんと原著は1992年の出版。しかし、そこに描かれる世相や感覚は現代日本で読んでもしっくりくる。つまり、日本の最先端のcoolさというのは、結局アメリカの後追いに過ぎないのではないだろうかと言う疑念と、あと、インターネット黎明期に詳細にネットワーク普及とはどういうことかを予言して見せたニール・スティーブンソンの予見の卓抜さがはっきりとわかる。
 話としてはちょっと長いので、ライトノベル程度の長さじゃなきゃ読めないという人には薦められない。
 あ、あと、ワシって結局犬と少年(or少女)に弱いということがはっきりわかりました。ハーラン・エリスンが書いてすら感動したしな。


2001年05月15日(火) 旧暦 [n年日記]

足つった…

 学校から帰ろうといざ自転車を引っ張り出したら後輪がパンク。
 仕方ないんで自転車引きずって家まで帰りましたよ。10kmばかりを2時間近くかけて。
 玄関で靴脱ごうとした瞬間足がつりました。いてててて。
 明日は自転車屋が開いてる時間に帰って修理してもらわないと…
 コンビニで懐かしい方々がもっぱら載っている「 コミックバンチ 」なる漫画誌が新創刊。いや、懐かしい面々なのはいいのだけど…以前の人気漫画の続編ものばかり描かせるってのはどーかなーという感じも。どのヘンからだ? キン肉マン二世? 「週刊少年ジャンプ」がかつての勢いを失って久しく、「ヒカルの碁」や「ライジング・インパクト」など、秀作はコンスタントに叩き出してるものの、ジャンプの大看板であった「熱血」が時代に合わなくなったのか、読者層が変わったのか、誌面印象は大分変わり、往年のパワーはあるとは言いがたい。で、新しく稼ぎ頭として出てきたのがかつての人気漫画。全て10年は昔のものなのだが、つまりそれを読んで育った少年(と、それよりは少ないであろう少女)もいい大人。そういった層に案外とこれが当たってしまってる。先の「キン肉マン二世」に「ブラックエンジェル&牙」「リンかけ2」、その他にも続々と…ちょっと変わってるのが「銀牙伝説ウィード」で、集英社の雑誌での連載ではないのだが、あの出版社って集英社の系列だっけ?
 ま、ともかく「これなら作品としてはダメでも懐かしさで売れる」とばかりにそんなのばっかりが…こういう言い方は失礼なのは重々承知だが、こういった作品を書く中には既に「終わってしまった」作家も多い。テーマや作風が今に合わないとかそういう以前に、以前のようなパワーは感じられない。(いちおう断っておくが、中にはまれに面白いものもある) 無論、上手く転身出来た漫画家さんというのも世には多くいて、若さが武器のセンスやパワーは陰りを見せたものの、別の筆の冴えを冴え渡らせて第一線でずっと活躍してる人もいる。しかし、ジャンプのかつての作家の使い方については有名な話なので割愛するが、転身が出来なかった作家というのももちろん多くいる。そういう人の書く続編物は、正直見ていてつらい。かつてのハードパンチャーが、子供にもかすらないパンチを打ってるのを見るとの同じ気分だ。そうでなくとも、単に懐古趣味に浸るのは後向きだというのに…
 いいかげんこの商売もネタが尽きて欲しいものである。


2001年05月16日(水) 旧暦 [n年日記]

愛の貧乏脱出計画?

 あの番組見てないのだけどね。
 近くに「たこ咲」というたこ焼きとジェラートというちょっと普通はない組み合わせの店があって、夕方なんかによく列が出来てるのを見てたのだけど、今日ちょっと自転車の修理の待ち時間に興味があって初めて入ってみたのですよ。
 ちょうどお客が途切れてる時間で「7分くらい待っていただけますか?」というので店内で待つことに。突然目に入ったのは「皆様のおかげでどうにか借金を返しながら生活できるようになりました…」云々という張り紙。普通こういう張り紙するか? とか思って店内を見回してみると、何故かみのもんたのサインと店主一家でとったと思われる記念写真が。もうひとつ引っかかったのは、こういう普通だったら単に同情を引くためと思われるような張り紙をしてるわりに、おじさんがたこ焼きを焼くのが本当に一球入魂という感じでたった一人分を焼くとは思えない真剣さと気合の入れようだったこと。別に一人だから手を抜いていいってことはないけど、屋台のたこ焼き屋であんなにひとつひとつの火の通りに細心の注意を払って焼いてるのは見たことがないってくらいだった。なんかその真剣な姿勢と張り紙のギャップが気になった。
 なので家に帰ってから検索かけてみたら案の定 ありました
 たこ焼きはだしの効いたたこ焼きで、ソースが本当は好みなのだけどこのだしの効き方だったら確かにソースはいらないなぁと納得。中は半熟という基本がしっかり守られたたこ焼きで焼きむらもなくっておいしかったです。アイスもおいしいらしいので、カロリーと相談して今度食って見ます。


2001年05月17日(木) 旧暦 [n年日記]

星雲賞ノミネート

 過日届いた 第40回日本SF大会 プログレス(大会案内を兼ねた広報誌みたいなもの)に今年の星雲賞の 公式ノミネート (正確にはノミネートではないのだが)が載っていた。
  星雲賞非公式ノミネート なんてものを管理している関係上、気になるのだが、今回はメディア部門とノンフィクション部門がかなり重複してました。日本長編はそこそこ。その他は全然ですな。
 来年度の目標は幅広い層を集めるための認知度の拡大。うむ。
 とりあえず今回の星雲賞における目標は「 ガンパレードマーチ に星雲賞を」と「吾妻ひでお・横山えいじ・ASIMOに星雲賞をとらすな」ということで。
 独断と偏見と言われればそれまでだが、これらには共通したテーマがある。「思考の固定化したSFファンの打破」である。だってさ、よっぽど他にないならともかく、今更「横山えいじ」ですよ? SFを感じますか? むしろ懐古でしょう。頭が固くて柔軟性がなくって昔を懐かしんでるだけってのをアピールしてどうするの? 昔がそんなにいいなら20世紀博に行ったままになってなさい。
 ASIMOも然り。P2やAIBOはまだわからないではない。でもまたAIBOが出てきたって、それはP2の順当な進化系に過ぎないじゃないのさ。すごいとは思うし実際すごいのだけど、「ロボット」というだけでSFなんてのは頭の悪いSF的ガジェットさえ出てればSFだと思う人間と変わらないじゃん。別に広く一般公募してるならそれでもいいよ。でもSFファンと自認する人間がそれっつーのは嘆かわしい。技術賞を与えたいわけ?
 「ガンパレードマーチに星雲賞を」というのも同じく「SF」=「文章」もしくは「映像・劇媒体」としか考えられないのに風穴を空けたいから。不幸(?)にも、今年は映画で「あ、これいい!」というものが揃っているのだが、それでも「新しい」というただ一点のみでもガンパレを推す価値はあると思う。
 保守的なSFファンなんて目も当てられませんぜ。


2001年05月19日() 旧暦 [n年日記]

接客対応

  mozilla0.9の言語パッケージに対する不具合の修正パッケージ が出てたので試すが、何故か出来ず。仕方ないので> mozilla -lang ja-JP(or JP)のオプション起動で対応。ううむ。ちょっと問題あるよなぁ。何が問題かはよくわかりませんが、とりあえず自己責任で。
 え〜、オタク向けの店ってのは店員の対応が悪いことが非常に多いです。そりゃ「ヌメッ」とした感じのオタクが大挙して押しかければ気分も悪くなろうというものですが、はっきり言って客商売をなめてるとしか思えない対応が多いです。そうでない人もいますが、悪い店員はよその店ではクビ確実なくらいひどい。
 でも一々文句いうのも面倒なんで大抵は無視しますが、今日二昌堂っつーコミック専門の書店の対応はマジで切れそうになりました。ぶすっとした機嫌悪そうな顔はまあいいのですが、こともあろうか釣銭を投げて返しやがりました。
 そもそもお金を投げるなんてのが許されるのは賽銭くらいです。昔接客業のバイトをやってた時に、客がお金を投げてよこしたこともありますが、それだって実際腹が立ちます。でも、そこは営業スマイル。受け取るまではとりあえず相手の金だからということで無理矢理納得することにします。でも釣銭は店の金であって店の金でありません。お客の金です。それを投げるというのは、接客業の心得云々以前に他人のものを投げるということで、常識はずれもいいところです。
 手渡しして返せなんて言いません。でも人のものはそれなりの扱いをしなさい。商売とかなんとか言う前の問題です。
 その後で寄った ユニクロ の対応が、店が混んでるにも関わらず懇切丁寧親切だったので余計にその酷さが目立ちました。なんつーか、酷いにも程がある。
 で、何を買ったかというと イダタツヒコ の「ゴルディアス」二巻。他に別の書店に寄って「大空のサムライ」の再販版を。これは昨日友達に教えてもらうまで再販版が出てるのを知らなかった。光人社版は探してても見つからなくて久労したのだ。感想はまた後日。


2001年05月20日() 旧暦 [n年日記]

学園もの

 他所の掲示板でみかけたのだけど、 AERA の4/30・5/06合併号(ちょっと前のやね)で押井守の記事が組まれてて、これがかなり突っ込んだ記事であるらしい。まだ見てない押井ファン向けに一応。
 以前某知人による「正しい学園もの(学園SFジュヴナイル)」の定義、すなわち「主人公は転校生で超能力(に準じたもの)を持ってる」「敵は生徒会長と、その手下」「竹刀を持った風紀委員(or風紀指導の教師)が出ている」といった条件を書いたことがあるけど(有体に言えば「狙われた学園」辺りだな)、実は私は賛成してるかというとそうでもないけど、でもこれを満たせば学園ものジュヴナイルにはなるだろうなぁ、とは思う。
 学園ものの基盤となるのは、学校という機関の一種閉塞性である。交友関係、生活サイクル、そういったものが全て学校中心であり、その社会への準備段階特有な一種特殊な小社会で何が起こるのか、ということにある。しかし最近は学校の閉塞性というものは以前ほどはない。放課後は街へ遊びに出たり、塾へ行ったり、学校の領域であった部分というものがどんどん外に漏れてしまっている。だから、学園ものというのは以前のような強烈な魅力は放っていない。
 しかし、閉塞性がなくなってるわけでない以上、その意味合いがなくなってしまってるかというとそういうこともないわけだけど、学園に囲い込む力、必然性というのが薄くなってしまっている現代、学校という特殊社会の不気味さ、不安というのをやや極端な形にした方が舞台を学園内に収めるのには便利であるらしい。すなわち学園内の人物よりは、むしろ「学園」そのもの(組織や場所)に謎を置くという方が学園内で話が完結しやすい。そうでなくては、今の風俗に合わせる為に学園の外にどんどん舞台を求めねばならない。
 ってなわけで、男性向けでまっとうにそういうテーマでやってるというと「ダーク・エッジ」か「ゴルディアス」くらいしか知らないのだよなぁ。女性向はチェックしてないので知りません。どちらも学園という閉鎖空間の謎に、主人公が巻き込まれるという形なのだけど、学園ものの系譜としてはやはりこの形態にならざるをえないのかもしれない。ふむ。


2001年05月22日(火) 旧暦 [n年日記]

プロジェクトXって…

 「…た」「だった」「した」が連続するんですげー聞きづらいんですけど…
 世の中東京三井海上のED債とか三重の飛行機とヘリの接触墜落事故とかでアレですが、 哀愁はいいんですが 、ブラッカイマー&マイケル・ベイという組み合わせの方がアレな気がするんですが…米国の日系団体から案の定懸念が発表されてるし。日本が戦争でしたことが正しいとは到底思わないけど、おそらくこの映画で多くの人間が扇動されてしまうこと、扇動の結果どういうことになるか、想像がつかないわけではないだろうに…ま、ブラッカイマー&ベイだしなぁ。
 HDDの容量が格段に増える技術だとか zdnet アサヒ 。宇宙人の技術ですなぁ。
 Office XPの新しいプログラムライセンスの方式についての 批判 。アップグレードのメリットに対する魅力が小さくなっていったことの裏返しなのだけど、やることがヤクザ並ですな。狂ったサンタは言いすぎですが。
 がんもどきを作ろうとするが失敗。水気を切らなかったことと、つなぎが弱かったことが失敗の原因か。なかなかに難しそうだ。うむ。
 先週ボロクソに言った コミックバンチ の創刊二号(これ自体に文句言ったってより、懐古主義に文句言ったのだけど)。懸念に反して、それなりにまとまりはいいようです。新人も結構使おうとしてるのは好感。ただ青年向けという市場で懐かしさ以外に何を売りとしていくのか、それが鍵な気が。
 「熱血江湖」の絵柄って板橋しゅうほうに似てるのな。
 日曜に懐かしさから コメットさんデジモンテイマーズ と二足のわらじを履くが…いや、お話は丁寧なんですが、べた誉めするものでもないかなあという気が。ライバルキャラの使い方が間違ってるので、多分てこ入れで新キャラとか新展開とかあるでしょう。テイマーズは「犬と少年」の変形なので、個人的にツボ。
 それにしても パワーパフガールズ が何故シャーマンキングなどに追いやられて時間変更せねばならないのだ。ぷんぷん。


2001年05月23日(水) 旧暦 [n年日記]

被曝治療

 パワーパフガールズは今一番アヴァンギャルドなアニメですぜ。
 それはさておき、夕べ「 プロジェクトX 」を見た後テレビをつけっぱなしにしていたら、 野尻さん の掲示板で再放送すると知った、NHKスペシャル「被曝治療83日間の記録」が始まった。これは例の東海村の事故の、臨界事故の現場にいた大内さんの治療のドキュメントなのだが、見ていて正直恐ろしくなった。2時間前に見た プロジェクトXのホテルニュージャパンの話 と比べても、その感情の動かされようは比ではない。
 ドキュメントにせよ何にせよ、たとえ「ヤラセ」がなかったとしても、他人の目を介したものは「真実」ではなくなる。特にテレビ番組では「物語」として全てが提供されることになる。プロジェクトXではある定型の枠にはめた構成をする傾向が強いため、殊その傾向が強いのだが、それが悪いというつもりはない。しかし、やはりショックの度合いははるかに強かったのだ。
 のっけから出される染色体の写真。通常染色体と、破壊された患者の染色体。本当に破壊されたとしか言いようがない。話には聞いていたが、そのインパクト、そしてその事が一体何を意味、つまり、もう新しい細胞がつくられないということが具体的な恐怖として目の前に突きつけられる。
 その後は刻々と人間が「壊れてく」経過がひたすら続く。担当の医者が「最初、普通に話とかしていて、被曝したようにはとても見えなかった」という患者が、だんだん皮膚が崩れ、粘膜がただれ、自発呼吸も出来なくなっていく。心筋を除く体中の筋肉の筋繊維も破壊される。それでも意識はある。病院側も家族側も必死に回復を祈りながらも、延命治療以外に打つ手がなくなっていく様、達成感も何もない記録が続いていく。家族も医療側も傷つきながら、83日目に二度目の心停止、もう蘇生措置はなされなかった。重度被曝とはどういうことか、東海村事故とはどういうことか。崩れてく人間の記録が残したのは避けようもない事実の提示だけ。
 以前、あるマンガで「無理矢理死体を生かしてる」と揶揄してたり、知人が「あれは自業自得」と言っているのを目にしたり耳にしたりしたが、そんな単純な話だろうか? 少なくとも原子力とその危険性をもっと国や会社がしっかりと認識し、教育・管理をきちんと行っていれば起こらないはずの事故だったはずなのだ。
 アメリカも原子力発電推進に方向転換したばかりであり、原子力でまかなわねばならないというのは、事実なのかもしれない。それでも必然の事故などありえないし、あってはいけない。


2001年05月24日(木) 旧暦 [n年日記]

こんな夢を見た。

 何故か地元の、家のすぐ前の道路で、車に乗っていた。父親と一緒に乗っているのだが、2kmほど離れた場所で、かなり大きな火の手が上がっている。黒煙が本当にまっすぐに曇り空に向かって延びていて、住宅地だというのに、あんな燃え方をするものがあそこにあっただろうか、とのんきに考えた。
 何が燃えてるだらやい、という父親に、ガソリンスタンドかなんかじゃない? と答えるが、あの場所にガソリンスタンドなんかない。死傷者とか出てるのかな、とか考えてると、突如火事が起きてる隣で大爆発が起きた。地を這うような炎が、どう見ても半径50mくらいは嘗め尽くした。同じように外に出て火事を見てた近所の野次馬が悲鳴とも驚きともつかない喚声を上げる。ショックで思考が停止しかけた頭で、一体何が起こってるのかとか、何人死んだんだろう、誰が死んだんだろうと考えてるうちに、爆発の衝撃波が到達した。良くある白い衝撃波ではないけど、土ぼこりとか雑草の揺れとかで衝撃波が到達するのがはっきりと見えた。
 と、いうところで目を覚ました。一体あの夢はなんだったんだ? わからん。
  ディズニー の今年の新作「 ATLANTIS; The lost empire 」( アトランティス 失われた帝国 )が十年ばかり前に NHK で放映していた「 不思議の海のナディア 」に 激似 と言うか、多分どう見てもパクリだというのが話題になってる。
 最近手詰まりなディズニーは「ジャングル大帝」もぱくってる。しかも無断で。
 別にパクリはいいが、オリジナルより面白くなければパクリの意味はない。更にオリジナルにはそれなりの敬意を払うべきだろう。っちゅーかあんたらパクリすぎ! 今まで著作権がないも同然の童話でばっか勝負してたから、こういう無断当用が当たり前の感覚になってるんかな?  に連絡して始末してもらいますわよ?
 ふざけた話題の次になんだが、 ハンセン病患者訴訟の控訴を断念 ということで、ハンセン病患者がいわれなき差別を受けてきたということは知ってたが、わかりやすく詳しく解説したページはないかのう、と探したら ありました 。らい病と呼ばれ、隔離政策が行われたのは知ってたけど、事実上不治の病ではなくなり、感染力が極めて弱い病気ということがわかってもなお隔離を続けたというのはいささか衝撃だった。しかもほとんど犯罪者同様の扱いで、不妊処置がとられることすら合法だったのだ。まさしく人間扱いではない。しかも隔離されることで更に差別が生まれる。 原告の一人の「自分は悪くなかったんだ」という言葉 、その重みと背景である受難の半生を推し量ることはとても出来ないが、自分が当たり前に存在することさえ許されないかのような差別という名の暴力を受けつづけてきたことだけは、かろうじてわかる。昨日の原発の話もそうだけど、臭いものにはすぐふたをしたがる日本人として、しかと胸に刻まねばならない教訓だろう。


2001年05月26日() 旧暦 [n年日記]

久々に「深+」へ…

 荒箱さん毎度毎度ご指摘サンクス。
 急遽 林氏 からお誘いがかかり、例によってO川さんと一緒に久々に「 深+ 」へ。前回行った時のように鬱気味ではなかったけども、やっぱり檄入れられまくり。自分に足りないものをまざまざと思い知らされます。足りない部分は一つ一つ着実に埋めてくしかないのさのう。
 深+に行く前に軽く腹に何か入れるかということで寄った中華料理屋で突如声をかけられる。以前いた研究室の後輩のT君でした。ちと吃驚。っつーか名前を言われるまで思い出せませんでした。(^^;
#名前ごと忘れたなかったからまだセーフだよな。
 酒の席でO川さんから東海村事故の話を振られる。ちょっとだけ「日記を見られてるんか!?」とびびる。
 一応チェックしよう。酒の席で言ってた「プロ顔負けの自主制作アニメを作ってる人のホームページ」ってのは ここ です。
 主に今回はマスターから「鈴木は性的嗜好が異常だ」とからかわれる。うむむ。そんなことはないぞう…ないと思う。思いますです、ハイ。
 夜中2時まで大して注文もしないのにずっとお話…というか殆ど雑談みたいなもの。貧乏人ですいません。
 今日は今日で、教授から呼び出しくらい。投稿準備中の論文のデータで突付かれる。あ、やっぱそこちょっとやばいと思ってたんだよなぁなどとは一応言わない。せこせことデータ集計のやり直し。その後、次の論文のねたのデータについてひとしきり議論。なんか物理出身のワシの方が感覚的な話し方してるのは正しいのだろうか? うむむ。
 幾つか仮定は出てきたが、結局追加実験で明らかにするしかないということに。ま、そらそうか。
 なんかまともな日記っぽいなあ。ま、いっか。


2001年05月27日() 旧暦 [n年日記]

若手お笑い芸人

  NHK の若手芸人の番組見てたけど、つまらない。のはまだいいのだけど、なんか喚声の上がり方が笑いじゃなくってアイドルに対して上がる喚声とおんなじなんだよねえ。お笑い芸人の市場が変わってるってことなのかなぁ。
 朝起きて「 仮面ライダーアギト 」を見る。なんとなく美杉家から独立早々パン屋を乗っ取る津上翔一=仮面ライダーアギト。ううむ、ひょっとしてシャンゼリオンの黒岩都知事のサクセスストーリー並の成り上がり物語か? なんでも映画化も決定したそうで、 2ch 辺りの噂では「プロジェクトG4」(「G4」ってのは劇中で出てくる警察の作った仮面ライダー型パワードスーツ「G3」の計画途上の次世代バージョン)になるとか。かぜのなかのすーばるー♪
 「クウガ」では多少の悶着はあったけど、警察が仮面ライダーを「謎の生命体を倒す、正体はわからないけど人類の味方」とみなして協力体制にあったのに対し、「アギト」では「わからないものの危険性」とひとまとめにして対応されてるのは、むしろこっちの方がしっくりは来るかも。「仮面ライダー対仮面ライダー」というシチュエーションが何度か起こってるし。(でもやられ役はいっつもG3) しかし北條は何故あれだけ不始末続きで責任を問われないのだろう? いや、いなくなったら話がつまらなくなるけどさ。ファミリードラマ担当の翔一、刑事ドラマ担当の氷川はともかくトレンディドラマ部担当の涼の出番が少ないのはさみしいのう。っつーかギルスに出て欲しいだけだけど。
 特撮とかアニメとか見ない人はどう思うか知らないけど、このアギト、人気というのは本当であるらしい。 テレビ朝日 のアクセスランキングでもたいてい上位に入っている。次回はなんか北條が主役っぽい話らしい。ホントか?
 その後「 デジモンテイマーズ 」を。話の作りの上手さは確かに裏番組の「コメットさん」に負けてるのだけど、シチュエーションが好みということと、あくまで「デジモンは友達だけど、根源的にこの世界とは相容れない、何か怖い存在である」というのをほのちらつかせてるのが好きなのだ。こればかりは嗜好としか言いようがない。
 買い物してご飯。生野菜は賞味期限前に使い切れさえすれば始末が便利だ。ものによっては火を通す必要もないし。
 ぬぼーっとしてると夕方になって「 エンジェリック・レイヤー 」が。なんか、相変わらずとことんどうでもいいはなしでした。ハイ。どうしてこんなにもどうでもいい話を放映する気になるのかが理解できん。
 おととい 深+メーカーズマーク のページのプレゼント当選率が高いと聞いたので申し込みもしてみたり。ううむ、ホントかいのう?
  木曜 に書いた「 ディズニー、ナディアをぱくる 」の話が 日経にも取り上げて られてました。あれだけ人物・アイテムが似てて「偶然」はなかろうて。手塚治虫ならディズニーにぱくられてもむしろ本望だろうけど、ガイナックスは別にそんなことはないだろうしなぁ。 ガイナックス に訴える体力がないなら NHK が訴えるって手もありではないかな。
 でもそれより闘病中のマイケル・J・フォックスが声優として出演してるとして聞いて、そっちの方が嬉しかったり。


2001年05月28日(月) 旧暦 [n年日記]

クレしん映画版再考

 なんかここんとこ連続してる「 ナディア VS アトランティス 」ですが、なんか純粋にネタとして面白くなってきたり。
 やはり 2ch で例えば アニメ板 とか、 映画板その2その3 )とか。
 中でも 海外の比較サイトの日本語ミラー は意図的なところはあるけど、こじつけにしてもこれだけの類似点があって「ナディアなんて知らないよ」はないだろ、と突っ込みどころ盛り沢山!
 「フィギュア王」で岡田斗司夫氏が今回の「クレしん」映画版について批評をしていて、それで「野原ひろしは昔への逃避から抜け出したが、その先にある家族というのも既にアニメの中でしか最早存在しない、家族という名の幻想にすぎない」ということを述べて「だから、『過去よりも何よりも家族がいい』というテーマは見せ掛けで、実はそうではない」という論法を展開していた。しかしそれは間違ってないけど合ってもいないと思う。
 過去も幻想であり、家族愛という現在も幻想である。それはむしろ野原ひろしはどこか半分意識してるはずで、だからこそ敵のボスに「つまらない人生だったな」と言われて、虚勢のように「お前にも家族を持つ素晴らしさを味あわせてやりたいぜ」と返す。過去に帰りたくて堪らないのを靴の匂い(!)をかいで、泣き喚いてまで「今」に固執する。それは「現在」が素晴らしいと信じているからではない。
 おそらく「過去が懐かしい」と思うのと同じくらい「家族が大事だと思う」気持ちは確実に存在してるのだろう。その比率がどれくらいかは人によるだろうが、その両者の間で揺れ動く場合、その葛藤というのは非常に心をさいなむ。どちらに身をおくか、どちらの立場を取ることが正しいかは関係ない。どちらかにずっといるのが楽なのだ。だから、過去の側に身を置かないのなら「家族は素晴らしい」と信じ続け、虚勢を張り続けなければいけない。男らしさが虚勢を張ることであるのと同様に、大人であることも虚勢を張り続けなければ維持できないことだと、赤裸々に描いてしまっている。
 本当に今にこだわる事が究極的に正しいのか、それは明らかにされてない。そんなことは誰にもわからないのだ。人間は常に複数の要素の綱引き状態にある。過去に強く引かれる場合もあれば、今に強く引かれる場合もあるだろう。常にこうだなんて誰にも言えない。しかし、過去を懐かしみ過去に逃げ込み家族を放り出すというのは社会通念的に許されない。社会に身を置くには、虚勢でもなんでも大人であり続けねばならない。だから「クレしん」劇場版では虚勢を張るよう、背中を押してやってるのだ。本当にそれが正しいのか、作ってる側だって多分わからない。でも自分が大人で居続けるため、虚勢の為にそうせざるをえないのだ。だから「クレしん」劇場版は「家族は素晴らしい」と思わせる為の映画なのだ。そうして虚勢を張る力を与えるための映画なのだ。
 私はそうすることにきっと意味があると信じたい。しかしそれだって、おそらく根拠がないことに違いないのだ。


2001年05月29日(火) 旧暦 [n年日記]

ヴァギナ・デンタータ

 「ゴルディアス」の第三話が「ヴァギナ・デンタータ」というので、「歯の生えた膣? なんかの間違いか?」と思って調べたら、間違いではなかったみたいっす。「ヴァギナ・デンタータ」のより露骨な例としては、英雄が歯の生えた女陰に一物を噛み切られて死ぬというもの。そこまで露骨なものでなくとも、女色により死ぬ英雄というのは多く、そういう神話形態のことを指すらしい。ま、色々解釈はあるけど端的には「女は恐ろしい」ということで、なんでこんな題名がついたかというと、女学生の願懸けが元で何か変なものが現れてしまったということでタイトルにしたっぽい。こういうとこがカルトなのだな。
 「ヴァギナ・デンタータ」のもう一つの解釈というのは「黄泉への入り口としての女陰」というもので、形状の恐ろしさと、あと生に到る産道を遡るということは、つまりこの世ならざる道をたどるということであるということだろう。
 生と死の橋渡しをする巫覡が主人公であるマンガで「シャーマンキング」というのがあるのだけど、これが少年向けマンガらしくなく人が結構死ぬのである。最近のジャンプでは「HUNTER×HUNTER」といい「ワンピース」といい、案外と人が死ぬシーンが多いのだけど、シャーマンキングは最近のジャンプの死の取り扱いの傾向が極端な形であらわれてる。何の感慨もないのだ。
 昨夜の BSマンガ夜話 で往年のジャンプの大ヒット作「キン肉マン」を取り上げていた。否定的だったりファンだったり、いろんな意見があったのだけど、共通するのは「死ぬシーン」というのがかなり印象に残っている事だった。キン肉マンに代表される当時のジャンプ作品は、キャラを殺しては話を盛り上げ、そしてあっさりと復活するというパターンが横行し、「ジャンプパターン」と揶揄されてもいたのだけど、逆に言えばそれだけそのパターンが使いまわされたのは、キャラの死というものが確実に読者に訴え、また作り手もキャラの死を演出する技術を確立させていたということだ。
 ところが最近のジャンプでは反動でかつての「ジャンプパターン」をあえて避けようとしてる部分がある。それは別にかまわない。ところが、シャーマンキングの死の取り扱いはやけにあっさりしすぎてる。昔のジャンプパターンが読者にショックを与えたのに対し、逆にショックを与えないようにしてるようだ。それに対して主人公は「人を殺すというのは可能性を奪うことだ。だからいけない」と理屈で反発するが、それだけだ。「死」を目前にした、そういう理屈ではない衝撃というものはとことん省かれてる。逆に言えば可能性がなければ誰が死のうが構わないということになる。台詞では殺人を否定してるが、実は「死」に対してとことん冷淡・無関心なのだ。
 もう一つの問題は、巫覡が主人公なのだから、当然死者の霊魂とかが出てくる。しかし作中で死んだ人間の霊魂というのは全く出てこない。霊魂を呼び出して憑依させる、その霊は、はっきり言ってアイテムと同じ扱いである。霊魂がかつて体験した「死」と作中に出てくる「死」は明らかに切り離されており、死が身近にあるはずの巫覡なのに、かつてのジャンプパターンとは別の意味で、死は全くリアリティを持たない。もしその辺を突き詰めればゴルディアスとか諸星大二郎ばりのカルトな世界に突入するので、少年向けとしては正しいのかもしれない。(でも、諸星大二郎もジャンプ出身なんだぜ) しかし、現実感も感慨も剥離した死を見せつけるってのは、感動する死を見せつけるのと同じくらい危険なことだと思う。別に文句をいう筋合いでないのはわかるのだが、作者はわかって描いてるのだろうか?

 あ、BSマンガ夜話2日目に岡田斗司夫氏の着てる Tシャツ が…ひそかにディズニーのパクリに抗議してるようです。(^^;


2001年05月30日(水) 旧暦 [n年日記]

パクリ王国

 ここんとこ ディズニーのパクリ の話ばかりしてますが、パクリというとお隣の国、韓国も負けてはいません。パクリというか、 剣道は実はkumdoという韓国の武道が発祥だった とか、 「さむらい」という言葉は韓国語の「サウラビ」が語源 だとか、なかなかに笑える話題を振り撒いてくれます。もっとも日本でもイエスは日本人だったとか大まじめに主張する連中が少なからずいるので、ま、それを考えると流石に韓国でもそういう間違ったナショナリズムの振りかざし方をしてるのは極少数だと思いますが、 ワールドカップ日韓共同開催に関する韓国側のいちゃもん (一部の過激なサッカーファンが騒いでるのみで、韓国側組織委員会はこの騒ぎに批判的な見解、とのこと)とか見ると「いいかげんにせえよ」と一言言いたくもなってしまう。映画「ユリョン」といい、日本に攻撃的であるのは、一定のコンセンサスが得られてるのだろうかとか、そうすると東京大空襲で終わる「パールハーバー」は韓国で大拍手で終わるのだろうかとか(しかし、「13デイズ」で米軍機がソ連機に落とされるシーンでは、ロシアの上映では拍手喝采が起こったそうである。)あらぬ疑いをかけたくなってしまう。
 しかし、だからといって「だから韓国は…」という話になるとは思わない。現にマンガは日本発の文化とは言え、韓国に根付き 花開いてる し、逆に日本が韓国(朝鮮半島)から影響を受けたものというのも勿論数多くある。(kumdoとかサウラビは勘弁だけどな)
 もっとも馴染みのある例として、水戸黄門の印籠、あれは韓国の通俗小説が元だという説がある。「春香伝」という、暗行御吏という隠密官吏が諸国を行脚しては悪徳官吏をこらしめるといういわば勧善懲悪ものなのだが、これに出てくる「馬牌」というものが、水戸黄門の印籠のルーツの 可能性が高い そうだ。
 日本で暗行御吏を説明する際、「水戸黄門のような…」と例えることが多いが、関連があるなしは別にして、出自の順番に敬意を払うなら、水戸黄門の印籠が「暗行御吏の馬牌のような…」と例える方が正しいだろう。
 もっと直感的に韓国に対する敬意を表すなら「食い物が美味い!」というのもある。食文化を築くというのは、ある程度以上の人的、物資的、精神的豊かさがなくてはいけない。
 過去の経緯を考えると、色々双方わだかまりがあるのは致し方ないとは思う。けど、「自分が、自分が」と主張するだけでなく、相手の文化の理解と敬意が基本なんではなかろうかと思う。ってえらそうに言うほど韓国のこと知ってるわけじゃないけどさ。
 だから日本文化解禁延期なんて悲しいこといいなさんな。(教科書検閲問題に絡めて)


2001年05月31日(木) 旧暦 [n年日記]

いいなぁ、「コンゴ」

 テレ東系でやってた「コンゴ」を見てたり。いや、B級な映画なのだけど、結構面白かった。
 メインの登場人物は四人で、研究対象の手話を話すゴリラを故郷の森に帰そうとする科学者と、その科学者にゴリラの帰還の資金提供を申し出る謎の男、無理矢理にその旅に割り込んできた謎の女、そして現地で雇われたガイド。
 科学者は純粋で学者バカで心底そのゴリラの事を心配している。資金提供者は、実はそのゴリラがソロモンの財宝が眠る場所に行った事があると知り、その目的を秘めている。女は企業から派遣された調査員で、同じく財宝を求めて送られた先発隊が連絡を絶ったのを探すために紛れ込んでいる。加えるなら、その行方不明の先発隊には彼女の婚約者も含まれている。最後のガイドは、完璧にプロであり、チームの安全と旅程を考えるリーダーである。
 「失われた世界」からずっとありがちな秘境探検ものだが、ゴリラと科学者を自然と接点とし、財宝という形で秘境への憧れをわかりやすい形で表す。女は途中まで主目的が財宝なのかなんなのか不明だが、途中で恋人を探していると判明し、ミステリアスさと、ロマンスを担わせている。ガイドは、全員を守る父性であり、同時に自然に対する力である。つまり、チーム全体を守るガイドの父性とゴリラの母性(ゴリラが科学者を守るシーンが出てくる)の中に、自然と交流しうる純粋さと、自然を制圧しようとする欲望、そしてロマンス(これはジャングルに対する憧れの要素も含むとみなしうる)を内在させる。また自然とは、純粋さの象徴でもある。純粋さはそこに土足に立ち入る者を排除しようとし、人間は純粋さを求め、そこに近づきうるがそれを征服し所有することは出来ない。そしてありがちだが、最後に欲望は自滅し、その他が生き残る。最後にゴリラが自然に帰るのは、自然と人工が相容れない、距離を置かねばならないことであるのと同じく、欲望を抑える術を覚えた子供に母親の庇護が必要となくなることを示すのかもしれない。内在する別々の要素を、外周の父性と内周の母性、そして場所としての目的の一致で対立を抑えて、あくまでそれぞれの独立した行動でめいめいの立場を示し、最後の分裂に持っていく。小道具は陳腐極まりないが、各々の役割に徹して忠実に演じた人物と、構造としてはなかなか伝統的で堅牢なパターンを踏襲しているあたりで、結構楽しめた。
 あ、ちなみに今日から上についてるバナーはアトランティスの例のアレね。アトランティスに反発してるってより、純粋にネタとして面白いから。