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2001年10月21日() 旧暦 [n年日記]

指を削る

 いや、今日でなくって少し前の話なんですけどね。3週間くらい前?
 葱を刻んでたらちょいと左手の親指をざっくりやっちまいまして、痛いの痛くないのって痛くないわけはないんですが、前にも同じ事やったことあるんでまあ対応は落ち着いたものなんですが、最近になってようやく削れた肉も盛り上がってきたカンジ。曲げると痛いんで、ちょっとリハビリは必要ですけどね。
 昨日の日記のネタにした NBUG の集会ですが、疲れが出て結局いけず。ううむ、案外とたまってたんだなぁ。
 今日の アギト は、あっさり翔一が自分の正体を北條にバラス。おいおい、ええんかい? その後の逆行催眠で、やはり翔一はあかつき号に乗っていたことが明白に。その後小沢対北條。だけど当然北條の負け。おまけにみぞおちにまで蹴りを決められているし。(股間じゃないのよ)
 涼は心酔しかけていた木野に裏切られたショックでまた不幸モード。ギルスはこうでなくてはのお。来週は遂に氷川にも翔一がアギトということがバレるらしい。予告で素っ頓狂な声をあげてたけどそれなのかな?  東映のアギトサイト によると、木野以外のあかつき号グループ唯一の生き残り、真島くんが涼を救うために何らかの行動を起こすらしい。ひょっとすると、バーニング、シャイニングよりも主人公らしいパワーアップになるんじゃないのか、エクシードギルス。予想が当たってるとすると、真島は実に良い役どころになるなぁ。退場の匂いもぷんぷんしますが。
 昨日友人に聞いたところによると、野依さんのノーベル賞受賞の件だけど、受賞記念パーティーが行われえいたとのこと。おいおいおいおい、そう云う時には呼べ! 全く友達甲斐のない。やはり二日くらいは報道陣が結構いたらしく、野依研はマスコミの電話の対応でおおわらわだったらしい。今は流石にすっかり落ち着いていて、理学部の入り口のところに受賞おめでとうの横断幕がかかっているくらい。ま、理学部ってそういうところだよなぁ。


2001年10月22日(月) 旧暦 [n年日記]

今日も今日とて

  SF故人年表スレ が伸びてないのを見てちょっとほっとしたり。
 昨日うどんを茹(う)でて喰おうと思ったら、作り置きの汁が切れてしまっていた。困ったので、昔「美味しんぼ」に書いてあった簡単で旨いうどんの作り方を思い出してやってみる。茹でたうどんに醤油を回し掛け、かつぶし(ウチは混合節だが)をたっぷりと乗せた上から熱湯を注ぐ。こんなんで本当に旨いのかと思ったら本当に旨かった。洒落にならん。
  2ちゃん 特撮板 アギト板 は何時も通り「アギトつまらん。昔のライダーの方が面白かった」というレスが。平和平和。っつーか、こういう人たちって本気で言ってるのかしらん?
 最近、夏休みなどの休みに仮面ライダーの再放送をテレビでやってて、たまに目に入る。いや、別に見ようと思って待ち構えてるわけじゃなくって。それを見ると、何と云うか、非常にキツイのだ。もっと有体に云えばはっきり云って子供だまし。子供だましがレベルが低いとか、いかんとか云う話ではなくって、「子供が喜ぶように作ってはあるが、大人は鑑賞には堪えられない」と云うことなのだ。
 そもそも仮面ライダーは、石ノ森章太郎が影を持った、これまでのヒーローらしからぬヒーローと云うことで製作したキャラクターで、13話までの極初期のテレビシリーズもそれに従っていた。しかし、そう云ったヒーロー像は当時では受け入れられがたく視聴率は低迷。また本郷猛役の藤岡弘も撮影中の怪我で一次降板と云う事態になった(今ではスーツアクターと云うのは当たり前だが、当時は仮面ライダーの中身も藤岡弘が演じていた。もっとも怪我を機に中身は代役という体制が確立してくのだが)。これを機に方針を一大転換し、影を追った一号ライダー本郷から子供に親しみやすい二号ライダー一文字隼人の登場、またライダー少年隊などの子供だましもとい子供に馴染みやすい構成となり、悲哀を背負った改造人間と云う初期のコンセプトは殆ど消えうせた(家族の仇を討つことが主な動機なV3や、ラフな闘い方のアマゾンなど、完全になくなったわけではないのだが)。無論撮影技術が今より劣っていたからとか、予算的な制限なども決して理由として少ないわけではないのだが、「極めてわかりやすいテレビヒーロー」に結局なってしまったTV版ライダーは、その背後の設定に背負うべきドラマ性の放棄を余儀なくされたのである。
 それに比べると、今は「クウガ」から明確に大人の視聴層を意識した作りが成立するようになり、また技術・予算的にも当時と比べれば格段に恵まれている。そういったものだけで面白い作品が作られるわけではないが、作品を支えるのに必要なのもまた事実。子供向けとしては問題があるのではないかという意見はあるにせよ、大人が「昔のヒーローの方がドラマとして優れていた」と云うのは殆ど絶対に「嘘」だろう。思い出の否定をする気はないが、自分が楽しんでたものがその番組の何なのか、を考えてみることも、「今」の娯楽を楽しむために必要なことではないだろうか。だって今「世界征服を企む悪の組織」ったってなかなか子供だって騙せまい。それはまあ、後日にでも。


2001年10月23日(火) 旧暦 [n年日記]

正義の味方はあてにはならない

 昨日の続き。なんだけど、ちょっと日曜にやってた立川談志師匠がベネズェラだったかどっかに行って現地邦人の為に寄席をやったドキュメントの話を。
 談志師匠の経歴も交えての番組だったのだけど、「落語とは、人間の業の肯定である」とする師匠がその信念に揺らぎを覚えている、ということだった。理由は至極簡単で、落語で語られる社会とは、今の日本の社会が大きくかけ離れてしまったから。落語に限らないが、こういった感情に訴えるものというのは、聞く側見る側の体験の追体験を引き起こさせる。その元となる体験のない人間が増えてしまった。そうなってしまうと、一体落語には何の意味があるのか? むしろ、ベネズェラの密集住宅の中にいる師匠の方が生き生きしているように感じられた。社会様式の変化は仕方ない部分が大きいとは言え、確かにさみしいものはある。しかし、追体験を覚える事が出来ない者にそれを責めても何の意味もないし、詮無い事なのだ。
 もう一つ、子供にたまたま持っていた栞をあげた時に言った言葉。「昔は赤んぼ用の物は除いて、子供用のものなんてなかったんだ。自転車の三角乗りとかでもそうだけど、大人用の物を工夫して使ってたんだ。子供ってのはちっちゃい大人だからね」。その後はまあこんなに子供用のものを溢れさせるんだったら子供に毎月二十万は小遣いをやれ、でなきゃ子供なんか作るな、とか何時もの無茶な論法だったのだけど、前半部はなんとなく、わかる。また、子供用である事と云うのはそんなに重要なのだろうか、とも思わされる。子供はいずれ大人になる。背伸びして、大人の流儀を覚えていく。その過程ってのは商業主義が主流になり過ぎた現在、軽視され過ぎてないだろうか。子供向けがあってはいけないという事ではないが。
 そこから昨日の続きへ。子供にわかりやすく、どんな子供でも理解できるように、と云う意味での「子供向け」(言葉は悪いが「子供騙し」と云う事も出来る)であれば、例えば世界征服を企む悪の組織が出てきて、正義の味方が出てきてバーン、で十分だろう。それだって簡単な訳ではないが。しかし、もし子供が一旦外の社会に目を向けたらどうだろう? 世界征服後の社会構造なんて高度な疑問は持たなくても、単純な話、幼稚園のスクールバスをハイジャックするショッカーとニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機を突っ込ませるテロリストと、どちらがより恐ろしいか、と云う事だ。今日日、バスのハイジャックくらいはキレた17歳だってするご時勢だし、より物騒になってるとも、嫌な事だが虚構に現実が追いついてるとも云える。無論虚構と現実は違いはするのだが、しかし個人的にも後者の方により恐ろしさを感じて欲しい。アギトでアナザーアギト(木野薫)を演じてる菊地隆則氏が自身のサイトのBBSで「本当にヒーローになれるものなら、変身してビルにぶつかる前に飛行機を止めたい」と漏らしたように、現実の前では虚構の慰めは極めて無力とも言える。
 え〜っと、何を言いたいかと云うと、別にリアルならいいと云うことじゃないけど、現実への橋渡しを考えた際はあまりに現実のそれを無視して能天気一方なものばかりと云うのはどうだろう、って事なんだけど。別になくたって子供たちは勝手に大人になるだろうし、逆に現実の重苦しさを引きずったものばかりでも困るのだけど。
 アギトの前番組であるクウガでは、悪役は世界征服を企んだりする秘密結社ではなく、快楽殺人者的な集団である「グロンギ族」という設定だった。個人的にはメンタリティなどの諸々の設定において「意図的な悪」的なわざとらしさはどうしても感じて不満なところは多いのだけど、これはある意味旧態然としたヒーロー物の悪役が、実状と合わないのではないかと云う表われだと思う。アギトにおいても、敵は一定の彼らの規範においてある特定の人間を「刈り取って」いるのみで、基本的に人間全般に敵意を持ってるわけではない。いや、昔からレインボーマンの死ね死ね団(旧日本軍に虐待され、その復讐に日本を混乱させようとする東南アジア系秘密結社)とか、その手の問題提起はされてきてはいたのだけど。
 虚構にのめり込み過ぎて現実の怖さに目を向けないのもいけない。虚構としては、現実に負け過ぎてのめり込めないのも失格。アギト、クウガの敵役設定は、そう云う微妙なバランスのタイトロープ上でどうするかと云う問題設定をし、それぞれ導き出した答えだと思う。それは仮面ライダーが始まった時の企画意図を考えれば正当な後継だとも云える。能天気な悪役を決して否定はしないが、能天気な悪役でないからと云って否定するのも間違っている。糖衣に包んだ子供向けも、子供に現実の苦みを教える橋渡しをする子供向けも、どっちもあってもいいじゃないか。と、小学校低学年の時にワイルド7を読んでた身としては思うわけよ。


2001年10月24日(水) 旧暦 [n年日記]

え〜っと、なんつーか。

 私的になけなしの元気を根こそぎ奪われるような事があったので、不貞寝します。予想してなかった事態ではなかったし、投稿論文のチェックとかあるけど、とてもじゃないけど出来ん。脱力状態って、ホントに力が抜けてくんだなぁ。


2001年10月26日(金) 旧暦 [n年日記]

泣きたがり

 ま、ダメージが消え去ったわけじゃないんですが、イタイイタイとわめくくらいの元気は出てるので。いや、昨日は時間がなくて更新しなかっただけなのだけど。
 なんか、フルーツバスケットって見てるとビミョーにむかつきますワナ。いや、わざとらしい善意とかそういうところではなくって、むしろ妙に主要人物以外の人間の悪意がわざとらしくって。なんつーか、登場人物の意図はさておいといて、作品世界として作り上げられてるのは主人公コミュニティーの閉じられたパラダイスなのだよなぁ。そりゃまあ人間の行動範囲ってのは物理的行動範囲はさておき、実際に付き合える人間の範囲なんてのは多くてもたかが知れてる。それ以外のことはどうでもいいと云えば云い過ぎかもしれないが、当たらずとも遠からずだと思う。その際に、その他をどう受け取るか。大体は無関心に過ぎない。それを愚昧と受け取るか(実際そうかもしれないが)、悪意と受け取るか、それは自由なのだが、結局それは自分も誰かにとって悪意、愚昧と受け取られていると云う事の裏返しでもある。そういうものだ、と割り切るのならそれも構わないが、そうと気付かず周囲を悪意と受け取るのはそれこそ愚昧だと思う。コメディ部分は笑えるのだけどねえ。
 つか、そんなことはどうでもいいんですが(ぉぃぉぃ)、人間てのは多くが泣きたがりなんではないかと思う時がある。嬉し泣きとか感涙とかもあるけど、本来は泣くのは多くの場合、悲しい時とか辛い時とか、主にネガティブな感情が極まった時だ。なのに、上のフルーツバスケットとかもそういう作品だけど、わざわざ悲しいもの、嫌なもの、辛いものを、少なからぬ場合は泣く為に見る。他人の不幸を見て自分の立場を安心する、と云う意味もそりゃあるのだろうけど、それだけなら蔑むだけで、泣くと云う行為に出る、怒る、悲しむという感情の同調を(理解ではない)示すのは変だ。よくよく考えてみると、感極まった時、悲しい時、嬉しい時、辛い時、泣くだけのエネルギーが溜まっていれば発散が出来るのだが、それだけのエネルギーが溜まっていない時、一体どういう状態なのか自分でもわからない時、そう云う感情は未解決のまま意識の奥で鬱積してしまうのではないだろうか。それは致命的な問題は起きないが細かい不具合を抱えたままMS-Winを使うようなもので、抜本的な解決をする労働力を払うほどではない、しかしストレスは溜まる、そんな状態なのではないだろうか。溜まったストレスをどこかで発散しなければならない。だから閾値以下のストレスに上げ底をかけて外に発散してやる。そんな行為として作り事の「泣き」が求められてるのかもしれない。癒しだのなんだのと云うのも結局そう云うことかもしれない。まあ、一種の代償行為、と云えなくもないのか?
 あ、なんか巷でなんか云われてる「天使のしっぽ」見ました。多分もう二度と見ません。(^^;
 何時の間にか2chに大空のサムライ、坂井三郎氏(故人)の こんなスレッドが。
 坂井氏の言動を全肯定するわけではありませんし、ましてや戦争行為を決して肯定するわけでもありませんが、自分に欠けているもの、今の多くの日本人に欠けていものがそこに見出されるのは事実。それは決して時代錯誤なものではない。と、思う。


2001年10月27日() 旧暦 [n年日記]

最初の人間は白人で男

 え〜っと、ミトコンドリア・イブはアフリカにいたとかいうのはどうなったんだっけ? なんかわりと最近のネイチャーに書いてあった気がしたんだけど。
 昨日、最初の方でフルーツバスケットについて「閉鎖的なコミュニティー」云々と書いたのは、ちょっと積読になってたボストン・テラン「神は銃弾」を読んでて、なんとなくこれに出てくるカルト犯罪者集団に重なる部分を連想したから。まあ、カルトになぞらえるのはやりすぎだろうけど。
 小説の筋は、クリスマスの夜、カルト的カリスマ犯罪者サイラスによって元妻とそのつれあいを殺され、そして娘を誘拐された警官のボブが、娘を助けるために元サイラスのグループメンバーで今は麻薬中毒者リハビリセンターにいる女ケイスの手引きで、それまで彼が信じていた「良識」とは別の世界へと入り込んでいく話。要約するとなんだか味気ないが、白人中流階級・貧困層犯罪者のカルト、それら双方の信仰の奥深くまで抉り出し、その空っぽの心臓をとことんさらけ出す。しかし、例えば同じハードボイルドバイオレンスの「凶手」とは異なり、とことん追い求め、そこにあったものは結局人生の幻影のようなものだったというオチではない。残ったのはとても身近なもの、そして寂しい人間全てのものだろう。海外翻訳の文章に慣れてないと読みづらいかもしれないが、読み慣れてればぐいぐいと読める。
 引き続いて松井茂著「世界紛争地図」。まあ、ミーハーにもアフガンの例の情勢に触発されて入手したのだけど、日本近辺の極東情勢から、地域紛争と云えば連想する中東やアフリカへとだんだん西へと進んでいくと云う内容でわかりやすい。あまりこの分野のライターさんの評価と云うのは正直疎くてよくわからないのだけど、掲げる理念、宗教、民族と云った「記号」に拘らず、「実利」つまり、どんな利権(物理的なものが主だがそうとは限らない)を争っているかをしっかりと書いてくれているのでわかりやすい。3年前の本だから、当然情勢は移り変わってるわけだけど、歴史教科書なんぞよりは国際情勢の背景がわかるのではないかと思う。いや、私もまだ途中なんだけど。


2001年10月28日() 旧暦 [n年日記]

野沢那智の無駄遣い

  HELLSING の三話目を鑑賞。某作者が某所で「野沢那智の無駄遣い」と言ってた意味がようわかりますわ。前半のモーリス吸血鬼、全然意味ナシ。オマケに神父の魅力殺しまくり。アニメにおける作品の失敗というのは色んなレベルでの失敗がありえて、一概にどれと言うことが出来ないものも多いのだけど、これに関しては明らかに脚本レベルからの失敗。どうしたの、 小中 さん。
  アギト も悪くはないけど、展開的にはちと「オイオイ」だったりする。真島が自分の持つアギトの力を捨てて涼を助けるという話なんだから、もっとがーっと盛り上げられると思うけど。でも連続物であること、所詮は脇役であることを考えるとそこそこで抑えといた方がいいってのはあるのかもしれない。
 ただ、どっちも「だからこの脚本家ダメ」とか云う話ではない。あからさまにナニな脚本家ってのは確かにいるけど、それはさておき、こう云った脚本の仕事ってのは、どのくらいの仕事を抱えてるのか、というのを考えなくてはいけない。毎月毎週膨大な量の脚本を作っている。だからダメでも仕方ない、と云うことではない。ただ、根本的にその基盤となる部分が違う。例えば、個人作業に近い、個人作業でなくともかなり個人の占める比率の高い漫画作業は、言ってみればワン・オフの高級品を作り上げる作業に似てる。そうとも限らないけど、そういう作法も許されないことはない。しかし毎週のテレビシリーズはそれに比べて、日用品を作る作業に近くないだろうか。その意味する「良いもの」とは、ワン・オフの意味する「良いもの」とは微妙に異なる。大量にある程度以上の質のものを量産する。中にはひょっとしたらワンオフに匹敵する質のものも出来るかもしれない。しかし、まずは大量に作ることが前提にある。土台が違うのだ。
 でもHELLSINGの三話目は非道すぎだけどな。
  ヴァンドレッド セカンドステージ 。男と女が別々の星に住んで争ってる中で、女海賊の中に三人だけ男が紛れ込んだ、という設定のアニメ。「おなご出しぁ、汗臭いオタクどもは満足なんじゃろが!」とばかりに開き直った設定なのだけど、当然男だけの星、女だけの星で繁殖(基本的には遺伝し掛け合わせのクローン繁殖だけど)している設定なので、一話目で男同士で「任務が終わって帰還したら、俺と子供を作らないか」などという会話がなされる実にイヤな世界でもあったりする。こんなんで喜ぶのはボーイズラブ好きなオタクねーちゃんくらいなもんだろう。新シリーズになってからイマイチそういう「異世界感」が薄れてしまったのだけど、今回は銃器マニアという設定のバーネットが自慢のコレクション引っ張り出して大歓喜で撃ちまくりの回。確認できたのはCZ75、ステアーAUG、M16(A2だと思うけど)、M60、変なところではキャリコM950と云う、まあある意味キャッチーな品揃え。オイラみたいな低レベルマニアにはこのくらいがわかりやすくていいです。ハイ。間違いあったらご指摘希望。でもノワールと違って少なくともスライドストッパー跳ね上げてセーフティ解除なんて間抜けなことはしてませんでした。
  ナジカ電撃作戦 二話目の へカート みたいの出されても、ヲイラにゃわかりづらいっす。でもこのアニメもヨーロッパ系の装備が主みたい。何気にマニアだなぁ。


2001年10月29日(月) 旧暦 [n年日記]

Refererに御用心

 ここんとこ、yahoo! Japan経由の google での検索や、 www.google.co.jp を使ってのサーチで飛んでくる人が多いのだけど、hnsの現行正式バージョンでは、log解析cgiがこれらのブラウザに対応しておらず、検索ワードがすぐにはわからない。なんでちっとCGI改造してこれらの検索エンジンにも対応してみる。
 たって、
"google-jp" => { url_pat => 'http://www\.google\.co\.jp/search',
key_param => 'q' },
"google from yahoo-jp" => { url_pat => 'http://google\.yahoo\.co\.jp/bin/query',
key_param => 'p' },
をlog.cgiに追加しただけなんですけどね。Refererは、下手なブラウザ(具体的にはIEだ)使ってると、リンクで飛んできたのではなくても直前にどのページを見ていたか、例えば誰が直前までPonPonなゲームメーカーのページを見ていたかとか丸分かりになってしまうことがあるんですね〜。ご注意を。
 しかしなんとなく風邪ぎみっぽい。体が時々どうしようもなくだるいのー。
 あ、それと、 ナジカ の一話目でメイド軍団が使ってたSMGは STEYR TMP でいいのかな。全体的なシルエットとかの特徴が一致してるのだけど、なんかマズル回りが微妙に違う気がするんだよなぁ。


2001年10月31日(水) 旧暦 [n年日記]

ヨーヨーの猫つまみ

 って番組が昔あったなぁ。声は大塚明夫で渋かった。猫だけど。
 なんでいきなりこんな話かと云うと、ちと鳥皮を使ったつまみを作ってみたり。結構いける。カリカリに焼いたりとか、そう云う風にしてたけど、酒のつまみだったら断然こっちの方がいける。
 日記の検索ワードを調べてみると、 菊池隆則 さんだとか、「友井雄亮 ギルス」とか、「村枝賢一 仮面ライダー(仮面ライダースピリッツ)」だとか。でも一番多いのは「伊藤明弘 BLUEGALE」。OURsの最新号に広告が載ったからか、何件も検索があった。一応解説しておくと、BLUEGALEってのはバンダイのアンソロジー本に載ったラグを主人公としたザブングルの後日談。人によってはこれが伊藤氏の最高傑作と云う人も少なくない。
 まあ、なんだ。11月も色々ありそうだけど、新しい月も精神的に限りなく低空飛行で行きます。トホホ。