不定期日誌


google検索

日記内検索  ウェブ全体から検索

hns - 日記自動生成システム - Version 2.19.9

先月 2004年11月 来月
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HNS logo

2004年11月01日(月) 旧暦 [n年日記]

[その他] ナベチャンタラギッチョンチョンデフライノフライノフライ

 フッ素加工のフライパンが剥げてきて焦げ付きが多くなって来たので、チャットで「買い換えた方がいいのかなぁ?」と相談したら「買い換えたら?」と言われたので、15分後に「買って来た」と言ったら呆れられました。(笑)
 しかし新品のフライパンはあおりやすくっていいですな。炒飯も焦げ付かず、こんなにパラパラに。とか言ったら「あんまり煽るなよ〜」と……い、いや、ネットじゃ煽ってませんって。あんまり……ゴニョゴニョ。
  香田さん追悼、若者ら官邸前で集会 自衛隊撤退求め朝日 )。う〜ん、故人を悼むのはいいと思うんですけどね。この中の何人くらいが生前の本人と接触があったのだろうと思うと……別に見も知らない人の死を悼んでもいいんですよ。でも彼がこういう状況で不幸な目に合わなければこのように大々的にイベント化されたとは思えないし、見も知らないという意味では最初に香田氏と間違えられた見知らぬアラブ系の男性だって悼まれるべきだろうし、その他顔も知らない多くの死者が、悼まれるべきじゃないのか? だから、悼むにしても心の中でそっと手をあわせるくらいが本当ってものじゃないのかな? なんか変なことのシンボルに祭り上げられつつある気がする。もうひとつ、ここで何故自衛隊撤退を訴えるのだろう? 私も自衛隊員の無事を祈っている一方で必ずしも派遣に賛成と言い切れないが(ただし、行くからには(もちろん無事でという大前提で)イラクの復興の助けとなって欲しいし、また最大限の効果を発揮して欲しい)、香田氏が死んだから撤退、という(中間や周辺をすっ飛ばした)理屈は感傷的過ぎて、人の死を盾にとったプロパガンダにすぎない気もするのだけど……
  ザルカウィ組織幹部4人を殺害=武装勢力167人逮捕−イラクY!hl )。無論誤報の可能性もあるし、一部では今回の邦人誘拐事件はザルカウィ派本体の仕業ではない、という見方もあるみたいだけども、ううむ。無論、こういった連中には武力による鎮圧は必須なわけですが、武力を実際振るわざるを得ない現実と言うのには、ちょっと滅入りますな。
  地震で車中泊の17人中6人に血栓 新潟大の医師ら検査朝日 )。う〜ん、車内泊、と聞いた時に、こういうこともあるだろうとは思ってましたが……ひとまずテントなどの十分な数の寝起きの場の確保が必要なのだろうけど、当地の事情というものがあろうしな……何が必要かわからず右往左往してとりあえず募金でお茶を濁す自分にとっては、現地で働く人、特にきちんとなにを求められているか、どう行動したらいいかを経験・思考を問わず弁えてる方に最大限の敬意を払います。
 昨日、西部警察のスペシャル版があったらしいのだけど、番宣見て華麗にスルー。基本的にああいうバカ番組はそれなりの勢いっちゅーものが必要だと思うのだけど……
 そういや、こないだ深+に行った時、「鈴木、お前西部警察とか好きだろ?」といわれて、「いや、でも特捜最前線の方が好きなんすよ」と答えたら意外な顔をされた。
「あの地味で渋い奴か?」
「YES」
「普段の言動と一致してないぞ」
 お言葉ご尤も。あれ? そういえばそうだな。なんでだろ?


2004年11月02日(火) 旧暦 [n年日記]

[ケルト音楽] アイリッシュダンス・カンパニー「トリニティ」

 名古屋を皮切りに全国16都市で行われる アイリッシュダンス・カンパニー「トリニティ」 の公演を見てきますた。
 いや、去年に見に行った「リヴァー・ダンス」が実にすばらしかったからなのだけど、後から色々情報を調べると、ストーリー仕立てのリヴァー・ダンスに対してトリニティはアートとしてのダンス。妙に前衛ぶってると嫌だなぁと思ったのだけども、見に行ったら全然そんなことはなく安心。っつーか人間ってこんなに足が動くようになるものかとびっくりですよ。伝統的なアイリッシュダンスというと上半身はほとんど動かさず、飛び跳ねるような動きで華麗なステップと足技を見せるというもので、それを基調として上半身の動きなども取り入れ、ショーとして成立させたのがトリニティらしい。しかもアイリッシュダンスであるのに、アメリカのシカゴが本拠地だというのも珍しい。無論、アメリカにはアイルランド系移民がたくさんいるのでそのせいなのだけど。
 色々他のダンスの要素を取り入れたりと意欲的だったのだけど、やはり、もはや超人的と言っていい跳躍力と足の動き、踏み鳴らして刻まれるリズムが目を引く。他のも悪くはなかったのだけど、ただ、インド舞踊っぽいのだけは、どっちつかずで中途半端っぽくなってしまった印象も。やはり身体の各パーツの動きを極限まで抽象化したインド舞踊とは、あまり相性が良くないのかも。
 あともう一つ、これは公演者の力量とは関係ない話だけど、会場、ちとノリが悪い。去年「リヴァー・ダンス」を見たのが大阪でノリノリだったせいか、それに対し名古屋はよく言えばシャイでお上品、悪く言えばノるべきところでノらないように見える。アップテンポでハイテンションなダンスの時にお通夜みたいに神妙な顔をして見ていても、踊るほうだって踊りにくいだろうに。リヴァー・ダンスの方がエンタテイメント性がわかりやすかったということもあるのかもしれないけど。あと、去年の大阪のリヴァーダンスに比べて年配の方がメインだったように思えるので、そのせいかもしれない。
 しかし、公演が終わってホールに出たら、出演者が見送りに出てきてくれてたのがびっくりしつつもうれしかった。ステージ上だとあまりわからないけど、本当にでかい子はむちゃくちゃでかい。見に来てたおじちゃんおばちゃんたちもびっくり。でも遠目にも脚の筋肉のすごさはわかった(笑)。チュン・リーのような体型というのは実在するのだなぁ。あと、個人的には要所要所で盛り上げていた演奏の三人のお兄ちゃんたちが愛嬌があって良かったです。

[その他] つれづれ

  山古志村の牛、ヘリで輸送朝日 )。そんなことするなら他にすることあるだろう、って人もいるだろうけど、金銭的に大きな財産というだけでなく、「文化」という無形の財産でもあるので、その損失は本当に深いダメージになるかもしれない。最近、生活スタイル、生活での活動というのは人間にとって非常に重要なものじゃないかと思い始めている。だからこそ業者も採算に合わないとわかっていてもやったのだろうし。
  感謝の映像は? 被災地視察報道に自民が不満産経 )。まあ、なんと言うか、普通、無闇な反体制でカッコつけられるのはせいぜい二十歳までと思うんですけどね……無論体制べったりになれってことではなく、いい歳したおっちゃんたちが編集してるんだから、それなりの知見というものを見せろと。まあ、現政権にも幼稚なところは多分に見られますが、それにしてもこれはなぁ……そういえば「日本の報道の自由度」が42位だったとかってニュースがありましたけど、これって政府による報道の迫害じゃなくって、マスコミ自体による報道の自由の制限ってことじゃなかろうな?( こちら によれば、この評価には記者クラブの存在が大きいらしいですが)
 でも、いくらなんでも このネーミングセンスってどうよ?
 で、これはほとんど蛇足もいいところだけど。おそらくできるだけそっとしておくのがいいのでしょう。だから、これだけリンク。 「事件を政治活動に利用したり、募金活動などを行わないでほしい」香田証生さんの家族Y!hl )。


2004年11月03日(水) 旧暦 [n年日記]

[必殺] あんたこの神隠しどう思う

 必殺仕業人第十三話 DVD上巻
 牢に入れられた夜鷹が病の中、中村主水に「せんかいを殺してくれ」と頼んで来る。しかし金は受け取ったものの、主水にはその当の「せんかい」がどこの誰かさっぱりわからない。
 一方、やいとや又右衛門は近頃さっぱり客足の途絶えたなじみの長屋を回るも、長屋の連中から総スカンを食らう。なんでも「し(死)のう教」という新興宗教の教祖、幻拓という修行者にそののかされ、やいと(灸)などその場限りの効き目と、皆宗教に入れ上げてしまったらしい。
 昔住んでいて、家族同然と思っていた長屋の連中につれなくされ、やいとやはショックで剣之介のねぐらに押しかけて飲んだくれる。
 その長屋で、そこに住む老婆・お六の元に、ヤクザ者と駆け落ちしてしまった娘・おとよが子供を抱えて帰ってくる。亭主と死に別れ、最後に残った身内である母に、追い返されるのを覚悟で孫を会わせに来たのだ。娘をなじりながらも、結局許してやるお六。それがきっかけで長屋の連中も皆やる気を出し、しのう教から離れて、またやいとやも繁盛しだす。
 しかし今度閑古鳥が鳴いて困ったのは幻拓。これまで貧乏長屋の住人から喜捨を巻き上げていたのが出来なくなり、なにかいい儲け口はないかとぼやいていたところへ愛人のお眉からおとよが百両を隠し持っていることを聞き、その金を狙う。

 今回は内偵・連絡係の捨三がお休み。そのため捨三の洗濯小屋がドラマ的に使えず、珍しくプライベートで関わりあう仕業人が見られる。
 中でも慕われてると思った長屋の連中にそっぽを向かれてぐでんぐでんに酔っ払って剣之介に絡んだり、幻拓に食ってかかって逆にこっぴどく返り討ちに遭ってやっぱりのんだくれたりする、やいとやが笑える。クールなふりをして妙に間が抜けていたり、色には強くても腕っ節はさっぱりのところが、やいとやの魅力。
 そんなこんなもあって、今回はあまり仕業人らしい殺伐さには欠けている。けど、影の主役は長屋の連中。やいとやから新興宗教に鞍替えして、またあっさりとやいとやの方に戻ってきたり、わりとあざとく孫を見せて母親の許しを請うおとよに、おそらく、そんなあざとさも全部飲み込んで憎まれ口を叩きながらも娘を許すお六、そしてふてぶてしくもたくましく、身を寄せ合って生きる長屋の他の面々。最後、身寄りのなくなった子供への行動はちょっとほろっと来る。(まあ、そうなるよう仕組んだのは主水なのだけど)
 やいとやも、神隠しに遭った子供のことを悪し様に言う幻拓に対し、珍しく逆上して殴りかかるが、あっさり返り討ち。その雪辱を晴らそうと(実は「せんかい」だった)幻拓を仕置しようとするが、やっぱりあやうく返り討ちに遭いそうになる。やいと修行をする前から殺しはしてたはずなんだけど、一体この腕っ節の弱さでどうやって相手を仕留めてたんだろう? どのくらい弱いかというと、酔っ払ってたとは言え女のお歌にさえ、びんた一発でのされるくらい弱い。(笑)
 逆に、今回珍しく金回りがいいのは剣之介夫婦。お歌の昔の知り合いだったお眉から、子供を預かった例に一両を貰いホクホク顔。この喜び方が貧乏臭い。
 今回、わりと筋立てがしっかりした話だったのだけど、一点、不審な点が。悪党二人は子供を誘拐するも、身代金を要求するでもなく、お六とおとよの二人を殺し、家捜しして百両を盗む。けどそれって逆に手間じゃないのか? そのまま身代金要求する方が楽じゃないか? それともおとよが百両持っていたこと自体が明らかになることを恐れて、子供が消えて二人が世を儚んで死んだ、という筋書きにしたかったのだろうか? う〜ん。
 この悪役の新興宗教の教祖とその愛人、演じるのは山田吾一と荒砂(あれさ)ゆき。山田吾一は仕置人、仕事屋稼業では一見善人風の悪人を演じていたが、今回は見た目に悪人。しかし悪人の癖に妙な愛嬌があるところは山田吾一ゆえか。荒砂ゆきは仕置屋等でも悪女役で出ている。でも、ウルトラマンではダダの犠牲者役だったんですぜ。
 しかし、この頃の必殺は悪役も濃いし、脇役のドラマもちゃんと見られるなぁ。

[その他] 可笑しくて、やがて悲しき……

 米大統領選のことで、うっかり オハイオでブッシュ優勢産経 )という話題を振ってしまい、それに関連してブッシュVSケリーでどっちがマシに、という話題に。一応ブッシュの方が日本にとって当面マシ、という立場なのでVSアンチブッシュの立場になってしまったのだけど、色々説明するのも面倒なので、その場しのぎ+ウケ狙いで「だって、ケリーだって所詮アホと言われてるブッシュとタメ張ってる」と言って、その後自分で言っておいてあまりに説得力があったので一人で受けてたのだけど、逆に説得力がありすぎて落ち込んだり。全世界に確実に影響のある米大統領候補が、二人が二人してそんなんですぜ? 嫌んなるなって方が無理ですぜ。


2004年11月04日(木) 旧暦 [n年日記]

[必殺] 最後(?)の必殺(その1)−一番強いの、誰?

 こないだ知人友人連に(無理矢理)仕置人を見せたときに「こいつら個人戦闘能力高すぎ。多分必殺中最強」と言ったのだけども、この辺、実際には色々異論が出そうではある。必殺シリーズはコンセプト上一対多というシーンは少なく、普通はせいぜいが主水が二三人を相手にするとか。仕置人で鉄が(かなり八つ当たり気味に)ダンビラを持ったヤクザ数十人を相手に骨をはずしまくるというシーンは必殺ファンの間では有名だが、逆に鉄の一対多はこのくらい。雲右衛門や鬼岩といった強敵に苦戦することもあった。一対多のシーンがあるということとなると、映画やスペシャル版が数多作られた仕事人がやはり多く、そうなると仕事人のいずれかが最強か、ということにもなる。
 が、ここですっかり忘れていたが、映画でもスペシャルでもなく、多人数相手に毎回立ち回りを見せている必殺シリーズがあった。いや、あまりに荒唐無稽で(必殺シリーズ自体が荒唐無稽なのだけど)、同じ俎上に並べるという発想自体が抜け落ちてたのだけど。
 なにかと言うと、シリーズ30作目、シリーズの有終の美(を飾るはずだった)「必殺剣劇人」。これ、特に放映当時は賛否両論だった。まず、主人公は元義賊、かるたの綾太郎、早縄の清次、すたすたの松坊主の三人。三人は義賊としての最後の大仕事で大金を手にしている。つまり、金のために殺しをする理由はない。その彼らが殺しをする理由は、彼らが愛した女性の忘れ形見で、三人のうちの誰かが父親でもあるお七のため(この辺、「スリーメン・アンド・ベイビー」をそのままパクっている)。正義感が強く鉄砲玉な彼女を危ない目に遭わせないため、また、彼女の夢をかなえるために世直しとして行う。とは言え必殺ではあるので、申し訳程度に三途の川の渡し賃として四文銭だけを受け取る。これだけでも必殺シリーズとしては「なんじゃそりゃ」なのだけど、もっと必殺シリーズ離れしてるのが殺陣のシーン。彼らは義賊時代の衣装に身を包み、なんと真正面から敵に乗り込んでいく。それも「よらば斬るぞ!」「おととい来やがれ!」「むふふ、バカめ!」などとキメ台詞付で歌舞伎ばりに見得まで切る。もちろん敵の手下とかもいるわけでその中に切り込んでいって、ばったばったと峰打ちでなぎ倒し、標的だけを殺し、最後は大蝦蟇に乗って消え去るという、人をバカにしたと言えばこれほどバカにした展開もない。事実、最終回にゲストとして出てきた主水は「裏の稼業をなんだと思っていやがるんだ」とボヤく。
 が、こんな荒唐無稽な必殺が出てきた当時の背景を見なければならない。以下、続く。

[その他] サムライ・ハラキリ

 職場の休憩部屋で中国人のDさんとLさんがT助教授と雑談をしていて、日中の昔の服装や習慣、文物のことを話していた。そのとき「昔の日本人は頭の天辺を剃っていたのは何故か」という話になり(「月代(さかやき)」という言葉くらいは出て欲しかったのだが……)、T助教授も知らないようだったので、つい私がいつもの要らんことしぃで「あれは戦国時代、頭の天辺を剃っていた方が兜の座りが良かったのでそうしていたのが、そのまま習慣として定着した」と説明。いや、中国の二人はともかく、日本のT助教授まで感心してないでくださいって。「へえ」ボタンも要りませんって。(別に押してないけど)
 しかし、最近の人はわりとそういう時代劇の初歩知識というか薀蓄も知らんものなのだなぁ、って、あちらの方が私より大分年上だけど。
 まあ、こういう薀蓄とか雑学なんて、所詮こういう時にしか役に立ちませんけどね。国際交流と思っておこう。

  菅直人氏「間違いを認めない軍事超大国アメリカとの付き合いは難しい」 。菅氏の日記、ネタの宝庫だなぁ。「中国や半島とは付き合えないってことですね?」と突込みが殺到すること受け合い。不謹慎なことさえ言わなければ、この人のこういうしょうもなさはむしろ愛嬌なんだが。
 ネットでちょっと、いや、かなりむかつく文章を見た。具体的には書かないが、日本語の読解能力か人として当然の気遣いのいずれか、あるいはその両方が欠けた行動を取っていた。普通はつけいる隙があると煽って遊んだりするのだけど、この件に関してはあまりにも心底嫌悪を感じたので、煽る気にもならない。
P.S.以前からネタにしようと思って忘れていた、 某澤さん向け携帯電話 。ボタンは普通の電話機と同じだけ。液晶なし、ネット閲覧機能・メール機能はおろか、電話帳すらない男らしさ! これでもう心配要りませんね?

[その他] ネガティブ「良かった探し」

 どうも米大統領選はブッシュ氏勝利で決まりだとか。アメリカの大統領選のシステムはどうもわかりにくくていかん。
 知人友人にはケリーを応援していた人も結構いて、だからというわけじゃないけど、どちらにせよ前途が心配と言う意味ではあんまり嬉しくもない。
 それでもどこかほっとしているわけで、何故だろうと考えたら、もうひとつ、ケリー候補が大統領になったら確実に困ったことがあった。別にケリー候補自身の政策とかのことではない。それは、民主党(日本)が勢いづくこと。
 あたしゃ別に小泉支持者でもないし、民主党(日)が政権獲ってもいいんですよ、別に。民主党にまともな政権担当能力があるなら、ですが。ケリー氏の政策どうこうより、こちらの方がよほど日本にとっては不幸の原因になるかもしれない。ケリー氏やケリー氏を応援していた諸氏には悪いが、その意味で私は今回の米大統領選の推移に安心している。まだ気が早いけど、いやはや、本当に良かった。


2004年11月05日(金) 旧暦 [n年日記]

[その他] ヒーロー←→ドラマ

 話が突然というのはわかっているが、「ヒーロー」とはなんであるのか? これについては自分なりに一応の答えが出ている。ヒーローとは、物語における問題解決装置である。「装置ってアンタ」と思われるかもしれないが、働きとしては結局そうとしか言えない。普通、物語ではなにか問題が発生し、多くの場合はそれを解決しなければならない(しないものもあるけどね)。テレビ番組などの時間制限のあるものの場合、特にこれを時間内に解決し、あるいは盛り上げるために「ヒーロー」が存在する。実は機能としては問題を解決することだから、正義である必要はない。もしくは、解決しさえすればいいので「円満解決」である必要すらない。
 と、ここで舞台装置であるヒーローから舞台である物語に視点を移すとあることに気付く。解決すべき問題があることが、舞台の前提になっている。ヒーローもの以外ではどうか。問題、というと定義が限定されすぎるが、なんらかの居心地の悪さ、というか、なにかが(視聴者の感じる)あるべき状態、安定した状態にない「ねじれ」が存在する。そうなると、「『ねじれ』こそがドラマの核である」という仮説を立てられはすまいか。
 たとえば、「阿修羅のごとく」の場合、そのねじれとは「男女関係」にある。ごく普通の、ほのぼのホームドラマに出てきそうな家族が、老父の愛人が発覚したのをきっかけに、それぞれ夫婦関係・男女関係にねじれを内包していたことが発覚していく。あまりに平均的で理想的とすら言える家族に実はまったく理想的ではない「ねじれ」があることが発覚してから、ドラマが進んでいく。あるねじれは復元しようとし、あるねじれはさらにねじれ、別のねじれはねじれのまま残る。しかし基本は登場人物それぞれがねじれと直面し、どう反応するかである。
 「ロック、ストック、アンド、トゥースモーキング・バレルズ」の場合、ギャング相手の賭けポーカーで一儲けしようとする四人組が結局(イカサマをされて)逆に大負けして多額の負債を背負わされる。期限内に返さないと殺される。これが「ねじれ」。
 「必殺仕置人」第一話の場合。それは田舎から出てきた娘おさきの父親が盗賊の身代わりに処刑されたことが「ねじれ」となる。悪党がのさばり、それを取り締まるはずの奉行所がその悪事に加担する。
 特撮ヒーローものの場合。怪人(怪獣)が現れ、事件を起こす。あるべき日常を乱す。これが「ねじれ」になる。
 後者二つは「問題解決舞台装置」としての存在がいるから「ヒーローもの」と言って良い。前者二つは違う。しかし余談になるが、アギト以降の平成仮面ライダーシリーズって、お約束的に怪人は出てくるがそれは別に「ねじれ」の中心にはならないので、ヒーローものとしてはかなり歪んだ構造なのだなぁ。面白ければなんでもいいけど。
 閑話休題。大分大雑把な分析だが、これって結構正しい気がする。例えば「スピード」でイマイチラストが締まらないのは、「時速40マイル以下になると爆発するバス」という環境下が「ねじれ」だったのに、ラストは逆上した爆弾魔との直接対決になってしまっているからかもしれない。最大のねじれは途中で正されてしまい、後付的に別のねじれを新たに提示されているので、中途半端なのだ。
 ねじれをどう提示するか、最初からあるものなのか、ねじれをつくるところから見せるのか、等々はあるが、「ドラマとはねじれだ」というのはかなり有効な考え方のようだ。ここしばらく考えていたことに答えが出たので、無駄な思弁もたまには役に立つ。当たり前のことしか言ってない気もしないでもないけど。


2004年11月07日() 旧暦 [n年日記]

[その他][特撮] 録画ミス

 っつーか、時間変更確認ミス。いえ、 NHK歌壇 なんですけどね。木曜早朝の再放送を録画するか……
  学園アリス の方は無事録画。アップテンポというわけでもなく、ハイセンスというわけでもなく、キャラ同士の妙な間を楽しむのが吉か。
  デカレンジャー は、意識したわけじゃないけど先日触れた「スピード」のパロディ。(前後状況の説明はすっ飛ばすが)時速20km以下になると爆発するよう細工された自転車に、バンと保護を求めてきた子豚のような宇宙人が乗せられる。このシチュエーションだけを取るとただの「スピード」のパロディなのだけど、「ねじれ」理論で考えると、ちょっと変わってくる。
 まず、その子豚の宇宙人ヤーコにはどんな鍵も自在に開けられる特殊能力があって、それを孤児である彼女を育ててくれた宇宙人ジャンギャバに利用されている。これ以上悪事に加担するのが嫌でデカベースに保護を求めてくるけども、ジャンギャバを憎んでいるわけではなく、却って慕っており、むしろデカレンジャーたちを簡単に信用しようとしない。つまり、ヤーコは悪事をやめたがっているが同時に悪事をさせてる育ての親は彼女がこの世で唯一信用する相手という矛盾。これが最初に提示されるねじれ。
 ヤーコは彼女の管理するジャンギャバの隠し金庫のパスワードを保護の代償として提示するが、デカレンジャーを信用せず、金庫まで付いてこようとする。その際、ヤーコが極端に車酔いに弱いので自転車を調達するのだけど、それがジャンギャバによって細工された自転車。爆弾を解除して欲しければ彼も知らないパスワードを教えろと迫る。ジャンギャバが自分を危険に陥れると信じられないヤーコはパスワードを教えるが、約束はやぶられ、さらにヤーコの両親を殺したのは実はジャンギャバだと告白される。この時点でヤーコは信用していた唯一のものに裏切られる。(バンは変身すれば自分だけは助かるのに、そうせずに必死なのだが) これもねじれだが、別のねじれではなく最初のねじれが変化したもの。
 最終的にバンの献身的な必死さに人を信用することを知ったヤーコは幼生態から成長態に変化(この辺はご都合主義とかいろいろあるけど、置いておく)、バンと一緒に爆発から脱出。ねじれの発生原因だったジャンギャバをジャッジメント→許可→デリートで、めでたしめでたし。これでねじれは(この番組内では)解消される。
 「スピード」と異なり、最初にヤーコの「ジャンギャバを信用しているが、悪事を手伝うのも嫌」というねじれがあり、危機的状況はこのねじれを変質させるためのシチュエーションとして置かれている。だから、爆発から助かってそれでめでたしめでたし、にはならないところがミソ。
 「ねじれ」に注目しドラマとしての構造を見ると、実は元ネタの「スピード」よりドラマとしては上だという結果で、無論、それだからどっちがより面白いかってことではないが、物語構造解析としてはディティールや構造主義とかとはちょっと別の見方が出来、こりゃちょっと面白い。
 他に細かいところでは隠し金庫のパスワードが「現金(げんなま)に体を張れ!」で、悪役宇宙人の名前はおそらくジャン・ギャバンのもじり(金庫破りだから「地下室のメロディ」なのかな?)。演出的にはジャッジメントの際、やはり犯罪者宇宙人に両親を殺された境遇のテツに「ヤーコの両親を殺し……」と言わせたところは多分スタッフも確信的。それで終わりにせず、最後に怪重機を乗り捨てたジャンギャバとバンの一騎打ち(ヤーコも手伝い、ジャンギャバとの決別を明確にする)で締めるところは、スタッフはどうするのが一番カタルシスが得られるのか、非常に良くわかってるとしか言えない。
 こんなことをずっと考えていたのはちょっと理由があるのだけど、いずれ機会があれば。

[必殺] あんたこの勝負をどう思う

 必殺仕業人第十四話 DVD上巻
 将棋狂いの職人竹次郎は念願叶い、将棋名人・荻田道安に挑むことになる。千両がかかったこの勝負に勝てば、将棋で身を立てることができる。竹次郎の妻おかなは夫に日の目を見させようと夫に無断で道安と会い、身体を許す代わりに夫に勝ちを譲ってくれと頼む。
 この一世一代の大勝負を制したのは竹次郎だった。しかし道安はおかなとの密約を明かし、おかなを呼び出しご贔屓衆に抱かせた上、勝負の向こうを言い立てる。
 男の真剣勝負を汚されたと感じた竹次郎は、おかなをなじった挙句、離縁を叩きつける。自分よりも勝負にのめり込む竹次郎に絶望し、おかなは大川に身を投げて自害する。それを聞いてこれは仕事になる、と竹次郎の身辺を探り始める捨三だが、竹次郎は女房の死を悼むどころか道安に再勝負を挑む。
 しかしそれはただの勝負ではなかった。負けた方が命を捨てる、文字通り命がけの勝負だった。だが無残にも結果は竹次郎の負け。竹次郎はその場で殺され、竹次郎の老母がやいとや又右衛門に竹次郎とおかなの恨みを晴らしてくれと頼む。

 あれ? これちょっとだけ見覚えがあるような。実は仕業人、見たことがあった?
 賭け将棋にからめた話は必殺では何本かあるけども、勝負の非情さ、というか、ここまで勝負が価値観の中心になってしまった棋士が出るのは仕業人くらい。竹次郎はおかなの不貞より、勝負を汚されたことをなじり、そしてその死にも動じることなく(と見える)道安に命をかけた再勝負を挑む。しかし、なぜここでお互いの命を賭けろ、と言い出したのか。もう「あれは八百長だった」という言い訳ができないようになのか、それとも、彼なりのおかなの敵討ちのつもりだったのか……
 その勝負への姿勢に理解を示すのは剣之介。将来がかかっていようと命がかかっていようとそれは双方納得ずくのこと。その真剣の勝負に横から水を注すような真似をしたおかなこそが、彼にとっては「不純」であり、そのうえで死のうが「死に損」と切って捨てる。命がけで女を愛し、侍の身分を捨て、人を殺した彼にとって命がけは当たり前のことなのかもしれない。しかしお歌は違う。幸せを追う女の気持ちもわかる。
 そういう姿勢もあって剣之介は依頼に消極的だったが、道安が卑劣にも「落とし」というイカサマで竹次郎をはめたことを知り、仕置を承諾する。勝負を汚した相手ならば遠慮する必要はない、ということ。この、自分の規範を最も重要視しようと言う姿勢は、剣之介の捨てたはずの武士道そのものなのだが……
 しかし、いかに勝負にのめりこんでる最中とは言え、あんな簡単なイカサマに楽にはまってしまうものなのかな? 動揺したところを疑問を持つ前に殺してしまったのかもしれないが。
 今回はその他のメンバーは控えめかな? 主水はのめり込みはじめたばかりのヘボ将棋で首を突っ込んで、最後は出戻りの銀次に一本取られ、やいとやは他の長屋連中が一様に竹次郎の肩を持つ一方で、竹次郎の母親の治療をしていてその窮状を知ってるので「あれじゃここ一番の勝負には勝てねえ」と、道安の勝ちに賭けたりとあくまで冷静。そこらへんも仕業人か。

[その他] それは、あくまでプライベート

  町山さんのはてなダイアリー 見たら、大分色々と香ばしいことになっているようで。 ARTIFACTさん などははてなスタッフ側の対応に疑問を呈しているけど、個人的には、知らされなかったら知らん振りもできただろうけど、知らされたら、そりゃ知らん振りはできないわなぁ、というのが感想。
 「公序良俗」の範囲は明確な規定は難しいけども、死体の画像は、そりゃ普通にグロ画像として認識されるでしょう。また、晒される遺族の気持ちはどうなるの、と思う(そりゃ、遺族が反戦活動のため敢えて晒してくれ、って言う可能性もないではないけど)。
 他には、イラク戦争の酷さを訴えるために画像を貼り付けたって言うけど、それじゃあ逆の立場の人がフセイン政権下の犠牲者の死体画像と称して貼り付けることもできるし、それとは全く関係なく、交通事故、銃殺事件、中央アフリカなど紛争地域の残酷画像を問題意識と共に貼り付けてもいいですか、ということになる。別に、自分のところでサーバー立ててやるなら自己責任でいいですが、他人にまでそういった問題意識を無理矢理に押し付けるやり方ってのはちょっと、と思う。問題意識ってのは、当たっていようと当たっていまいと、グローバルだろうがローカルだろうが、結局は個人のものに過ぎない。そこら辺を忘れて他人に押し付けようとすると、ちょっとなんだかなぁという感じになってしまう。
 映画「ゼイリブ」で、主人公がエイリアンを見分けるサングラスを相手に無理矢理かけさせようと中盤、延々殴り合いを繰り広げる。焦燥感としてはわかるけども、もしそのサングラスをかけて相手にエイリアンが見えなかったら? その「サングラスをかけさせる」という行為が、実はプロパガンダによる誘導的行為に過ぎなかったら? だから、(フィクションとしてはあれでいいけど)現実としてはサングラスを無理矢理かけさせる真似はすべきではない、あるいは、するにしてもずっと慎重にやるべきだと、私は思う。
 結局、問題意識なんてのは所詮どんなに規模が大きくてもつまるところはプライベートなものに過ぎず、それを他人に訴えるなら論理的にやるのがcool、というのが私の意見。
 P.S.町山さんのところのコメント欄で見覚えのあるアカウントの人が暴れてるけど、ちょっと苦笑。町山さんもわざわざ相手と同じ土俵に降りなくてもいいのに。


2004年11月08日(月) 旧暦 [n年日記]

[必殺] 一筆啓上崩壊が見えた

 必殺仕置屋稼業最終回。 DVD 下巻
 市松はある依頼で、卯之吉という悪逆非道の男を仕置で殺す。しかし、その卯之吉は殺し屋の元締めである睦美屋佐兵衛の息子。実は生粋の殺し屋である市松は仕置屋として以外にも佐兵衛からも殺しを請け負ったことがあり、市松の手口を知る佐兵衛には市松の卯之吉殺しがばれてしまっていた。
 仕置屋の元締めである主水は、印玄に市松の身辺警護と、万が一裏切ったときの市松の始末を命じる。それに対し、「市松はそんな男じゃねえ!」と反発する印玄。
 しかし、佐兵衛一味に迫られた市松はしばらく時間をくれ、と気を持たせた返事をする。
 その一方、依頼人の口から仲介役のおこうの名が漏れる。それを知った主水は盗みの疑いと番屋にしょっ引くことでかばうが、結局町奉行所に鼻薬をかがせた佐兵衛におこうを連れ去られてしまう。
 市松同様、口を割る前に始末するのか、それとも助けるのか……主水が迷う中、市松の姿が消える。印玄がおこうを助けるべく飛び出すが、実は市松は佐兵衛におこうを解放する代わりに自分を拘束しろと迫っていた。隙を突いて印玄はおこうを助け出すが、印玄は追っ手と共に屋根から飛び降りて死亡、市松によって連れ出されたおこうも、逃げ出す際に負った凶弾が元で、主水の腕の中で息を引き取る。「中村はん、この稼業、やめたらあきまへんで……」との言葉と共に。
 印玄とおこうを失い、佐兵衛への復讐に猛る市松と捨三を諌める主水。「迂闊に動くんじゃねえ。面が割れてねえのは俺だけだ」。しかし市松は反駁する。「じゃあ、死んだ印玄もおこうはどうなるんだ! みんなてめえの面晒して死んでいったんだ!」
 しかし、結局主水の非番の日に、佐兵衛の密告によって市松が番屋にしょっ引かれる。主水は首あらために現れた佐兵衛を仕留めるが、市松の小伝馬町送りはひっくり返らない。どうしようもない、と告げる主水に、「なんだかんだ言いながら、けっきょくてめえを一番大事にしてるのはてめえなんだ!」となじる市松。それになにも答えられない主水。
 市松護送の前の晩、市松の武器の竹串を市松に渡す主水。これは口を割る前に死ねって意味か、と聞く市松に、何も答えない主水。
 そして護送の朝、市松は主水の作った隙を突いて町方の手を逃れる。主水は手向けにと、市松に握り飯を持たせる。結局、市松を取り逃がした責を問われ、主水は牢廻り同心に格下げになってしまう。
 そして逃亡先、市松は主水の持たせた握り飯を口にするが、硬い感触を覚える。主水の握り飯の中には、一両の小判が忍ばせてあったのだ。
 しかし、主水は市松を逃した代償に、奉行職の中で最低の牢屋見回りとなってしまったことを、焼き捨てる辞令と共に噛み締める……

 本当は、 「必殺仕業人」のDVD−BOX上巻 を見終わったら21話以降の感想を書こうと思っていたのだけど、「必殺仕置屋稼業+最終回」で検索して来た方がいたので。
 これがですね、「確かこんな話だったよな」と思って見ると、大筋では間違ってないのだけど、脇の部分での要所要所のやり取りが濃い。粗筋では主水と市松の関係に絞っているのだけど、それ以外にも密度の濃いやり取りがある。まあ、「そんな身元がばれる相手の仕置を最初からさせるなよ」と思わず突っ込んではしまいますが……
 まず、おこうと主水。仕置屋の危機に、おこうはどこだと急を知らせようとする主水だが、おこうの行った先は実は中村家。勝手に家庭サービスとせんとりつの髪を出張で結うおこうだが、あまりにないがしろにされている主水に対する仕打ちに思わず反論。なんで勝手に家に行ったのか問い詰める主水にも逆に「あんな家出てったらええがな。わてが面倒見てあげます」と、意外な告白を。髪結いの亭主もまんざらでもないか、と言う主水。しかし、大人二人のほのかなやりとりは、佐兵衛がおこうを捕らえ、拷問にかけ、挙句死なせてしまうことで終わってしまう。「この稼業、やめたらあきまへんえ……」との言葉と共に。
 印玄は、もし市松が裏切ったら始末しろ、という主水に「市松はそんな男じゃねえ!」と反発。これも、最初の頃の印玄の、生粋の殺し屋である市松への反発との違いを考えると、涙が出てくる。結局、印玄は率先して捕らえられたおこうを救出に向かい、命を落とす。変な奴だが明るく気のいい印玄らしい最期だったとも言える。
 そして市松。元締めと仲間のことを言えば命は助けてやる、という言葉に、言を左右にしながらおこうを助けに向かい、そして主水を責めながらも主水のことを結局ばらさない。
 主水も、「てめえを一番大事にしてるんだ!」という市松の叱責に、(捨三以外では)最後の生き残りである市松を、懲罰覚悟で逃す。仲間を取るか、自分の身を取るか……主水の究極の問いの答えが、ここでは示される。結果、主水は牢廻り同心に格下げ。 仕業人第一話 におけるいきなりの困窮はこのためである。
 必殺仕業人の第一話は、設定的には仕置屋の直後ではなく、その一年後。反駁しながらも最後はお互い認め合い、心を通わせた仲間たちと違い、ただ金のためにつながったうらさぶい関係。一年の困窮が主水に落とす影は、濃く深い。


2004年11月09日(火) 旧暦 [n年日記]

[その他] たぶん、好きになれない

 職場の愚痴、と言えば愚痴になるのかな?
 職場のA君(仮名)がオタクについて、まあ、本人は悪口のつもりはないのだろうけど、偏見たっぷりの言説を披露していた。オタクのわりと多くに当てはまりはするだろうけど、でもそれは「オタクだから」ということではないし、オタクでもそうではない人はたくさんいる。別にそれっくらいはどうでもいいのだけど、それを思い切り見下した口調で断定的に語っているので、まあ、なんだかなぁ、と感じてしまう。
 よくよく考えるとこのA君、オタクに限らず、他人の失敗や欠点を口にするときはわりと万事そんな感じ。まあ、毒舌も一つの個性ではあるのだけど、それでは自分の失敗や欠点は、となると、とたんに舌がにぶる。人に責任を転嫁するわけではないけど、少なくとも他人に対する批評と同じ目は向けてない。他人の失敗や欠点を道化にしても自分の失敗や欠点を道化にはしない。
 断っておくが、別にA君のことは嫌いではない。後輩の面倒見もいいし、仕事もそれなりに有能だし、彼は彼なりにいい奴だ。しかし、多分彼のことは好きにはなれないだろう。ただそれだけのこと。
 考えてみると、私が好感を持つ人は大抵自分を道化に出来るセンスを持った人だ。それ以外はまるでばらばらで、中にはどう考えても人格破綻者もいる。ユーモアのセンスと頭の回転の良さ、謙虚さと他人に対する寛容、あるいは最低限、他人に向けるのと同じ視線を自分に向ける客観性と想像力をもっていること。自分を道化に出来る、という一事でこれらのことが読み取れる。
 だから、決して嫌いでも厭うてるわけでもないが、私はA君が好きになれない。彼が自分の欠点を道化に出来るようになったら、好きになれるかもしれない。

[その他][アニメ] かぶれる

 数日前から右手に虫刺されのようなかぶれが出来、放っておいたのだけど、日が経つごとに段々酷くなる。水ぶくれが出来、指が腫れ、皮膚がぶよぶよと……痒いのもたまらんし、流石に危機感を感じて薬を買ってくる。塗ると痒みと皮膚のただれはわりと治まってきた。しかしちょっとした傷口とかから膿が一斉に出て、ちとびびった。そういうものか。
  ゴーゴー夕張もお気に入りの舞-HiME(と、ローゼンメイデン) 。いや、わりと趣味がオタクっぽいってのはインタビューとか見て知ってましたが、あの鉄球をぶんぶん振り回すゴーゴー夕張とのイメージのギャップが……まあ、役柄はともかく、本人はまだ二十歳そこそこの女の子ですからね。そりゃ、タランティーノも気に入ろうってものでさ<偏見
 で、その 舞-HiMEゲーム版製作会社のトップページ に「全年齢版」って書いてあるので、「?」と思ったら、 サーカス ですか……なんつーか、 絵柄が大分違う 。まあ、(わりとどうでも)いいんですが。
 「ドラマとはねじれだ」だけども、 まあ、そんな感じ で。メンタルだけでなく、いろんなものに適用できるいい加減さがミソ。何故こんなこと考えてたかと言うと、例えば人にものを勧めるときとかで作品を評価する際、「自分が好きなもの」と「良い作品」は別の評価軸なのだけど、では、「良い作品」って何をもって良いと判断しているか、というのがきっかけ。深+とかでマスターにもそういう話題をふっかけられ、うんうんと悩んでいたのだけど、ドラマに注目すると、結局なんらかの不安定状態(ねじれ)が中心に置かれるというのがドラマ作りで必須ではないかと。「ねじれ」が普遍的なものなのか、特殊なものなのか、それに対しキャラクターをどう動かしているか、でドラマの普遍性・特殊性、高尚・通俗、巧拙が語れるのではないかと思った次第。まあ、結局、感覚を 定義して自分の理解とする試みってことなのだけど、昔の人はこんなこと考えなくてもナチュラルに判断できたのだろうなぁ。パロディというかフィクションの再生産品に溢れ返った中で育った我々の世代、もしくはそれより下の世代では、きちんと言葉を作らないと、多分判断は難しくなってきてしまっている。

[必殺] 最後(?)の必殺(その2)−仕掛けて殺して日が暮れて

  こないだ の続き。
 80年代になにがあったのか。ひとつには、時代劇自体の没落があった。大前提として80年代半ばごろからテレビ番組全体のバラエティ化の波があり、高視聴率を取る番組がどんどんなくなっていったこともこれに拍車をかけた。そんな中で必殺は主水をシリーズの顔とし、バラエティ化を推し進めることで生き残りを図る。これはある程度までは成功したが、結局限界があった。
 視聴者は手軽さを求められており、他の定番時代劇も加速度的につまらなくなっていったのはこの時期。本来アンチ時代劇だったはずの必殺が「時代劇は必殺です」とまで宣伝するようになったスタッフの心中はどのようなものだったのだろうか?
 また、「殺しを金で請け負う殺し屋が主人公」というコンセプトの濃さが時代に合わなくなってきたことと、アンチ時代劇であるはずがその時代劇そのものが消えていっているという両方の事情が、必殺の立脚点を見失わせ、迷走を招いた。こないだちょっと話題になった「主水、ワープロをうつ」だのと言った珍タイトルが出たのもこの迷走の結果。「仕事人V激闘編」などで原点回帰を試みたこともあるが、もはやそれでは視聴率を掴むことは難しくなっていた。とは言え、人気番組の視聴率低下は必殺に限ったことではなく、むしろシリーズの中断を決定付けたのは中村主水役の藤田まことのモチベーションの低下だと言われている。まあ、ワープロだのハウスマヌカンだのバースだのではなぁ。
 そのシリーズ中断のくくりとして作られたのが「必殺剣劇人」である。「必殺仕事人」のときもそうだが、このスタッフ、「これで最後」となるととんでもないものを作り出すみたいである。これまでの必殺を否定するかのように金は目的でなく、大勢相手にチャンバラをし、見栄まで切って、最後は偽善者っぽく悪の首魁だけ斬って去っていく。当然、これのどこが必殺だ、となる。
 だが、ちょっと待て。これって、一体剣劇人直前の必殺シリーズとどれほど違うのだ? 子供の小遣い銭程度で仕事を引き受け、殺しのシーンはひたすら華麗に、決まりきった殺陣で見栄え良く、殺し屋というのが名前ばかりのキャラもいた。
 これらはバラエティ化の一環で見栄えのするケレンのシーンを増やし、秀、勇次の成功を受け、女性受けの良いキャラを投入するという戦略に出た弊害。どうしてそういう流れになったのかという話は、また今度。


2004年11月10日(水) 旧暦 [n年日記]

[その他] 電車男の言うことにゃ

 GOD SAVE THE QUEEEN♪
 出版物として刊行されたのをきっかけに、なんだか最近、巡回先で「電車男」「電車男」と見かけるので数点。
 電車男のスレッドは、話が終わってからちょっとして、夏ごろに友人から聞いた。友人は面白いと読みふけっていたが、個人的にはさほど。だってこういうのって祭りじゃん? リアルタイムで参加しないと全然面白くないっしょ?
 二点目。「電車男」が「ヤラセ」だった場合。ちと本を読んでないので本人を特定できたのか知らないけど、嘘八百の愉快犯だった場合には? 「真実の物語!」とか言いながら、検証の意思もなく感動しまくってるってのはどうなのかなぁ。「どこか一言に感じ入った」とか「シチュエーションが泣ける」ならともかく、「事実かどうかわからないのに事実を前提としての感情移入」ってのは、ちと無防備すぎると思う。
 三点目。これが一番の懸念だけど、もし本当だったとして、この刊行により本人の受ける影響は? ひょっとしたらおせっかいな誰かが穿り返して押しかけて、折角のハッピーエンドがハッピーエンドじゃなくなるかもしれない。ネット上で無責任に騒いでいる限り(それも実名特定されない限りだけど。本当はそれもどうかだが)は、まあ自己責任で騒いでいればいいが、観察者も観察対象に影響しないではいられない、ってことは知っておきべき。
 もし本人と接触し、承諾を得たなら別だが、刊行した奴は自分の責任に対する無神経さを恥じるべきだし、やたら騒いでる奴も、もうちょっと色々考えた方がいいのでは? 以上。

[その他] モハメド医師

  愛・蔵太さんのblog(11/10) を見て、 シバレイさんのblog へ。え〜っと、8月まで名大病院にいたってことは、今年の邦人三人拉致時に名大で犯行グループ(とくらいは言っていいだろうなぁ)に対し、人質解放の呼びかけビデオを公開撮影したモハメド医師か。その時間、たまたま身体が空いたので見に行きましたが、その時の主張(日本人はとばっちりを受ける危険性があるので(自衛隊を含めて)イラクからは撤退して欲しい、イラクがどうなるかは悲観的な予測しか立たないが、イラクのことはイラク人に任せて欲しい、など)を考えると、確かにそれと言説が一致しているように思えます。
 無論、現地の実感は日本にいる自分には計り知れないし、モハメド医師の善意は疑うものではないですが、同時に、モハメド医師の置かれる状況、思想等の背景等も気になったことは確かです。バグダッドなので、危機意識が(まだ比較的安全な)南部よりも強い、と考えるのが妥当なのかもしれませんが。