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2001年05月22日(火) 旧暦 [n年日記]

プロジェクトXって…

 「…た」「だった」「した」が連続するんですげー聞きづらいんですけど…
 世の中東京三井海上のED債とか三重の飛行機とヘリの接触墜落事故とかでアレですが、 哀愁はいいんですが 、ブラッカイマー&マイケル・ベイという組み合わせの方がアレな気がするんですが…米国の日系団体から案の定懸念が発表されてるし。日本が戦争でしたことが正しいとは到底思わないけど、おそらくこの映画で多くの人間が扇動されてしまうこと、扇動の結果どういうことになるか、想像がつかないわけではないだろうに…ま、ブラッカイマー&ベイだしなぁ。
 HDDの容量が格段に増える技術だとか zdnet アサヒ 。宇宙人の技術ですなぁ。
 Office XPの新しいプログラムライセンスの方式についての 批判 。アップグレードのメリットに対する魅力が小さくなっていったことの裏返しなのだけど、やることがヤクザ並ですな。狂ったサンタは言いすぎですが。
 がんもどきを作ろうとするが失敗。水気を切らなかったことと、つなぎが弱かったことが失敗の原因か。なかなかに難しそうだ。うむ。
 先週ボロクソに言った コミックバンチ の創刊二号(これ自体に文句言ったってより、懐古主義に文句言ったのだけど)。懸念に反して、それなりにまとまりはいいようです。新人も結構使おうとしてるのは好感。ただ青年向けという市場で懐かしさ以外に何を売りとしていくのか、それが鍵な気が。
 「熱血江湖」の絵柄って板橋しゅうほうに似てるのな。
 日曜に懐かしさから コメットさんデジモンテイマーズ と二足のわらじを履くが…いや、お話は丁寧なんですが、べた誉めするものでもないかなあという気が。ライバルキャラの使い方が間違ってるので、多分てこ入れで新キャラとか新展開とかあるでしょう。テイマーズは「犬と少年」の変形なので、個人的にツボ。
 それにしても パワーパフガールズ が何故シャーマンキングなどに追いやられて時間変更せねばならないのだ。ぷんぷん。


2001年05月23日(水) 旧暦 [n年日記]

被曝治療

 パワーパフガールズは今一番アヴァンギャルドなアニメですぜ。
 それはさておき、夕べ「 プロジェクトX 」を見た後テレビをつけっぱなしにしていたら、 野尻さん の掲示板で再放送すると知った、NHKスペシャル「被曝治療83日間の記録」が始まった。これは例の東海村の事故の、臨界事故の現場にいた大内さんの治療のドキュメントなのだが、見ていて正直恐ろしくなった。2時間前に見た プロジェクトXのホテルニュージャパンの話 と比べても、その感情の動かされようは比ではない。
 ドキュメントにせよ何にせよ、たとえ「ヤラセ」がなかったとしても、他人の目を介したものは「真実」ではなくなる。特にテレビ番組では「物語」として全てが提供されることになる。プロジェクトXではある定型の枠にはめた構成をする傾向が強いため、殊その傾向が強いのだが、それが悪いというつもりはない。しかし、やはりショックの度合いははるかに強かったのだ。
 のっけから出される染色体の写真。通常染色体と、破壊された患者の染色体。本当に破壊されたとしか言いようがない。話には聞いていたが、そのインパクト、そしてその事が一体何を意味、つまり、もう新しい細胞がつくられないということが具体的な恐怖として目の前に突きつけられる。
 その後は刻々と人間が「壊れてく」経過がひたすら続く。担当の医者が「最初、普通に話とかしていて、被曝したようにはとても見えなかった」という患者が、だんだん皮膚が崩れ、粘膜がただれ、自発呼吸も出来なくなっていく。心筋を除く体中の筋肉の筋繊維も破壊される。それでも意識はある。病院側も家族側も必死に回復を祈りながらも、延命治療以外に打つ手がなくなっていく様、達成感も何もない記録が続いていく。家族も医療側も傷つきながら、83日目に二度目の心停止、もう蘇生措置はなされなかった。重度被曝とはどういうことか、東海村事故とはどういうことか。崩れてく人間の記録が残したのは避けようもない事実の提示だけ。
 以前、あるマンガで「無理矢理死体を生かしてる」と揶揄してたり、知人が「あれは自業自得」と言っているのを目にしたり耳にしたりしたが、そんな単純な話だろうか? 少なくとも原子力とその危険性をもっと国や会社がしっかりと認識し、教育・管理をきちんと行っていれば起こらないはずの事故だったはずなのだ。
 アメリカも原子力発電推進に方向転換したばかりであり、原子力でまかなわねばならないというのは、事実なのかもしれない。それでも必然の事故などありえないし、あってはいけない。


2001年05月24日(木) 旧暦 [n年日記]

こんな夢を見た。

 何故か地元の、家のすぐ前の道路で、車に乗っていた。父親と一緒に乗っているのだが、2kmほど離れた場所で、かなり大きな火の手が上がっている。黒煙が本当にまっすぐに曇り空に向かって延びていて、住宅地だというのに、あんな燃え方をするものがあそこにあっただろうか、とのんきに考えた。
 何が燃えてるだらやい、という父親に、ガソリンスタンドかなんかじゃない? と答えるが、あの場所にガソリンスタンドなんかない。死傷者とか出てるのかな、とか考えてると、突如火事が起きてる隣で大爆発が起きた。地を這うような炎が、どう見ても半径50mくらいは嘗め尽くした。同じように外に出て火事を見てた近所の野次馬が悲鳴とも驚きともつかない喚声を上げる。ショックで思考が停止しかけた頭で、一体何が起こってるのかとか、何人死んだんだろう、誰が死んだんだろうと考えてるうちに、爆発の衝撃波が到達した。良くある白い衝撃波ではないけど、土ぼこりとか雑草の揺れとかで衝撃波が到達するのがはっきりと見えた。
 と、いうところで目を覚ました。一体あの夢はなんだったんだ? わからん。
  ディズニー の今年の新作「 ATLANTIS; The lost empire 」( アトランティス 失われた帝国 )が十年ばかり前に NHK で放映していた「 不思議の海のナディア 」に 激似 と言うか、多分どう見てもパクリだというのが話題になってる。
 最近手詰まりなディズニーは「ジャングル大帝」もぱくってる。しかも無断で。
 別にパクリはいいが、オリジナルより面白くなければパクリの意味はない。更にオリジナルにはそれなりの敬意を払うべきだろう。っちゅーかあんたらパクリすぎ! 今まで著作権がないも同然の童話でばっか勝負してたから、こういう無断当用が当たり前の感覚になってるんかな?  に連絡して始末してもらいますわよ?
 ふざけた話題の次になんだが、 ハンセン病患者訴訟の控訴を断念 ということで、ハンセン病患者がいわれなき差別を受けてきたということは知ってたが、わかりやすく詳しく解説したページはないかのう、と探したら ありました 。らい病と呼ばれ、隔離政策が行われたのは知ってたけど、事実上不治の病ではなくなり、感染力が極めて弱い病気ということがわかってもなお隔離を続けたというのはいささか衝撃だった。しかもほとんど犯罪者同様の扱いで、不妊処置がとられることすら合法だったのだ。まさしく人間扱いではない。しかも隔離されることで更に差別が生まれる。 原告の一人の「自分は悪くなかったんだ」という言葉 、その重みと背景である受難の半生を推し量ることはとても出来ないが、自分が当たり前に存在することさえ許されないかのような差別という名の暴力を受けつづけてきたことだけは、かろうじてわかる。昨日の原発の話もそうだけど、臭いものにはすぐふたをしたがる日本人として、しかと胸に刻まねばならない教訓だろう。


2001年05月26日() 旧暦 [n年日記]

久々に「深+」へ…

 荒箱さん毎度毎度ご指摘サンクス。
 急遽 林氏 からお誘いがかかり、例によってO川さんと一緒に久々に「 深+ 」へ。前回行った時のように鬱気味ではなかったけども、やっぱり檄入れられまくり。自分に足りないものをまざまざと思い知らされます。足りない部分は一つ一つ着実に埋めてくしかないのさのう。
 深+に行く前に軽く腹に何か入れるかということで寄った中華料理屋で突如声をかけられる。以前いた研究室の後輩のT君でした。ちと吃驚。っつーか名前を言われるまで思い出せませんでした。(^^;
#名前ごと忘れたなかったからまだセーフだよな。
 酒の席でO川さんから東海村事故の話を振られる。ちょっとだけ「日記を見られてるんか!?」とびびる。
 一応チェックしよう。酒の席で言ってた「プロ顔負けの自主制作アニメを作ってる人のホームページ」ってのは ここ です。
 主に今回はマスターから「鈴木は性的嗜好が異常だ」とからかわれる。うむむ。そんなことはないぞう…ないと思う。思いますです、ハイ。
 夜中2時まで大して注文もしないのにずっとお話…というか殆ど雑談みたいなもの。貧乏人ですいません。
 今日は今日で、教授から呼び出しくらい。投稿準備中の論文のデータで突付かれる。あ、やっぱそこちょっとやばいと思ってたんだよなぁなどとは一応言わない。せこせことデータ集計のやり直し。その後、次の論文のねたのデータについてひとしきり議論。なんか物理出身のワシの方が感覚的な話し方してるのは正しいのだろうか? うむむ。
 幾つか仮定は出てきたが、結局追加実験で明らかにするしかないということに。ま、そらそうか。
 なんかまともな日記っぽいなあ。ま、いっか。


2001年05月27日() 旧暦 [n年日記]

若手お笑い芸人

  NHK の若手芸人の番組見てたけど、つまらない。のはまだいいのだけど、なんか喚声の上がり方が笑いじゃなくってアイドルに対して上がる喚声とおんなじなんだよねえ。お笑い芸人の市場が変わってるってことなのかなぁ。
 朝起きて「 仮面ライダーアギト 」を見る。なんとなく美杉家から独立早々パン屋を乗っ取る津上翔一=仮面ライダーアギト。ううむ、ひょっとしてシャンゼリオンの黒岩都知事のサクセスストーリー並の成り上がり物語か? なんでも映画化も決定したそうで、 2ch 辺りの噂では「プロジェクトG4」(「G4」ってのは劇中で出てくる警察の作った仮面ライダー型パワードスーツ「G3」の計画途上の次世代バージョン)になるとか。かぜのなかのすーばるー♪
 「クウガ」では多少の悶着はあったけど、警察が仮面ライダーを「謎の生命体を倒す、正体はわからないけど人類の味方」とみなして協力体制にあったのに対し、「アギト」では「わからないものの危険性」とひとまとめにして対応されてるのは、むしろこっちの方がしっくりは来るかも。「仮面ライダー対仮面ライダー」というシチュエーションが何度か起こってるし。(でもやられ役はいっつもG3) しかし北條は何故あれだけ不始末続きで責任を問われないのだろう? いや、いなくなったら話がつまらなくなるけどさ。ファミリードラマ担当の翔一、刑事ドラマ担当の氷川はともかくトレンディドラマ部担当の涼の出番が少ないのはさみしいのう。っつーかギルスに出て欲しいだけだけど。
 特撮とかアニメとか見ない人はどう思うか知らないけど、このアギト、人気というのは本当であるらしい。 テレビ朝日 のアクセスランキングでもたいてい上位に入っている。次回はなんか北條が主役っぽい話らしい。ホントか?
 その後「 デジモンテイマーズ 」を。話の作りの上手さは確かに裏番組の「コメットさん」に負けてるのだけど、シチュエーションが好みということと、あくまで「デジモンは友達だけど、根源的にこの世界とは相容れない、何か怖い存在である」というのをほのちらつかせてるのが好きなのだ。こればかりは嗜好としか言いようがない。
 買い物してご飯。生野菜は賞味期限前に使い切れさえすれば始末が便利だ。ものによっては火を通す必要もないし。
 ぬぼーっとしてると夕方になって「 エンジェリック・レイヤー 」が。なんか、相変わらずとことんどうでもいいはなしでした。ハイ。どうしてこんなにもどうでもいい話を放映する気になるのかが理解できん。
 おととい 深+メーカーズマーク のページのプレゼント当選率が高いと聞いたので申し込みもしてみたり。ううむ、ホントかいのう?
  木曜 に書いた「 ディズニー、ナディアをぱくる 」の話が 日経にも取り上げて られてました。あれだけ人物・アイテムが似てて「偶然」はなかろうて。手塚治虫ならディズニーにぱくられてもむしろ本望だろうけど、ガイナックスは別にそんなことはないだろうしなぁ。 ガイナックス に訴える体力がないなら NHK が訴えるって手もありではないかな。
 でもそれより闘病中のマイケル・J・フォックスが声優として出演してるとして聞いて、そっちの方が嬉しかったり。


2001年05月28日(月) 旧暦 [n年日記]

クレしん映画版再考

 なんかここんとこ連続してる「 ナディア VS アトランティス 」ですが、なんか純粋にネタとして面白くなってきたり。
 やはり 2ch で例えば アニメ板 とか、 映画板その2その3 )とか。
 中でも 海外の比較サイトの日本語ミラー は意図的なところはあるけど、こじつけにしてもこれだけの類似点があって「ナディアなんて知らないよ」はないだろ、と突っ込みどころ盛り沢山!
 「フィギュア王」で岡田斗司夫氏が今回の「クレしん」映画版について批評をしていて、それで「野原ひろしは昔への逃避から抜け出したが、その先にある家族というのも既にアニメの中でしか最早存在しない、家族という名の幻想にすぎない」ということを述べて「だから、『過去よりも何よりも家族がいい』というテーマは見せ掛けで、実はそうではない」という論法を展開していた。しかしそれは間違ってないけど合ってもいないと思う。
 過去も幻想であり、家族愛という現在も幻想である。それはむしろ野原ひろしはどこか半分意識してるはずで、だからこそ敵のボスに「つまらない人生だったな」と言われて、虚勢のように「お前にも家族を持つ素晴らしさを味あわせてやりたいぜ」と返す。過去に帰りたくて堪らないのを靴の匂い(!)をかいで、泣き喚いてまで「今」に固執する。それは「現在」が素晴らしいと信じているからではない。
 おそらく「過去が懐かしい」と思うのと同じくらい「家族が大事だと思う」気持ちは確実に存在してるのだろう。その比率がどれくらいかは人によるだろうが、その両者の間で揺れ動く場合、その葛藤というのは非常に心をさいなむ。どちらに身をおくか、どちらの立場を取ることが正しいかは関係ない。どちらかにずっといるのが楽なのだ。だから、過去の側に身を置かないのなら「家族は素晴らしい」と信じ続け、虚勢を張り続けなければいけない。男らしさが虚勢を張ることであるのと同様に、大人であることも虚勢を張り続けなければ維持できないことだと、赤裸々に描いてしまっている。
 本当に今にこだわる事が究極的に正しいのか、それは明らかにされてない。そんなことは誰にもわからないのだ。人間は常に複数の要素の綱引き状態にある。過去に強く引かれる場合もあれば、今に強く引かれる場合もあるだろう。常にこうだなんて誰にも言えない。しかし、過去を懐かしみ過去に逃げ込み家族を放り出すというのは社会通念的に許されない。社会に身を置くには、虚勢でもなんでも大人であり続けねばならない。だから「クレしん」劇場版では虚勢を張るよう、背中を押してやってるのだ。本当にそれが正しいのか、作ってる側だって多分わからない。でも自分が大人で居続けるため、虚勢の為にそうせざるをえないのだ。だから「クレしん」劇場版は「家族は素晴らしい」と思わせる為の映画なのだ。そうして虚勢を張る力を与えるための映画なのだ。
 私はそうすることにきっと意味があると信じたい。しかしそれだって、おそらく根拠がないことに違いないのだ。


2001年05月29日(火) 旧暦 [n年日記]

ヴァギナ・デンタータ

 「ゴルディアス」の第三話が「ヴァギナ・デンタータ」というので、「歯の生えた膣? なんかの間違いか?」と思って調べたら、間違いではなかったみたいっす。「ヴァギナ・デンタータ」のより露骨な例としては、英雄が歯の生えた女陰に一物を噛み切られて死ぬというもの。そこまで露骨なものでなくとも、女色により死ぬ英雄というのは多く、そういう神話形態のことを指すらしい。ま、色々解釈はあるけど端的には「女は恐ろしい」ということで、なんでこんな題名がついたかというと、女学生の願懸けが元で何か変なものが現れてしまったということでタイトルにしたっぽい。こういうとこがカルトなのだな。
 「ヴァギナ・デンタータ」のもう一つの解釈というのは「黄泉への入り口としての女陰」というもので、形状の恐ろしさと、あと生に到る産道を遡るということは、つまりこの世ならざる道をたどるということであるということだろう。
 生と死の橋渡しをする巫覡が主人公であるマンガで「シャーマンキング」というのがあるのだけど、これが少年向けマンガらしくなく人が結構死ぬのである。最近のジャンプでは「HUNTER×HUNTER」といい「ワンピース」といい、案外と人が死ぬシーンが多いのだけど、シャーマンキングは最近のジャンプの死の取り扱いの傾向が極端な形であらわれてる。何の感慨もないのだ。
 昨夜の BSマンガ夜話 で往年のジャンプの大ヒット作「キン肉マン」を取り上げていた。否定的だったりファンだったり、いろんな意見があったのだけど、共通するのは「死ぬシーン」というのがかなり印象に残っている事だった。キン肉マンに代表される当時のジャンプ作品は、キャラを殺しては話を盛り上げ、そしてあっさりと復活するというパターンが横行し、「ジャンプパターン」と揶揄されてもいたのだけど、逆に言えばそれだけそのパターンが使いまわされたのは、キャラの死というものが確実に読者に訴え、また作り手もキャラの死を演出する技術を確立させていたということだ。
 ところが最近のジャンプでは反動でかつての「ジャンプパターン」をあえて避けようとしてる部分がある。それは別にかまわない。ところが、シャーマンキングの死の取り扱いはやけにあっさりしすぎてる。昔のジャンプパターンが読者にショックを与えたのに対し、逆にショックを与えないようにしてるようだ。それに対して主人公は「人を殺すというのは可能性を奪うことだ。だからいけない」と理屈で反発するが、それだけだ。「死」を目前にした、そういう理屈ではない衝撃というものはとことん省かれてる。逆に言えば可能性がなければ誰が死のうが構わないということになる。台詞では殺人を否定してるが、実は「死」に対してとことん冷淡・無関心なのだ。
 もう一つの問題は、巫覡が主人公なのだから、当然死者の霊魂とかが出てくる。しかし作中で死んだ人間の霊魂というのは全く出てこない。霊魂を呼び出して憑依させる、その霊は、はっきり言ってアイテムと同じ扱いである。霊魂がかつて体験した「死」と作中に出てくる「死」は明らかに切り離されており、死が身近にあるはずの巫覡なのに、かつてのジャンプパターンとは別の意味で、死は全くリアリティを持たない。もしその辺を突き詰めればゴルディアスとか諸星大二郎ばりのカルトな世界に突入するので、少年向けとしては正しいのかもしれない。(でも、諸星大二郎もジャンプ出身なんだぜ) しかし、現実感も感慨も剥離した死を見せつけるってのは、感動する死を見せつけるのと同じくらい危険なことだと思う。別に文句をいう筋合いでないのはわかるのだが、作者はわかって描いてるのだろうか?

 あ、BSマンガ夜話2日目に岡田斗司夫氏の着てる Tシャツ が…ひそかにディズニーのパクリに抗議してるようです。(^^;


2001年05月30日(水) 旧暦 [n年日記]

パクリ王国

 ここんとこ ディズニーのパクリ の話ばかりしてますが、パクリというとお隣の国、韓国も負けてはいません。パクリというか、 剣道は実はkumdoという韓国の武道が発祥だった とか、 「さむらい」という言葉は韓国語の「サウラビ」が語源 だとか、なかなかに笑える話題を振り撒いてくれます。もっとも日本でもイエスは日本人だったとか大まじめに主張する連中が少なからずいるので、ま、それを考えると流石に韓国でもそういう間違ったナショナリズムの振りかざし方をしてるのは極少数だと思いますが、 ワールドカップ日韓共同開催に関する韓国側のいちゃもん (一部の過激なサッカーファンが騒いでるのみで、韓国側組織委員会はこの騒ぎに批判的な見解、とのこと)とか見ると「いいかげんにせえよ」と一言言いたくもなってしまう。映画「ユリョン」といい、日本に攻撃的であるのは、一定のコンセンサスが得られてるのだろうかとか、そうすると東京大空襲で終わる「パールハーバー」は韓国で大拍手で終わるのだろうかとか(しかし、「13デイズ」で米軍機がソ連機に落とされるシーンでは、ロシアの上映では拍手喝采が起こったそうである。)あらぬ疑いをかけたくなってしまう。
 しかし、だからといって「だから韓国は…」という話になるとは思わない。現にマンガは日本発の文化とは言え、韓国に根付き 花開いてる し、逆に日本が韓国(朝鮮半島)から影響を受けたものというのも勿論数多くある。(kumdoとかサウラビは勘弁だけどな)
 もっとも馴染みのある例として、水戸黄門の印籠、あれは韓国の通俗小説が元だという説がある。「春香伝」という、暗行御吏という隠密官吏が諸国を行脚しては悪徳官吏をこらしめるといういわば勧善懲悪ものなのだが、これに出てくる「馬牌」というものが、水戸黄門の印籠のルーツの 可能性が高い そうだ。
 日本で暗行御吏を説明する際、「水戸黄門のような…」と例えることが多いが、関連があるなしは別にして、出自の順番に敬意を払うなら、水戸黄門の印籠が「暗行御吏の馬牌のような…」と例える方が正しいだろう。
 もっと直感的に韓国に対する敬意を表すなら「食い物が美味い!」というのもある。食文化を築くというのは、ある程度以上の人的、物資的、精神的豊かさがなくてはいけない。
 過去の経緯を考えると、色々双方わだかまりがあるのは致し方ないとは思う。けど、「自分が、自分が」と主張するだけでなく、相手の文化の理解と敬意が基本なんではなかろうかと思う。ってえらそうに言うほど韓国のこと知ってるわけじゃないけどさ。
 だから日本文化解禁延期なんて悲しいこといいなさんな。(教科書検閲問題に絡めて)


2001年05月31日(木) 旧暦 [n年日記]

いいなぁ、「コンゴ」

 テレ東系でやってた「コンゴ」を見てたり。いや、B級な映画なのだけど、結構面白かった。
 メインの登場人物は四人で、研究対象の手話を話すゴリラを故郷の森に帰そうとする科学者と、その科学者にゴリラの帰還の資金提供を申し出る謎の男、無理矢理にその旅に割り込んできた謎の女、そして現地で雇われたガイド。
 科学者は純粋で学者バカで心底そのゴリラの事を心配している。資金提供者は、実はそのゴリラがソロモンの財宝が眠る場所に行った事があると知り、その目的を秘めている。女は企業から派遣された調査員で、同じく財宝を求めて送られた先発隊が連絡を絶ったのを探すために紛れ込んでいる。加えるなら、その行方不明の先発隊には彼女の婚約者も含まれている。最後のガイドは、完璧にプロであり、チームの安全と旅程を考えるリーダーである。
 「失われた世界」からずっとありがちな秘境探検ものだが、ゴリラと科学者を自然と接点とし、財宝という形で秘境への憧れをわかりやすい形で表す。女は途中まで主目的が財宝なのかなんなのか不明だが、途中で恋人を探していると判明し、ミステリアスさと、ロマンスを担わせている。ガイドは、全員を守る父性であり、同時に自然に対する力である。つまり、チーム全体を守るガイドの父性とゴリラの母性(ゴリラが科学者を守るシーンが出てくる)の中に、自然と交流しうる純粋さと、自然を制圧しようとする欲望、そしてロマンス(これはジャングルに対する憧れの要素も含むとみなしうる)を内在させる。また自然とは、純粋さの象徴でもある。純粋さはそこに土足に立ち入る者を排除しようとし、人間は純粋さを求め、そこに近づきうるがそれを征服し所有することは出来ない。そしてありがちだが、最後に欲望は自滅し、その他が生き残る。最後にゴリラが自然に帰るのは、自然と人工が相容れない、距離を置かねばならないことであるのと同じく、欲望を抑える術を覚えた子供に母親の庇護が必要となくなることを示すのかもしれない。内在する別々の要素を、外周の父性と内周の母性、そして場所としての目的の一致で対立を抑えて、あくまでそれぞれの独立した行動でめいめいの立場を示し、最後の分裂に持っていく。小道具は陳腐極まりないが、各々の役割に徹して忠実に演じた人物と、構造としてはなかなか伝統的で堅牢なパターンを踏襲しているあたりで、結構楽しめた。
 あ、ちなみに今日から上についてるバナーはアトランティスの例のアレね。アトランティスに反発してるってより、純粋にネタとして面白いから。