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2001年01月11日(木) 旧暦 [n年日記]

ふと気付いた

 あ、 日本ゲーム大賞 の話題で気付いたんだけど、今度の星雲賞、 ガンパレードマーチ も受賞資格あるんじゃん。(メディア部門)
 それと色々痛いミス発見。まあケセラセラ。


2001年01月12日(金) 旧暦 [n年日記]

「心では重すぎる」

 読了。セーブしよう、セーブしようとしながらも、終盤はもう引きずり込まれるように…
 この本のキーワードは二つ。「現代」と「関係」である。主人公の公は40代の私立探偵。とある事情で探偵業から身を退いており、民間の薬物中毒者の構成施設『セイル・オフ』で働いていたのだが、再び探偵業を再開する事になった。依頼主はかつて漫画家志望であったが、とある新人の持ち込み原稿を見た事により自分の身の程を知り、漫画で身を立てるという夢を諦めた過去を持つ。依頼はその新人、後に一世を風靡し、そして消えてしまった漫画家を探す事だった。自分が諦めた夢、そしてその原因となった天才が何故消えてしまったのか、それを知りたいのだという。公は他人の人生を覗き見、それにより干渉するという行為に倫理的な罪悪感を抱きながらも、消えた漫画家、まのままるを探す。しかし、彼の目の前に立ちふさがるのは彼とは全く異なる価値基準を持つ今の世代の若者たち、そしてセイル・オフに入っている少年と関わる謎の少女だった。消えたまのままるの背後にやくざの影がちらつきはじめ、そしてまったく無関係に見えたまの、少女、薬物の滓かな繋がりが見え始めた時、公は退き返すには遅過ぎる領域まで足を踏み入れてしまっていた。
 読み進めて、ひたすら話は重い。ストーリーがではなく、一文一文の背後にある思索の重さだ。「何故彼らはこんなに違うのだろう」「何故薬物に走るのか」「何故」「何故」「何故」。どの文章にも何故であるかという疑問とその答え、そしてその答えから再び生じる 終りのない疑問が繰り返されている。無論あらがまるっきり見えないわけではない。 何故錦織令がそこまで強力な憎悪を周囲に発散できるのかという疑問には満足の行く答えは出てないし、終盤になって死者の存在が絡む事によって、その死者に繰り込み不能の部分を押し付けてしまってる感もあることだ。 しかし、それらはこの圧倒的な文章の圧力の前では些細である。1冊の本を書くのに、しかも娯楽であるのに、これだけの思索を重ねるのか。「面白い」という事も勿論できる。しかしその前に浮かぶ感想はやはり「凄い」である。

ガンパレ星雲賞計画<おい

 林氏から指摘があって、「ロボットはノンフィクション部門だからガンパレじゃ対抗馬にならんだろう」と言われる。そういえばそうでった。でも別にロボットの受賞を防ぐ為だけにガンパレを押してるるわけでもないんすよ。無論「ガンパレでなきゃおかしい!」とまでいうつもりもないっすけど、でもガンパレが受賞してもおかしくはない、と思う。少なくともそのくらいには「SF」だ。(「人狼」も面白かったけど、あれをSFか、と言いわれるともうひとつ首を捻らざるを得ない。)
 あともう一つ。ガンパレにとらせてみたいというのは、これまで星雲賞の受賞にゲームが入っていないからである。映像媒体じゃいけないってことは勿論ない。しかしこれだけサブカルチャーあるいはサブでないカルチャーとして広がったゲームが認められていないようで、何かSFファンダムの懐の狭さを感じるような居心地を悪さを感じるのである。
 そんなワケで私はガンパレをおしてみたい。


2001年01月13日() 旧暦 [n年日記]

天国の扉を叩いて

 映画版 カウボーイビバップ のタイトル、「天国の扉」なんてボブ・デュランみたいやな〜、思ったらまんま“Knockin' on heaven's door”だった。ギャフン。
 それではガンに犯された2人組が死ぬ前に海を見る為にマフィアや警察を巻き込んでドタバタ大逃走を起こすのか?
 というのはドイツ映画「 ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア 」の話。末期の腫瘍と診断された男2人組が、病院で酒を飲んで酔っ払った挙句に「天国じゃ海を見たことがない奴は馬鹿にされる」とマフィアの金を積んだ車をそれとは知らずに奪って逃走。という映画なのだけど、主人公二人は不治の病という重い背景を持ちながらも展開はあくまで軽快。しかし最後、 海に辿りついた二人が浜辺で海を見つつ、ただ座るシーンは数ある映画の中で最も美しいものだと思う。より症状の進んだタフガイの身体が、崩れ落ちるように海を見ながら倒れる。しかし相棒の優男は振り帰らない。ただまっすぐ海を見つづけている。バックに流れるKnockin' on heaven's door …同じタイトルだと、イヤでも比較してしまうのだがはてさて。


2001年01月14日() 旧暦 [n年日記]

Mozilla0.7

 何時の間にか Mozilla の新バージョンが出ていたのでインストール。こないだの新年会の時にOさんにナニソレ? といわれたけど、T姐御が説明した様にNetscapeの元もとの名で、ソース公開して独自に改良しようというプロジェクトのもとて開発されたものが今現在Mozillaと呼ばれるものだ。
 ちゃんとNetscapeでアクセスした後のログを見るが良い。"Mozilla/5.0 (Windows; U; Win98; ja-JP; 0.6) Gecko/20001205"とか"Mozilla/4.73 [ja] (Win98; U)"とかちゃんと出ているはずだ。もっとも全く違うエンジン使ったIEも"Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows NT 5.0)"とか出るのだけど。何故かっていうと、昔IEが「ダメだこんなもん、つかえねー、くるなくるな」とかいって毛嫌いされていた時にIEではアクセス制限されたりとか色々あって、それをごまかすためにこんなんなったとか。と私は聞いているが事実かどうかは知らない。
 Netscapeも不安定だったりStyle Sheetをまともに解釈しなかったり、一番良い時期にIEのOSとの抱き合わせ販売で水をあけられたりで、MSの極悪非道の活躍によってシェアのかなりを誇っていたのが衰退してしまったのだが、IEだと色々アレな部分も多い。
 まずは付属のメーラーのOutlookExpress。別に付属のメーラー使わなきゃいいじゃんと思うだろうが、しかし抱き合わせってのはそこまで抱き合わせなんよ。これが決定的にダメなメーラーである。使い勝手とかそういう問題ではない。ワームと呼ばれる自己複製・繁殖型のウィルスが存在しうるのは、OEという根本的にセキュリティをユーザーの自由に出来ないメーラーが存在したからだと言って間違いない。だって安全性を吟味せず勝手に実行ファイルやマクロを実行するなんて、ユーザーをバカにしてない? もひとつ、IEは根本的にOEと同じくセキュリティというものにとことん甘い部分があるということである。たとえば、ねーちゃんのbookmarkがねーちゃんのPCのどのドライブのどのディレクトリにあるのかってのも丸わかりなわけなのよ。見てる、ねーちゃん?
 でも、今回新しいMozilla入れてちと参ったことが。インストールしてから立ち上げようとして立ちあがらないのよ。あれやこれやといろいろいじってみたら、どうやら前バージョンで「表示」→「言語とWebコンテンツ」でデフォルトのEnglish以外を選んだ状態で、例えば日本語を選んだ状態で新しいバージョンを入れると、どうやら日本語のlanguageパックを探しに行ったまま逝ってしまうらしい。だから新規インストール前にEnglishに選びなおさないといけないっぽい。
 万事がフリーでオープンであるMozillaの場合、 こういうところ から日本語パックを自分で落とさねばならない。逆にいうと、開発する気さえあればどんなlanguageパックも用意できる。
 ちなみに日本語パックの開発ページは こちら 。ご苦労様です。
 実際あまり素人向けとは言い難いが、しかしちょっとなれたPC使いならかなり便利ということが触ればわかると思う。ちと不安定な部分はあるが、まあシステムごと落ちるわけで無いし。ただ日本語入力の弱さはあるけど。


2001年01月16日(火) 旧暦 [n年日記]

ばなー

 なんか上の方に変なバナーが増えてますが、まあそゆことです。ってえか、言葉のイキオイでやらざるをえなくなったのだけど。そんな暇があるのかといわれればないのだけど、ないのにやってしまう辺りがさがか。
 月曜はバイトで何時もの如くがたごとと電車に揺られてバイト先まで行ったわけですよ。途中で乗って来た高校生の話題というと、ドラクエ7なわけです。彼らがガンパレを知ってるかどうか知らないし、知らないのならもったいないとも思うのだけど、逆に知っていてやっても面白いと思うかも知らないし、また新し味がなくとも、コミュニケーションツールとしての意味合いが大きくとも、ドラクエやポケモンを楽しんでるのは確かだ。(高校生で今時ポケモンがはやってるのかと疑ったが、やっているらしいのだ。いや、別に悪い事はないが) それを考えると、裾野、絶対的なユーザー量が楽しんでるか、という意味ではそちらが昨年を代表するゲームに相応しい、といわれれば、納得はしないまでも、一面認めねばならない。
 大作の続編ゲームはある意味、当たる事を宿命付けられている。開発費・宣伝費の予算は前作を上回り、規模も上回らねばならない。ユーザーも、手持ちの予算は限られてる。当たりか否か一種の懸けである完全新作よりは、前作を基準に出来る続編を買ったほうがリスクはあきらかに少ない。それだけではない。そのゲームをやってるかやってないかというのは、所属する集団での優劣にも関わる。
 学校というのは特殊な空間である。教師以外の大人は、基本的に存在を許されない。一つの建物の中で朝は九時前から午後は少なくとも二時、三時まで、部活などがあれば八時くらいまで固定したメンバーで過ごす。外界との接触は、集団としてすら必然性はほとんどない。学校が教育施設であるのは間違いないが、別の意味を持つなといってもこれではいう方が無理である。その中で、ゲームの情報、達成状況というのはグループにおけるプライオリティになりうる。厳密にはそういうグループも多い、ということだけど。逆にそういうグループでは情報を知らない、達成してないというのはランクが下がる、場合によっては仲間外れになる可能性すら持つ。それは持っていない、ということも含めてである。子供の集団であろうが、集団というのは容易に移る事が出来ない。そして一日の大変を過ごす空間で、全く所属する集団がないというのも苦痛である。だからときどき大作ゲームの行列のインタビューで「みんなが買うから」と答える子供がいるが、あれば偽らざる姿でもある。面白いかどうかとはまた別に、情報としての価値も子供達には付加される。大人にとっても対人関係でのみ通用する情報の価値というのはあるが、子供にとってはほぼそれが対人関係の全てといってもそれほど間違っていない。
 それがゲームとして面白い、ということとごっちゃに評価されても良いのか、とも思う。ではゲームとして面白いってのは何か、といわれても一言ではいえない。簡単かつ正解なのは、自分が面白いと思えるものに投票する事だ。しかし、面白いというのはどういうことか。あの子達にはまだ早いのかなぁ。
 しかし女子高生が十人くらいの集団で「バトロどうよ?」っていうのはどうよ?


2001年01月17日(水) 旧暦 [n年日記]

FROM THE EARTH

 NHKでアポロ計画の内幕をドラマ化したFROM THE EARTHやってる〜。
 噂では、ちと訳が良くないという話だけど。先に別の訳でビデオで出てたそうなので、そっちも見てみたいなぁ。
 GPM日本ゲーム大賞企画関連で、 2ch で話題を振られてた。友人には「自作自演じゃない?(つまり、自分で話題振ったんじゃないの、ということ)」とヌレギヌを着せられた。ワシは2チャンで発言したことは一度も無いわい。
 しかしそこでの反応が、板によって反応が違うので面白い。女性向け板のところでは好意的で、家庭用ゲームの板では斜に構えたような意見が散見される。斜に構えた意見で主なのは、GPMはゲーム大賞にふさわしくない、というのではなく、「どうせマスコミが偏見で大作にやる賞だし」とか、「ドラクエ7で決まっちゃってるよ」とかの諦めムードである。つまり、ゲーム大賞がGPMではまずい、というわけではないのだ。
 では何故水をさすのか。いや、別にそれなら積極的に動けってんじゃないっすよ。そこまで労力をかける気はない、というのならそれは正論だし、異論を挟むものではない。しかし水をさす、というのは何故か。心理的には「すっぱい葡萄」と同じだろう。大賞、もしくは活動を低く見る事で諦めた自分の心理を安定させたい、ということだろう。別に非難してるんじゃないんすよ。世の中こういう些細な問題に対し、少しずつ欺瞞を行う事で日常を送っている。全ての問題に対しまっとうに解決しようと向き合ってたら、肉体も精神ももつわけがない。ネガティブでも話題に取り上げられるということは知名度が上がると言う事だから、それでもありがたい。でも、少しだけ労力を裂いてもいいと思うのなら、ちょっとだけリンクを貼るとかしてくれると私も嬉しい。


2001年01月18日(木) 旧暦 [n年日記]

見覚えが…

  アニメ版頭文字DのCG監督のコメント なのですが、スタッフが見たというBBSのくだり、どこかで見た覚えがあるのだけど、どこでだったのか…ハテ?
 いや別にそれはどうでもいいことなのだけど。
 「心では重すぎる」なのだけど、これに出てくる「消えた漫画家」まのままる、って、鳥山明をかなり意識してるよなぁ、と。連載作の「ホワイトボーイ」の内容といい、作風といい、「宗教にはまって印税を全て寄付した」という噂がたったことといい(但し、これは噂に過ぎず実際はそんな事実はなかった。「消えた漫画家 アッパー系」参照)、歴代の担当が頭を下げまくり、しまいには編集長まで頭を下げまくって連載の継続をお願いしたとかその辺の逸話とか、意識は相当してるのだろう。しかし、あくまでモデルではないので(鳥山明と食い違う部分も多い)のでその辺誤解しないように。
 今日も色々ありましたが、今日の教訓。メモはこまめにとりましょう。それと昔の自分をもっと信用しましょう。
 あ、それとリンクしてくださった皆様本当にありがとうございます。感謝の言葉もございません。


2001年01月19日(金) 旧暦 [n年日記]

ヤクザが店にやってきた、ヤァ!ヤァ!ヤァ!

 別にヤクザがウチにやってきたわけではない。「 ヤクザが店にやってきた 」(朝日文庫)が面白そうなんでちょっと買ってきた。ま、ボチボチよみましょか。しかし「HARD DAY'S NIGHT」がどうやって「ビートルズがやってきた、ヤァ!ヤァ!ヤァ!」になるのだろう?
 さて、枕とはまるっきり(そしてタイトルともまったく)関係無い話だが、昔研究室で同級生と先輩が口論になった。いや、ホントは口論なんて大した物ではない。同級生のK村君が、K澤さんに、「いっつも映画とか本とか見る時にそうやって理屈っぽい感想を考えるんですか?」というようなことを聞いたのだ。別にイヤミとかでなく、単に好奇心での話だが、K村君にはK澤さんや私の様な人種は理解できなかったに違いない。K澤さんはかなり特殊な部類なのでまあついていく人の方が稀だが(研究室でK澤さんがそういう話をしだすとまともについていけるのは私くらいだった。その私でもようようついていったといった感じだが)、私程度の理屈っぽさでもK村君は理解しがたかったのである。K村君は、面白いなら面白い、つまらないならつまらないでいいじゃないか。変な理屈立ててもつまらないものが面白くなったり、面白いものがつまらなくなったりするわけじゃない。そんなことに意味はない。大事なのは感性だ。感性はむしろ理屈っぽくなるとにぶる。というようなことをいいたかったのだろうし、事実そんなことをいった。それに対してのK澤さんの答えは「むしろ、感性を腐らせたくないから考えるんだけどね」というものだった。
 この議論は結局平行線のままものわかれに終ったが、K村君のいいたい事もわかる。オタクとかそういう連中は、やたら理屈ばかりこねて面白いものを素直に面白いといわなかったり、変なものを面白いといったりと変だ。そういう連中は理屈をこねすぎて感性がおかしくなってるんだろう。まあそんな事を考えたのだろう。それは一部あってて一部間違ってる。理屈をこね過ぎ、普通に面白いものを見切ってしまったような錯覚を覚え、普通に面白いものに興味がなくなってしまったり、あるいは興味の焦点が変な方向に行ってしまって妙な面白がり方をするということはある。しかし、同時にとても面白い映画や小説、漫画を見てみるといい。感性だけのものもあるが、そうでないものもある。つまり、何が読者を面白がらせるか考えに考え抜いて作られたものだ。K村君のいう通り、感性というのは大事なものだ。しかし、感性だけにまかせていては、実は大事なものを取りこぼすかもしれない。あるいは、単に刺激に慣れ、更なる刺激を求めるだけの大量消費者になるかもしれない。そうしないために考えるのだ。そうならないために考えるのだ。
 自分もその域になりたいものだ。

いまさらリヴァイアスのここがダメ

 と、いうことを踏まえてリヴァイアスのどこがダメだったかを考えて見よう。リヴァイアスは1999-2000にかけて半年放映されたTVアニメで、基準が厳しいといわれるTV東京のコードチェックに限界まで挑戦したといわれる意欲作だ。挑戦の方向性が間違ってるという気もするが。
 とにかく、高校生達だけが乗り漂流する宇宙船の中で、反乱あり、圧制あり、暴行ありと、だんだんおかしくなってくというストーリーが話題を呼んだ。私は正直そういった描写が安易だと思うが(つまり、背景と伝えたいことが希薄なのだ)、しかしやってはいけないということでもないとは思う。だがラストでこの話は完全に駄作に帰した。とってつけたようなハッピーエンド。無責任な希望の垂れ流し。もし製作者がうわべの綺麗事を徹底的に追求し、それに対する本当の解決策を提示するのならそういう表現も構わない。しかし、最後はうわべの綺麗事で解決させてしまった。
 理想は大事である。しかし理想なんてのはある意味お題目に過ぎず、それはお祈りとなんら変わらない。お祈りだけでは何も起こらない。何かをしたことにもならない。それは目的を達成する為の適切な行動が伴い、なおかつその行動が何らかの形で目的を遂げた時にだけ意味を持つ。特に意図的な終りを持つ、物語の中ではそうだ。現実の場合はどこが結論とするかが難しいので決定的に語るのは難しいのだが。
 もし、不適切な行動、もしくは理想の連呼だけで物事が奇跡のように解決するのなら、それは結論でも奇跡でもない。ご都合主義というのだ。そして、そのご都合主義の軽さは途中のもの全てを無意味にする。だから結局リヴァイアスはだめだったのだ。思い出したら何故あのラストが気に食わなかったかわかったので、思い出したように書いてみた。

忘れてた

 バナーの縮小、構いません。どんどんやっちゃってください。


2001年01月20日() 旧暦 [n年日記]

富士の高嶺に降る雪も…

 雪に代わりはあるじゃなし、解けて流れりゃ皆同じ…
 なんかすごい雪なんですけど。研究室まで歩いて二時間以上かかりました。あちこち車がすべりまくってます。ヒールのあるパンプスはいて滑ると騒いでる阿呆もおりました。 冬の風物詩です。
 名古屋は比較的雪は降らない方なんですけどね。でもまあこういうこともあるでしょう。子供たちはおおはしゃぎです。 雪国の人から見たら雪ではしゃぐなんて、ということもありましょうが、こちらではめずらしいんだから、たまにはしゃぐのは良いかと。

昨日の補足

  昨日の日記 ですが、数箇所から突き上げくらってます。(^^;
 ちょいと言い方悪くって足りない部分もあると思うので、補足を。
 前回はK村君の言い方になぞらえて「理屈」といいましたが、「思索」「考察」でもなんでもいいです。K村君から見て、理屈っぽく見えたという話です。
 もって生まれた感性というのは、裸眼の視力と同じようなものだと思います。良い人もいれば、悪い人もいる。 しかし視力というのは、眼鏡やコンタクトレンズで矯正できます。矯正しても、その人の視力が本当に良くなるわけではありません。 でも、でもそれで今まで見えなかったものに気付くかもしれません。
 無論、度が合ってないようなおかしな眼鏡をかければものは却って見えなくなります。矯正視力にここではなぞらえましたが、実際には度の合った眼鏡を作るよりそれはとてつもなく難しい事でしょう。
 天然で矯正視力なんてものはいらないなんて人は、間違いなく「天才」です。感性というのはセンスです。 センスは理屈でカバーできるものではないし、またできては天性のセンスではないでしょう。 しかし、なら凡才は裸眼のまま、ぼんやりとした視覚の世界であまんじていなさい、ということにはならないと思います。
 まず最初に感性(センス)ありき、それは間違いないと思います。感性の介在しない娯楽が人の心を動かすことは難しい、と私も思います。そして人各々に割り振られたセンスというのはかなりばらつきがある。それをどう補うか、凡才には凡才なりにあがく権利があると思います。
 先日感想を書いた「心では重すぎる」では、主人公佐久間公に依頼をしてきた男、押野は本物の才能に会って自分は所詮まがいもののガラスの才能に過ぎず、本当のダイヤモンドを目の当たりにしてしまったからには砕けるべきだ、と志を諦めます。それに対し、編集者の岡野は「そいつは馬鹿だ。多かれ少なかれ、人の持つ才能なんてのは所詮限りがある。それを一気に使うか、みみっちく使うかはそいつ次第だ」と言い切ります。
 どっちも正しいと思います。しかし敢えて言えば、岡田の台詞に共感します。私が書きたかったのはその「どうつかうか」という部分の話です。無い物を作り出すという話ではないです。

あ、それとウィルス

 ここ半月、ウチに何故かウィルス(ワーム)メールが届いてます。 Hybris と呼ばれるタイプの奴です。webブラウザで閲覧したページに書いてあるメールアドレスに自己複製してメールを送るウィルス。
 別にそんな阿呆なウィルスにこっちもひっかかりはしないけど、送られた添付ファイルを自動実行するような阿呆な設定にしてなおかつウィルスチェッカーも何も入れてないという人は格好の的になりやすいので注意。
 「最近webを閲覧してて、なんか妙に転送とかしたりして重いなぁ」など心当たりがある人は一度チェックしてみてください。