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2001年07月01日() 旧暦 [n年日記]

ウィルス種ゲイツ型

 なんか一週間遅れの デジモンテイマーズ 見てたらゲイツちゃんがウィルス呼ばわりしてた「オープンソース」が話題に。正確にはオープンソース全部をゲイツちゃんが毛嫌いしてるわけでなく、自社の利益の侵食になりかねないGPLなどのライセンスを毛嫌いしてるのだけどね。
 デジモンシリーズをまともに見るのは実は今回がはじめてで、一番最初の「デジモンアドベンチャー」は面白いという評判を聞きつつも、一年のシリーズの途中から見始めるのも気が引けて見ず。続く「デジモンアドベンチャー02」は、前作に比べて評判がぱっとしなかった。実際見てもそれほど面白いとは思わなかったし。
 デジモンというと知らぬものはなき「ポケモン」のパクリなわけだが(おいおい)、ポケモンのアニメとは異なり、あくまで主人公は「現実の子供たち」というラインが決定的に違う。前二作は殆ど知らないので「テイマーズ」のみの限定だが、ポケモンでは目的はポケモンを集め、強くなっていくというRPG的願望の充足に絞られ、「ポケモンマスターって、一体どうやって稼いでるの?」とか「ポケモンマスターって一体ナニよ?」とか、「ポケモンってナニ?」という疑問は不可侵の領域、すなわり「お約束」においやられてる。しかしいっぺん思考停止…もとい、それを受け入れてしまえば、話自体はとてもわかりやすく楽しめる。
 一方デジモン、特にテイマーズはそれほどものわかりのいい世界ではない。イレギュラーな現象を排除しようとする社会、ある意味リアルすぎて嫌になるダウン系の教師、友達でさえありえない現象を突きつけられて戸惑いを見せる。しかも、実体化の理由はわからないが、元々はネット上でオープンに開発された人工生命の研究データが「野性化」し、ネット上を徘徊してるという設定はまるでSFである。つまり結局「デジタルワールド=ネット上の仮想世界」になる。ポケモンでは敢えてぼかされていた「ユーザーの都合によって生み出された、闘う為だけの不自然な存在」であるデジモンを見せ付けようとしているようだ。でもあくまで戦闘のこまとしてのみ扱われがちなポケモンと異なり、しっかり「パートナー」という関係を書こうとしている。つまりポケモンはあくまでファンタジー(あれが正当ファンタジーということでなく、幻想という意味で)世界での願望充足、エンターテイメントに徹してるのに対し、デジモンは現実の視点に近い部分を持ってる。それが余計な部分と受け取れるか、リアリティと受け取れるかはそれぞれだけど、上手く行けば面白いと思うのだけど。
  アギト は冒頭でギルス大暴走。G3の中身がはじめて知り合いだと知るアギト…って、あれ? そういえば今まで知らなかったんだっけ? っつーか知らずに終盤まで行くかと思ってたのでちょっと意外。ま、予告のケルベロス乱射もカッコ良かったので今日もまた良し、ということで。

 うーむ、駄文だ。


2001年07月03日(火) 旧暦 [n年日記]

解けない魔法

 おとといの日記で書きたいことが中途半端で終わってしまったんで。
 ポケモン的願望充足世界ってのが悪いのかっていうとそうではない。少なくともポケモンは「わかり」やすく、多くの人間が楽しめる。その事は少なくとも結果が示してる。嘘の作り事で人を楽しませるのは、言ってみれば魔法みたいなものだ。特にポケモンは入りやすく馴染みやすい。だが、それは出やすくもあるということだ。いずれにしても魔法は解け、楽しかったという記憶だけが残る。
 それに比べると、テイマーズは入りにくい。何故なら子供が興味のない社会のことを巻き込んでいるからだ。やる気のない担任の先生なんか特にリアルすぎ。魔法とはかかって楽しいから魔法になりうる。その意味ではテイマーズはポケモンと比べたくさん切り捨てているものがある。だが、それがわかる子供がどれほどいるかはわからないが、現実に即した設定での葛藤(擬似的な、だが)というのは、現実の価値観で処理されるということだ。葛藤が起きた価値観というのは、程度の差はあれ、それ自体が変化する。(別にそれをするのに必ずしも現実的な設定が必要ということではない。葛藤自体がリアルなものであることが必要なだけ。テイマーズではそれをするのに現実世界という舞台設定を持ち込んでいるという話)
 テイマーズで言えば、パートナーのデジモンと一緒に敵を倒す行為に、制限無しの爽快感を持ち込んでいない。今のところストーリー中デジモンは社会に認知されてない存在だし、時々主人公たちの言うことを聞かず凶暴な面を見せる。更に主人公たちの行為を「危険な遊び」と断ずる大人も出てくる。(嫌な大人に描かれてはいるが、言ってることは紛れもなく「大人の正論」でもある) それに対して話の精神的主軸となるのは主人公たちと友達であるデジモンの関係である。平易に言い換えれば、友達づきあいをするのにメリットばかりではない、相互あるいは外部による障害もある、相手のことわかったつもりでも相手にはよくわかんない部分もある、その友達ってそこまでして付き合う価値がある? ということだ。友達をペットと置き換えてもいい。イキモノ全般は普通付き合うのには手間が要るのだ。
 「入りやすい」娯楽が価値観の変化を起こさないと言ってるわけではない。ただ葛藤がリアルなものの方がその変化の根が若干深い、ということだ。
 人間というのは過去の情報とその処理の集積という面を持つ。物語は「リアリティ」(≠即物的にリアルであること)でその情報とその処理を喚起し、情報処理の変化を生み出す。そして集積である以上、その一つ一つの蓄積は意味を持ってくる。その意味の重さは、局面によるが、どの部分にどのくらい根を張ってるかによる。
 多分、ポケモンに比べてテイマーズは魔法がかかる子供の人数は少ない。子供は大人より情報の蓄積量が少ないから、大人にとってのリアルは子供にとってのリアルでない可能性があるからだ。しかしそれは大人になってからもつきまとうものである以上、一旦かかったらそのかかり方は根が深い。将来その番組を忘れてなお、その根は残ったままであるかもしれない。
 ポケモン、テイマーズの最大の差異は舞台がどことか、主人公がモンスターをどう扱ってるかとか、そういう表層的な部分でない。その表層を構成するルール、すなわち「どんな魔法を、どのくらいかけるつもりなのか」ということなのだ。
 結局本当はコレが言いたかったのだな。

  Yahoo! BB の正式受付の申し込み云々のメールが。でもサービス的に不透明なところが多いので、決定はもうちょっと後だな。
  アギト映画 の情報の一部が。噂のG4システムは 自衛隊員らしい 。自動自律型のロボットという噂もあったので、ちょっと肩透かし。ニューヒーローとかって記事では書かれてるけど、なんかこれまでのパターン見てそんな話にならない気がするなあ。ところで唐渡亮って誰?
 君望、むちゃくちゃ蛇の生殺し状態なんですけど…


2001年07月04日(水) 旧暦 [n年日記]

復帰!

 私は久々にどん底っぽい鬱状態に入ったままだけど、 こちらの方は復帰!  うちっとこの掲示板で話題になって、気にかかっていつづけていたのだ。完全復帰ではないし、これも一つのステップに過ぎないのかもしれないし、他人事だけど嬉しい。私も頑張らなくちゃな。

天国はどこに?

 2日は映画の日だったので「 天国から来た男たち 」「 JSA 」「東京流れ者」を鑑賞。
 「天国から来た男たち」。名古屋で公開記念トークショーやってたのか、しまった!
 話はエリートサラリーマンである主人公の幸平が麻薬不法所持の罪でフィリピンの刑務所に送られるところからはじまる。無実の罪を訴えつつ、不潔、不自由、不便な刑務所内の生活にとまどう。しかしそこは金さえ出せばなんでも手に入る「天国」でもあった。そのいかにも信用されそうな風体を買われ、刑務所内日本人グループの大物、吉田に自分のビジネスを手伝うように誘われる。吉田は日本のヤクザの大幹部で、人を殺してフィリピンに逃げ、刑務所にも自分から入ったという噂だった。しかし吉田の言うビジネスが所長がバックについた押収麻薬の横流しであることを知り、それ以上吉田らと関わることを拒否する。しかし同房の囚人に20万ドルで臓器として売られそうになったところを吉田に助けられ、はっきりと断言される「外の人間なんかあてにならない。奴らは刑務所の中を知らねえ。俺は絶対に仲間を見捨てない」。妻にも裏切られていたことを知り、裁判も有罪になった吉田は、BAD GUYとして刑務所の中で生き抜くことを選択する。しかしその当の吉田の前歴は実は詐欺師で、過去吉田に騙されたヤクザからの刺客が「天国」の中の日本人囚たちに迫って来ていた…
 タイトルの「天国」とは実は刑務所のことばかりではない。刑務所の中の連中は、本当の悪党も多いが多かれ少なかれ騙されたり、傷つけられたりしてその痛みを知っている者たちだ。塀の外にいるから善人なのか、塀の中にいるのはろくでなしか。ろくでなしは裏切られて当然か。「天国」はどこにあるのか。追っ手から逃れる日本人囚達は、皆口々に繰り返す「俺は絶対裏切らない!」。実はこの映画は典型的な無法者映画なのだ。悪党かもしれないし、法を犯すかもしれない。しかし仲間は絶対に裏切らない。自分の中の大事なものは絶対に守りぬく。その信頼の中にだけ、ならず者たちの楽園がある。しかしクライマックスでなかなか人が死なないのは三池監督のパターンなのかね? 1.5点。
 「JSA」。JSAとは韓国と北朝鮮の国境、38度線上にある共同警備区域のこと。映画はその警備区域の北朝鮮監視小屋で銃声が鳴り響くところから始まる。撃ったのは韓国軍の兵長。撃たれたのは北朝鮮の士官と兵士。結果がわかりきった単純な事件に見えたが、国際問題になりかねない重大な事件だった。しかも韓国側は犯人である兵士、スヒョクは北側に拉致されてやむを得ず発砲、逃げ出したと主張し、北朝鮮側は唯一生き残った北朝鮮士官ギョンピルの証言から韓国側がいきなり乗り込んで殺意を持って兵士を殺したのだと主張。全く食い違っていた。
 スイス軍から派遣された朝鮮人を父親に持つ若き女性将校、ソフィーは事件の調査に着手するが、南北ともに調査に非協力的で難航せざるをえなかった。しかし現場から消えた一発の弾丸を糸口に、実はもう一人、その場にはいなかったはずの韓国軍兵士ソンシクも事件に関与していたことを知る。そして彼がその追及から逃れようと自殺をはかったことをきっかけに事件の真相が明らかになっていく。そこにあったのは、北と南に分断された四人の兵士達の友情のはじまり、そしてその悲しい顛末だった…
 前に見た韓国映画「ユリョン」が「…」だったので心配したのだが、これは良い出来だった。お互い当たり前の人間であるがゆえに始まる心の交流、しかし立場とイデオロギーの違いによりそれが引き裂かれる現実、「シュリ」よりもより現実的に南北分断の悲劇を描く。それは民族統一という悲願の難しさと同時に、その願いの根深さを示している。1.5点か2点か、まようところだが、ええい、2点だ!
 「東京流れ者」。え〜っと、鈴木清順監督が昔撮ったヤクザ映画っす。全国を巡回興行中の 鈴木清順レトロスペクティブ のうちの一本。なんつーか、やりたいことはわからないではないのだが、筋は穴だらけ、恥ずかしいシチュエーション目白押し、でも青臭いからこそ許される暴走とエネルギーがある。ちなみに二谷英明が凄腕のはぐれヤクザ者、流れ星っつーのは特捜最前線世代にはちょっと見てて笑えてくるんですけど…ちょっと評価不能。


2001年07月05日(木) 旧暦 [n年日記]

暑い暑いと思ったら

  関東ですらこんならしい 。関東より一層蒸し暑い名古屋ではもうとんでもないったらありゃしない。
 夕べは夕方にようやく家に帰って蒸し暑い中寝ていたら、呼び鈴の音がするので何かと思ったら新聞の勧誘員。それも「団」と呼ばれる勧誘団の勧誘員。こういう人は脅したりすかしたり、かなり強引な手を使うことが多い。眼鏡もかけずにしょぼつく目で応対したら「今取ってる新聞の契約が切れたら××新聞取ってくれない?」。内心「こっちはただでも寝苦しくて睡眠不足なのに、その睡眠時間すらそんなことで削ろうってのかい!」
 それでもこっちの性なので、出来るだけやんわりとお断りしようとしてたら向こうがいきなり「取るって約束してくれりゃいいんだよ!」と怒鳴りだす始末。怒鳴りたいのはこっちだ! 幸いこっちは寝起きで頭がボケてる上に眼鏡もかけてないので相手の顔も良く見えない。物でつろうとしてダメなら脅すなんて、間抜けなやりくちしてるなとしか思わない。それでも横柄な態度ということはわかるので、「嫌です。お約束できません」ときっぱり。相手も諦めて帰っていきました。気が付いたら手には相手がドアを開けた瞬間に無理矢理手に押し込んだ可燃ゴミ袋と洗濯洗剤が。あ、つっかえすの忘れてた。人間誠実が一番だね。っつーか多分金で人買いをする某大球団のスポンサーの「××新聞」はもう取りません。(隠してることになってない)


2001年07月06日(金) 旧暦 [n年日記]

構造主義と物理学

 構造主義とはフランスの社会学者、レヴィ・ストラウスが創始者の、一子相伝の必殺拳である…ってのは勿論ウソだけど。
 辞書によると構造主義ってのは「(フランスstructuralismeの訳語)民俗学、社会学、哲学の用語。一九四〇年代からフランスの人類学・社会学者レヴィ=ストロースらによって提唱された民族学理論。未開社会の近親婚タブーや交差いとこ婚の婚姻関係を問題として、そこにその社会を存続させるために働く潜在的な相互依存の機能的連関を構造としてとらえ、その構造を明らかにしながら人類全体を研究する理論。また、この立場から人類全体を問題にしようとする哲学。二〇世紀後半の新しい潮流を形作っている。」(国語大辞典(新装版)小学館 1988)となっている。…なんかあまり良くない辞書だな。
 「実存主義流行の後にあらわれた現代の思潮。ソシュールの言語理論の影響のもとで諸現象を記号の体系としてとらえ、規則・関係などの構造分析を重視する。言語学や人類学のほか、心理学・精神医学・数学などの諸分野に広く、多様に展開される。」(大辞林 第二版)うん、こっちの方がいいぞ。
 要は物事を捉えるときの一つの視点で、物事を象徴化してその象徴同士の関係により全体の構造を理解する考え方なわけだ。ワシの説明の方が下手か。まあ本当はレヴィ・ストラウスの著作の一つも読まなきゃいけないだろうところを、一般向け入門書を読んだくらいのものだからなぁ。
 まあ成立の流れなどは このページ などを見てもらうとして、特徴としては物事を見る際にシニフィアン(表現形、とでも言うか?)からシニフィエ(その内容)を抽出して、あくまでシニフィエでものを語るところにある。シニフィエは「象徴化された特徴」とも言えるかもしれない。つまりはある意味単純化した「モデル化」と言ってもいい。
 構造主義を最初に知った時、非常に驚いた。「世の中こんな便利な考え方があったのか!」……ではない。目からうろこだったには違いないのだが…私が思ったのは「なにこれ、まるっきり物理の思想と同じじゃん!」である。
 正確には物理が極めて構造主義的と言うべきか。
 物理ではある事象を考える時、そこにある物のある要素、大きさや質量、などをパラメーターとしてそれを取り扱うことに決める。これはまるっきりシニフィアンからシニフィエを抽出する作業と同じである。そしてそのシニフィエ同士の関係を法則や数式で記述する。例えば何か、物を押してそれに速度をつける場合を考えると、摩擦とかそういう事は省くとして、古典力学的にはF(力)=m(質量)×a(加速度)である。加速されるものは人かもしれないし車かもしれないし石かもしれない。しかしそういったもろもろの事を置いといて、全て「質量」という「シニフィエ」で同一に扱う。何が押しているかというのも同じで、それが作用させる「力」にのみ焦点を合わせる。そしてその構造(シニフィエ間の作用、関係)が「F=m×a」という数式で表現される。物理の場合は更にそれがほぼ完全に一般化される(でも実際は諸条件により適用できない場合もある)のが特徴ではあるが、この視点は構造主義と同根のものである。だから構造主義の長所・欠点は物理の長所・欠点でもある。
 自分が物理学科出身だから物理と構造主義の関連性をより強く感じたのだが、別に自然科学の中で物理だけが構造主義的というわけではないと思う。しかしこれだけ構造主義的な自然科学の分野というのも多分他にあまりないと思うのだが…
 おそらく物理出身者には構造主義の考え方は馴染みやすいものだろうし、構造主義を理解する人間には、物理のシニフィエの捉え方とツールとして使う数学さえ習得すれば、物理を理解しやすいのではないかと思う。


2001年07月07日() 旧暦 [n年日記]

犯罪者猛々しい

  と、思ってしまうよな、こういう報道見ると
 でも実際にはアメリカの日本の被疑者取り扱いに関する人権問題に対しての根深い不信感があることは確からしい。しかしそれにしたってやり方が子供じみてないかい?
 昨日の内容について友人から「構造主義はあくまで分析手段であり、導き出された一般化法則の普遍的適用や時間発展を保障しない」という指摘。それはまったくその通り。結局物理学と構造主義の類似はデカルトの合理主義以降人文社会科学においては導入しきれず一旦放棄したものをある形で再帰させたものだろうという結論に。そこまで根は遡るわけか。
 友人達とのメールで、味覚の話がちょっとだけ出る。自慢じゃないがちょっとだけ味覚には自信が ない 。どんな味付けでどんなバランスが旨いなんてさっぱりわからん。だが昔、家族に指摘されたことがある。
「あんたって、美味しい物食べるときは無口になって黙々とひたすら食うね」
 言われて「なにをう」と思ったものだがそのつもりになって自分を観察してみるとまさしくその通り。ワシって単純。それに箸の進みも違ってくる。頭はなんだかんだ言っても、身体は正直なのだ。感じた事に裏切らない。ブルース・リー師父は「考えるな、感じろ!」とおっしゃったが、まず感覚が最初にありきなのはやはりそうなのだな。感じた後で考え抜くことも必要だと思うが。この考え抜く作業がまだワシには足りてないよな。感覚も研ぎ澄まさないといけない。精進しないと。

メモ

BS映画
09日月曜21:00〜22:56「ボーイズ・ライフ」
10日火曜01:00〜02:36「陸軍中野学校」
10日火曜02:36〜03:57「陸軍中野学校 雲一号司令」
11日水曜01:00〜02:28「陸軍中野学校 竜三号司令」
11日水曜02:28〜03:56「陸軍中野学校 密命」
12日木曜01:10〜02:39「陸軍中野学校 開戦前夜」
19日木曜01:00〜02:20「ボディスナッチャー/恐怖の街」
31日火曜01:00〜03:00「ダンケルク」


2001年07月08日() 旧暦 [n年日記]

本を読んで息を止める

 別に本を読んでいて感動ではっと息を止めたという話ではない。講談社+α文庫から再版した坂井三郎氏の著作「大空のサムライ」をやっと読み終えたのだ。で、後書き読んで思わず息を止めてみたと…
(なんで後書き読んで息を止めたかは読んでない人にはさっぱりだろうけど、読んで欲しいからこれは伏せておこう)
 坂井三郎氏は第二次世界大戦時の、「生き延びた」(これ重要)日本海軍のエースパイロット。その氏の著作で世界各国で訳され、読まれているのがこの本。
 以前からなんとなく知人友人周囲の「これは必読の書だ読め読め」的な空気があるので探していたのだけど、以前出版されていた光人社版がどうしても見つからない。「続・大空のサムライ」などはそれでも見かけるのだけど、続から読むのもなんとなく癪なので探しつづけてたら「講談社からこの四月に再版されたよ」という知らせが。なんですと!? 聞いてないよ! ってわけでその翌日には書店を探しまくって入手したわけです。
 それが6月くらいのことだったかな。で、なんでこんなに読むのに時間がかかったかというと、確かにこの本は分厚いというのもあるし(光人社版より字が大きいというのはあるけど400P前後の上下巻)、読み応えがあるんでつい同じ場所をなんどか読み直してたというのもある(私にしちゃ珍しいことだ)。上下巻を一緒に買って来たつもりになってたら、気付いたら上巻を二冊間違えて買っていてあわてて下巻を買いに行ったとか、下巻を読んでたら途中でまぎれてしまい、探しても見つからず仕方なくもう一冊下巻を買ったらひょっこりと出てきたとか(だから今ウチには+α文庫版大空のサムライ上下巻が2セットある)、そんなすったもんだを繰り返していて、ようやく読了。
 全編を通して坂井氏らをはじめとする飛行機乗りの侠気と言ってもいいさっぱりとした気持ちの良さと、誇り高さ、仲間との同じ飛行機に関わるがゆえに共有する友情と生死を分ける場所にいるがゆえの孤高の精神というのが貫かれているのだけど、ただそれだけではない。同時に彼らの活躍の場が死とは切っても切れない戦場であるということだ。仲間も、敵も、親しかったものもそうでなかったものもある日突然死んでしまう。そして何時自分も戦場に散るかもしれない。それを受け入れ戦場を駆けるさながらサムライそのものなのだが、人を殺すということ、人が死ぬということ、死に面するということ、それらが飾り立てられず、決して死を称揚することも貶めることもなく事実そのものとして語られていく。それゆえにより一層死と隣り合わせの戦場の恐ろしさが感じ取れる(体験したことがない身に「わかる」とは間違っても言えない)。
 こりゃ周囲から受けた「読め読め」というオーラも納得行きますわ。
 ちなみに読了後、二回息を止めてみてその持続時間は、一回目が二分四十五秒、二回目が三分二秒でした。
 今朝の パワーパフガールズ 、いつもの「お砂糖、スパイス、すてきなものをいっぱい…」というナレーションが入らずいきなりテーマソングが始まったので何かと思ったら前半は総集編だった。
 この「お砂糖、スパイス、すてきなものをいっぱい…」というガールズのレシピだが、実はマザーグースの歌が元ネタらしい。解説は こちら。
 ゲストキャラで出てきた悪の男の子軍団「ラウディ・ラフ・ボーイズ」の組成もこの歌の通り(バージョン違いがあるらしいが)。日本人にはなじみがないんで、何のことかよくわからないけど、まあいいか。
  アギト は相変わらず。アンノウンとアギトの謎はお休みなのでちょっと小休止的なところはあるが、三人ライダーのうちの一人、G3のパワーアップ編。単純にパワーアップ万歳とならないところがアギト風味。GX−05ケルベロスいかす〜。
 一週間遅れの(これ言っておかないと「?」な人多いだろうから一応) デジモンテイマーズ は作画が怖い。だってまつげと鼻の穴を妙に強調してるんだものなぁ。それはおいとくとしても、細かい部分で納得の行かない出来の話ではあった。今まで何故進化できたかわからないのに、イキナリ「超進化プラグインS」で「今なら進化できる」だもの。でもそれでも面白いのは基本線の「少年(少女)と犬」という部分をはずしてないから。現実世界に非現実の存在が紛れ込んでる違和感も○。


2001年07月09日(月) 旧暦 [n年日記]

ソフトでハードなSFの話

  某氏 の陰謀により、 こんなページ の管理者をやっているのだけど、どー見ても「こんなんSFじゃねえや!」ってものも名前が挙がってくるわけです。お陰でここ一月半ばかり、「どう見てもSFじゃないのにSFと言い張られる」と言う事に過剰反応しておりまして、今日突然「だったらSFって何よ?」という定義がはっきりしてないのが全て悪いのだという事に開眼いたしました。今までは「人によってSFは定義が違う」などと八方おべんちゃらで逃げまくってたわけですが、違うなら違うで何故違うのかを考えたいと思う所存です。
 普通世間様一般ではSFってのは宇宙船だとかタイムマシンだとか虎じまビキニの鬼娘だとかが出てくりゃSFだと考える向きがございましょうが、世の中のは「そったらこって満足できっけえ!」というコアな人々、「SF原理主義者」という困った人々が存在しているわけです。これがまた困ったことに、こういう人に「じゃ、SFって何?」と聞いても答えられないか世を徹して一人語りしつづけてついに何言ってるんだかわからないということになるのがオチです。で、困ったときに出てくる一言、「センス・オブ・ワンダー」、とりあえずこれがSF者全般にとって各々のSF観の溝を埋める免罪符になっております。でもあまりやりすぎるとコッチもブチ切れるけど。
 センス・オブ・ワンダー、英語で書くとsense of wonder。書き直しても意味ないっての。
 senseは「(心理的な)感じ,心持ち,気持ち,印象」、ofは「《所属・所有》…の,に属する,にある」、wonderは「驚き,感嘆の念,(…に対する)驚異(の念)」、だったら最初から「驚嘆の感覚」とか「不思議な感じ」とか書け!
 じゃ、何か読んで、見て、不思議な感じと思ったらSFなのだろうか? たとえばファンタジー小説で見たことがない生き物が出てきたり、見たこともないオブジェで不思議と思ってもSFと言うのだろうか? 否、敢えて言おう! NOであると!
(ってホントは他人がどう思ってるかなんて知らないけどね)
 日常的にだってびっくりするようなことは何時も起こってる。それを一々「SF的だ」なんて言ったらSFのありがたみがない。ってよりは「これがSF」と括る必要性なんかそもそもない。ファンタジーがSFだったら、逆にSFがファンタジー的と言っても良い筈だ。しかしSF=ファンタジーではない。ファンタジー⊃SFあるいはその逆ですらない。
 だったらSF的って何よ? ということになる。これには自分をサンプルに一応の答を出している。SFとは、既存の価値観で処理できないもの(現象)の想定による価値観の分解、再構成である。価値観というのは人間がある出来事に対し判断を下すための基準だ。もちろん社会、時代、人それぞれによりまちまちである。だから正確には、SFとは社会一般において想定すべきとされる事態を超えたものによる価値観の破壊と再構成を行うもの、と言ったほうが良いだろう。だからSF的なものは世間から見れば発想の飛躍のし過ぎなのだ。必要でないと思われる事態の想定なんて誰がする必要がある?
 しかし、それは後生大事に抱えていたものが実はたいしたものではないと知るかもしれない。或いは現在所持してる価値観に拡張性があると知るかもしれない。意味があるかもしれないし、ないかもしれないが、そもそも新たな視点の発見というのは中毒性を持った快楽ではある。
 ファンタジー=SFでないのは、ファンタジーは価値観の変化を必然としていない。だからファンタジーとSFはそもそも全く別の区分け方の群に属している。重なる場合もあるが、それはジャンルの必然ではない。単にそういう作品だったというだけだ。
 もう一つ、SF原理主義者の中でも「ハードSF至上主義者」がいる。科学的考証を裏づけとした社会、現象、環境、はては物理法則すら変遷させうるガジェット(小道具)をご神体としてあがめる一派だ。(あー、ハードSF者から石が飛んでくるな)
 確かにそれだけ壮大なものが実際の科学理論の延長上起こりうるというのは吃驚であり、場合によってはセンス・オブ・ワンダーだろう。しかし、価値観の破壊と再構成に科学考証は必ずしも必要ない(と、物理出身のワシが言うと更に批難轟々か?)。ハードSFは所詮SFの一ジャンルであり、その純粋なコアたるものではない。
 それと、そのためにハードSF原理主義者が陥りがちな罠は、ガジェットの凄さこそが至上と思いがちで人間を軽視しがちなことだ。技術は文化圏・文明のものであり、法則は宇宙のものだ。だが、価値観は人間のものだ。人間なしに「吃驚」もへったくれもありはしない。それに驚嘆し、価値観が壊され再構成されるのは人間あるいはそれに準じたものだ。別に作中に人間が出ずとも良い。だが読むのは人間なのだ。あるいはそのような何者かなのだ。驚嘆してる貴方は何か。石か、宇宙法則の体現者か、普遍的価値観か。まあ、そういう「思考シミュレーションが好き」ってのは私にもあるのだけどね。でも人間がどうでもいいと思ってるのは「仏(ハード)作って魂(ソフト)入れず」だと思うけど。
 しつこくも一つ。結局「普通想定されるべき事態」ってのは人によって認識が違う。だから「これがSF的センス・オブ・ワンダーだ!」と思ってしまうレベルというのも異なる。だからSF論争に終止符が打たれないのだ。SF論争ってのは、実は価値観とその限界論争でもある。それは人によって当然違うべきものだし、一種のコミュニケーションだから論争もまた大いによし、とすべきだろう。だが気付かずに自分の価値観の限界と程度を晒しだしてることにもなるので、己を省みて、恥じるところがないかもう一度よく考えるべし。
 結局私が「これはSFだが、それはSFじゃない」と拘るのは、自分の価値観の想定範囲はそんなんじゃないと怒ってるのも同然なのだな。