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2013年07月09日(火) 旧暦 [n年日記]

[アニメ] 今期の新番組その1

 ・戦勇(第二期):まあ、第二期。つか、前期どういう感じで終わったんだっけ? いろいろ話が進もうとしてるのに主人公は蚊帳の外なのも相変わらず。
 ・犬とハサミは使いよう:主人公は本マニア……なのだけど、いきなり主人公死んだー! と思ったら犬になって、正体を隠してる任期ベストセラー作家のドS美女に囲われ、自分を殺した犯人を追う……のだけど、OPといい、ノリが変だなw 第二話になってますますノリが変に。つか、ヒロインデレるの早くね?
 ・リコーダーとランドセル ミ☆:身体は大人、心は子ども! な小学5年生男子のあつし君が繰り広げるドタバタな日々。婦警さんとは顔なじみですぐ誤解は解けるようになったけど誤解そのものはなくならなかったり、中身はまともなあつしに対し申請変態の先輩キャラが出てきたり、変態さに磨きがかかりそう?
 ・戦姫絶唱シンフォギアG:ビミョーな出来だったオリジナルアニメの、まさかの第二期。どこに需要があるんだというのが不思議ですが、なんか牽強付会な設定、ストーリーだと、まあ、逆にありかと思えてきてしまうのは間違ってるんだろうなぁ。
 ・ファンタジスタドール:コードギアスの谷口悟朗プロデュース、尻監督こと斎藤久の新作。昔はカードゲームに入れ込んでたものの、今は一線を退いてる主人公が、描かれてる女の子が具現化するカードゲーム「ファンタジスタドール」のデッキをたまたま拾ってしまい、というもの。この監督なんで、男っ気はゼロです。はい。
 ・有頂天家族:森見登美彦原作のアニメ化。「四畳半神話大系」に続いて二作目だけど、P.A.worksらしいロケハンによるリアルな京都市中の描写で雰囲気はそれっぽい。狸と天狗と人間が織りなす話だけど、どういう方向に話が転ぶのか。~
 ・てーきゅう(第二期):低予算短編アニメの第二期。休みどころのないノンストップハイテンションな展開は相変わらず。声優さん、大変だろうなぁ。
 ・ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生:ヒットした非常理学園デストロイヤル推理ゲームのアニメ化。「希望が丘学園」という謎の名門校(意味不明だけどそういう設定なんです)に集められた「超高校級」の高校生15人が、監禁され、出るためには誰かを殺してそれがばれないようにしなければならない、というルールを課される。すべてのキャラがエキセントリックで破綻してるんだけど、なんというか。独特の雰囲気だけど、上手くアニメ化できるのかな? なんか演出で「東方見文録」思い出した……


2011年07月09日() 旧暦 [n年日記]

[アニメ] 新番組その3

  夏目友人帳 参 #1「妖しきものの名」。久々の新シリーズ。人間かと思って助けた老婆のあやかしに、昔鏡を借りたあやかしを探して欲しい、と頼まれ、手伝うことに。まあ、いつも通りのまったりさです。でも、人間の友達がいなかった玲子さんが、老婆を人間と勘違いし、老婆も玲子があやかしと勘違いしてて、その微妙なすれ違いを夏目が後から二人の気持ちをおもんばかる。あやかしと人間の間の友情は成り立つのか、という感じで、人間とあやかしは相容れないけど、相手を思いやることはできる、みたいな、そんなほのぼのな感じです。もちろん視聴継続。

  ゆるゆり #1「中学デビュー!」。女子高生のゆるい日常ものという、ありがちなアレで、ありがちなアレかぁ、と思ったんですが、登場キャラが変態じみてたり、なんか妙なシーンでこだわりのある動きを見せたんで「あれ?」と思ったら、監督が「みつどもえ」の太田雅彦氏でした。やっぱり変態好きなのか!
 なんかちょい顔見せしただけの変態キャラもまだいろいろ出てきそうな感じ。

  ロウきゅーぶ! #1「小学生がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」。ロリコンっぽいアレだとは思ったんですが、どんな内容かと思ったら、確かにロリなアレなんですが、バスケものだったようで。高校生の主人公が小学校の女バスを指導するのだけど、主人公のバスケ部がメンバーが小学生と不祥事を起こしたという、それは問題ありすぎだろうというアレ。
 思ったより結構話の筋とかありそうだけど、どうなんでしょうね。

  神様ドォルズ #1「神はきたりて」。サンデーGX連載の、やまむらはじめ原作のアニメ化。これはファンの欲目なので、かならずちょっと評価の敷居が高いかもしれないので、いちおうその前提で。
 作画とか、すごい頑張ってて、やまむらはじめ調をすごく再現してるんだけど、演出とかのツボをはずしてるような。いえ、頑張ってるんですが、なんか頑張りの方向を勘違いしてる感はあります。
 普通の判断的には、良く出来てると思います。


2010年07月09日(金) 旧暦 [n年日記]

[アニメ] 四畳半神話大系#11

  四畳半神話大系 #11「四畳半紀の終わり」。どこまでも続く四畳半世界に迷い込んだ「私」は、少しずつ違う並行世界の自分の部屋を見るうち、バラ色のキャンパスライフとは行かないまでもそれぞれ非生産的な青春をそれぞれ謳歌してることに気づく。そしていつしか並行世界の自分を取り巻く風変わりな人々に想いを馳せるようになる。
 中でも、並行世界の不毛ながらも賑やかな日々を彩る小津の、その様々な悪戯・悪事を繰り返す宇宙人かはたまた悪魔かという奇行悪行の裏に隠された純情を知る。
 同時に小津に追い落とされた相島が小津の計画を知り復讐しようとしてることを知るが、四畳半世界からそれを知らせる術もなく、そもそも五山は数ヶ月も前の「私」が四畳半世界に迷い込んだ日のことだった。
 ありもしないものを見ていたばかりに身の回りの素晴らしい出来事、目の前にある好機から逃げ続けていたことを悟った「私」は、もし元の世界に帰れたならば、今度こそは「常に目の前にある世界を受け入れ踏み出す」と決意したとき、彼がぶち抜いた四畳半世界を渡り、集まった蛾の大群が退去して押し寄せる。思わず窓から逃げ出すが、転げ落ちた「私」の前には騒がしい叡山電車の通過音が……
 四畳半世界から抜け出し、しかも迷い込んだ五山の当日に戻っていることに気づいた「私」は、小津たちのいる大橋へと急ぐ。
 そして、駆け付けた大橋で見つけたのは、これまで騙した人々に追い回される小津をはじめとして、相島、城ケ崎先輩、羽貫さん、樋口師匠、明石さんたち、まだ出会っていない懐かしい人々の姿だった。
 「私」は、小津を守るために、そして目の前にある自分にとって大切なものを得るために押し寄せる群集も憚らず小津めがけて駆け出す。

 四畳半と黒髪の乙女と小津をめぐる「私」の話もこれが最終回。のっけにEDから始まったのはアバンタイトルで「やり直し」を求めるところから繋がったのであまりに違和感がなさすぎて最初気づかなかったw しつこいくらい何度も「この後すぐ本編」って出てきたのでさすがに気づいたけど。もう終わっちゃったと思う視聴者を心配したんだろうなぁ。
 本編は、とにかく見ろ、としか言えない。好みの別れる作品とは思うけど、良さを掻きくどこうにも筆舌につくしがたい。総集編でありながらクライマックス。
 元の世界に戻った「私」が、小津たちを見つけるところ、追い詰められた小津を助けるために、その名を叫びながら駆け出すシーンは、見ながら「私」さながらにこちらも涙ぐんでしまい、何度も見返してはまた涙ぐむの繰り返しでしたわ。
 小津のもとへと駆け出す間にこれまでの並行世界の「私」の姿に変わり、最後は服も破れ無精髭も抜け落ちて素っ裸で大ジャンプするのは、涙ぐみながらも笑ってしまいましたが。全部の虚飾や建前を剥ぎ取った「私」という意味でもあるのだろうけど、湯浅監督自身が「マインドゲーム」といい、裸で全力疾走が基本的に好きなんじゃないだろうか。その阿呆ほどのエネルギーも含めて。
 裸で飛んで来て抱き着く「私」に「あんた誰ですか!?」「裸じゃないですか!」と小津が妙に冷静にツッコミを入れるのも笑える。この世界の小津は友人ではないから当然なんだけど、それでも構わず「私にすべてまかせろ!」「なにがあってもお前を守ってやる!」と熱烈な愛の言葉を吐き出す「私」。すべてを振り切った阿呆に怖いものなしw
 言葉の通り、大挙する蛾の大群に橋の欄干から落っこちてしまうが、脚が折れた小津の手を決して放そうとしない「私」に、「もう放してください!」と(気遣ってというより不気味がって)泣きを入れる小津に「私とお前はどす黒い糸で結ばれてるのだ!」と、これまで散々小津に言われた台詞を……これは最後のシーンにもつながるのだけど、それは見てのお楽しみ(まだ見てなければ)。
 城ケ崎先輩に川から助け出された二人(原作にもこのシーンはあるけど、ここに持ってきたのは秀逸。城ケ崎が心底小津を憎めてないこと、城ケ崎の憎めなさが出てる)は、小津は羽貫が付き添いで病院へ、残った「私」は樋口師匠に「羽貫さんに男を見せてください!」と背中を押し、蛾のショック覚めやらぬ明石さんに拾った白いモチグマを握らせる八面六臂の活躍。「私」史上最大の見せ場だろうなぁ。
 そしてこれまで言えなかった「猫ラーメンを食べに行きませんか?」の台詞を口にする。
 ちょっとご都合主義的に明石さんとハッピーエンドなのは小憎たらしくはあるけど、あんだけ無駄に男を見せられたら、まあいいか祝福しようという心の広い気分にもなる。いや、途中からあの「ギョエーー!」が聞けなかったのは寂しかったんだ。
 最後のシーンは、二人でお見舞いに来た「私」を見て小津がさりげなくスマートフォンを隠すとか、憎い演出。打ってたメールの相手は……だろうし、「私」も多分それに気づいた上でのあの言動。そしてあの台詞とあの表情w
 全部見終えて、異様に大学時代からの友人のこと思い出してしまいました。小津とは全然タイプが違うのに。
 そういう思い出があるってことは幸せなことだろうし、そんな思い出をくれた友人とそんな気持ちにさせてくれたこの作品に感謝したいですわ。
 最初は第一話を見て、「ちょっと変わってて面白そう」というくらいで原作にも手を出したくらいだったけど、最後は鳥肌ものの、素晴らしいアニメ化でした。
 そして最後に、これだけは言いたい。無駄に浪費した青春を精一杯謳歌したすべての者は見よ! 決して後悔はさせない! しても責任は持てないけど。w


2009年07月09日(木) 旧暦 [n年日記]

[アニメ] かなめも#1とうみもの#3と狼と香辛料II#1とバスカッシュ#13

  かなめも #1「はじめての、ひとりぼっち……」。両親と死に別れ、たった一人の身内の祖母も亡くしてしまった中学生の中町かな。家財が処分されていくのを見て自分もどこかにやられてしまうと勘違いしたかなは、身の回りのものだけ持って逃げ出してしまう。しかし行く当てなどないかなはどこか住み込みで働けるところを探すが、身寄りのない中学生を引き受けてくれるところなどどこにもない。落ち込みかけて空元気を出したところに、夕刊の新聞配達の自転車にぶつかってしまう。気絶した彼女が再び目を覚ますと、そこは変なお姉さんたちと所長代理と名乗る小学生が暮らす、風新新聞専売所だった……

 中学生が住み込みで働いたり小学生が所長代理だったり、キャラクターが異様にエキセントリックだったり、「おいおい」なのだけど、自転車での新聞配達のシーンとか、専売所のシーンとか、生活道具一式がない辺りの妙な切なさとか、その辺はいいかも。
 悲惨なんだけどけなげでほのぼの、という線っぽく、キャラの突飛なところは心配だけど、この路線で行くなら見続けられそうかな?


  うみものがたり #3「近づく心」。セドナの刺客にされた海の生き物を元に戻したマリン。夏音はもう二度と会わないつもりで別れるが、翌朝目を覚ますと、何故かマリンたちが母親の都たちと居間でくつろいでるのにずっこけてしまう。都の許可でマリンたちが地上にいる間滞在することになったことに迷惑そうにしながらも、どこかマリンを憎めないでいた。
 大学進学の資金のために占い師のバイトに行くが、ついてきたマリンにまたもつっかかる。しかし占いのテントに同級生の鈴木がやってくる。

 邪悪邪悪と言われ続けてる夏音だけども、理解者(?)の鈴木。でも夏音は彼女が苦手そう。昔からの知り合いで、いっつも怒ってとげとげしい夏音だけど、鈴木はそんな彼女をみんなが嫌がることを進んで引き受ける、優しい子だと話す。
 そんな鈴木から逃げる夏音だけど、それは鈴木の向けるような無垢な信頼に慣れておらず、怖いから。亀の松本さんからも邪悪なオーラを消してピュア100%にならないといけない、と言われて、人と仲良くしようとすれば裏目に出てしまい、人と親しくなることが怖くなってしまっている。それがマリンや鈴木を遠ざけた理由でもあるのだけど、マリンが新たなセドナの刺客に苦しめられてるのを見かねて、もうならないと決めた空の巫女としてマリンを助ける。
 もう一度人に近づくことを始めてみようと思った夏音は、鈴木に占いのチケットを持って行く。
 しかし、なんか夏音はセドナの手下のエサ扱いのような。


  狼と香辛料II #1「狼とふとした亀裂」。ホロの故郷ヨイツを目指し、クメルスンに向かうホロとロレンス。その途中アマーティという年若い商人に出会う。ホロの姿に心奪われたらしいアマーティの紹介で祭が近いクメルスンに宿を取ることが出来、釘を売って固く儲けを出したロレンスは、ホロとささやかながらお祝いで飲み明かす。しかし、今は残っていない都市ヨイツの位置の曖昧さに、不安になったロレンスは、自分は最寄りの町まででいいんじゃないかとつい口にしてしまう。

 作画的にはそこそこながらも、雰囲気は出ていた第一期に続いての第二期目。制作会社は変わっても話的には完全に続きです。この辺、原作はすぐ株式相場の話だっけ? ちょっと良く憶えてませんが。
 この様子だと、原作一冊に3,4話をかけるというスタイルは同じでしょうね。だとすると、どの話までやるんだろう?
 今のところ制作会社変更の影響はさほどなく、普通に楽しめます。ただ、やはりOP、EDは第一期のものの印象が強くはありますが……とりあえず問題なく視聴継続。


  バスカッシュ #13「シーユー・オン・ザ・ムーン」。OCBリーグ準決勝、チームバスカッシュは前回引き分けに終わったエクリップスとの再戦を迎える。今度こそ悔いのない試合を、と誓い合うダンとルージュだったが、その二人を嫉妬の入り交じった複雑な視線で見つめるみゆき。
 しかし準決勝の試合中、ルージュが突然倒れて試合は中断、ダンたちの決勝進出という煮え切らない結果に終わってしまう。
 消化不良のまま苛立ちを募らせるダンたちの元に、その晩、エクリップスのシトラスとヴィオレットが訪れる。彼女らはバスカッシュのために特殊な肉体強化を施されていること、ルージュは強化された肉体維持に必要な薬を、ダンとのフェアな勝負にこだわって飲まないでいたため試合中倒れたこと、OCBリーグ敗退し月に引き上げることを告げる。

 OCBリーグの本当の意味を知ったエクリップスの戦線離脱、みゆきの嫉妬と、転換点の含みは持たせてるのだけど、微妙な感じは。
 月へと他のメンバーに先駆けて発つルージュに、バウンドでエクリップスの曲を奏でて見送るダン。月で待ってる、という言葉がダンが月を目指す新たなモチベーションになる。
 ただ、そこまでダンのモチベーションになったかというと微妙。う〜ん。みゆきの嫉妬もこの後つながるのかも、嫉妬が唐突で不明だし。
 監督変更の影響なのかなぁ。体勢立て直しもあるので、ある程度話が崩れるのは仕方ないのだけど。


2008年07月09日(水) 旧暦 [n年日記]

[アニメ] 夏目友人帳#1

  夏目友人帳 #1「猫と友人帳」。両親がおらず、人には見えないものが見えるばかりに親戚をたらい回しにされている高校生・夏目貴志。今日も二匹の妖怪に追われていたが、いつもと少し様子が違っていた。彼を祖母の「レイコ」と間違え、「友人帳」とやらをよこせと迫って来たのだ。何の事かわからない夏目は、神社に逃げ込もうとするが、小さな祠の封印を間違えて解いてしまう。
 中には何故か動いてしゃべる招き猫がいて、そいつも夏目に友人帳を渡せと言って来た。しかし行動が空振るそいつとは妙に馬が合い、「友人帳」の秘密を聞かされる。

 LaLa連載の妖怪もの? 祖母の遺品である友人帳を巡って妖怪に襲われたり、逆にその悩みを聞いたりという感じっぽい。
 けど妖怪が見えるせいで孤独だったとはいえ、出会う妖怪を片っ端からバットで殴り飛ばして名前を奪い、子分にしまくるとは、なんつー婆さんやねん。いや、当時は女子高生だったんだけど。だけどそれは誰からも受け入れられない寂しさの裏返しで、今回の妖怪は無理矢理名前を奪ったものの、レイコに求められたことがうれしく、でもレイコにずっと名前を呼ばれてなかったことで逆に恨みに思ったモノ。そういうものばかりでなく、迷惑をかけるから名前を奪ったパターンとかもあったのかもしれない。
 こんな感じで「友人帳」を中心に祖母の生前をなぞらえていく話になるのかな? ちょっと面白いタイプの話なので、様子見。

[その他] アメリカではMADはOK?

 先日ニコニコが「アニメ映像を素材に使ったMADも消しまくる」という合意をしたわけですが、それとちょっと関連するかもしれないニュースがこれ。
  オンラインビデオの公正使用ガイド、米団体が策定ITmedia
 まあ、アメリカの話なんですが、どこまでがOKでどこまでがNGなのかわかりにくい「フェアユース(公正使用)」について、日常的にあり得る例と、よくされている勘違いを例示している。
 で、目にとまったのがこれ。
複数の要素を組み合わせて、各要素の(あり得そうにない)関係に意味を持たせた新たな作品を作る:コラージュ、マッシュアップ、リミックス、既存の作品に新たな表現を加える場合など。文脈や意味を大きく変えない、単なる再利用は公正使用の範囲を超える。例えば、著作権で保護された楽曲をビデオのサウンドトラックとして丸ごと使う場合は公正使用には当たらない。
 え〜っと、つまりこれは「MAD OK」ってことですか? MADやコラージュなども「独自の創作表現」として、ある程度公開を認めてる、というように読める。まあ、日本ではフェアユースはアメリカほど法的に認められていないので、日本ではおそらくあてはまらないだろうけど。アメリカは時々ろくでもない国と思うけど、時々大したものだと思う。
 ちょっと気になるのは
お金を得ていなければ、公正使用である:作品をごく内輪でのみ共有するのであれば法的に不利にはならないが、それを超えると、収益を得ていなくても公正ではなくなる。
 は、上記の場合は(共有するのがMADなどでその制作者が公開を認めてる場合は)当てはめられないのだよね? そうだとは思うけど、ちょっと気になったので。
 いずれにしても「しかたなしにダビング10を認めてやるから保証金をよこせ」的な態度の日本の業界とは大分違うなぁ、という印象。
 まあ、先日のGONZOをはじめ、 東宝 松竹(間違えてたので修正)もYouTubeを使って権利作品を配信したりと、業界的にもようやく上手いこと突破口をみつけようと言う動きが見られますが。上手いこと回るといいなぁ。


2006年07月09日() 旧暦 [n年日記]

[その他] うあ

 体調わりいと思ってたら、案の定寒気がしてきた……ってわけでちと更新は休みっす。サボってすいません。生まれてきてすいません。


2004年07月09日(金) 旧暦 [n年日記]

[必殺] 夜明けに散った紅い命

 「必殺からくり人 血風編」第十一話(最終回)。もはや徳川の命運も定まり、品川も続々と上ってくる官軍であふれかえる。人々は逃げ惑い、白濱屋も商売どころではない。土左ヱ門も官軍に戻れば相応のポストが用意されているのだが、功績を挙げるためだけに無意味な残党狩りを行う旧友を見て官軍に愛想を尽かし、からくり人として生きる決意をする。そんな土左ヱ門を好ましく思うおりく。一方玉ころがしの直次郎も世が世だけに商売にならない。これからどうなってしまうのか、漠然とした不安の中、玉ころがし仲間の仙吉から薦められたいい稼ぎ口というのが実は官軍の密偵。残党狩りを手伝えと言うのだ。気の乗らぬまま引き受ける直次郎。それを知った土左ヱ門は直次郎に絶縁を叩きつける。そんな時、白濱屋に一人の青年・徳松が泊まる。実は徳松は幕軍の脱走兵。武士にあこがれて彰義隊に参加したものの、ほうほうの体で逃げ出したのだった。彼に情を移した飯盛り女のおまきに身の上を語るが、それを隣室にいた直次郎と仙吉が聞いてしまっていた。泣いて見逃してくれと頼むおまきに、直次郎は決して青年を売る真似はしない、仙吉にも口止めする、と約束する。しかし、その夜、官軍が踏み込み松吉を斬り殺す……直次郎が売ったと思ったおまきは直次郎を責め、土左ヱ門も直次郎の裏切りが許せず殺すと息巻く。だが直次郎は顔を青くしたまま「お前と殺りあう前に片付けなきゃならねえことがあるんだ。それが済んだら、こっちからカタをつけにくる」と白濱屋を飛び出す。直次郎が向かったのは仙吉の家だった。直次郎の口止めにも関わらず徳松を売ったのは仙吉だったのだ。俺をコケにしやがって! と剣幕をすごませる直次郎に、仙吉は動じた様子もない。それどころか居直ったように言い放つ。「コケにしたのはどっちだ。おめえ、からくり人なんだってな」気がつけば辺りはすっかり官軍の兵士に囲まれていた。ここでつかまればおりくにも官軍の手が及ぶ──直次郎は満身創痍となりながらも長屋に逃げ延びる。土左ヱ門は明け方になっても直次郎が戻らないことに不安を感じ、直次郎の長屋に駆けつけるが、そこで見つけたのは──
 官軍の狗の土左ヱ門と直次郎、その立場が最終回では逆転する。そして一度はお互いを認め、友情を通わせた二人が、おりくをはさんで、また維新という時代の大波に翻弄され、再び立場を分かってしまう。第三話で土左ヱ門は直次郎に「お前に殺されるんなら本望だ」と言った。直次郎の心根に惚れたのだろうが、直次郎が裏切ったと思った瞬間、それまで見せたことのない殺意を直次郎に向ける。一方直次郎も命乞いをするでもでなく、命をかけて落とし前をつけようとする。結局仙吉の罠にはまった直次郎はおりくにしたためた手紙を残し、命を落とす。そしてその直次郎の行動に、土左ヱ門ももう官軍に戻れなくなると知りつつ、残党狩りを行っていた旧友を始末する。なぜ仙吉が直次郎の正体を知っていたかが腑に落ちないという一点を除いて、からくり人自体が結局は時代のうねりの中で道を誤り死んでいき、また引き裂かれた友情に命がけで応える姿は必殺シリーズでも屈指の名エピソード。
 その他、冒頭に彰義隊の脱走兵で処刑された夫の遺髪を取ってきてくれと頼む依頼人に、その依頼に「やりましょう」と答える土左ヱ門など、良いシーンが多い。
 短期シリーズにもかかわらず吉田日出子演じるおいねが途中までの登板だったり、ピーター演じる新之介の出番と存在感が少なかったり、中盤はゲストキャラのドラマがメインで土左と直の友情やおりくとの三角関係を描く余裕がなかったりという欠点もないではないが、急造シリーズと言う話が本当に信じられない出来である。

[その他] 夏バテ対策

 なんだか食欲がなくなりかけてこりゃやばいと思い、昼飯はちょっと奮発して 大須の丁字屋 へ。夏野菜天そば(ころ *1 )を頼む。さやいんげんとヤングコーン、それと茄子のてんぷらが乗っかってる。あつあつのてんぷらにつめたい汁がイイカンジ。かすかな苦味が却って滋味。
 インターネット古書店で 蘭と狗─長英破牢/中村勝行必殺シリーズ完全百科 を購入。なぜこの二冊を同時に買ったかというと、「蘭と狗」の作者、中村勝行氏は必殺シリーズの脚本を手がけてもおり、さらに「蘭と狗」の主人公・高野長英にこだわるきっかけになったのは、「新必殺からくり人」で蘭兵衛こと高野長英を描いて、興味を持ったからだと言う。さらに後書きによると中村勝行氏は役者で現国会議員の中村敦夫氏の実弟だという。これは知らなくってちょっとびっくり。
*1: ひやし麺のこと。主に冷やしうどん・きしめんを指す。

[その他] 頭痛え

 そりゃね、あたくしの名前でぐぐられて検索結果トップに来るくらいのことは自業自得と諦めますぜ。でも、「不定期」でぐぐってここがトップになるってのはどういうことよ!? すいません、さすがに勘弁してください。(日記名変えるべきか?)


2002年07月09日(火) 旧暦 [n年日記]

予定変更

 来週だと思っていた SF大会 が今週末だと教えられ、慌てて各方面の予定変更。とりあえず、トルコ料理店行きは木曜に決定。場所は名城大薬学部付近の店「 ターコイズ・イスタンブール 」にしようかと検討中。味仙の向かい側辺りになる。行ったことないお店なので、当たりはずれはわかりません。この店のある場所、ずっと以前はレンタルビデオ屋で、それがつぶれた後はなんか怪しい健康グッズの販売が入り、数ヶ月ですぐ消えて、で、ようやくまともなお店が入った。この辺、ちょっと真空地帯っぽくなってて集客力弱いのだよなぁ。せめて、もう少し近くに駐車場があればかなり違うと思うのだけど。
 一部で話題になってる 湘南ゴミ拾いオフ 。もともとフジテレビへの抗議行動として行われた、主催者無きイベントなのだけど、フジへのいやがらせを、ボランティア活動の形として(でもフジには迷惑がかかるのを確信して)やってしまおうというもの。事前からW杯報道関連の話を追っていたので知っていたけど、まさかこんな大規模な活動になるとは思っていなかった。「どんな形でも嫌がらせじゃないか」という声もあるし、それはそうなのだけど、悪意を善意の行動の形で示すというのは面白い。また、特に誰かが仕切ったわけでもないのに、自律的に役割分担していったというのも興味深い。持続性があるわけでも無条件に支持できるものでもないのだけど、単純なデモとかよりも(無責任に)面白いのは確か。フジも、2ch云々ということは言わずとも、フォローのしかたはいくらでもあるだろうに、変なフォローのしかたをするので余計につっこまれることになる。もっとも、恐喝などによる排除行為はなかったようなので(一緒にやりませんか、という申し出はあったらしい)、そちらの意味では良識的だったのだろう。しかし、今後もこういう活動が頻発すると、テレビ局側もだまってはいないだろうなぁ。残念だけど。
  あずまんが大王 は「エロエロよ〜!」の回。この台詞のイメージはハイテンションだったのだけど、意外にも押さえた口調で演じていた。いや、どうでもいいことなんですが。全体的に良くも悪くも安定。うーん、まあ、いいか。
 台風が近づいているらしい。自転車者には結構まいる。
  週刊アクション を読んだら、谷口ジロー氏の「天の鷹」が最終回だった。西部開拓時代にアメリカに渡り、スウ族の一員となった二人の元武士「天の鷹」と「風の狼」の話。スウ・シャイアン・アラバホなどのインディアン諸部族連合軍がカスター中佐(南北戦争時は少将だったが、この時は中佐)率いる第七騎兵隊を破った戦いが最終回の舞台だった。この戦い自体は部族連合の大勝利だったが、しかしこの勝利が仇となって「アメリカ国民」の原住民への反感が高まり、居留地政策が推し進められて行くことになる。
 一時期アクションは売上不振から旧来の路線を一転、ほとんどの連載を打ち切り、連載を成人向け(有体に言えばエロ)にするという思いきった転換をした(と、言ってももろにエロのみが見せ場なものは短命で、作品性が高いものは比較的長命だったことから、読者側にもあまり望まれていなかった転換だったと推察される)。しかし、徐々に連載内容は旧来のものに戻っていき、路線転換で始まった最後の連載も数ヶ月前に終了した。「風の鷹」は、シリーズ連載とは言え、その「冬の時代」を「軍鶏」と共に生き抜いた作品だった。
 それとは無関係だが、小学館のマニア向けマンガ誌「 IKKI 」連載の「GUNS&BRADES」は、五稜郭での戦いから落ち延びた二人の元幕軍兵士が新政府官憲の手を逃れて北海道内で逃避行を続けるというもので、舞台こそ幕末直後の日本だが、フォーマットはまるっきり西部劇である。作者は戦記マンガで定評のある滝沢聖峰氏。


2001年07月09日(月) 旧暦 [n年日記]

ソフトでハードなSFの話

  某氏 の陰謀により、 こんなページ の管理者をやっているのだけど、どー見ても「こんなんSFじゃねえや!」ってものも名前が挙がってくるわけです。お陰でここ一月半ばかり、「どう見てもSFじゃないのにSFと言い張られる」と言う事に過剰反応しておりまして、今日突然「だったらSFって何よ?」という定義がはっきりしてないのが全て悪いのだという事に開眼いたしました。今までは「人によってSFは定義が違う」などと八方おべんちゃらで逃げまくってたわけですが、違うなら違うで何故違うのかを考えたいと思う所存です。
 普通世間様一般ではSFってのは宇宙船だとかタイムマシンだとか虎じまビキニの鬼娘だとかが出てくりゃSFだと考える向きがございましょうが、世の中のは「そったらこって満足できっけえ!」というコアな人々、「SF原理主義者」という困った人々が存在しているわけです。これがまた困ったことに、こういう人に「じゃ、SFって何?」と聞いても答えられないか世を徹して一人語りしつづけてついに何言ってるんだかわからないということになるのがオチです。で、困ったときに出てくる一言、「センス・オブ・ワンダー」、とりあえずこれがSF者全般にとって各々のSF観の溝を埋める免罪符になっております。でもあまりやりすぎるとコッチもブチ切れるけど。
 センス・オブ・ワンダー、英語で書くとsense of wonder。書き直しても意味ないっての。
 senseは「(心理的な)感じ,心持ち,気持ち,印象」、ofは「《所属・所有》…の,に属する,にある」、wonderは「驚き,感嘆の念,(…に対する)驚異(の念)」、だったら最初から「驚嘆の感覚」とか「不思議な感じ」とか書け!
 じゃ、何か読んで、見て、不思議な感じと思ったらSFなのだろうか? たとえばファンタジー小説で見たことがない生き物が出てきたり、見たこともないオブジェで不思議と思ってもSFと言うのだろうか? 否、敢えて言おう! NOであると!
(ってホントは他人がどう思ってるかなんて知らないけどね)
 日常的にだってびっくりするようなことは何時も起こってる。それを一々「SF的だ」なんて言ったらSFのありがたみがない。ってよりは「これがSF」と括る必要性なんかそもそもない。ファンタジーがSFだったら、逆にSFがファンタジー的と言っても良い筈だ。しかしSF=ファンタジーではない。ファンタジー⊃SFあるいはその逆ですらない。
 だったらSF的って何よ? ということになる。これには自分をサンプルに一応の答を出している。SFとは、既存の価値観で処理できないもの(現象)の想定による価値観の分解、再構成である。価値観というのは人間がある出来事に対し判断を下すための基準だ。もちろん社会、時代、人それぞれによりまちまちである。だから正確には、SFとは社会一般において想定すべきとされる事態を超えたものによる価値観の破壊と再構成を行うもの、と言ったほうが良いだろう。だからSF的なものは世間から見れば発想の飛躍のし過ぎなのだ。必要でないと思われる事態の想定なんて誰がする必要がある?
 しかし、それは後生大事に抱えていたものが実はたいしたものではないと知るかもしれない。或いは現在所持してる価値観に拡張性があると知るかもしれない。意味があるかもしれないし、ないかもしれないが、そもそも新たな視点の発見というのは中毒性を持った快楽ではある。
 ファンタジー=SFでないのは、ファンタジーは価値観の変化を必然としていない。だからファンタジーとSFはそもそも全く別の区分け方の群に属している。重なる場合もあるが、それはジャンルの必然ではない。単にそういう作品だったというだけだ。
 もう一つ、SF原理主義者の中でも「ハードSF至上主義者」がいる。科学的考証を裏づけとした社会、現象、環境、はては物理法則すら変遷させうるガジェット(小道具)をご神体としてあがめる一派だ。(あー、ハードSF者から石が飛んでくるな)
 確かにそれだけ壮大なものが実際の科学理論の延長上起こりうるというのは吃驚であり、場合によってはセンス・オブ・ワンダーだろう。しかし、価値観の破壊と再構成に科学考証は必ずしも必要ない(と、物理出身のワシが言うと更に批難轟々か?)。ハードSFは所詮SFの一ジャンルであり、その純粋なコアたるものではない。
 それと、そのためにハードSF原理主義者が陥りがちな罠は、ガジェットの凄さこそが至上と思いがちで人間を軽視しがちなことだ。技術は文化圏・文明のものであり、法則は宇宙のものだ。だが、価値観は人間のものだ。人間なしに「吃驚」もへったくれもありはしない。それに驚嘆し、価値観が壊され再構成されるのは人間あるいはそれに準じたものだ。別に作中に人間が出ずとも良い。だが読むのは人間なのだ。あるいはそのような何者かなのだ。驚嘆してる貴方は何か。石か、宇宙法則の体現者か、普遍的価値観か。まあ、そういう「思考シミュレーションが好き」ってのは私にもあるのだけどね。でも人間がどうでもいいと思ってるのは「仏(ハード)作って魂(ソフト)入れず」だと思うけど。
 しつこくも一つ。結局「普通想定されるべき事態」ってのは人によって認識が違う。だから「これがSF的センス・オブ・ワンダーだ!」と思ってしまうレベルというのも異なる。だからSF論争に終止符が打たれないのだ。SF論争ってのは、実は価値観とその限界論争でもある。それは人によって当然違うべきものだし、一種のコミュニケーションだから論争もまた大いによし、とすべきだろう。だが気付かずに自分の価値観の限界と程度を晒しだしてることにもなるので、己を省みて、恥じるところがないかもう一度よく考えるべし。
 結局私が「これはSFだが、それはSFじゃない」と拘るのは、自分の価値観の想定範囲はそんなんじゃないと怒ってるのも同然なのだな。