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2001年05月02日(水) 旧暦 [n年日記]

大人はダメダメ星人

 実は隠れた名作揃いというもっぱらの評判の「クレヨンしんちゃん劇場版」。去年はバタバタしてるうちに上映期間を過ぎてしまい悔しい思いをしたが、とりあえず今年は見なければということで行って来たり。本当は「隣のヒットマン」とかも見たかったんだよう。
 今回は大人を懐かしがらせ、日本全体を20世紀にもどそうとするケンとチャコが敵。(おお、ケンちゃんチャコちゃんだったか。ケンの見た目はどっちかというとジョン・レノンっぽいが)
 毎回毎回ある意味ナンセンスな世界観なのだけど、今回もそれにたがわず。しかし、実はテーマ性としてはかなりはっきりしている。「未来」であったはずの21世紀になってもワクワクするようなことはおこらず、懐かしいものが消えていくだけで前途はどんどん多難になっていく。昔に戻りたいとまではないにしても、昔は良かったとは誰しも一度は思ったことはあるはず。
 しかしそんな大人の懐古心は、「子供」であるシンノスケたちには無縁である。ひたすら現実から逃避するように「20世紀」に没頭していき、子供のことをわき目もふらなくなる親の姿に、怯えと共に疑問を呈する。カザマくんがはからずも「『懐かしい』ってそんなに楽しい事なのかな?」と言った台詞がそれである。親にとっては懐かしいことでも子供にとっては生まれる以前の知らない世界のことにすぎない。同様に、親にとっては嫌な現実でも、子供にとってはそれこそが「子供時代」だ。「今の世の中は駄目だ」と繰言をするのは、自分の過去だけでなく、子供の未来まで親が放棄していることになる。
 実際、この映画で一番よく動き、頑張っている(特に最後の方はテレビでは飄々としたシンノスケがボロボロになりながら必死になってる)シンノスケだが、その役割はむしろ象徴、「今ってそんなに駄目なのか?」「昔ってそんなにいいの?」という疑問の具現という位置付けである。この映画の主題の中心となる葛藤は、実は野原ひろしをはじめとする「懐かしさ」と「今」の間で揺れ動く大人たちが起こす。子供のため、でなく、自分のために悩むのだ。無責任に希望だの未来だのを謳歌するのでなく、「懐かしさで頭がどうにかなりそうなんだよ!」と顔面をくしゃくしゃにして泣きながらも、あくまで20世紀を過去のものと封印しようとする姿は、単に無邪気な子供ではなくなった、いろいろなものを抱え込んだ大人が「未来への期待」を持ちつづけることの難しさ、苦しさという負の面も折り込んでいる。
 と、いっても「クレしん」だから悲壮になりすぎることはない。野原一家が狂言回しで終わることもなく、その辺り、非常に上手くできている。
 この映画は確信犯的に大人、特に家族連れのお父さんに向けた映画である。「子供向け映画」としぶしぶ親子連れで行くのではなく、むしろそういった親御さんこそ、見てほしい映画だ。あ、でもブリブリ左右衛門は出てないや。2.5点。


2001年05月03日(木) 旧暦 [n年日記]

誕生日おめでとう>姉へ

 メール出すのがなんかおっくうなので。<おい

 え〜、ここんとこ野菜が多い健康的な食事(おいおい、健康的な食事ってのはいろんな栄養素を満遍なくバランスよく取ることだぞ?)を採っているのだけど、やっぱ肉類・油分を減らすと、皮膚の油っ気が減っていくっす。皮膚が油ぶらぶらしてたんで、この効果にはびっくり。今までどれだけ油取りすぎだったかってことですな。
 あともうひとつ、びろうな話で失礼だが、排泄物の色が変わった。ふむ、なるほど。狩猟者の人が獲物の糞とかでその体調とかを調べるというのがちょっとわかる。体調のバロメーターのひとつなのだな。某筒井氏みたいに、皿に自分の排泄物を持って対峙しつづけ、糞を食べる異星人の気持ちになりきるとかいうまではさすがに出来ませんが。(^^;


2001年05月04日(金) 旧暦 [n年日記]

わさび?

  リュック・ベッソンの新作 らしいんすけど、「WASABI」って…小津安二郎じゃないんだから。向こうの人が感じるニュアンスと、こちらのニュアンス、やっぱ食い違いがあるんだろうなぁ。
 今日、東京から来た友人を栄→大須案内。有体に言います。オタク方面の友達です。でもそういうとこばっか案内するのはとてもつまらないんで、 栄のテレビ塔 方面から ナディアパーク を経由して、大須へ。大須でも、電気街ではなく、古着屋街とか、寺社とか、そっち方面をメインに。っつーか普通観光ってのはそういうものなんだよ。
 今回、同じ名古屋市内に住みながら、ネット上でちょこちょこ話をしてるだけの方も交えながらで、とても楽しかったです。って、んな事してる暇は本当はないんだよう!(;_;)
 いやま、現実逃避、現実逃避…


2001年05月06日() 旧暦 [n年日記]

重低音公害

 人間は可聴域スレスレの低周波数音波を浴びつづけると、体調を崩したり精神的に不安定になったりするそうである、なんて話をずっと以前に聞いたり。
 音のエネルギーという奴は音圧の二乗だそうで、音の大きさは「音圧レベル」で表されることが一般的らしい。この音圧レベルと言うのは音圧とはまた別物で、以下のような式により関係が記述されるらしい。(「らしい」ばっかですまぬ。ワシも専門外なので俄かに調べてるのだ。)
  SPL=20log(P1/P0)
 SPLってのが音圧レベルで、いわゆる「デシベル(dB)」。P1はHONDAのロボットでなく音の音圧、logは常用対数でP0は基準音圧と呼ばれるものだそうで、人間が聞ける最低レベルの音圧である。つまり、書き直すと音のエネルギーESっつーのは、
  ES=P1^2=P0*10^(SPL/20)
ということになる。従って「俺の歌を聞け〜!」とか言って「歌のエナジー」とか、そういうことをやってても、音自体のエネルギーはこんなものなのである。だから重低音で気持ち悪くなるってのはエネルギーの問題ってより、固有振動数の問題かなんかかな? ちなみに人間の固有振動数はおおざっぱには110kHz前後だそうです。部位とかなんとかによって違うだろうけど。
 なんでこんなことをいきなり言い出すかと言うと、近所でなんかよくわからん重低音が響きまくって気分が悪いからである。どこかの阿呆がウーファーのレベルを最大にして音楽垂れ流したのか、流しててる方は重低音だけ聴いてるわけではないからそれでいいのかもしれんが、こっちとしてはいい迷惑。頭はガンガンするわ気持ち悪くなるわで、「責任者出て来い!」な感じである。普段は温厚のふりを出来るだけしている私でも、さすがに堪忍袋の緒が切れて「こンのFucking Creature奴!」などと叫びだしそうなくらいである。いや、本当にそれくらい気持ち悪かったのよ。
 ってワケで重低音出まくりの音楽をお聞きの皆さん、重低音の垂流しには重々お気をつけを。でないと代わりに貴方の近所で藁人形に五寸釘叩きつける音が響くかも。っつーかワシが響かせる。


2001年05月07日(月) 旧暦 [n年日記]

辛くない「辛口」はもうたくさん

  プロ野球の観客動員数が減少してる らしい。アンチプロ野球の私としては無責任に嬉しい限りだが、肝心の巨人の動員数は変わってないじゃん。ダメじゃん。
 それとは全く関係ない話で。
 なんかネット上の文章で「辛口」という言葉をたくさん見るけど、その実「辛口」なんて思えるものはほとんどない。「辛口」というのは本来ポイントを抑え、批評の対象である事物の痛い点をズビシと指摘したもの、なぜそれがいけないのかをわかりやすくまとめられたものが「辛口」と呼ばれるものであるはずだ。だから本当に辛口が書けるという人はとても頭が良く、鋭敏な視点を持った人で、「辛口」なんて言葉を使っているのは「自分はそういう人物だ」とアピールしてるに等しい。しかし、本当にそうであるかは書いた文章を読めば一目瞭然である(その頭のよさと鋭敏な視点は文章を書く際において、ということであり、当然書いた文章にはそれが表れていなければならない)。もう一つ言えば、辛味も滋味である。その「辛口」の周囲には対象に対する愛がなければ滋味にはならない。「愛」というと臭くてバカバカしい浮ついた言い方のように思えるが、要は対象にどれだけ深く切り込んでるか、ということである。それは思い入れが原動力である場合もあるが、別にそうである必要はない。しかし対象そのものに深く切り込み、深く考察することは必須であろう。ともかく、思い連ねただけの雑感を書き連ねるだけでは、どれだけ悪口でも事実でも「辛口」にはなりようがない。一見刺激的なだけだ。しかも、ただ単調な刺激は慣れてしまうことで刺激ですらなくなってしまう。そしてそれにおぼれることで正常な味覚を見失う。
 別にそういったものが存在していることがいけないというのではない。だがそういうものが「辛口」を名乗ってはいけない。それは「おこがましい」と言うのだ。


2001年05月08日(火) 旧暦 [n年日記]

大人が懐かしがることもない

 「宇宙船サジタリウス」というとウチらが小学生の時だろうか。テレビで放映していて、 とてもじゃないけど子供にうけるとは思えなかった 番組なのだけど、主題歌の「オトナが懐かしがることもない」のくだりに反して、今でも懐かしがるいい年したオトナがたくさんいる。内容はと言うとまるでムーミンみたいな動物だか人間だかよくわからないキャラクターが宇宙船サジタリウス号で大活躍 しない 話だった。主人公はリーダー格で正義感が強いトッピー、ラザニアが好物で七人の子持ちのラナ、恋人のアン教授を追って半ばうやむやのうちに仲間になってしまったジラフの三人。あと、流れの楽師みたいななんだかよくわからない生物、シビップもいるけど、こいつらが傾きかけた零細企業(ってより本当に潰れるけど)「宇宙便利社」に舞い込む依頼を老朽宇宙船サジタリウス号で宇宙をあっち行ったりこっち行ったりして果たそうとするのだけど、毎回依頼が一癖も二癖もあって、必ずろくでもない悪事の片棒をかつがされそうになったり、一銭にもならないけど見捨てて置けない他人の危機とかが絡んでくる。しかしその場合も小市民的な正義感、小市民的な悩みが基本で、あくまで恋人や家族や子供や生活のことを真っ先に考えてしまう。こんなムーミンみたいな生き物(ラナはカエル、ジラフはキリンとして、トッピーは何だ?)で話を作ったのは失業とか生活苦とか、リアルなキャラでやったらしゃれにならなかったからではなかろうかと思われる。十五年以上経って改めて見てみると、本当に身にしみますわ。
 こんな地味で花がない話にもかかわらず、一年半もの間放送されたということは、やはりそれだけ視聴者がこの番組を支持してたということだろうと思う。
 こんな話を急に書いてるのは、今BSで再放送してるのを見て懐かしくなったからなのだけども、この番組のオープニングを見るたびに、最終エピソードで事故に巻き込まれるトッピーが最後の通信でずっと考えていた二人目の子供の名前を送るシーン(「フェロー(Fellow)…フェロー…みんながいなくちゃだめなんだ」というシーン)を思い出して泣きそうになるのだよなぁ。「オトナが懐かしがることもない」というのを聞きながら、なんか妙な気分になるのだけど。


2001年05月09日(水) 旧暦 [n年日記]

Mozilla0.9公開、しかし…

  Mozilla0.9 が公開されてたので、さっそく落としてみる。が…言語パッケージがメニューから選択できないエラーってなんじゃぁ! だから私みたいな地雷踏み以外はまだ落としちゃダメっす。多分0.9.1がそのうち出るのでそれまで待つべし。
 連休中に九州に帰っていた東京の友人が、帰省返りに名古屋に寄ってわざわざ置き土産をしていってくれた。その名も「 モリンダ・タヒチアン・ノニ・ジュース 」…ってこの原料のところにある「モリンダシトリフォリアピューレ」って何? 一回の服用量って何?(ジュースなのに…) 『頑張って飲んでね』って何? どうもマルチ販売で売ってるジュースらしい。味も壊滅的らしい。どうやって入手したかとかよりも、何故こんなものを置き土産に私に渡すのか、彼に問いただしたい。しかも1リットル瓶まるのまま。
 勘弁してくださいよ。トホホ。


2001年05月10日(木) 旧暦 [n年日記]

諦めは絶望よりも性質が悪い

 なんてここ暫くの自分を省みて思ったり。それがなんにせよくすぶりにせよ、何かに怒っていなくてはいけないのだろう。それが対外的な態度に直接あらわれるかはともかく。
 テレビで「隣人は静かにわらう」を見る。隣人の正体が暴かれていく過程がなかなか良く出来ていて面白かったが、後味は限りなく悪い。うひー。
 なんかこの春はイヤと言うほどアニメの新番組があって、ちょこちょこと検索かけたら公式ページがぽこぽこ立ち上がってるみたい。 学園戦記ムリョウ とか、 ジーンシャフト とか Z.O.E とか。ジーンシャフトはここ二回か三回くらいしか見てなくってギャルわんさかのオタク向けアピールアニメかと思ってたら、全体主義と遺伝子レベルまで徹底された個体管理が推し進められた社会と言う、ある意味ありがちと言えばありがちな設定だけどこれが意外ときちんとやってるのでちとびっくり。しかし話の盛り上がりは欠けるわな。
 今晩のプロジェクトXの再放送は見逃さないようにしないと…