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2001年08月01日(水) 旧暦 [n年日記]

純粋であるということと魂の穢れ

 昨日BSマンガ夜話の「編集王」の回の再放送を見ていて、ゲストの大槻ケンヂ氏が「色々商業主義に塗れて俺って汚れたなぁと思うときがある」みたいなことを言っていたのに対し、岡田斗司夫氏が「ピュアって事はバカで無責任ということだ」と反論していた。なんかどっちも違うという気はするのだが、「自分が穢れた」という台詞はそう言えば前にそう人が言っていたのを聞いたことがあるのを思い出した。
 誰かってのはちょっと伏せとくけど、私はどう考えても穢れたとか汚れたとか、そういうのは違うような気がして仕方ないのである。
 子供の時の問題設定というのは非常に単純なものなのだ。目的も、条件設定も、目的達成に選択しうる手段ですら単純なのだ。何故なら知識量と経験量からくる判断能力が非常に未成熟だから。しかし大人は逆に多く物が見えすぎるがゆえに、その情報の多さから判断が難しくなることが多い。二律背反ならまだしも、単に雑多な情報の価値付けがちゃんと行われないこともままある。煩悩とでも言えばいいのだろうか? しかしそれは悪いことではない。単に本人の選択であり、能力の限界でしかない。穢れとか汚れとかとは違うのだ。ある意味「バカで無責任」というのは当たっているかもしれないが、しかし逆に選択肢が単純で自分の欲求に忠実なだけとも言える。忠実であるということは真実をある意味露呈してるのでもある。だから子供は正直というのもある意味間違いではない。
 いずれにしても「魂が穢れた」というのはおかしい。魂なんてものは何か形があるわけでなく単にそれまでの経験思考の集積に過ぎず、それにどんどん色んなものが付着するのは当たり前だ。どれが穢れ、どれが穢れでないということなど簡単に分けられるものでない。私はそう思う。


2001年08月02日(木) 旧暦 [n年日記]

ポール・アンダーソン逝去

  CONTACT Japan MLで主催者の大迫さんから情報が流れたのですが、SF作家のポール・アンダーソン氏が亡くなられたそうです。 メールの内容は野尻さんのBBSに転載されています。
 大好きな作家だったかというとそんなこともないけど、しかし先日の山田風太郎氏と云い、耳になじみのある方がどんどん亡くなっていくというのはやはり寂しいです。

良い田舎、悪い田舎

 昨日は映画の日だったんで体力の続く限り見てきました。でも帰って寝て体重計ったら2kg体重が落ちてました。食ったら回復したけど。
 外気温が高いせいなのか体温も37度。微熱でてんのか外気に合わせて調整してるだけなのか微妙ですな。いずれにしても死にそうなくらい頭くらくらしてたけど。
 しかし部屋に放置してた体温計を見たら目盛が40度近くになってたものなぁ。笑うしかない。(日向に置いていたわけではない)
  千と千尋の神隠し 。この民俗学的世界観は、現代の万人に理解可能だろうかと思いつつも、理解せずとも感じればOKというところ。とにかくホレおばさんとかヘンデルとグレーテルのような異世界での契約による奉仕という御伽噺にはよくある話を主軸に、しっかりしたエンタテイメントに仕上げてる。アニメだからとか云々以前に、この質のエンタテイメントをしっかり作っていくことができるからこその「世界の宮崎駿」という評価なのだと納得。ただのロリコンのおっさんではないのだ。しかしこの映画を見ていて気になったのは田舎の描き方。今回の舞台は妖怪・神といった異形のものの為の行楽地ということで、言ってみれば観光地化された田舎。これは宮崎駿にしてはめずらしく「嫌な田舎」で、「裏トトロか?」と思ったのだが、湯婆々の双子の姉、銭婆々が出てきて彼女の住む純朴な田舎が描写されると、どうもそうというわけではないということがはっきりする。
 別にこの映画自体が「良い田舎と、都会に感化された悪い田舎」という対立項で括れるというわけでもない。まあメインストリームにはどうでもいいことなのだけど、結局宮崎駿にとっては田舎というのは基本は+のイメージなのだなという印象がわりと残った。田舎者としては田舎というと空気が旨いとか自然がいっぱいとかそういう+イメージだけでなく、場所にもよるだろうが排他的で保守的、村意識というネガティブなイメージもどうしても付随してしまうのだ。宮崎駿もその辺りのことはわかってないわけではないのだろうが、エンタテイメントとして田舎の原風景というと、やはり+なものになるのだろう。そういえば宮崎駿ってわりと都会の町工場のぼんぼんだったか、と思い出し、妙に納得。
 映画自体は派手さはないけどしっかり楽しめる良作。2点。(3点満点)
  A.I. 。キューブリックが遺したプロットを基にピノキオ大好きなスピルバーグが作った未来の御伽噺。
 一部で一方的に愛を与えられることを求めるデイビッドがわがままという感想もあるようだけども「だってそういうふうに作られた機械なんだからしかたないじゃん」と私はわりと割り切れた。関係性に対する柔軟な対応というのは人間の特徴の一つで、主人公のデイビッドはそれを与えられずに作られたのだ。だからと言って面白いかというと「う〜ん」。映像的には面白いのだが、別にデイビッドの純粋さに胸を打たれるということもなく、スピルバーグがただただ自分の好きなようにピノキオを現代風に作り変えたという感じ。むしろあちこちにキューブリック的な匂いを感じるがために却ってキューブリックが作り上げたらどのような毒、風刺性を込められたのか、という方が先に立ってしまい残念。上映前に流れたCATS&DOGSの予告編の方が面白かった。1点。
  東映まんがまつり 。何故こんなもの見に行ったかというと、アギト映画版の予告のためと、デジモンテイマーズのためです。っつーか正確にはタオモンのため。まあ千円だしね。デジモン映画は毎年評価が実は高いのだが、今回のは無難にまとめられていたという感じが強い。テーマとなってるデジモンとテイマーの絆、現実にはありえないものが現実の風景にある違和感、というのはちょっと薄く、まあ無難なイメージが強い。なによりタオモンの出番が一瞬ってのはどういうことよ? ちなみにテリアモンは何故かシャワーシーンがあるので、テリアモン萌えはここで満足するんだろう。っつーかあのシャワーシーンにはスタッフの煩悩が見える。同時上映のキン肉マン二世、おじゃ魔女どれみは、前者はジャンプテイストで30分ながらなかなかツボを抑えたつくり。後者は演出レベルは高かったのだが、30分という時間の短さゆえか幾つかあったテーマが消化不足のままという感じが強かった。ちなみにアギト予告編は燃えました。点数はつけても無意味なのでつけません。
 最後は パールハーバー 。国辱ものだとかいろいろ言われてたし私も言いましたが、実際に見ないことには始まらないというので一応。うーん、これはなんと言えばいいのか。別に歴史的な正確さ云々はまあいいのですよ。しかしなんというか、まとまりがないという印象は拭えない。私はマイケル・ベイは発破屋だという評価をしていて、つまり話で盛り上げるところは焚き火に火薬をつっこむようにして無理矢理盛り上げるようなことをする。大げさとかベタだと云えば聞こえは悪いかもしれないけど、エンタテイメントとしてそれもまたありとは思うのだ。しかし、今回は花火を突っ込む場所を悉く間違えてる上に爆発のさせ方も綺麗ではない。燃えカスをいっぱい撒き散らしてるのだ。「タイタニック」は主人公は自分勝手だし全然共感もへったくれもなかったのだが、メインのタイタニックの沈没にあわせてドラマが盛り上がるようにちゃんと構成され、決着がつくようになっていた。パールハーバーは全然そうなってない。ドラマは結局盛り上がらないまま、真珠湾攻撃のシーンになってしまう。しかもその後、アメリカ大好きのマイケル・ベイはやられっぱなしでは気がすまないのかドゥーリトルの東京爆撃帯のエピソードを30分以上にわたって入れている。日本だからということもあるかもしれないが、映像的には既に先のシーンでクライマックスを迎えたし、ドラマも低空飛行だし盛り上がらないことこの上ない。不快だとかそういう以前に、3時間も延々見続けなきゃいけない映画ではない。真珠湾爆撃のシーンだけは派手なのは確か。0.5点。
 この映画のついでに栄のロッテリアに寄ったら、その向かい側の壁で小松崎茂原画展示をやってました。意外な収穫。でも目当てで行ったロッテリアのレナモンボトルキャップは期間が終了してました。しくしく。


2001年08月03日(金) 旧暦 [n年日記]

ってワケで性格判断テスト

 友人が見つけてきた性格判断テスト CUBICお試し版 。正しくは性格判断テストでなく、企業向けの適性判断テストの試供版。
 数人の友達が試して、結果はなんかかなりリーズナブルなものに感じた。実際には質問事項30項目ってのはこの手のテストとしてはかなり少なめで、製品版はもっと項目が多くなったりするのだろうけど、30項目でわりと適正と思える結果が出るのって結構すごい気がする。
 ちなみにヲイラの結果は以下のとおり。
自分の世界を大事にしていて、外界のことには興味がうすい人です。広く浅い
交友関係よりも、考え方や価値観の合うごく限られた友人との付き合いを大切
にし、深いつきあいを形成しています。審美的で、自分の信じる価値観のなか
で生活しているといえます。また、自分も含め、環境をあるがままに客観的に
とらえようとする傾向が強く、物事をキチンと把握しています。あまり人情的
にのめりこまないため、冷たい印象も与えることもありますが、自分自身につ
いて深く内省していて、豊かな内面性の持ち主です。
 だ、そうな。結構当たってる。
 どういうところが当たってるかと云うと、要約すれば「ヒッキーで友達が少なくって夢想的で人の言うこと聞きやしねえ」ってところ。
 水曜に放映中の「 スクライド 」。全然見てなかったのだけど、一部でいい評判を聞いて先週今週と見てみる。ダメだ。ヲイラ的には箸にも棒にも引っかかりません。音楽とかヴィジュアルとかはいいのだけど、肝心の話が全然ダメ。どうも話は横暴な体制側対一匹狼な無法者という感じなのだけど、完全に失敗してる。喩えるならただ頭が固いだけの風紀委員と、同じく頭の悪い不良生徒のどつきあいを極めて表層的に追っています、という感じ。黒田さん、ひょっとして無法者を書けない? 書けないのならやめとけばいいのに、などと意地の悪い感想なども出てくる。おまけに主人公が何がすごいんだかわからないままに勝手にまわりが盛り立ててしまう。せめて悪党のはずなんだけどなんか周りがもりたてる、とかやるならサンデーの「トガリ」くらいはやってよ。あと最低なのは、下品な言動させればワイルドだと勘違いしてるんかな? 先週のビッグマグナム黒岩先生はまだしも、今週のはなぁ…西部劇もっと見れ、とか思ってしまう。視聴サイクルからカットカット。
 ひそかに ロッテリア でキャンペーン中のデジモンテイマーズの人形付ペンを入手。当然レナモン。妙に満足してしまうあたり、却って自分が痛々しい。…ここ自虐系日記サイトじゃないはずなんだけどな。でもボトルも手に入れてやろうと決心してる私って…
 あと、 mozilla の最新バージョン0.9.3が公開開始。


2001年08月04日() 旧暦 [n年日記]

「パール・ハーバー」について

 突然思い出したが、パール・ハーバーで大統領が立ち上がるシーン、あのシーン見てつい頭の中で「立てます、総統!」という台詞を勝手に吹き替えたり。他にもメリケンさんの神風特攻発言があったりとか、いや、別にそれ自体を命の軽視というわけではないけど(日本と違って少なくとも上がそういう命令をしなかった)、米国人には神風特攻が理解できない、というのは多分ただのフォークロアですな。
  ウルトラマンコスモス の四話目を見る。先週のは二話目かと思ったら三話目だったらしい。まあそれはともかく、今週はまとも。すごく面白いという事はないが、楽しむのに問題となるような疵瑕はなかった。先週は組織が誰のために動いてるのか、怪獣のためか、人間のためか、それとも主人公のために動いてるのかさっぱりわからなくて矛盾だらけだったけど、今週はすっきりしてた。先週がひどかったんか? それとも今週が良かったのか? あと一週くらい見ないとなんとも言えないかも。
 個人的にはどうでも良かったのだけど、ジャンプで連載していて低空飛行のまま連載終了してしまったGUN BRAZE WEST。なんか最終回で脇役で出てたのがマイラ・ベル・シャーリー、サム・ヤンガー、ジャシー・ジェイムズJr.だったらしい。いや、別にそれもどうでもいいのだけど(まあ「スクライド」よりはキャラの立て方は上手く行ってるか)、マイラ・ベル・シャーリー32歳って既におばさん…げほげほ、いや、そうでなくって、既にサム・スタアと結婚してる気がするんですが? だったらベル・スタアになってないか?
 恥をしのんで ロッテリア のデジモンボトルのレナモンを入手。あ、このボトルいいかも。人形は別に取って置いて、このボトルは自転車で移動する時に飲み物入れて使おう。
 人形は、造形は結構いいのだけど、塗りが甘い甘い百円の缶コーヒー。中国の誇るおばちゃんたちの手作業はどうした!? 塗料買って来て自分で塗りなおそうかなぁ。


2001年08月05日() 旧暦 [n年日記]

突然、なんでもないことに気付く

 何故か「男はつらいよ 葛飾立志編」にチャンネルをあわせていて、大滝秀治演じる住職が寅さんに「自分が愚かだと気付いた人は既に愚かではない、賢い」と言うシーンを見る。前に同じシーンを見た時には「そこで自分が賢いと思ったら、結局元の木阿弥では」と思ったが、今見ると「自分が愚かだと気付いたのなら、自分の愚かさを嘆いていないで、ならばどうすればいいのか考え行動なさい、それが賢いと云うことだ」と云う意味だと気付く。人によってはそれで宗教に傾倒したりもするのかもしれないが、私としては、「今も昔も人間の考えることには大差が無いのだな」とくらいにしか思わない。おそらくは解釈の幅をもたせるとか、気付くだけの認知力を持った人にだけ気付くようにするとか色んな意味があるのだろうが、ミスリードが多いシステムであることには違いない。
 別に宗教の人がどうこう、ではなく、私が何時の間にかそういう道とは別の分岐に入ってしまったにすぎない、と思う。
 一旦感傷的になると芋蔓式に出てきて、こないだ友人に教えてもらった「人間ドキュメント」の鉄人騎手の回の話、見て後悔をする。見たこと自体を後悔したのではなく、教えてもらった時に友人に、「紹介文見ただけでも感動する」とか言ってしまったことを後悔したのだ。そんな単純な話ではない。もっと重い、もっと複雑な話なのだ。簡単に感動できるのは所詮リアル(リアリティとは違う)に感じていないから簡単に出来るのかもしれない。おそらくご当人と触れる機会があれば、もっと単純ではなくなるだろう。しかし語りたいと言う気持ちもある。その折り合いはどうつければ、いつまで続ければいいのだろう? 恐らくは死ぬまで考え続けねばならない、とは思いつつ。
 あまり堅い話ばかりなのだとなんなので、オタク話を。こっちからこっち重点的に笑わせます。こっちからこっち休め。
  パワーパフガールズ 、既にスーパーヒーローのガールズがマンガのヒーローに憧れて頓珍漢な行動をとる話。ガールズに倒されることがステータスな怪獣たちの価値観が笑える。ブロッサム、バターカップの元ネタはわかるけど、バブルスは何だ? それにしても「SPAWN」ならぬ「SPORE」…
  仮面ライダーアギト は、主人公翔一には実は姉がいました。その姉は超能力者でした。姉の恋人は全てを知るポジションにいる人間でした、という話。おまけに記憶を取り戻したはずの主人公はあっさりと記憶を再びなくし、それがどうも誰かの意図で封印された模様。とすると、主人公、利用されてる? そんなヒーロー今までいたか? いいぞ、もっとやれ。<おいおい
 ギルスこと涼も案外とあっさり死んでしまうし。ええんか?
 一週遅れの デジモンテイマーズ は基本的にメインキャラの一人のパートナーデジモン、テリアモンのパワーアップ話なのだったけど、それだけに収まらない話だった。実はオンライン人工生命開発計画であった「デジモン」開発に関わっていたジェンリャの父親がデジモンが実体化することを知る事、デジモン進化が単にシステム的なものでなく、進化をしない得意なデジモン「クルモン」にやはり深く関わることを示した事、そして何者か(劇中でデジモンの神と呼ばれる人間以外の存在)の意図による実体化と共に、更に実体化デジモンの人間社会への進出を助けるかのような人物の行動、など、謎と背景の再確認を何気にするような回だった。特にシステムとして組み込まれているはずの進化が実はそう単純な話ではないことを示す。ブルーカードのスラッシュだけでは進化が起きない、というシーンはもっと早くに出すべきだった気がする。ともかく気が持たされる。多少呪術的とは云え、十分SF的でもあると思う。次回はデジモンとテイマーの絆が強調される回のようであるし。いいいじゃんかさ、レナモンがお気に入りでも。


2001年08月06日(月) 旧暦 [n年日記]

こんな話を思い出した

 どうでもいいアメリカンジョークなのだけど、 「ある子供が友達にクイズを出した『犬のような脚をしていて、犬のような尻尾を持っていて、犬のような声を出して、犬のように歩くもの、なーんだ』『犬だろ?』『なんだ、クイズの答えを知ってるなんてずるいや』」
 もうひとつ、 「『例えば今から、尻尾のことを「足」と呼ぶことにする』『はい』『それでは問題だ。犬の足は何本だ?』『五本です』『いいや、違うね』」
 正直何が面白いジョークなのかさっぱりだけど、犬と寸分たがわぬものがいるとすればそれは犬以外にはありえないし、また尻尾を足と呼んだところで尻尾が足になるわけではない。石こははっぱになるわけはないし、昼が夜にもならない。犬は犬だし、尻尾は尻尾だし、石こは石こだし、昼は昼だ。喩えよく似ていても、そういうことなのだ。
 なんの事かさっぱりわからないって? わかる必要のある人にだけわかればいいっす。自分でも本当に言ってることが正しいのか、自信は無いし。
 幻のウルトラセブンの十二話についての 朝日の記事 。私もこの十二話は最近になって見たが、特に面白いと言う話ではないが、何が問題なのか、さっぱりわからなかった。
 それと フルーツバスケットのルール 。やったことない人多いのかな? おかしいなぁ。
 今日はふらふらするので体温を計ったら37度3分だった。私の体温が37度を超えるのは結構珍しい。明日からもやらなきゃいけないことがあるのに、大丈夫かなぁ。


2001年08月07日(火) 旧暦 [n年日記]

熱が出ている

 昨日から微熱が出てたけど、今日になるといい加減無視しきれない自覚症状が出てきた。
 気温は低すぎないのに鳥肌が立つ、冷や汗が出てくる、立ちくらみがする。身体がぎしぎし言って痛むし、目もなんかひりひりする。これが緩急つけてご来訪してくれる。昼には外せない用事があったので空元気を出してなんとか乗り切ったが夕方になるとほとんどぐったりしてるだけだし、エアコンの風が身体にきつくなってきたので早めに切り上げる。帰る途中でふらふらしたりして思わず小休止入れたり階段を上るのがおっくうになったり、わりと洒落になってない。でも体温は37度2分でほとんど変わってない。ワシってば昔から発熱に弱い。
 涼しい風は気持ちいいのだけど、同時に体温を奪われていくようなのでジャージズボンとどてらを引っ張り出して、夏だというのに着込む。当然汗が噴出すけど却って気持ちいい。蒸し暑いのも気持ちいい。身体は何を欲してるかちゃんとわかってるのだなぁ。暫くして熱を見ると37度を切るか切らないかくらいにまで下がっている。このぶんなら今夜無茶しなければ明日には治りそう。っつーか気合で治す。


2001年08月08日(水) 旧暦 [n年日記]

ぶりかえし。

 朝起きてやっぱり体調が悪い。体温は平熱。今日用事があるんでちょいと無理してでも、と研究室に行ったが、結局その用事はお流れ、ちょっとぐったりしてたら回復したので、解析作業。しかし無理は禁物と速めに引き上げ。熱計ったら…ぶりかえしてる。今汗をだらだら出すようにしながら回復に努めてます。流石に明日には治す。治らなくても治す。多分ここが山場。
 ちっと病気だと弱気も出てくる。いかんいかん。とにかくやることやらなきゃな、自分。


2001年08月09日(木) 旧暦 [n年日記]

心ばかりの…

 これは具体的に誰がどうとかいう話ではなく、あくまで一般論なのだけど…
 例えば友達が困ってたりとか悩んでたりとかしていて、そういうのって他からどうにかできる場合もあるけどできない場合もあって、じゃあ出来ない時にどうするのか、っていうと結局乗り切るまでその友達の心が折れないように気をつけるしかなくって、でも結局それって自分は無力だってことで、何か出来てるかもしれないけど出来てないかもしれないということは不安なわけで、何もあげられないけどせめて少しばかりの心だけでもあげている、と思わないとこちらも心の収まり様がないわけで。
 「心ばかりの」という言葉はそういうことなのではないかと思った。身勝手な言い分かもしれないけど。
 あと、自分も最近わりとウジウジと悩んでたりしたのだけど、別にその悩みが解決したわけではないけど、悩んでたら、突然、これだけ悩んでいても自分は「昔に戻ってやり直したい」とは全く考えてない事に気付いた。「物理的に過去に戻ることは不可能だから」ということではなく。何も不安は解消されてないし先の展望も開けてないけど、ちょっとだけ心が軽くなった気がする。とにかく顔を上げる。