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2013年01月02日(水) 旧暦 [n年日記]

[その他] あけましておめでとうございます。

 元日も明けて二日目ですが。
 とりあえず一日は完全に寝正月。二日目はちょっと自転車で走ってきたけど、二十キロも走ってないからなぁ。徐々に走りこんどかないと。
 まあ、正月は出歩く予定もないのでDVD借りたりで映画見たりとかしてますが。飽きてきたので、明日外に映画見に行こうかなぁ。まあ、そんなこんなでいつもどおりの正月で。今年もよろしくお願いします。


2011年01月02日() 旧暦 [n年日記]

[その他] 新年明けましておめでとうございます。

 なんか「明けましておめでとう」というのは「年が明けておめでとう」という意味なので「新年明けましておめでとうは重複だ」というしちめんどくさいお話があるようですが、「明けましておめでとう」はむしろ目的語を省略した形なので「新しい年が明けておめでとう」は字義的に考えて何も間違いはないと思うのだがいかがか?
 一昨年麻生元首相が「弥栄」を「いやさかえ」と読んだと大騒ぎしたバカマスコミもいたけども、もとの意味は「いやさかえる」で、それが縮まって「やさか」となったのだから、主流の読み方ではないにしろ間違いでもない。そういう本来の成り立ち、字の意味を考えずに「間違いだ間違いだ」と騒ぐ人というのは者の考え方が浅い人だと自分で喧伝してるだけと思うのだがいかがだろう?
 と、正月からしゃちほこばったことを書き始めるあたりが今年もいつもの調子のようで。

 まあ、年末はいつものごとく実家でごろごろしてたわけですが、大晦日は親につきあって主に紅白をみていたわけです。そしたらなんか水樹奈々の裏のダイナマイトで長島☆自演乙☆雄一郎選手の異種格闘試合があったそうで。そして今日のワイドショーでその試合の様子が流され、流れた恒例のコスプレ入場が「ミルキィホームズ」の「明智小衣」という……相変わらず変態だw
 長島選手にはミルキィホームズの権利元であるブシロードがスポンサーについているので、スポンサーの意向かと思ったら、本人からの申し出だそうで。しかも、小衣かアルセーヌのコスプレがしたいと言ったら、スポンサーサイドから「ミニスカが似合うから小衣にしましょう」と……どんだけ蜜月なんだこいつらw
 で、正直格闘技はあまりわからないので相手の青木選手が試合前から結構嫌われていたこと、総合の青木選手にかなり有利なルールが決められていたこと、くらいしか知らなかった。とは言っても、異種格闘ルールはかなり難しく、猪木とアリの試合で、ルール上まともに組技がかけられず猪木はローキックで引き分けに持ち込んだというエピソードもあるしなぁ、くらいの印象。
 だけどニュースで試合見たら、まあ確かに青木選手にブーイングも飛びますわな、という感じでした。キックボクシングベースのルールである1Rで青木選手は逃げまくりで、すぐに寝転んだりクリンチに逃げたり、中途半端にドロップキックなどの相手を挑発するだけの技をかけてはかけ逃げしまくってて、これは確かに印象悪いなぁ、とは思いました。けど、自分としてはそれはそこまで批難するつもりもないのですよね。まともにキックボクシングをやれば、青木選手が不利なのはわかりきってることで、あそこまであからさまに逃げ続けなくてもと思う反面、まともにやり合っても青木選手にはまるで利がない。ある意味合理的。
 ただ、問題は総合ルールの2R。ゴングが鳴ってすぐさまタックルを仕掛けた青木選手に、きれいに長島選手の膝がカウンターで入り、昏倒したところを長島選手が追い打ちで殴り試合終了。
 あまりにマンガみたいな出来事であっけ。
  長島選手のインタビュー記事 によると、2R目に入って倒されたらもう完全に勝ちはないので、ラウンド開始の仕掛けに来るタイミングを重点的に想定してイメージトレーニングを行ってたとのこと。青木選手が一番あきれられるべきは、1R目を逃げまくってしまえば2Rは組み伏せて楽勝だと、相手がどう考えどういう反応をするかを、まるでシミュレートしなかったこと。してなかったわけではないのかもしれないが、要は「自分が組み伏せる方が速い」と、相手をなめきってたってことですよね。1R目の「逃げ」が作戦というなら、2R目に組み伏せに行くやり方もきちんと作戦を考えてしかるべきだった。でもそれをしなかった。結局2R開始4秒での無策のカウンターKOで、青木選手はただ相手をなめてただけ、ということが示されてしまった。相手をなめて試合に臨み、逆にKOされてはあきれられて仕方ありませんわな。
 おそらく、フェイントなどを交え組み伏せることに成功してしまえば、本当に長島選手にはなすすべがなかったのでしょう。これは長島選手本人が認めているので事実なのでしょう。その意味で、青木選手は本当に良い意味で恐ろしい選手なのだと思います。しかしその技量と、頭脳派という評価に対して、格闘技素人の自分からしても今回はお粗末、としか言えないです。
 格闘家は人格者であるべきとは思いませんが、態度が結果に現れてしまっては……両選手の態度の差がそのまま結果につながったんでしょうね。
 2chまとめサイトにあったコメントで「結果は最高、試合は最低」というものがありましたが、まあその通りなんでしょうな。


2006年01月02日(月) 旧暦 [n年日記]

[読書] 疾走!千マイル急行/小川一水

 
 発達した科学技術と世界中に施設した鉄道網により隆盛を誇るエイヴァリー市が、軍事国の侵略を受け占拠される。市は四人の少年少女を含む人々をエイヴァリーの誇る「千マイル急行」で脱出させるが、千マイル急行に載っていたのはそれだけではなく、「ドラッグストン・コレクション」と呼ばれる未知の財宝も積載されていた。それを狙う追っ手から逃れつつ、千マイル急行は大陸を横断するが……

 ややネタバレ気味だが、小川氏らしい「技術萌え」「工業萌え」の話である。ジュヴナイルとしても骨子や要素は整っているのだが……
 噛んで含んだような言い方だが、個人的には詰め込んだネタの量と比例するかのような、消化不良の部分が気になって乗り切れなかった。
 「ドラッグストン・コレクション」の正体について、そういったことが可能かどうかというのは、まあ、あくまで「宝」ということでよしとしても、その宝の取り扱いの態度がころころ変わるのが、十分な描写を経ているとは思えなかった。また、最後に逃げたエイヴァリーの人々の亡命先での生活だけども……そりゃないでしょ、と思ったのが正直なところ。いや、ジュヴナイルとしてはそれでいいのかもしれないけど、 山林地の開拓ってのは技術職の複合で、人数がいれば、やる気があればできるというものではない。工業技術に思い入れがあるのに対し、こういった肉体労働系の技術職に対しては思い入れの薄さが対比として出てしまったと思う。あと、小川作品らしく「組織の陰謀」は大規模なのだが、個人の悪人・悪役・悪党がさほど魅力的ではない、というのが出てしまっている。
 良くも悪くも小川作品らしい作品だし楽しみはしたが、魅力の方が十分出し切れたかというと、そうは思わない。


2005年01月02日() 旧暦 [n年日記]

[必殺] あんたこの連れ合いどう思う

 必殺仕業人 第十五話。 DVD上巻。
 渡り中間 *1 の岩松と瞽女 *2 のおふくの夫婦が江戸にやってくる。岩松は口ではおふくに江戸で一旗揚げると言っているが、その実はどうみてもただの紐。おふくの稼ぎにたかっては博打でみなすってしまう。主水たちは口先ばかり調子がいい岩松の小悪党ぶりを見て、おふくにあんな男とはさっさと別れた方がいいと忠告するがおふくは岩松にべた惚れで聞く耳を持たない。
 そんな夫婦に目を付けたのは公事師 *3 の早瀬。大店の大黒屋は後添えおはまとその連れ子吉之助の身持ちの悪さに辟易して早瀬に離婚訴訟を依頼していたのだが、実はおはま母子は早瀬とグル。身代目当てで後添えに潜りこんだはいいが、離縁されては目論見がはずれてしまう。そこで岩松に、おふくを大黒屋の後添えにすれば、主人の死後の身代は岩松のものとそそのかし、おふくを大黒屋主人にあてがうことを承諾させる。しかし当然それはでまかせで、不義密通を訴訟しておふくもろとも大黒屋を死罪に陥れるのが目的だった。 *4
 それを立ち話で聞いた岩松は……

 ベタ惚れされてるのをいいことに酌婦までさせて内縁の妻にたかる渡り中間岩松と、たかられる人のいい内縁の妻の瞽女・おふくというところで、普通なら岩松に騙されたおふくの恨みで岩松を仕置する、とでもなりそうだが、そうならないのが仕業人。ひたすら岩松に尽くすおふくはもちろんだが、舌先三寸でおふくを騙しては金を巻き上げ、博打ですってはまたたかる、という繰り返しをする岩松も、小悪党に違いないのだがその悪事は子供じみていて、どこか憎めない。
 自分でおふくを騙して大黒屋主人に抱かせようとしたのに、殺されるとわかると必死で助けに行く岩松という奇妙な男と、死んだ後も小悪党呼ばわりされる岩松を、むしろ母性愛的に溺愛する一途なおふくの夫婦がこの話の厚みを出している、と言える。
 おそらく岩松にとっておふくは甘える相手であり、おふくにとって岩松はその深い母性を無尽蔵に向けられる相手だったのだろう。そんな二人を演じるのは必殺常連の菅貫太郎と市原悦子。中期以前の菅貫太郎は被害者も悪党も両方演じていて、それもあって最後の最後までどちらになるのか展開が読めない。岩松が事切れた後の「うちのひとがころされたー!」と叫ぶおふくの姿も、市原悦子だからこその耳に残る響きになっている。
 こんな連れ合いも、ありなのかもしれない。
*1: 中間とは雑役に従事する武家の奉公人。渡り中間は一つの主家にとどまらずに雇用のある屋敷を渡り歩く中間。
*2: 東北地方の流しの三味線引き。盲目の女性がなることが多かった。
*3: 諸法度に精通し、訴訟などを代理で行う職業。今での弁護士や代書屋に近いか?
*4: 定法どおりなら不義密通は死罪。もっとも実際にそこまですることはあまりなく、大抵は示談で済んだ。

[その他][漫画] 今日の散財、その他

トライガン・マキシマム10/内藤泰弘
トライガン・マキシマム11/内藤泰弘
げこげこ/水上悟志
ふたりぼっち伝説(1)/佐藤ショウジ
西の善き魔女(1)/荻原規子
西の善き魔女(2)/荻原規子
幻のスーパーカー/福野礼一郎

 トライガン・マキシマムは言わずと知れた。ちと長くなりすぎで全体としてのバランスは悪くなってるとは思うけど、でもやっぱりウルフウッドの最期は泣けるのう。
 「げこげこ」「ふたりぼっち伝説」はそれぞれOURsの新人作家の単行本。「げこげこ」の水上氏は 散人左道 で連載もやったのだけど、決して下手と言うわけではないが、やっぱ初期の短編の方があちこちごつごつしていて、でも最近の作品は角が取れたけども癖になるようなクセも、はっとするような鮮烈さも薄れてしまってるなぁ、というか……OURs編集部って、新人を一から育てるのは、やっぱり上手くない。
 「ふたりぼっち伝説」は代理原稿(連載作品がなんらかの原因で休載したり、あるいは予定のページ数間に合わなかった場合にその不足したページ数を埋めるための急遽、あるいはあらかじめ用意しておいた原稿。主に新人や持込が登用され、登竜門となることもある)が溜まりに溜まって一冊の本になってしまったもの。ってお〜い。いや、まあ、作家さんもいろいろ苦悶して原稿を生み出すのはわかるんですけどね。単行本一冊分の代原って……せめて、きちんと前もってスケジュールをコントロールして新人さんを載せる余裕を設け、鍛えていかないといつまでたっても新人さんが育たないような……大変だとは思いますが。で、そんなOURsの救世主の佐藤さんガンバレってことで購入。いや、代原ばかり頑張んなきゃいけない状況ってのは間違ってるんですが。ちと重点的に、連載が持てるように力入れてあげてくださいよう。
 西の善き魔女は評判がかねがね良かったので。「幻のスーパーカー」は年末、知人に「デザインというものを知るのに良いものなので、福野氏の著作を読んどけ」と勧められたので、書店にあったものをとりあえず。

 年末最後の忘年会で「ナディア最終回改めて見て、やっぱりあちこちいろんなもののパクリ(オマージュ)と気づく(んだけど、やっぱり面白い)」と言ったら、「でも、元ネタを知らない人間にとってはそれがオリジナル」と反論された。それ、なんか違うんだよなぁ。私は「オマージュだから元ネタに劣ってる」と言ったわけでも、「パクリだからいけない」と言ったわけでもなく、そういうつもりもない。別に悪口として言ったわけでもない。それを言うと、そもそも「まったくのオリジナルってどこにあるの?」という問題に行き着く。なにか作品の源流をたどったことが一度でもあれば「オリジナルってどこまでたどらなきゃいけないんだ?」という感想を抱くはず。つまり「オリジナルであるか否か」は実は重要な評価基準とは限らず、逆にオリジナルだから偉いとは限らない。「知らない人にとってはオリジナル」という発言は、実はそれ自体では意味をなさない。
 なんにせよ、結局表現にすぎず、その表現に何が乗っているか、なのだ。先に例えた「器」「中身」にそれぞれ対応させることもできる。また、「換骨奪胎」という言葉もあれば「新しい酒を古い革袋に入れる」という言葉もある。既にあるものだからいいというわけではない。新しいものだからいいというわけでもない。きちんと中身が機能するかが重要だろう。
 「器」も重要だが、「器」に囚われすぎると「中身」を見過ごしがちになる。


2004年01月02日(金) 旧暦 [n年日記]

あけました、おめでとうございますた

 PCが年末からクラッシュしてました。いや、マイッタマイッタ。マジで。
 昨年は色んな人に大変お世話になりました。御恩が返せるようにしつつ、本年もその御縁が維持できるように頑張りたいと思います。
 実家やらなんやらの疲労が溜まってるので、まあ、できるだけ今日は手短に。
  ファイズ は、村上は三ライダーのトリプルキックを喰らい、瀕死の状態で「オルフェノクの王」に出くわす。高笑いをあげながら自らその身を王に差し出す村上。それを見ていた花形は、ラッキークローバーと木場を前にして、王の打倒が最優先事項だと語る。一方、巧、草加、三原は木場に呼び出され、「オルフェノクの王」に対する共闘を申し込まれるが、人間を敵視する木場にいずれもがその申し出を断る。巧は木場に「人間とオルフェノクの共存という理想はどうした!」と詰め寄るが、二人の立場はよりはっきりと別れることに。そして木場はその後、海堂と会い、自分の為に働いてくれと頼む。やることを見失っていた海堂は「お前のことだから、人間のために戦うんだろ?」と、内容を深く聞きもせず請け負ってしまう。それが、オルフェノクの王=鈴木照夫の抹殺だということも知らず……
 オルフェノクも人間も、それぞれ生き残りのために、オルフェノクの王を挟んで対峙することに。お互いに友情を感じたまま、対立をしてしまう巧と木場。木場の目的が照夫抹殺だと知らぬまま木場に協力してしまう海堂、突如不調を訴える草加、そして、いまだ目的がはっきりしない花形……あと三回、これらのドラマはきちんと収束するのか、というのも含めてドキドキしながら見てしまう。
 新年しょっぱなっからアレなネタ。 自室で雑誌の山の中に行方不明にCNN )。あのー、笑えないんですけど。
  萌えるガンショップ 。え〜っと、見覚えのある絵が……ジオンメイドってこれだったか。
 ぐあ、いろんな人にお礼とかなんとか書かなきゃいけないのに、疲れて電池切れ〜。バタンキュー。


2003年01月02日(木) 旧暦 [n年日記]

こんな初夢を見た

 ぐっすり疲れてゆっくりと正月の実家で昼まで寝ている……という夢でした。夢も希望もあったもんじゃねえ。
 夕べ、「ローマの歴史をアメリカが繰り返している」という趣旨の番組をやっていた。塩野七生の著作を読んでいる最中だったのでグッドタイミング。ただ、たしかに似てるところもあるのだけど、ローマ街道とアメリカ国内のハイウェイ網の長さがほぼ同じだとか、$の記号の由来がローマだとか、「みんなユ○ヤが悪いのよ?」とツッコミたくなることも多々。愛だの寛容だのと、益体もない理想論を繰り返しているのも気に食わない。自由と寛容は素晴らしいことだが、国の運用としてそれを押し通そうとすれば、却って自由と寛容を損なうなどとこいうことは多々ある。そんなことは塩野七生の著作を読まなくたってわかることで、現実・事象から離れた部分でそういう繰り言を言っているのは、見ていてやはりおかしいと感じる。割と最近では、北朝鮮とかの関係で無責任な言動を繰り返していたテレビ局アナウンサー、各位コメンテーター、芸能人とかにも同じ事を感じた。「そんなことは考えもしなかった」と言い訳するならまだかわいいもので、ほとんどはそんなことなどなかったように振る舞っている。自分たちの言動が人々に与えた責任というものを微塵も感じていない。少なくともそのように見える。アメリカの責任を云々するよりも先に、自分たちが衆愚政治のお先棒を担いでいないかと自戒する方が先だろう。もっとも、この手の言は自分にも跳ね返ってくる矢なのだけどね。
 丁度、やはり実家に帰省している姉から、「灰羽 同盟 でいろいろ日記に書いてたけどさー、あれって現実から剥離した、オタク的な人間関係で気持ち悪くない?」と言われる。姉はオタク的なものに対して強い忌避反応を示すところがあるのでちょっと極端なのだけど、私の感じた灰羽連盟での違和感も、まあ大体そんなもの。これは個人の趣味の問題というところもあるのだけど、世界がとても「やさしすぎる」のだ。「世界って、そんなものではないだろう」と思ってしまう。世界ってのはうそつきと欺瞞と欲望と悪意に満ちていてごちゃごちゃで絶望的で、でもだからこそとても魅力的だと思う。私には、あの世界観に溺れられないし、また自分のような人間は溺れてもいけないのだろう。
  /.JP より 出来の悪いマニュアルコンテスト 。技術者に限らないのだけど、専門家ってのは自分がわかっているから、分からない人の身になってものを説明するというのはなかなかできない。かと言って、半端に分かっている人が説明すると、「嘘」を平気で書くことがある。それが実用上やむをえなく、また適切な書き方なら構わないのだけど、そうでないこともしばしばある。マニュアルってのは難しいものなのだけど、だからこそ出来の良い・悪いを白黒はっきりさせて質の向上を願いたい。
 おなじく /.JP から、 スイカ機能を持たせた携帯の開発へ?  先日、友人に「携帯にスイカの機能を持たせるようになるんだろうねえ」と話をしてはいたが、こんなに早く話が進んでいるとは。できれば、全国地区で使えるようにしてほしいものだ。いや、携帯は多分使わないけどね。
 元日に家族でした食卓の会話が「ロシアにおけるチェチェンテロとロシアマフィアの動向について」。なんでこんな話題で盛り上がるんだ、ウチは。


2002年01月02日(水) 旧暦 [n年日記]

僕たち義民、酒井家だけについていく〜♪

 老中水野の時代、領主の封地替えに反対し、庄内の農民が直訴を起こし、ついにはこの決定を覆すと云う事件があって、「義民が駆ける」と云う歴史小説になってたりするけど読んでません。<おいおい
 実家に帰ってすっかり寝正月を満喫していた頃、親が最近読んだ本でこれが良かった、と云うのでぽんと渡されたのが池宮彰一郎「島津奔る」。戦国時代を生き延びた薩摩の国主・島津義弘を描いた歴史小説と云う事になる。まだ上巻の半分くらいまでしか読んでないけど、慶長の役の見事な撤退から始まり、時代の大きなうねりの中でどうにか生き抜くために政略軍略の知恵を振り絞る様が描かれる。
 この本で気に入ったのは、誰か一人を「悪者」とするような、つまり、薩摩長州土佐側から描かれる時にしばしばあるように家康を野心家で狡猾に描くようなことはなく、戦国大名の振る舞いは大名一人の私心により決定するものでなく血族、臣下などの内政、また外部との止むに止まれぬ相互作用により流動的に決するものであり、後年から見ればまるで一個人の人格であるかのような振る舞いも、実際にはそうでない事を描いている事がある。
 二つ目に気に入ったところは、一つの戦場における一つの勝利が体勢を決するのではなく、それも外交の一つに組み込み、更にその上でどうやって生き延びるか知恵を振り絞っている事を描いている事にある。確かに戦場では比類なき猛勇で知られたが、政治に翻弄されて敢え無い最期を遂げると云うのはいかにも日本人好みである。しかし、実際に戦国の世をどうにか生き延びた諸大名の多くは政治的にもしたたかだった。一武将としてであればともかく、上に立つ人間はその下の人間に責任があり、それを放棄して我を通すと云うのは、ある意味無責任である。そうしなかった人と云うのは、もう少し評価を受けてもしかるべきではないかと思う。
 あと一つ気に入っているのは、秀吉の朝鮮出兵の目的が長い戦争状態の終焉による終戦不況が訪れる事を見越し、国外との戦争で武器など戦需品の需要をある程度維持しようとしていた事と書いている。それが史実であるかどうかはわからない。おそらくはそう云う一面もあったのではあろう。しかし作者はそんな景気対策に異を唱えている。戦争で戦争の尻拭いをして、それを軟着陸させるのは至難の業である。当然秀吉の朝鮮出兵は上手く行かず、よしんばもし上手く行ったとしても深い禍根の種を残したであろう事は間違いない。どこかの国に見せてやりたい話ではないか。


2001年01月02日(火) 旧暦 [n年日記]

「面白い」と言える事。

 前もって言っておきますが、これは知人と話した時にその知人が言った事が含まれており、従ってその影響も大きい、という事を述べておきます。
 ネットに素人批評と言うのは多い。非常に多い。そしてその大半は批評と呼ぶに値しないものです。さらにその中でも、悪口を書いているものが、「ここがダメ」と書き連ねているものが多い。いや、こういうこと書くとまんま自分に跳ね帰って来るから怖いんだけど。そういうのは大抵は批評のレベルでなく、ただの感想である。それが書いた人にとって面白いかつまらないか、ということを書いたのみのもの、と私はみなしています。ただ、性質が悪いのは書いた人が楽しんで見たようであるのに、悪口が書かれている、というのがあります。面白いなら面白いと(悪口書いちゃいかんとは思わないけど)、素直に書けばいいのに、誉めると自分の負け、というように意地になって悪口を書く人もいます。
 なぜそういう人は誉めないのか。単純に名の知れたものを貶めて自分を偉く見せよう、偉くなった気になろう、という心理もありますが、「面白いものが何故面白いか」というのを書くのは実は難しいことなのです。もしそれを的確に分析でき、リストアップできたとしても、その書かれている事=面白いと言う事ではありません。面白いものというものは要素でなく、実体を持たねば「面白いもの」にはなりえないからです。この意味では非常に的確な批評家であっても、三流エンターテイナーにすら敵いません。実際にものを作る人間と、ただ見るだけの人間の立場の差です。
 だから批評をするな、とは私は思いません。感想レベルであれば、感想として言えばいいのであるし(金を払って見た以上、面白いかつまらないかを堂々と述べる権利がある)、的確な批評はそれを読む/聞いた人に何かを残すと思うからです。ただ、「面白い」ということは形にする事が案外と難しい、ということを忘れず、面白いと言う事にもう少し敬意を払ってもいいのではないか、と思います。
 誉め殺しは問題外だけど、面白いものを面白いと素直に言える人間の方が私は信用できます。