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2009年12月29日(火) 旧暦 [n年日記]

[その他] なんだかわからないのは国というものだけではなかった

  鳩山首相、ラジオ出演はテンション低ぅ〜スポーツ報知 )。
 また、選挙中に叫び続けた「政治主導」「官僚任せ」の意味を、首相になるまで「どういうものかも分かっていなかった」と告白。
 どのような文脈で言ってるのか実際の発言を見ないとわからないけども、選挙前からあまりに曖昧な物言いだったので、言葉通りだったとしてもさもありなんかと。「(思っていたのとあまりに違っていて)どういうものかも分かっていなかった(と、後になって思う)」だったらまだいいのだけど、そんな甘い考えだったのかとかは言えるし、なんつーか、色々放棄気味というか。
 それにしても想像通りにひどいなぁ。


2008年12月29日(月) 旧暦 [n年日記]

[その他] なんか違う

  ナベアツや村上ショージで2次創作を ニコニ・コモンズに“ネタ動画”ITmedia )。う〜ん、MADが公認されて堂々と作れる、というのはいいことなのかもしれないけど、なんか違う、というのがどうしても感じてしまう。
 まず前提として、戦略としては別に何も間違ってない、ってのは明示しておきます。原著作権の権限が大きすぎることによりMADなどのサブカルから、あるいは「ちょっと似てる」というだけで訴訟継続能力の低い個人や弱小企業を大手が潰す、という構図になりかねない中、「それでは稼ぎ場である文化自体が縮小傾向な今現在では易がない」とし、話題性などの宣伝効果を見込んでこういう活動に出る、ってのは、著作権におびえながらMADを作ってた層には朗報だと思うし、訴えられる危険がないという意味では良いことだと、私も思う。
 でも、対象が「お笑い芸人」ってことが引っかかるのだよね。
 「お笑い芸人如きが」という意味ではなく、まったく逆。お笑い芸人こそが危ないぎりぎりの境界、あるいは境界をはみ出したラインを突き進んですら笑いで人の心を抉る存在なのでは、と思ってるから。個々の芸人が総意で作ったシステムではなく、芸人をプロモートする企業である吉本が合意したので、個々のお笑い芸人がというと違うのかもしれないけど、やっぱそれは芸人の「質」を規定しうる問題の気がする。
 企業が「はみ出し芸人は要らない。はみ出しに見えてもコントロールできるものがいい」と言ってるように思える。そう特に主張せずとも、その前提のように思えてしまう。
 無論、わざわざ前置きで予防線を張ったように「じゃ、これは悪いシステムなの?」と言われると「そうじゃないけど」と口ごもるほかない。でも、やっぱ破天荒な芸を望むなら、ニヤッと笑いながら、あるいはそれを更に上回るリアクションを取って「システム」ではなく「芸」で真正面から受け止める、そんなのを望んでしまうのだけど。
 その意味では、麻生総理はなかなかの芸人。マスコミが言葉尻ばっかり取って最近はちょっと凹み気味だけど、 小浜市からオバマ氏への贈り物を託され、「俺を宅配便代わりにするのか」と笑ったが、快諾した読売 )というニュースなんかは、昨今の芸人は見習え、と思う。こういう不敵さは政治家でも芸人でも衆目にさらされる仕事では大きな武器だろうなぁ。

  Josef Stalin named among greatest Russians in nationwide TV vote(ヨセフ・スターリンが全国ネットテレビの投票でもっとも偉大なロシア人の一人に選ばれる)telegraph )。
 やはりか!
    |┃三     , -.―――--.、
    |┃三    ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
    |┃    .i;}'       "ミ;;;;:}
    |┃    |} ,,..、_、  , _,,,..、  |;;;:|
    |┃ ≡  |} ,_tュ,〈  ヒ''tュ_  i;;;;|
    |┃    |  ー' | ` -     ト'{
    |┃   .「|   イ_i _ >、     }〉}     _________
    |┃三  `{| _;;iill|||;|||llii;;,>、 .!-'   /
    |┃     |    ='"     |    <   話は全部聞かせて貰ったぞ!
    |┃      i゙ 、_  ゙,,,  ,, ' {     \  >>1はシベリア送りだ!
    |┃    丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ     \
    |┃ ≡'"~ヽ  \、_;;,..-" _ ,i`ー-     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    |┃     ヽ、oヽ/ \  /o/  |    ガラッ
 まあ、マジレスすると強力な指導力を持った人物というのは、世情不安になるほど支持されますからね。でも、なんとなく「やっぱロシア人にはそうなのか!」という、おそらく間違った認識が……


2006年12月29日(金) 旧暦 [n年日記]

[その他] そらあかんでしょう

  宙戦艦ヤマト「ありふれた表現」 著作権侵害認めず朝日 )。いや、裁判長の判断もどうかと思うんですが(旧日本海軍戦艦状の飛行物体の先端から光線兵器が発射される映像はありふれてる、としても、それは明らかに「宇宙戦艦ヤマト」から派生したものだろうに)、それに輪をかけてるのは松本御大。まあ、ビジュアル的なものは御大の貢献が大きいのは確かなんですが、他人の著作物であるのも確か。こないだ著作権保護期間延長について「先人に敬意を払えば当然だ云々」と言った人と同じとは思えませんな。他人の著作物には敬意を払わないが自分の著作物には敬意を払え、ではなぁ……この人も本当に老いた。


  「君が代」斉唱時に起立せず事実上解雇された都立高校元教員十人の裁判が結審しんぶん赤旗 )。……あいかわらずツッコミどころ過ぎて、どこからつっこんだらいいんだ、この記事。
 「 都の通達による強制命令に服従したら、戦争のできる国へと逆戻りさせてしまうと思った」……いや、先の戦争の原因は全然そういうところじゃないんだが。
 「 子どもも教職員も安心して、本音で語り合える学校にするための判決が求められている」。子供はともかく、教師は本音じゃかならずしもいかんと思いますが……だってそれが子供に対する大人の態度ってもんでしょ?


  フセイン元大統領、死刑近く執行か・イラク法相「恩赦ない」日経 )。「一両日中か」という情報があったり錯綜してますが、法律では判決後30日以内に執行されるそうで、日本から見ると冤罪の名誉回復の余地もなくて無茶苦茶だなぁ、とも思うわけですが。この30日以内って、新政府が定めたのか、サダム時代に既に成立してたのか不明ですが。まあ、体制がひっくり返ったときってそんなもんだとは思うんですが。判決後すぐに引きずり出されて銃殺されたチャウシェスクよろしく。


  「窒息死は残酷」「苦痛なく低コスト」 アライグマ殺処分論争産経関西 )。炭酸ガスによる窒息死はある大きさ以下の動物だったら動物愛護を意図した殺処分の基準にかなってるんですけどね。大きすぎるとたしかに意識を失うまでの時間がかかり苦痛を伴うといわれてはいるんですが、そのへん、反対者はふまえてるのかな? 「そもそも殺すこと自体が残酷」なのだけど、そうも言ってられない現実があるってことをふまえないと。


2005年12月29日(木) 旧暦 [n年日記]

[読書] わかったつもり 読解力がつかない本当の原因/西林 克彦

 読了。 こちら で紹介していて、ほめているのだけど、どこがすごいのかわからなかったので店頭で最初をぱらぱらを読み、それで買った。で、ふたをあければこれは読めば読むほどたいした本だった。久々に手放しにほめることのできる新書だ。

 本の趣旨、構成については昨日の日記を参照してもらうとして、この本は「読む」とは「どういうことか」ということを追求している。それは文章を読むことに限らない。ありとあらゆるものの解釈の機構に適用できる。まず、「わからない」以外の状態(「わかった」状態ではないのは注意)とはどういうことであるかを読者自身を被験体として示し、その中の「わかったつもり」から「よりわかった」へ移行するにはどのような手順が必要か、例を示していく。「よりわかった」というのは文章の各部分同士および文脈との関連性が明確になり、以前よりより強く結びついていると理解した状態推移だ。

 少し良く考えてもらえればわかると思うが、「読み取る」という作業に究極的な状態はない。「全てを読み解いた」という状態はありえない。だから「わかった」状態というのはそこからさらに読み解いた状態から見れば「わかったつもり」にすぎないかもしれない、という立場であり、「わかった」ということがどういうことかは定義していない。「わかったつもり」からさらに読み解く「よりわかった」という状態推移を定義づけ、説明してるだけだ。

 「わかったつもり」の状態で終わらないために何をすべきか、という問題提起までしている。読み方、文脈の受け取り方は幾通りもあり、それが適切であるかのチェックも含め大変ではあるが、そこで終わってはいけない、ということである。
 もうちょっと卑近な例で言うと、この本はメディアリテラシーのテキストとして、最適でもある。この本では「文脈」の誤読により、文章に当てはめるべき前提情報(スキーマ)を誤り、文意を読み誤る場合があるという実例を示し、またそれに注意を促している。

 構成により惑わされる場合、たとえば最初の状態から文脈が微妙に変化し当てはめるべきスキーマも変化しているのに、それに気づかず最初のスキーマのままで文章を読み違える場合。逆に結果の文章のイメージが強いため、あいまいな記憶の中の途中の文章の意味を勝手に改変してしまう場合。「いろいろある」ということで、「いろいろ」の内容の追求を止めてしまい、文章の詳細にきちんとスキーマを当てはめない場合。
 読み手の最初から持ってるスキーマに惑わされる場合。一般的に「それが良いこと」とされているルールがあった場合、そのルールをスキーマとして(本文にはそんなことが書いてないのに)文章に当てはめて誤読する場合。あるいは無難なスキーマを用い、それで読み解くのを止めてしまう場合。
 これらの誤読のプロセスは、そのまま新聞記事やテレビのニュースにより扇動されるプロセスそのものでもある。

 先日おかしな記事とネットで揶揄された 社説:特急転覆 安全管理で浮ついてないか毎日 )の記事でもそれが例示できる。
 まず一段落目。事故がひどいもの、痛ましいということは確かにそうだ。しかし「取り組みの姿勢や関係者の意識を疑わずにはいられない」は果たして正しいだろうか? ここでは事故は通常では考えられないものだったのか、そうだったのか、また、安全対策が具体的にどうで、それをどう評価するのか、ということは一切言われていない。言われていないのにいきなり結論から言ってる。
 二段落目。「事故の予測と対策が不十分だ」と糾弾しているのだが、実はその具体的、合理的な考察は一切行われていない。「強風が原因だった」ということだけが事実(としても良いだろう)でそれがそれがどう想定されていたか、運行の規定はどうなっていたか、はまるで触れていない。「突風とは言いながら、風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ」は論外の理屈であることは言うまでもあるまい。「風の息づかい」とやらがあるのか、それを感じる技量とはどういうものなのか、まったく具体性を欠いているからだ。
 三段落目。ここでようやく運行規定の話が出てくる。が、ここで触れられているのは運行規定の客観的妥当性ではなく、先の「風の息づかいを感じるべき」という内容の繰り返しである。それがどういうことか、特殊例を挙げるだけでそれが一般例に適用されるべきか、また今回の場合適用できるかを度外視している。
 四、五段落目。二、三段落に基づく糾弾である。前提が正しいか、十分な判断材料が示されていないのに、この糾弾は論外であろう。
 六段落目。それらをコスト削減と結びつけて語っている。コストの話はそれまでまったく出てきていない。これは、尼崎の列車事故などでも広められた「コスト削減のため安全性を軽視している」というスキーマを当てはめることを期待しているのだろう。だが、この文章から「コスト削減のために不当に安全性が損なわれたのが原因で起こった事故か」はまったく示されていない。これもまたちゃんと読めば「おかしい文章」で、それを埋める具体的な情報(コスト削減のため、十分な危険性を認識しながら運行したか)がなければ、意味のない文章だ。

 これはまず最初に結論を持って来、また、「安全に十分注意すべきだ」という一般には否と言いにくいスキーマと、尼崎の事故が安全管理が十分でなかったという報道により周知されたスキーマを用い、本来言えるかどうかわからない方向に読者を誘導している。時事ネタでなんだけど、要は、この手の「ちゃんと読めば明らかにおかしい文章」というのは、報道にもあふれている、ということ。昨今の報道は過剰な演出と繰り返しと話題の切り替えの早さなどにより、熟読を許さないということもある。

 そういったものをちゃんと読み解く努力をしよう、ということをこの本は言っている。
 この本の言ってることって、非常に厳しいこと言ってるんですよ。だが、「むずかしい」「いろいろある」という諦めで終わらせてしまってはそこから進まない。「常に自分の解釈が不完全であると認識し、自分の過ちを見つけるよう努力することを怠るな」って言ってる。「よりわかった」になるためには文脈およびスキーマの意識的な頻繁なチェックが必要で、以前の自分の解釈を常にひっくり返さねばならない。

 これは、ともすれば当たり前のことを言ってるだけに思える事柄だが、合理的にある程度体系付け、実際に読者に体感させるという手法の巧みさだけでも、やはりすごい本だと思う。無論、本当にすごいのは著者がそれを実行し示しているということだが。
 また、文章を書く際に「どうすれば正しく理解される文章になるか」ということでもあり、本当に汎用性と適用範囲、応用範囲が広い本だ。


2004年12月29日(水) 旧暦 [n年日記]

[読書] 火車/宮部みゆき

 膝を悪くして休職中の刑事・本間は、親戚の青年から行方不明になった婚約者・関根彰子を探してくれと頼まれる。クレジットカードを作ろうとしてかつて自己破産の手続きを取った過去が発覚したのがきっかけらしいのだが、職場にも何も告げず突然の蒸発で、まるで逃げ出すように姿を消してしまったのだ。
 本間はよくある痴話げんかによる失踪、と思い調べ出す。しかし、自己破産の手続きをした弁護士は、彰子の履歴書の写真を見て「これは関根彰子ではない」と言う。姿を消した「関根彰子」とは誰なのか? 本物の彰子はどうなったのか? 二人の女の行方を追ううち、現代金融の落とし穴にはまり込んだ彼女らの半生が明らかになっていく。

 宮部作品をちゃんと読むのは初めて。つまり、初宮部。「火車」というタイトルは生前悪事をなした死者を運ぶ妖怪「火車」と、家計が苦しいことの比喩「火の車」とのダブル・ミーニングだろう。以下、ネタばれ。
 事件を通して描かれるのは、借金地獄に陥った二人の女であり、社会にぽっかりと空いたまま黙認されてしまった深い穴、そしてそこに意図せず落ち込んでしまった者の心の影と寂しさである。人がなにか理想を持つとき、実現の努力をするか、諦めるか、その二つに一つのように思える。が、理想が実現したかのような幻影に簡単にはまりこむ手段がある。それがクレジットカードだという。正確にはクレジットカードがすべて悪いわけではないが、システム的にそのような罠に落ち込めるようになってしまっているし、また、それを防ぐ為の十分な啓蒙もされていない。関根彰子はその隙間にはまり込んでしまった人間だった。そして、自己破産という手段を取る。彼女にはまだそういうやり直しの手段があった。
 が、彼女に成りすましていた新城喬子の場合は違う。彼女はその一世代前のパターン、住宅ローンによる借金を親が作り借金がまわりまわってヤクザが債権者になってしまうという、典型的な最悪のパターンに巻き込まれ、一家は悲惨な末路を辿る。しかも本来返済義務のない父親の借金の返済を迫られ、嫌がらせを受け、債務者である父親は生死すら不明であるため自己破産も出来ない。とこんまで追い詰められてしまう。官報で、父親の死亡記事をあさましく必死の形相で探すほどまでに。そのためにせっかく掴んだ幸福を失ったとき、彼女の中でなにかのスイッチが入ってしまった。それが別人になりすますための、一連の犯罪の直接の始まりになる。
 新城喬子は常に事件の中心として存在するが、彼女は最後の最後まで姿を現さない。しかし、捜査の中で明らかになっていく喬子の人物像は、ある意味本間を魅了していく。過去も友人知人も一切を切り捨てて新しい人間になろうとする執念と壮絶なまでの孤独、それでいながら求めるものは自分をこのような境遇に陥れたマイホームに代表される幸福な家庭であり、また婚約指輪に本当の自分の誕生石を欲しがったり、処分してしまえばいいはずの彰子のアルバムを処分せずに彼女の友人に送ったり……冷徹、というよりは強烈な意志力で犯罪を断行する姿と、時折見え隠れするさびしげな女の姿、なにを考え、なにを求め、そしてどこへ行こうとするのか……ついに姿を現した彼女に声がかけられるシーンで話は終わる。状況証拠しかなく、犯罪を立証するのは難しい。しかし、彼女が夢をかなえることはもうないだろう。その彼女がどうするのか、見たいという欲求はあるが、描かれないからこそ良い、とも思える。
 多くの宮部作品の中でこの本を手に取ったのは 「必殺からくり人」第十二話「鳩に豆鉄砲をどうぞ」 との類似を指摘する意見を見かけたから。読み終わって共通点を上げるならば、最後まで姿を見せない登場人物を追い、そして見せないことでその半生の悲哀を描いてるところくらいだろうか。それほど似てるようには思わない。しかし、その人物の行為そのものの動機が枠から漏れてなにかであり、そして断行される行為自体からも、あるいは別の、あるいは同種のなにかが漏れずにはいられない。しかもそれが余分なものではなく、それこそが大事なものだ。いずれも強烈な話ではある。

[その他][アニメ] 零れる

 「火車」を読んでてやはり思ったのだけども、今の流行の主流、オタクものに限らず、主流って「器」には気をつけているけど、「中身」は伴ってない、というより器の評価ばかりがされ、中身はまったくされてないという極端な形にあるように思える。有体に言えば評価の手法があるかないかという問題なのだけど。「火車」の場合は器は何重にかあり、次第次第に零れ、次の器を満たす。事件自体が零れたもので器があふれるから起こったのであり、そこからもさらになにかが零れていく。その零れた上澄みにこそ、もっとも端的に、しかし言葉で説明しがたい心を打つ何かがある(人によっては打たれないかもしれない。その人の中に共鳴する経験があるか否かだろう)。
 マーケティングの手法により消費者の求める「器」を用意するのがいけないわけでも評価してはいけないわけでもない。しかし、少なくともそれ以外のものもあると知らなくては、「それ以外」だが良いもの、には過剰な淘汰圧がかかるだろうし、消費者は用意された器に実は自分が元々共感しやすいもの、追体験したいものを自分で注いで、それを透かして見ているだけということに気付かずにいてしまうかもしれない。今に限らず世間はそういうものだ、という意見もあるかもしれないが、少なくとも私は自分がそこに閉じこもってるのは嫌だ。
 器も重要だが、器を重要視しそこに収めようとするあまり、実は最も人の共感を得られるかもしれない部分を削ってしまい、そこになにを注ぐか、そこからあえて何を零れさせるか、ということをおざなりに、いや、器と中身の違いが見えなくなってしまうというのは、つまらないかもしれない。
 なんとなくチャンネルを捻ったら「不思議の海のナディア」の最終回をやってたのでなんとなくそのまま見る。パロディ、というかオマージュ満載の最終回だったけど、きちんと消化した上で使ってる。BSマンガ夜話で岡田氏が(庵野作品のパロディというかオマージュというか)「あれはパロディをやろうと思ってるわけじゃなく、あれが自分の中にあるあそこで使えば一番カッコイイ表現だと思ってるから使う」ってなことを言ってたけど、そういう感じなんだろうなぁ。でも、今は更にそこからどんどん縮小気味に再生産されていて……って、最終回の演出、もりたけし氏(監督作品としては ヴァンドレッドストラトス4 など)だったのか。知らんかった。
 昨日、スマトラ地震による津波について、「すぐに自衛隊派遣は難しいだろう」と書いたけども、 海上自衛隊、三隻の護衛艦などを派遣Nifty , 共同 )だそうで。 愛・蔵太のきままな日記 より。うわ、甘く見ておりました。申し訳ありません。m(__)m しかし、タイミングによっては丁度日本に帰航中の「おおなみ」「たかなみ」が派遣対象になっていたかもしれないそうで……名前が……そんなこと気にしてる状態じゃない気もしますが(死者が最終的に10万を超えるという予測すら出てる)、主に国内の政府や自衛隊の足を引っ張りたい人が騒ぐ余地が与えられなくてほっとしました。
 (間違い訂正 遺体回収の任についたのは「たかなみ」「きりしま」「はまな」の三隻 みたいです。つまり「たかなみ」は行ってます。すいません)
  「日本の防波壁が首都を守った」モルディブ毎日 )。別に「日本偉い!」ってことではなく、きちんとこういうことも評価しないと、ODAについて、ちゃんとした議論はできないだろうなぁ。


2002年12月29日() 旧暦 [n年日記]

年末だと言うのに

 「ブレイド2」なんぞを見たり。前作はともすれば「エキセントリックなだけ」の吸血鬼アクションだったが、2はわりとストーリーがまとも。吸血鬼でありながら人間であるという葛藤は前作と違いすっぱり切り落とされていたけど、冒頭部の御都合主義以外は、1作目より出来がいいかもしれない。もっとも、「傑作!」というたぐいでもないのだけど。アクションの切れはいい。吸血鬼がハゲなのは、「ノスフェラトゥ」からの由緒正しい伝統?
 神林長平「永久帰還装置」を読了。円熟してからの神林長平の凄いところは、一見、テーマと関係のないところをストーリーが紆余曲折してるように見えても、読み終わった後からするといずれもテーマを語るために必要なものであったように見えるところだと思う。今回の「永久帰還装置」もその手法にまんまとはまってしまう。そしてテーマは「帰還」である。「帰還」に必要なのは帰る場所と、手段、そして帰る意志のみっつだという、ともすれば忘れがちな原則を軸に、それを記号論にではなく、有機的におりなしていく。「氏の一番の作品」とは言わないが、いつもながらに神林長平が堪能できる作品ではある。
 塩野七生「ローマ人の物語」のうち、2巻に当たる「ハンニバル戦記」まで読了。読み進めているうちにおそろしくなるのは、文庫版7冊を読み終えたら、未だ文庫化されていない部分まで手を伸ばさずにはいられなくなるのではないか、ということである。正直、ローマ人に心理的に肩入れしすぎではないか、と思う事はある。しかし、それ以上に必要十分に公平で、平易かつ明晰な論調で展開されていく地中海史の前には、多少のそういった不信も沈黙せざるをえない。のみならず、戦場で、政争で、あるいは国もしくは人物の艱難をくりひろげる、躍動感に加え、やはり平易かつ明晰な筆致と、深い知性と、歴史と人間に対するリスペクトを感じずにはいられず、それ以上に、ともすればその文章と内容に屈服されていることを、一種の快感を持って受け入れている感覚すら覚えるときがある。これは、幾人もの知人が絶賛するわけだ。
 幾人かの友人が「灰羽連盟」を絶賛。絶賛するにやぶさかではないのだが、そこまで「熱狂的に」はなっていない自分との温度差はやはり感じてしまう。無論、それは向こうがおかしいとか、そういうことではない。自分は何か根本的な感性がおかしくて見落としてる部分があるのではないかと、不安になるのだ。まあ、小心者の弁ですな。
 ふにゅう。今日も疲れたので、これくらいで。