踵を三度、踏み鳴らし 後編


「…しかし私は医師として反対です」
モニター越しに医師は反対の意を表明した。
「判断するのは私よ、そして私は医師ではないわ」長瀬はいつもの口調で事務的に答える。そしてノックの音がした。「話がそれだけならば切ります。それでは」
そう言ってまだ何か言おうとしている医師を後目にスイッチを切ってしまった。
長瀬の入室を促す声に、黒服とサングラスの男が入ってくる。
「先に報告されました米国第13艦隊の正体、国籍共に不明の敵性体による急襲ですが、現在までの情報によりますと、使徒、もしくはEVAの可能性が高い…」長瀬が不機嫌そうに机をファイルで叩く。男はびくっとして言い直した。「し、失礼しました。使徒もしくは「ガリバー」、によるものの可能性が濃厚です。正式な発表はなされていませんが」
それを聞き、長瀬がにっと笑った。
「願ったり叶ったりとはこのことだわ」
「しかし現在13艦隊は艦隊の20%を喪失、そんな戦力を持ったものに対抗する手段は…現在「ダンテ」はあてにはなりませんし、NN爆弾を含めたその他の戦力は…」
「戦力ならあるわ」長瀬がぴしゃりと言う。「彼らが運ぼうとしてたもの、「槍」がね」
「しかし「槍」は現在アメリカが…」
「君は「しかし」、「でも」しか言えないの?」長瀬があきあきした様子で言った。「そちらの方は私にまかせなさい。それより現在の旧ネルフスタッフの招集は?」
男は手元のファイルを広げ、長瀬に差し出す。「現在全体では90%、D級スタッフにおいては95%が招集されてます」
長瀬が資料を受けとり一瞥する。「結構。それと例の榊ユリについての再調査は?」
「それもそちらの資料にありますが」そう言って言いにくそうに言葉を切る。「戸籍登録は本物ですが、その他市民票、卒業証明などは偽造でした」
「と、いうと?」長瀬が答を促す教師の様に聞き返す。
「恐らくセカンドインパクト時に死亡した榊夫妻の娘の戸籍が、どさくさまぎれに死亡届けが紛失していたため「生きてる」ことになってたのだと思います。前回は戸籍のみを重点的に調査したので、その他の身分証明を見落としてたものと思われます…」
「言い訳は結構」長瀬の言葉に男が額から冷汗を流す。「…とはいえ今回は私の過失でもあるわ。特にはその責任は問いません」
男がほっとした様子になる。「榊夫妻の尋問の結果、3年前のX−Day直後に記憶喪失でさ迷ってた少女を夫妻が発見、保護したものと判明しました」
「期せずして彼女の身元が隠されたわけね」長瀬が無感動に言う。「道理でネルフ関係から行方をわりだそうとしても、出来なかった訳だわ。それで彼女は「ファースト」なの?」
「恐らく身体的特徴からそうだと思われます。しかし…」口ごもる男に長瀬の冷たい視線が走る。「しかし毛髪、皮膚の一部などを鑑識に回したのですが、その、鑑識が変なことを言い出しまして…」
長瀬が柳眉をよせ、眉間にしわを作る。「妙なこと?」
「いえ、取り敢えず結果報告を伸ばして欲しいと…」
「鑑識課には後で私が連絡を入れます」長瀬が少しいらついて言う。「それと、榊夫妻の尋問結果、榊ユリには伝えてないわね?」
「はい、指示通りに伏せています。ただ本人は薄々勘づいてはいるようですが…」
「ならいいわ。以後も伏せておきなさい」疑問の視線を投げかける男に、長瀬は言葉を付け加えた。「感情的になられると、協力が得にくくなるわ」そしてまた付け加えた。「セカンドチルドレンの受け入れ体制は?」
「現在ほぼ揃いました。しかし、本当にいいのですか?」
「何が?」長瀬が聞き返す。
「あの様な状態の、セカンドチルドレンを…」その後は言うにしのびない、といった風に言葉を切った。
「彼女が14歳の状態に留まってるのはある意味、幸運とも言えるわ」長瀬はためらいもせず言う。「現時点、彼女、シンクロできる可能性が一番高いそうよ」
「しかしだからと言って…」男が思わず口走る。言ってしまってから後悔し、口をつぐんだ。
「あら、それは彼女が望んだことでもあるのよ?」長瀬の口調には明らかな悪意がこめられている。こんな言い方をするのは、彼女にしては珍しい。「なら、彼女に過去に生きさせてあげるわ。それでこちらの役にも立つ、一石二鳥じゃなくて?」
彼女の言葉に込められた嫌悪感に、思わず男はぞっとした…。
「ほ、報告は以上です…」
「わかりました」長瀬はたったそれだけ答える。
男が出ていくと、長瀬はデスクワークを始めた。しかしやがてしてその手が止まり、少しためらった後、指がビジュアルフォンに向かった。
「鑑識に」音声で入力する。
暫くして、鑑識の白衣の男が画面に表れる。
「榊ユリの鑑識について尋ねたいのだけど、よろしくて?」
「いえ、それがまだ…」男がためらった。「もう少し時間を頂きたいのですが…」
「何か不審な点でも?」長瀬が問う。
「いえ、そういうわけでは…」男の視線が宙をさ迷う。「現時点では時間が欲しい、としか言えません」
「わかりました」長瀬がため息をつく。このままでは押し問答だ。後でちゃんと要請しよう。「しかしそう長くは待てません」
「わかってます」そう言ってから、男は暫くためらい、そして思い切ったように口を開いた。「あの…」
「なに?」通信を切りかけた長瀬が、不意をつかれ思わず声をだす。
「本当に人間なんですか?この毛髪と皮膚の持ち主は?」

***

でいじー、でいじー

あの歌はどんな歌だったかしら?アスカはふと考えた。
何処で聞いた歌だったかしら?誰から聞いた歌だったかしら?
「いやだな…病院は」
誰も答えるものもいないのに、ぽつりとつぶやく。
病院にいると思い出してしまう。ここにいると、自分が異邦人であることを思い知らされる。
どうしてだろう?
薄暗い病室、誰もいない空間。ひしひしと孤独感が襲ってくる。眠ろうにも、一日のほとんどをベッドの上で過ごしてるから眠くならない。何かをして孤独感を忘れたいが、手元にあるのは本が数冊。アスカはそのうちの一冊を手に取り、ぱらぱら、とめくるとすぐに投げ出した。
どうせ既に読んでしまった内容だ。
テレビもだめ、ラジオもだめ。医師の説明では、同じ棟に心臓病でペースメーカーを埋めた人がいるので、電波ノイズの出るものは禁止されてるということだった。
しかしそれはおかしい。この階にはアスカ一人だ。別の階ならそんな微弱な電波が深刻に影響するだろうか?
携帯電話がだめ、というのは判るがどうしてそこまで?
シンジの態度もおかしい。何かを隠してる気もする。でもそれだけじゃない。
シンジに妙な威圧感を感じる。いままでそんなことはなかったはずだ。
どうしてだろう?
シンジの不思議な落ち着きのせいだろうか?あいつあんな奴だったっけ?もっとずっと自分一人が不幸みたいな顔をして、いつも自分が悪いって思い込むことで自分が不幸だということを確認したがって、もっと自分のことしか考えてなくって…
気に食わない。
これじゃまるで私の方が子供みたいじゃない。
寝ころんだまま天井を睨む。ふとした拍子に、天井のシミが幽霊に見えてぎょっとする。
そうだわ。と、アスカは思う。ママは丁度こんな病室で死んだんだっけ。私を道連れに。
ママにとっての私は人形。ママはパパに捨てられた。私も一緒に捨てられた。だからママは私と一緒に死のうとした。
いいえ。そうじゃないわ。ママは弱かったのよ。一人で生きられなかったのよ。一人で死ぬことすらも…
でも私は嫌。人形になって誰かに操られるのも嫌。誰かの都合で殺されるのも嫌。
他人との共生をすれば、そこに必ず依存が生まれる。勝手な期待を持たれるのは嫌。期待されるのは本当の私じゃないもの。誰かにとって都合のいい私にすぎないもの。
だから一人で生きたいの。
誰か私を、そのままの私を見てくれる人が欲しいの。
「加持さん…」
アスカがか細い声でつぶやく。加持さんはいっつもこんな時、私を私に戻してくれた。私がそうでなきゃいけない私の姿を私に見せてくれた。加持さん、どうしてここにいないの?
アスカはじっと天井を睨んだ。泣きはしない。泣くのはずっと前に止めた。
誰にも弱みは見せない。期待すれば裏切られる。だから強くなるのだ。そしてもっと強くなる。
窓から空を見上げた。雨が上がり、星空が覗いてる。

でいじー、でいじー

またあの歌のことを思い出す。この部分しか憶えてない。後の部分はどうだったけ?
良く憶えていない。記憶もないような小さい頃、聞いた歌かもしれない。
そういえば…と思い出す。そう言えば 小さい頃、よく星を見せてもらったけ。
でも私はあまり好きじゃなかった。何故って、見せてくれたのはパパとあの女だから。EVAのパイロットになってからは加持さんがたまに見せてくれた。
加持さんと見る星は嫌いじゃなかった。別に星についての講釈をするのでもなく、星を見ながらいろんな話をしてくれた。
でもなぜかミサトの話はしなかった。ミサトのことを聞くと、いつもはぐらかしてばかりだった。その時の加持さんの顔はあまり好きじゃなかった。
私が更に問いつめると、加持さんは急に星の話をしだした。あれがアルタイル、あれがベガだって…
あれ?とアスカは思った。今は何月だったっけ?
どうしてあの星が今あそこに昇ってるの?今は何月なの?
時計を見てから月の月齢と位置を見る。セカンドインパクト後は月の惑星公転周期は25.2日、今の緯度と経度、黄道からの月軌道のずれをさっと引き出す。
衛星、惑星の軌道計算は昔やった。ちょっとしたゲームで、大学でいつも他の学生を負かしていた。
こんな計算ぐらいすぐできる。暗算で答を導き出し、ふっと、眉をひそめる。
間違えたわ。そう思い、再び計算をする。同じ結果が出てくる。
「ちょっと待ってよ…」唇をわななかせながらもう一度計算をする。今度はちゃんと方角、月の高度をしっかり測り直す。
「ちょっと待って…」さらに計算を続ける。でも何度やっても出てくるのは同じ答。
「嘘でしょ…」彼女は声を震わせてつぶやいた。考えられる結論は二つだけ。自分の頭がどうにかなったか、今が本当に2018年であるか…。
シンジはアスカが1週間ほど眠り続けてただけだと言っていた。でもそれは嘘?
「嘘よ…」
この三年間、自分がただ眠り続けてた?無為に時を過ごした?
「嘘よ…」
記憶が混乱してるだけか、何かよ。
「嘘…」
もう一度記憶を探り直す。自分が記憶してる限りのことを思い出そうとする。
始めて日本に来た時、浅間山の火口に降りた時、EVAで地下通路をはいずりまわった時…いや、まだ思い出せる。
空から降ってきた使徒を受け止めた時、その直前にミサトは昇進してる。そう、葛城一尉ではなく、葛城三佐だ。どうして間違えていたんだろう?
それと何だか知らない間に使徒が倒されてた時。
だんだん思い出すのが難しくなってくる。どうして?新しいことのはずなのに?
シンジにキスさせた時、加持さんからミサトのラベンダーの香りがした時。
胸がうずく。加持さんが私にミサトの話をしたがらなかったのはだからなのよ。
同時に頭の中ではさっきの歌のフレーズがぐるぐるめぐる。

でいじーでいじー、
ボクタチコレカラドウナルンダロウ?

シンジが使徒に飲み込まれた…そう、そんな時もあった。そしてもう一人のチルドレンと、もう一機のEVA…誰だった?知ってる奴。ヒカリの泣きそうな顔を思い出す。そう、あのバカだったわ。でも何であのバカがエヴァのパイロットになれるワケ!?選ばれたエリート、それがエヴァのパイロットじゃないの!?
でもアイツは死んだ…いや、死んでない。助かった。でもその傷跡は一生消えることはない。
それから?…シンジが逃げた。そうよ。アイツはいっつもそう。どうしてエヴァのパイロットだということにもっと誇りを持たないの?どうしてわざわざエヴァを下りなきゃいけないの!?
そんなシンジに負けるはずがなかった…でも負けた。どうして!?どうして私が負けなきゃいけないの!?
本当の私はもっと先にあるはずだわ。
どんどん記憶をたぐる。次の使徒、嫌!思い出したくない!!私は忘れたいの!!!でも忘れたままでは負けたままだ。
私はこんなことくらいじゃ負けないわ。ママになんか、シンジになんか、優等生になんか…
目からこぼれる雫が、ぽた、ぽた、とシーツを濡らす。
そう、あいつはママだった。いや、そうじゃない。何を言ってるのかしら?あいつは私の中を勝手に覗いて、ひきずり回して、そして、そして…あのまま死んでもよかった!誰かに私の心を覗かれるなら、あの女に助けられるなら!

どうして誰も答えてくれないの!誰も私を見てくれないの!私が役立たずだから!?ポンコツだから!?私が他人を拒絶したから!?

キミガ、コイシクテ、シカモニクインダ

ここはどこなのよ!今は何時なのよ!私は誰なのよ!!

シーツを引き裂き、叫び声を挙げる。

違う!そんなの私じゃない!!

パイプ椅子を振り挙げ、窓めがけ投げつける。硝子が破片になり、外に飛び散る。
アスカが最後に認識したのは、鳴り響くベルの音と、駆けつける大勢の足音だった。

それを聞きながら、アスカはさっきの歌のフレーズの最後を思い出していた。

モウトックニ、バラバラニダヨ…

***

「あれ?」シンジがアパートの自室で思わず声を出す。楽譜をもう一度確認する。中の一枚がどう見ても足りない。「ひょっとして、あそこかな…」
今日の一日の行動を顧みて、どうも病院でなくしたとしか思えなかった。
考え事をしてたから、ベッドの下か、どこかに紛れたのを見落としてたに違いない。
どうしようか、と考える。別に明日またアスカの見舞いに行くから、その時でもいい。でも掃除か何かで、捨てられてしまったら?
シンジは暫く考えた。今、シンジの護衛についてるのはトードだ。他の人物ならともかく、トードなら多少の我侭も聞いてくれる。そう思った。
でもこんな夜に自分の我儘で他人を振り回すの?
じっと電話の前で立ちすくむこと数分、シンジは受話器を取り、ボタンを押し始めた…

***

「あーあ、またこんなにおそくなっちゃった」
ユリは誰に言うともなくつぶやく。腕の時計を見る。既に9時を回っていた。別に珍しいことではない。劇団の稽古のある日はこんなものだ。
「ま、しかたないわよね…」
また一人でつぶやき、電柱の街灯だけが照らす、さびれた通りを駆け足で家路へと急ぐ。が、すぐに足取りが重くなる。忘れてる振りをしていても、すぐに碇シンジのことを思い出してしまう。
結局、あのあとシンジとは一回も会っていない。どんな顔をして会えばいいのだろう?でもこんなことで会えなくなるのは嫌だ。自分が悪いわけでもないのに。
どうして彼と会いたいのだろう?と考えた。恋、だろうか?
しかし恋とはどんなものか、その記憶もない。ひょっとしたら記憶をなくす前も知らなかったのかもしれない。
この所、少しでも気を抜くと不安が襲ってくる。だから以前にも増して稽古に力を入れるようになった。
しかし不安は確実に襲ってくる。眠るのすら最近では恐ろしい。
自分は誰なの?昔からそういう漠然とした不安はあった。しかし今は、自分が本当は「榊ユリ」という人物ではないのではないかという、より具体的な不安が襲う。
私は誰なの?
そう問うこと自体が恐ろしかった。だから没頭することで逃げる。
しかしその合間の空白に襲う孤独感、それをあじわう度シンジのことを思いだした。
何故かシンジのことを考えると、揺らぐ水面を連想する。
静かな海、沈んでゆく自分。一体何故だろう?心が安らぐ。
こんどちゃんと会って、シンジに事情を説明しよう。話せば判ってくれるはずだ。
そう思い、また早歩きになったとき、ふ、と男の子とすれ違った。
思わず振り返り、少年を目で追った。薄暗い街灯に照らされる白い髪…自分と同じだ。
ユリは方向を変え、少年を追った。何時まで立っても追い付けない。とても子供の足とは思えなかった。
息が上がり、苦しくなる。しかしそれでも追跡を止めなかった。
ユリは少年を追っていつまでもどこまでも駆けていった。

***

「早くおさえろ!」
医者が看護婦や、他の若手の医者に怒鳴りつける。

ああああああああああ!!!!

アスカの悲鳴ともつかない叫びが響いた。
誰か一人が病室の灯りをつけようとしたが、既にアスカが蛍光灯を割った後だった。破片が部屋中に散乱している。
何度スイッチを入れ直しても非常用のランプがつくだけだった。
アスカは叫び声をあげながらもがいている。その声は人間のものというより、獣じみていた。
どうしたんだ、安定してたのに!そう心のなかで毒づく。なにも俺の当直の時に暴れなくても…そんな考えもちらりとよぎる。が、事態が感傷を許さない。
「ジアゼパム、いや、ハロペリドールだ!」
より強力な精神安定剤に言い変える。
看護婦がアンプルと注射器を選び、医者に渡した。

いやぁぁぁぁぁ!!

アスカの叫びはそう叫んでるように聞こえた。看護婦の、意外にがっしりした手がアスカを押えつける。
医者がぱきん、とアンプルの口を折る。

ここはどこなの!?いったい私は、私は…

医者が慣れた手付で注射器でアンプルから薬品を吸いだす。

助けて、誰か助けて…

アスカは心の中で祈る。

加持さん!パパ!ママ!ミサト!シンジ!誰か私を助けて!

医者がアスカの腕を取る。注射器の針をぴたり、と腕につけた。

助けて!
誰か助けて!!
誰でもいいから助けて!!!
誰でもいいから私を助けて!ここから連れ出して!!

その時、彼らの背後でことり、と音がした。看護婦の一人がその物音に気付き、振り向いた。
そこで彼女が見たのは、この病室内にいるはずのない少年の姿。
気のせいだろうか?彼の体は薄暗い病室内でぼんやりと光を放ってるように見える。
その少年は看護婦と目を合わすと、赤い瞳の目を、細め、にこっと笑った。

Chapter 8: The Yellow Brick Road

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