不安の立像(後編)



病院の前で、SPとおぼしき男がシンジらの見舞いに待ったをかけた。
「困りますよ、ミスター。部外者は立ち入り禁止なんですから…」
男がトードに耳打ちする。目は少女の方に向いている。
「なんだ、あんな小娘一人が恐いのか?」
トードが挑発するように言う。わざと他の人間に聞こえそうな声で言っていた。
「取り敢えず、テロなどの可能性は全て排除させていただきます」
ダークブルーのスーツ姿のSPはひるまずに言う。身なりはぴしっとしてるが、上着のボタンは外してる。脇にホルダーがぶら下がってるのは目に見えていた。
「あんな小娘がテロリストな訳ないだろ?俺が保証するよ」
トードは後ろの少女を指して、みぶりを交えて言うが、効果はないようだった。
「あなたの保証なんか何の役にもたちません」返事はあくまですげない。「とにかく、彼女は通せません」
トードが哀しげに首を振る。
「そうかい、じゃ、可哀想だがあんたのペナルティだな」
「え?」SPが眉をひそめる。
「あの子はサードチルドレンのこれだ」そう言って右手の子指を立てながらシンジに聞こえないように小声で話す。「それをむべに扱うってことは、サードの心象を悪くする。下手すりゃ協力しないなんて事を言い出しかねんぞ」
「まさか…」笑いながらシンジの方をちらちら見る。シンジは何を言ってるのか分からず、相変わらずきょとんとしてる。「子供じゃないんですよ」
「いーや、言いかねんね。俺は四六時中張りついてるから分かるがね」
SPが何か言おうと口を開きかけたのを押しとどめ、トードはきびすを返した。
「アンタは職務に忠実だったよ。取り敢えず長瀬には報告しておくから安心しな…」
「ちょっと待ってください!」SPが立ち去ろうとするトードを呼び止めた。「別室でボディチェックはしてもらいますよ」
「それでわざわざこの子にここにいるのが重要人物だと知らせる訳だ。明日の朝にはこの子の学校で噂。次の日にゃ町中の噂、その次には日本中かな?またアンタのファウルボール。長瀬がなんと言うか…」
しまいに男はため息をつき、道を開ける。「通ってください」
病院内へと入り、シンジは不安そうにトードを見て言った。
「あの人に何言ったんです?」
「たまには長瀬の名前も役に立つってことさ」
トードにユリがずいと近付く。
「何だい嬢ちゃん」トードが不安そうに聞く。
ユリは問答言わずにトードの耳を引っ張ると、無理矢理自分の口の高さまで引っ張る。
トードはいてっ!と悲鳴をあげるがそんなことおかまいなしだ。
「誰が碇君のコレですって?」怒った様に子指を示して言う。
「しょうがないだろ、ああでも言わなきゃ、あの石頭言うこと聞かなかったぜ?」耳から少女の指を引き剥し、やっと元の姿勢に戻った。「にしても、よく聞こえたな…」
シンジをちらっと見るが、相変わらず何のことか分からず二人の顔を見比べている。
「だいたいオジサンが子指出して小声で話せば何話してるかわかるわよ」
ユリは言った。
「オジサンはひでぇな…」
トードはつぶやいたがそれは完全に無視された。
シンジはと言えば、会話から取り残されたものの、二人の様子をじっと側から観察していた。トードはわざとおどけてるものの、視線が時々あらぬ方向へいくのを確認していた。
視線の先にいるのは看護婦だったり、あるいは見舞客らしい人物だったり、時には患者だったりしたが、そのうちのいくらかは彼らに時々不自然な視線を向けていた。その異様な雰囲気はシンジにもわかる。
トードはそれを確認しているらしい。おそらくは内務省のつけた監視だろうが、トードはあまり彼らを信用してないらしいのは先の入口の折衝でもわかった。
一方ユリの方はと言えば、やはり明るく振舞ってるように見えるが、どこかその態度が不自然だった。
最初何処がかが判らなかったが、近くを松葉杖をついた、片足を失った患者が通った時に判った。
シンジは一瞬彼を見、そしてすぐに慌てて視線をそらした。そして、ユリとトードの方を見た。
トードはちらと今通り過ぎた患者を見たが興味なさそうに視線を元に戻した。しかしユリは彼の方向を見ようともしなかった。
気がつかなかった、とは思えない。彼女のすぐ目の前を通り過ぎたのだから。
そしてまた暫く二人を見てたが、会話の内容がわからなくなったので、動作だけを注目するようになった。すると何か会話がおかしい。トードが口をつむぐとユリも喋るのをやめる。トードが喋り出すとそれにあわせて、また受け答えするのだ。
しかもトードが笑うとユリも笑い、渋面をつくるとユリも顔をしかめる。まるで人間の表情にのみ反応して、その他のことには興味ないみたいだ、と思った。
と、そう思った時、ひたすら冷たく二人を観察してる自分に気付き、急に自分が恥ずかしくなった。逃亡生活中の名残だろうか。どうも他人の行動を分析してしまう。
何故かシンジはそんな自分に嫌悪感を持った。
「どうしたの?」ユリがシンジの様子に気付き、エレベーターの前で聞いて来た。
「いや、なんでも…」そう言ってシンジは思わず視線をそらす。「ごめん」
後ろめたさが彼に謝罪の言葉を言わせた。
「何謝ってるの?変な人ね」そう言って笑ったが、シンジが無反応なのを見て、笑うのをやめた。「ごめんなさい」
彼女も視線をそらした。
その瞬間、彼女がとてつもなく綾波らしく見えた、と彼は思った。
エレベーターの到着を知らせるベルが、チン、と鳴った。

***


「どう、アスカちゃん、具合は」
そう聞いてきた看護婦は、前の看護婦とは違っていた。
前の看護婦は若くて奇麗だった。今の看護婦はかなり年を食ってる。化粧の具合で主婦だ、と判る。若い頃はどうかは判らないが、今はお世辞にも奇麗とは言えない。体格も魅力的と言うにはかなり立派過ぎた。
しかしアスカはそのことに安堵感を憶えた。何故かは判らない。
「ご飯はもういい?」
彼女が聞いてくる。何も答えないと同じことを聞いて来るので、微かにうなずいてみせる。なにより彼女は今、少しいい気分だった。
どうしてだろう?美人の看護婦の当番ではないからかもしれない。それとも今日は「おにいちゃん」の来る日だからかもしれない。
だがいずれにしよ、気分がいいのは確かだ。その事実が彼女をさらにいい気分にした。
ただ、最近妙なことに、看護婦達が「おにいちゃん」のことをXXXくん、と呼ぶようになった。XXXは何と言ってるのか判らない。そのことは彼女の不安の種だった。
どこかで知ってるような気もする。しかし思い出そうとすると試行は意味のない巡回に入り、思い出すことができない。
食事のトレイを看護婦が下げてる最中、廊下から靴音が聞こえてきた。軽い体重、若いことは判るが、やや間延びしたような歩調、靴の種類。間違いなく彼だと判った。
しかしそれと同時に異常にも気付く。別の、聞きなれない音が響く。看護婦ではない。一人はもっと大人の、しっかりとした男の靴音。足音も「おにいちゃん」と違いしっかりとした足取りをしてるのが判る。
しかしそれは気にならない。時々来る男の医者などもそういう足音をしてるからだ。
気になるのはもう一つ、シンジよりも軽い体重、しかも足取りもかなり軽く、やや小刻みなペースがその人物の活発さを示してるようだ。

誰?

アスカは戸惑った。この人物は女?「おにいちゃん」と一緒に来てるの?
疑問が浮かんでは消えていく。しかし彼女にはその問いに、答えを与えることが出来なかった。
もし答えれば、彼女の望まぬ答えになったからだ。
やがて話声も聞こえてくる。主に二人、少し落ち着いた男の声と、若い女の声。この二つに、時々「おにいちゃん」の声も絡まる。
とたんに彼女のいい気分はふきとんだ。もし彼女を見たら、大声を上げて叫んでやろうと思った。そうすれば女は帰るはずだ。「おにいちゃん」も早めに帰ってしまうかもしれないし、がっかりした顔をするだろう。
しかし女の顔を見る方がもっと嫌だった。
そう決めたとき、丁度食事のトレイの乗ったワゴンを押して出ていこうとする看護婦と入れ違いに、彼らが入って来た。
アスカはさあ、悲鳴を上げてやろうとした。
しかし三人のうちの女を見た瞬間、彼女の口から洩れたのは紛れもなく本物の悲鳴だった。
女はまさしく、アスカにとっての不安の立像、そのものの姿をしていた。

***


部屋に入り、急に叫び声をあげたアスカを三人はしばしあっけにとられ見ていた。わめきながら、サイドテーブルの上に置いてある本、ノート、鉛筆などを振り払い、花瓶を手にとると振り上げる。花瓶から水がこぼれるのも構わず、ユリに狙いをつけると迷わず投げつけてきた。
花瓶はユリに届かず、手前の床に力なく落ちがしゃんと割れる。
しかしアスカは構わず、手に届くもの全てを投げつける。
ペン、枕、サイドテーブルの引き出し。
重いものは殆んど届かないし、その他のものも狙いは不正確だ。しかしほっておいていいものでもない。
引き出しからナイフがこぼれ落ちた時に、さすがにシンジもはっとしてアスカに飛びかかっていった。
「やめろよ!アスカ!危ないだろ!!」
どうしたんだ、アスカは?心の中でシンジは思っていた。確かに今まで騒いだことはあったが、それは何らかの外力に対する抵抗だった。今一体何に?!
シンジにはアスカは意味不明な叫びをあげてるようにしか見えなかった。しかし彼女は心の中ではちゃんと叫んでいた。

なんで邪魔するの!あの女よ!あの女がいるのよ!!

「やめろ、落ち着くんだ!」
シンジはアスカを傷つけないよう、毛布で上から押えつける。しかし暴れるアスカに力加減をしてるため、用意に押えられない。
ユリがそんなアスカを見て、一歩、また一歩と近付いて来た。
「何やってるんだ、危ないよ!」
シンジがユリに叫ぶ。
シンジの叫びにまたアスカが逆上する。

なんでよ!なんでその女を庇うのよ!私はその女が大嫌いなのよ!

「早く下がって!」
シンジはユリに言う。またアスカの抵抗が激しくなる。
「あなた、私を知ってるの?」ユリが口を開く。「私、誰?」
シンジには彼女の言ってる意味が判らなかった。少なくとも今はそれどころではなかった。
トードがはっとしたようにユリに近寄って後ろから押えつける。
「下がるんだ。彼女が興奮するだけだ」
ユリにトードが耳打ちする。それを聞いて、ユリはトードに引っ張られるがまま、部屋から出ていった。
部屋から彼女が消えてもまだ収まらない。どこにいるかしれやしない。

知ってるか?ですって?!

アスカは思った。
知ってるわよ!
わよ
わよ
アンタは私のものを奪った女!今また「おにいちゃん」を奪おうとしてる女!
オンナ
おんな

しかしアスカはまだそれでも彼女の挑戦に満足してなかった。しかも彼女は彼を奪おうとしている。それを防がねばならない。
とたんに今まで外れてた頭の中のピースがはまってく気がした。

それは             
それは             
それは             
それはおにいちゃんじゃないわよ!

今まで避けていたように意味をなさなかった言葉がとたんに救いに変じた。
それがおにいちゃんでなければ、おにいちゃんが奪われたことにならないからだ。

そして         
そして         
そして         
そしてあんたも知ってる!
          てる
          てる
          てる

そうよ、思い出せるわ!アスカの心に失われていたものが甦る。

そいつは
そいつは
そいつは
そいつは碇シンジ!アンタは綾波レイよ!

とたんに自分を押えつけてる碇シンジに気がついた。
なにしてんのよ!コイツは!そう思った瞬間、アスカの蹴りがシンジの腹に入っていた。
「なに人の体に触ってるのよ!バカシンジ!」
うずくまったシンジがきょとんとアスカを見つめる。
「第一なんであの女がここに来るワケ?!いまいましいったらありゃしない!」
シンジはいきなりのことに呆気にとられるしかなかった。今までほとんど無反応だったアスカが、いきなり蹴りを入れて罵声をあびせる?どっかおかしくなったのか?いやいや、アスカはこれで正常だったはずだ、と平気で失礼なことを思い直す。「アスカ、僕が判るの?」
アスカが眉をしかめ、うずくまるシンジに怪訝な表情を見せる。
「アンタバカ?!人の頭を疑う前に、自分の正気を疑ったら?!」
急にシンジがアスカに抱きつく。今度はアスカがいきなりのことに面食らった。
「ちょ、ちょっと、何よ!」
しかしシンジは構わず抱きすくめる。
「よかった、もう大丈夫なんだね。よかった…」
平気で泣きじゃくるシンジにアスカも思わず赤面する。
「と、とにかく離れなさいよ!」無理矢理シンジをひっぺがし、辺りを見回した。「ここ、病院、よね…」
アスカのつぶやきにシンジがうなずく。
「一体私どうなってたの?」
アスカの問いに、シンジは戸惑った。
「いや、何から話していいか…」
本当に何を話していいか戸惑った。今、事態はいいわけではない。しかしアスカが元に戻ったことが一筋の光明に思えた。
「まあいいわ。話は後よ!」いつまでも煮え切らないシンジに業を煮やして、アスカが言うと、髪留めに手をやりはずす。「何よこれ!趣味わる〜い!」
手にとった髪留めを見て、そう言うと近くにぽいと投げ捨てる。
思わずシンジがゴメン、とつぶやいた。
「私の髪留めは?!」ベッドの周りのカーテンを引きながらシンジに言う。
「ご、ごめん、すぐに持ってくるよ!」
アスカに気押されたシンジがあわてて言う。
「ホンッとグズね!さっさと持ってきて!着替えもね!」
不機嫌に、というより慌てた口調で言った。
「う、うん判ったよ」シンジは思わず答える。しかしふと不信感が浮かび、カーテン越しにアスカに尋ねる。「でも着替えて、どうするのさ」
アスカがカーテンのすき間から顔だけ覗かせる。「何言ってるの?アンタバカ?」さも不思議そうにシンジを見つめる。「今夜ハーモニクスのテストでしょ?準備しなくちゃ」
「何だって?」
我が耳を疑い、シンジが思わず聞き返す。
「今夜ハーモニクステストだって、ミサトから聞いてるでしょ?」アスカが呆れたように眉を寄せた。「その年で惚けたの?バカシンジは?」
シンジの耳にはもはやアスカの厭味の言葉は入ってこなかった。

Chapter 7:The Statue of Anxiety

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