***

レイが息を吹き返した時、初号機が再び動きだそうとした。レイはすかさず駆け出した。一瞬足を止め、碇シンジの方を振り返る。シンジもレイを見つめていた。しかしレイは何も言わずに再び初号機の方へ駈けていく。すでに別れは済ませてある。レイは飛び上がって、初号機の首筋に降り立った。
「私の身体が欲しいのならあげるわ」エヴァの首筋に手を添えて言った。「だからアダムを倒して!」
レイは再び初号機と共に去っていった。

アダムは今までにない強力な敵の存在を感じ、穴の底へと降りてきた。ダメージがあるとは言え、5号機をあっという間に倒した。まずそいつを排除せねばなるまい。
しかしそれ以外に別の存在達が降りてくる。
いきなり二体のエヴァが、組み合ったまま落下してきた。別のエヴァを組み伏せたエヴァが、ゆっくりとアダムの方を見る。アダムもそいつを見た。エヴァがアダムめがけ手を伸ばしてくる。しかしアダムの直前で手は見えない壁に阻まれた。中和しようとエヴァもATフィールドを展開する。しかし出来なかった。無理矢理伸ばそうとする腕がひしゃげ、腕の形でなくなっていく。
そのまま腕の歪みは肩まで駆け上がり、ただの血袋と化す。エヴァの吠える声がした。アダムがそんなエヴァを一瞥すると、エヴァはそのまま壁に叩き付けられ、頭をつぶされた。壁に巨大な血の華が咲く。
今度は組み伏せられていたエヴァが起き上がろうとするが、ATフィールドによって地面に押し付けられ、潰されていく。
まだ上から、反応が三つか四つ程近付いて来る。いずれも取るに足らない半端ものだ。所詮はS2機関のイミテーションを搭載してるだけの、つまらない存在。この奥にいる奴に比べればどうということはない。
アダムはさっきの奴の反応を感じた。しかし一体だけではない。側に別の何かがいる。それがリリスだと言う事はすぐ分かった。
あくまでも向うは拒み、戦う気だ。それならそれで力ずくで叩き伏せるだけだった。
槍を手にした初号機が、壁の穴の中からゆっくりと現れてくる。レイも一緒だ。
アダムが初号機の方を睨んだ。その時、上から再び二体のエヴァが連続で、穴の底へと飛び降りてきた。着地した辺りの地面が、わずかに陥没する。
二体のエヴァは同時に向かってきた。一体はアダムへ、一体は初号機へ。アダムに向かってきた奴は、ATフィールドに頭からぶつかりのけぞった。強力無比なアダムのATフィールドは、所詮はエヴァでは中和できない。
もう一体の方は初号機へと向かってきた。おそらく敵だと認識したのだろう。初号機がそれを受け、左手だけで組み合う。組み合った相手のエヴァは左手で初号機の喉を掴んで締め上げた。初号機が苦しそうに口を開いていく。いきなり、槍を持った右手で相手のエヴァの横っ面を張り飛ばす。初号機の身体から引き剥がされ、そのまま横へと、地面に何度も叩き付けられ、跳ね返りながらふっとんで壁にぶつかった。
地面を這うような格好でどうにか立ち上がろうとするそいつめがけ、槍を振り上げて初号機が飛びかかった。ATフィールドで防ごうとするが、槍の前では無効にされる。振り下ろされた槍に、頭が叩き潰された。鉄の仮面が不自然な格好に陥没し、隙間から血があふれる。
そんな状態でもまだ動こうとするそいつに、初号機は何度も何度も狂ったように槍を突き立てた。
殆ど原形をとどめないまでになって、ようやく初号機は刺すのをやめた。
レイは何も指示を出してない。全て初号機が、自分の意志で戦ったのだ。普通の人間だったらこの光景に気おされるだろうが、レイは何も感じなかった。ただ初号機の強さを確信しただけだった。
肝心のアダムを倒さねばならない。
レイがまずアダムの方に振り向き、続いて初号機が身体ごと振り返った。
アダムの前で、まだエヴァが前進しようと足掻いていた。見えない壁をどうにかして突き破ろうと、爪を立ててうなり声をあげる。
突然、そのエヴァが壁を押すのを止め両肩をすくめるような格好になった。最初はエヴァ自身の意志が取った行動かと思ったが違う。両肩がひしゃげていく。足も、地から離れ宙に浮いた。何者かに吊し上げられているようだ。次第に苦しそうに暴れながらうずくまるような姿勢になってく。両肩の圧壊はまだ進んでいた。叫び声を上げようとして伸ばした首も、徐々に無理矢理下に押し下げられていく。まるで小さな箱に閉じ込められるみたいだ。
いや、たぶん文字どおりだろう。ATフィールドの箱に押し込められたのだ。おそらくその箱が徐々に縮めさせられていってるのだろう…
エヴァの全身の骨格が押し潰されていった。数箇所から血が吹き出るが、決して”箱”の外には流れ出ようとしない。見る見るうちにエヴァはその形を失っていった。
エヴァだった鉄と肉の塊が地面に落ちる。一気に血が吹き出した。その血を浴びながら、アダムは楽しそうに笑う。
とてつもないバケモノだった。しかし、そのバケモノと戦うより他にないのだ。
アダムは急に笑うのを止めた。そしてレイの方を見たかと思うと突然雄叫びのような叫び声を上げた。

***

再び電子機器に異常なノイズが走った。しかしアダムの最初の二回の叫び声の時ほどではない。取り敢えず作動している。
長瀬は自分は今、傍観者に過ぎない事を実感してた。
自分の生死もままならないなんて!
長瀬は悔しかった。しかしどうしようもない。そのまま現在ターミナルドグマ最下層を映しているモニターを睨んだ。が、そのすぐ左上にある小さな、月を映すモニターに目が移った。
最初、それはモニターに走るノイズのせいかと思った、だが違う。
「月を映してるカメラをメインに回して!」
長瀬が突然命令した。全員がいぶかしげな目で見る。どうしてもっと重要なアダムの方ではなく、月を映せと言うのか解らなかった。しかし命令には従う。
メインモニターに月が大映しに映ると、全員が息を飲んだ。
月の赤さが一層増している。それだけではない。まるで木の枝の様な光の放射が、月の周囲の夜空に走っている。まるで血管か、ひび割れの様にも見えた。
見てる間にも月はどんどん赤さを増していく。まるでアダムの声に感応している様だった。
「これでも月には何もないと言うの!?」冬月に向かって怒鳴った。
「ああ、月には何もない」冬月は言う。「だが月自身はどうかな?」
「回りくどい言い方はやめて頂戴!」長瀬の苛立ちは頂点に達していた。「ずばり聞くわ。月で、アダムは何をしたがってるの!?」
「リィ・ナ・クルィネ」冬月は突然その単語を言った。「ある男がそう言ってたよ。”宇宙の王”という意味だそうだ。彼がどこまで知っていたか知らないが、言い得て妙だな。つまり、使徒でも人類でもない、神の作った第三の種族…」
「それが月にいるってわけね?」長瀬が話を途中で遮って口を挟んだ。
「いや、月には何もいないと言っただろう?」冬月は否定する。「月自身がその種族なのだ」
長瀬がじっと冬月を見つめた。ややして口を開く。「正気?」
「知った時には私も自分の正気を疑った」冬月が答える。
「月なんて岩と土の塊でしょ!?」
「表層はね」あくまで落ち着きを失わずに言った。長瀬にはそれがしゃくだった。「だが中は違う」
「でも月の調査はアポロ十一号による月到着以来何度も…」
「すでにその時からゼーレ、もしくはその全身組織があったとしたら?」
情報操作か…自分の常識が足元から崩される気分だった。
「さらに言うなら、月は第三種族の一部にすぎん。コアなのだよ」
長瀬は深呼吸をした。あいてのペースに巻き込まれてはいけない。目と耳に入った二次以上の情報は疑うというのが彼女の習慣だった。
「じゃ、そのバカ話を信じるとして」長瀬は見た目上平静を取り戻して聞き返した。「幾つか質問があるわ。まず何故神は彼らを放棄したの?次にあれが一部なら、他のパーツはどこ?まさか地球とか?」
「一つ目は」冬月は答える。「神があれを放棄した理由はあれが暴走した場合、危険極まりないものであるから。時間がなく、その解決法が見つけられなかったのだ。二つ目の質問、それは他のパーツは必要ないのだ」
「何故?」
「それが神があれの暴走を恐れた理由でもある。あれは周囲の空間をすべて量子化し取り込み、情報化して内部に蓄積していくのだよ。容量の限りね。滅びを迎えた神はあの中に住むつもりであれを作った…それこそ永遠の楽土として。だが暴走した時、どこまで宇宙を取り込んでいくか予想もつかなかった。その有効な制御法が見つからなかった。だから放棄したのだよ」

***

アダムの叫び声が終るまで、待つつもりはなかった。初号機がアダムにかかろうとした瞬間、最後のエヴァが降りてきた。手に、別のエヴァの首をぶら提げている。
アダムが叫ぶのを止め、面倒くさそうにそいつを見た。
そのエヴァは手に持ってた首を前に差し出すと、手の中で握り潰す。体中のばねを溜めて、アダムに襲いかかろうとしていた。
突然、どん、っとそのエヴァの胸部装甲が陥没する。そのままエヴァは後ろによろけ、壁に背中を預ける。
アダムがそいつに近寄って行く。エヴァはいきりたって顔を前に突き出した。
どん、と再び胸にATフィールドが叩き付けられる。完全に胸部装甲が砕かれ、素体の胸がむき出しになった…それはコアがむき出しになったという事でもあった。
アダムがむき出しになったコアを睨む。するとコアが見えない手に掴み出されるかの様に肉が引き剥がされながらコアが引きずり出されていく。苦悶の声を上げて抗おうとするが、もはやどうしようもなかった。一気にコアが引きずり出され、エヴァの身体がぐったりする。
空中に引きずり出されたコアに、亀裂が入っていったかと思うと、突然粉砕した。
いかなるATフィールドでも中和しきれないATフィールド。アダムの武器はそれだけだったが、他の使徒やエヴァには勝ち目がなかった。初号機の握るロンギヌスの槍だけが頼りだった。
初号機は槍についていた腕を引き剥がすと、アダムめがけて槍を横になぎ払った。
アダムは宙へと逃げて上に避ける、が、ロンギヌスの槍が真下を通過した瞬間身体を浮かせていたATフィールドが消失し、落下しかかる。初号機はすぐに槍を真上に振りかぶりアダムめがけ振り下ろしたが、アダムは自らの作ったATフィールドを自分に叩き付け、真横へと吹き飛ばされる。槍はまたも空を切っただけだった。初号機はやたらに槍をアダムめがけ振り回す。アダムはそれを全て避けてはいたが、たびたびATフィールドを消失させられてバランスを崩していた。
今までほどの余裕はないらしい。
綾波レイは、既に初号機から離れ、物陰からじっと様子を伺っていた。いくら初号機が槍を持ってると言ってもアダムの的は小さいし、機動力があった。倒す事は難しい。しかしアダムは何度かATフィールドを失ってバランスを崩し、隙を作ってる。チャンスは必ず来る。
チャンスは意外と早く来た。アダムが再びATフィールドを失い、バランスを崩した。
今よ!
レイはアダムめがけATフィールドを叩き付けた。体制感覚の崩れたアダムに、この伏兵の攻撃を避ける余裕はなかった。そのまま壁に激突する。
まだ!
レイはアダムを睨み、すかさずそのままATフィールドを連続で叩き付けていく。今まで傷つかなかったアダムの身体に傷がついていく。
隙は与えない。ひたすらATフィールドを叩き付けまくった。やがてアダムがぐったりしたようになった。アダムの身体が地面に落ちた。レイはアダムの方にゆっくり近付いていく。
ふと、アダムのいるあたりの地面に見慣れた眼鏡ケースがあるのに気付いた。レイはそれを入れていたはずのスカートのポケットを見る。どこかで引っかけたのか、切り裂かれ穴が空いていた。
碇ゲンドウがアダムの中にいるのは知っていた。しかしそれでもアダムを殺す事に代わりはなかった。自分が捨てられたから?
いえ、違う。
違うと信じたかった。アダムが微かに動き出す。
「さよなら、碇指令」
レイはそっと呟いて、ATフィールドを叩き付けた。アダムもろとも、眼鏡ケースも壁に叩き付けられ砕け散る。レイはそのままアダムを押さえつけた。早くしないと中和されるのは時間の問題だ。
「お願い、初号機。止めを」
レイはアダムを指差して言った。初号機にその言葉がわかったのか、槍を持った右手を大きく後ろに引く。たった一突き、それで終る。
しかし槍は振り下ろされなかった。
レイは焦った。早くしないとフィールドが持たない。
レイは初号機の方を向いて驚いた。槍を振りかぶる手に、もう一体のエヴァが絡み付いている。さっきコアを抜かれたエヴァだ。それが槍を振り下ろさせまいと初号機の腕にしがみついている。
突然レイの身体が横にはじかれた。そのまま地面に投げ出される。アダムは吹き飛ばしたレイの方をちらと見ると、初号機の方に向き直った。初号機の腕を睨む。と、初号機の腕が二の腕の付け根からすっぱりと切断され、吹き飛ばされる。鮮血がほとばしり初号機が苦痛に叫んだ。
コアのないエヴァはその槍に近付いて拾い上げると、初号機に近付いていった。初号機は左手を相手に伸ばすが、それより早く初号機の胸に投げつけられた槍が突き立つ。
初号機が断末魔の叫びを上げた。
アダムはそれを見て、レイの方に近付いていく。始末したと思ったのだ。レイは何とかしようと辺りを見る。近くにエヴァの緊急射出用のカタパルトが見えた。ひょっとしたらここでサードインパクトを起こさせなければ、外で起こさせればひょっとしたらこの中にいる人だけでも助かるかもしれない、そんなはかない望みを抱いて立ち上がろうとした。
だが立てない。身体が思ったように動かないのだ。レイはそっちの方へ這って行った。しかしアダムはどんどん近付いてくる。レイは急いだ。
ところが、突然の初号機の雄叫びにアダムの足が止まる。死んだと思ってた初号機はまだ止まってなかった。初号機は左手で胸につき立った槍を引き抜くと、まずそれで目の前のエヴァの頭をなぎ払った。アダムが既に制御を放していたエヴァは抵抗する事もなく、頭を吹き飛ばされた。
続いて槍を持ったままアダムに迫る。しかし目の光は既に消えかけていた。初号機は次第に緩慢な動きになりながらもアダムの方へ近付こうとするが、やがて目の光が消え、完全に停止した。
初号機の手の中の槍の穂先の二重螺旋も、ほどけてサスマタの様な形になっていく。
アダムはそれを見て完全に安心した。レイはその間もカタパルトに向けて進んで行く。
レイはカタパルトの場所までたどり着くと、身体を仰向けにしてアダムを睨み付けた。
アダムは刻々と近付いてくる。完全にアダムがカタパルトに乗った。
「綾波!」
聞き覚えのある声。声の方を思わず振り向く。碇シンジがレイと初号機を追って来ていた。
「きちゃ駄目、碇君!」
レイが叫ぶ。アダムもシンジの方を見た。
「シンジ、どいて!」
シンジを突き飛ばし、アスカが手に銃を持って現れる。アスカはアダムめがけて撃った。当然弾はことごとくはじかれる。
「くそ!しね!しね!!」
アスカは叫ぶがどうしようもない。
「綾波、早く逃げて!」
シンジが叫ぶ。そうできればそうしたい。だが出来ないのだ。這って移動するしかない。
アダムがアスカの方を見る。このままではアスカから殺される。レイはアダムにATフィールドを叩き付けた。アダムに当たる前に中和されてしまう。アダムは目標をレイの方に移した。アダムはレイに少しおとなしくしててもらうつもりだった。
「お願いだ、綾波、逃げてくれ!」
しかしレイはそのまま吹き飛ばされる。
「綾波ーーーーーー!!!」
シンジが叫んだ瞬間、アダムを二又の槍が襲った。初号機が最後の力を振り絞っていた。
槍の又の間に挟まれる格好になったまま、カタパルトの床に槍で打ち付けられる。完全にアダムは身動きが取れなくなった。同時に初号機は完全に停止していた。もう動こうとしない。
完全に死んだのだろうか?
だが…今なら殺れる!アスカはアダムを撃った。しかし弾は当たってるが効かない。姿は人間だが、まったく別のものなんだと思い知った。弾が切れる。
アダムを追いつめたものの、殺す手段がない。
しかし取り敢えずこれで安心だ、誰もがそう思った瞬間、アダムが叫び声を上げた。
シンジとアスカがアダムを見る。
その時、皆が忘れていた。アダムにはATフィールド以外にもう一つ武器があったことを。
アダムの最後の反撃が始まった。

***

           アダムの最後の反撃が始まった。」


いきなりその行を最後に話が切れていた。変だな、と思う。
次のページをめくる。やはり何も書いてない。落丁本かな、シンジは思った。
「ちょっとバカシンジ!なにやってるのよ!」出入り口の方から声がする。図書室にまでシンジを迎えに来たアスカが仁王立ちで立っていた。「せっかくこの私が一緒に帰ってやろうって言ってやってるんだから、すぐに一緒に来なさい!」
相変わらず偉丈高だ。シンジはため息をついた。シンジは本を閉じると、借りて行こうか迷ったが、結局落丁本なので元の位置に戻して鞄を手に取ってアスカの方へ行った。
「ホンット、愚図なんだから!」
アスカの悪態はいつもの事だ。でも幼馴染なのに一向に馴れない。これさえなきゃいい子なんだけどね。シンジはそう思っていた。
「おっ、青少年君、元気ぃ?」廊下に出て、出会い頭に遇ったのは担任の葛城ミサト。
ミサトはじっとシンジを見た。
「何ですか?」
シンジが聞く。
「何だ、何にも借りてないんだ。スケベな本でも借りてるかと思ったのに」
「ちょっと先生!」シンジは慌てた。「ここは学校の図書館なんですよ!?そんなのあるわけないでしょ!?」
「んー、でも君ぐらいの年頃だと、ベッドの下にエッチな本の一冊や二冊はあるものなんだけどな」
「ないですってば!」シンジは声を張り上げる。
「ホントに?」
ミサトは面白そうな顔で見つめる。
「ホントのホントですって!」
ミサトは突然笑い出した。
「ホーント、君ってからかい甲斐のある奴ね」
「ちょっと、ミサト先生!」アスカが怒鳴った。「生徒からかう教師がどこにいるって言うんですか!」
「こ・こ」ミサトは自分を指差した。「じゃあねーン、仲良く帰ンのよ」
そう言い捨てて、さっさとどこかへ行ってしまった。
「ホント、とんでもない先生よね」
アスカが言う。
「…ま、ね」シンジは答える。
「ところでシンジ」アスカが言う。
「何、アスカ?」シンジが聞き返す。
「ホントに持ってないの?」
「持ってないって…何を?」
「その、…スケベな本よ」
アスカが顔を真っ赤にして言う。
「も、持ってないよ、そんなの!」シンジは慌てて答えた。
「ホントに?」
「ホントだってば!」
「怒らないから言ってごらんなさい?ホントは持ってるんでしょ?」
「なんだよ、それ…」シンジが言う。「持ってないものは持ってないってば」
「なーんだ、持ってないんだ、がっかり」アスカが急に声の調子を変えた。「普通の男の子なら、みんな持ってると思ったのに」
「いや、あの…」シンジは口篭もる。「ホントはちょっとだけ…」
廊下にビンタの音が鳴り響いた。
「酷いよ、アスカ」頬に手形の跡を付けたシンジが言う。「怒らないって言ったのに…」
「人を責めるより、簡単な誘導尋問に引っかかる自分の未熟を恥じなさい!」
アスカが怒って言った。
「あ、碇君」下駄箱の所まで行くと、声をかけてきた娘がいた。「今、帰りなの?」
転校生の綾波レイだ。髪が白く目が赤いのはアルビノと言って先天的に色素がない病気らしい。病気と言っても、日光にあまり長い間当たれない以外は正常だ。
「やあ、綾波…さん」じろりとにらむアスカの視線を気にしながら言った。
実はこの娘はシンジの従姉妹だった。と、言ってもシンジも最近まで知らなかったのだが。両親の転勤で海外にいたのがこっちに来たらしい。帰国子女という奴だった。
綾波レイは、クラスメートのケンスケ、トウジ、ヒカリと話をしてた様だった。
「なんや、碇、惣流と逢い引きか?アツイなあ」
トウジがからかった。
「そんなんじゃないよ!」
「そんなんじゃないわよ!」
シンジとアスカが同時に言う。が、アスカがシンジの方を睨んだ。何で睨まれるのかシンジには解らなかった。
「なら、一緒に帰らない?」物静かな声でレイが言う。この子はいつもこんな感じだった。あまり感情の起伏がないみたいに、逆上したりする事もない。アスカに見習わせたい、そう思ったが当然口には出さなかった。
「ちょ、ちょっと、何であんたと一緒に帰らなきゃいけないのよ!」
アスカが言う。誘われたのはシンジの方なのにムキになっている。アスカはレイが転校してきた日から目の仇にしている。馬が合わない様だった。アスカ自身も小学校の頃海外からこっちに来た帰国子女だから、それでかもしれない。
「あなたには聞いてないわ」レイは事実を口にする。特に悪気があるわけでないが、これが一々アスカの神経を逆なでするのも確かだ。
「何ですって!?」予想に違わず、アスカが逆上した。
「ちょっと、綾波さん」洞木ヒカリがレイの袖を引っ張る。「ね、ここは気を利かせて…」レイにだけ聞えるように耳打ちする。
「気を利かすって…」何?と言おうとしたレイの口をヒカリが慌てて押さえる。ヒカリがアスカの方を見るとじっと睨んでいる。
「別にいいじゃない。一緒にみんなで帰ろ?」
シンジが言う。ヒカリとアスカがため息をついた。

「で、こいつがホントにバカなのよ!」
アスカがシンジの頭を小突きながら言う。シンジは憮然とした表情だ。何で他人の前だといつもにもましてバカバカ言うんだ?シンジは内心面白くなかったが黙っていた。
シンジはレイの方を見る。レイは黙って話を聞いている様だった。
「そこまで言わなくても…」
ヒカリがフォローを入れようとする。
「だってホントにバカなんだもの。ほら、アンタあの夢の話、しなさいよ!」
アスカがまたシンジの頭を小突く。
「夢の話って?」
シンジが聞き返す。
「この前アンタが私に大真面目に話したあのバカ話よ!」
「えー?」シンジは眉をしかめる。「やだよ…」
「何言ってるのよ、話しなさいって言ってるでしょ!」また小突く。
「わかったよ…」
シンジは仕方なく話し出した。
この第三新東京市が要塞都市で、そこに使徒という怪獣が責めてくる。それをエヴァンゲリオンというロボットでやっつけるパイロットがシンジと言う夢だった。
「ね?バカでしょ!?いい年して怪獣よ、怪獣!マンガの見過ぎなのよ。少しは勉強しなさいよね!」そう言いながらアスカはシンジの頭を拳で挟んでぐりぐりやる。シンジはイテテ、と声を上げた。
「確かに怪獣はちょっと、ね」ヒカリもそう言う。
「でも面白いんじゃん」ケンスケが言う。
「そうね」レイも追随する。「碇君、そういうのを作る人になったらいいかもしれない」
厭味ではないのだろうが、厭味に聞こえる。
「はは、確かにそういうのがあったら面白いんやろけどな」トウジが口を開いた。「せやけど、やっぱり平和が一番やで」
「そうそう、平和が一番」ケンスケも言った。
「うん、そうだね」
シンジが答える。
「ちょっと退屈かもしれないけど、みんなが酷い目に遭ったりするよりいいものね」
ヒカリが言った。
「うん、そうだね」シンジが俯き加減に言った。
「そうね、私だってそこまで無愛想じゃないわ」
レイが言った。
「うん、そうだね…」声の調子が落ちている。
「そうそう、アンタが世界の平和の為に戦う戦士なんてお門違いもいいところよ。アンタにはバカシンジがお似合いよ!」
アスカもそう言った。
「うんそうだね」シンジは俯いて立ち止まった。
「どうしたの?シンジ?」
アスカが言った。
「でも…」シンジは言った。「この世界は本当の僕の世界じゃない」
「アンタ何言ってるの?」アスカが眉をひそめる。「夢と現実がごっちゃになってるんじゃない?」
シンジは一瞬おかしいのは自分の方か?という錯覚を覚える。しかしそうでないのは本当は判り切っていた。
「ひょっとしたら僕はずっとこういうのを望んでたのかもしれない」シンジは言った。「ここにいると確かに気持ちがいいよ。でも、ここが現実じゃないのは僕が一番よく知ってる」
「ちょっと、シンジ、ホントに大丈夫なの!?」
目の前のアスカが心配そうに言う。ひょっとしたら自分は夢の中の特別な自分に酔いしれて、現実と混同してるだけかもしれない、そう言う思いが沸き上がってきた。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「僕はトウジの左脚を奪った!」
シンジが叫んだ。とたんにトウジの左足が消える。
「綾波は人間じゃなかった!」
心配そうな顔のレイが、プラグスーツ姿になる。
「僕はアスカの事も救けられなかった!」
アスカが、やせ衰えたパジャマ姿になる。
「クラスメートのみんなもどこかに行ってしまった!」
ケンスケとヒカリの姿が消える。
「そして、僕はカヲル君を殺した!!」
シンジの手の中に渚カヲルの生首が現れた。突然カヲルの首が、目を開いた。
「酷いな」カヲルの首は、カヲルの声で言った。「せっかく君のために、この世界を用意したというのに」
「カヲル君の顔で、カヲル君の声で、そんなことを言うな!」
シンジは叫んだ。
「何を言ってるんだ?僕を殺したのは君なんだぜ?」
「黙れ!お前はカヲル君じゃない!」
シンジの両手に力が入る。
「そうかもね」首は言った。「でも君が殺したという事実に変わりはないよ。君は殺したんだ。何故って君は渚カヲルにあこがれたから。渚カヲルになりたかったから。でもなれない事は分かってた。すると目の前に渚カヲルがいる事が君の不安になったんだ。だから殺した。みんなを助けるため、という大義名分を振りかざしてね」
「違う!」
シンジは声の限り否定した。
「いいや、違わないね。僕は君の事ならなんでも知ってる」
「嘘だ!」シンジは首を投げ捨てようとした。
「嘘じゃないさ」首の声が変わる。聞き覚えのある声。「何故って僕は君だからさ」
シンジは首を見た。その生首は碇シンジ、つまり自分自身の首に変わっていた。
シンジは絶叫した。

暗闇の中でレイは震えていた。
いや、自分は本当に綾波レイだろうか?
少なくともそう呼ばれてたものではある。その記憶も大部分ある。しかし、碇シンジを助けたという記憶はない。自分の持つ記憶は、自分の体の刻んだものではない。
すべて仮初めのもの。心も、身体も、本物なんか何もない。
碇ゲンドウという男がいた。目を開けた瞬間からだ。ああしろ、こうしろ、そう命令を下す。レイは何も考えなくとも、その命令に従っていればよかった。生きてる事は退屈だった。そして退屈は苦痛だった。
命令に従うと、碇ゲンドウは誉めてくれた。優しく接してくれる。
命令に上手く従えなくともしかりはしない。ただ笑ってくれる事が少なくなるだけだ。接してくれる回数がなんとなく、減る。
退屈は苦痛だった。そして命令をうまくこなすという事は、苦痛が少しだけ減るということだった。
私の中に、

命令に従う
↓↑
苦痛が減る

というフィードバックが出来ていた。その中心は常に碇ゲンドウだった。
本当は一番簡単に苦痛が減る方法は解っていた。生きるのを止める事だ。
でもそれは出来なかった。綾波レイという存在は、連続体だった。死という断続の次に、無理矢理別の綾波レイを接ぎ当てる。そして接ぎ当てるのはやはり碇ゲンドウだった。
私はきっといつか彼が私を殺してくれると信じ、それを待ち望んでいた。
大事な人だった。私という世界には、碇ゲンドウと私という、それだけのつながりしかなかった。
死ぬ日を待ち望んでいた。そのはずなのに…
別のファクターが私に入り込んだ。それが碇シンジだ。
最初は碇ゲンドウとのつながりに入り込んだ、わずかなものだった。
しかし碇シンジとの間にも別なつながりが出来ていった。これは驚きだった。私とのつながりは、碇ゲンドウだけが持てるわけではなかったのだ。
碇ゲンドウとの絆は、碇ゲンドウが私にいて欲しいと望むものだった。
碇シンジとの絆は、碇シンジが私にいて欲しいと望んでいて欲しいと私が望むものだった。
何か変だった。絆がごちゃごちゃに絡み合う。

私     は  望む。   私     を  望む。
碇ゲンドウ は  望む。   碇ゲンドウ が  望む。
碇シンジ  は  望む。   碇シンジ  も  望む。

私     に  望む。   私     が  望む。
碇ゲンドウ に  望む。   碇ゲンドウ に  望む。
碇シンジ  が  望む。   碇シンジ  を  望む。

私     に  望む。   私     も  望む。
碇ゲンドウ が  望む。   碇ゲンドウ が  望む。
碇シンジ  と  望む。   碇シンジ  に  望む。

私     は  望む。   私     と  望む。
碇ゲンドウ を  望む。   碇ゲンドウ と  望む。
碇シンジ  も  望む。   碇シンジ  とも 望む。

……

絆の一つ一つは単純な一方通行でしかないのに、それが複雑に絡み合う。
碇ゲンドウしかいなかった時は単純だった。

碇ゲンドウは望む。
私に望む。

それだけだった。
絡み合うと怖くなるのだろうか?死ぬのが怖い。消えるのが怖い。忘れ去られるのが怖い。誰もいないのが怖い。人がいなくなるのが怖い。人に裏切られるのが怖い。人と接するのが怖い…

怖い事は辛い事だった。生きてる事が辛い事だったのに、死ぬ事も辛い事になってしまった。
どうすればいいのだろう?
人の中に逃げるしかない。人とのつながりを求める。それが私を更に絡め取る。死ぬのが私は怖くなった。
だから私は逃げた。碇ゲンドウという私の誕生であり、生であり死である存在から。
そして求めた。榊ユリとしての人のつながりを。
接して解った事がある。人は常につながりを持てるわけではないこと。そして、だけど無条件につながりを持つ人が必ずいる事…それが親。
だとすれば碇ゲンドウは私の親だ。碇シンジの親でもある。でも碇シンジと私にはつながりがなかった。
しかしそれは現れた。だがそれは複雑さゆえに、私を変えてしまった。怖さを覚えさせてしまった。
生きるのは苦痛の海。でも死ぬのも怖い。結局死は生の終りにすぎない。終りという事は別のものと言う事ではない。
紐の端は紐とは別のものではなく、紐の一部なのだ。端のない紐も存在しない。死を以って、生は完成するのだ。

「嫌だ、苦しいって思うってことは、反対に楽しい、ってことも知ってるはずだってことだもの。ちがう?」

かつて榊ユリとしての私はそう言った。しかしそんなのは生きる辛さをまぎらす詭弁にすぎない。嘘なのだ。
私は泣いていた。

「父さんがやれって言うからやったんだ」
碇シンジが言っていた。
「あなた、碇指令の事解ろうとしたの?」
綾波レイが言っていた。
「解ろうとしたよ!」
そう、都合のいい部分だけ。
「どうして解ろうとしないの?」
でも、綾波レイ自身も解ろうとしてなかった。
「父さんが悪いんだ!」
そう言えばすべての責任は父親に押し付けられる。自分を守ってくれる。
「碇指令のこと、信じられないの?」
本当は信じるも何もない。絆があると信じなくては苦しいからだ。
「お願いだ、僕を殺さないで」
親に捨てられたらどうしよう。僕はどうして生きればいいんだろう。この苦痛の海の中で。
「死ぬのはうれしい」
今は怖い。生は苦痛の海。でも死の先には何もない。
「ママ、私を殺さないで」
惣流・アスカ・ラングレーが言っていた。
「あなたは人に誉められたいからエヴァに乗るの?」
私はあの人に望まれたかったから乗っていた。
「違うわ!自分で自分を誉めたいからよ!」
そう、人に誉められている自分を。
「私は人形じゃない」
私には心がある。怖れがある。
「私はママの人形じゃない!自分で考え、一人で生きるの!」
そう、人と居ると裏切られる。

「そうよ、ただ生まれたから生きるなんてのはまっぴらよ!」
長瀬が言っていた。耐えられない。自分に意味がないなんてのは耐えられない。
「死にたがってる奴なんかいねえよ」
トードが言った。そう、自分もだ。
「この世のほかに、人間の王国なんてないわ!」
長瀬は思った。
そうだ、自分を置いてどこかに行ってしまった父親の望む王国など、否定してやる!
「死んだらそこまでだ。その先はなにもない」
トードは思った。
だから死ぬのが怖い。
「でも生まれたから何となく生きるなんて、犬猫と同じじゃない!」
自分は特別だ。そう思いたい。
「同じじゃいけないのか?同じ生き物じゃねえか」
同じでもいい。生きたい。
「同じじゃ駄目なのよ!」長瀬は叫んでいた。「私が私である意味が欲しいの!不安の入り込む余地のない、自分自身が!」
「そんなの誰も持ってない」トードが言った。「生きてるって事は常に不安だ。いつか死ぬからな」
だからアダムが憎かった。死なない存在に見えた。でもそうではない事を知った。アダムは親を怨み生きている。だからこそ月に行こうとしてる。自分より、親に望まれた存在になろうとしてる。それは人間の持つ感情と同じだ。例えばこの目の前の長瀬の様に。
「ごめんなさい、お父さん!」長瀬が叫んでいた。「あなたを愛せなくてごめんなさい!」
彼女は吐き出していた。自分の原罪全てを吐き出していた。わざと目を背けてきたものだった。本当は分かっていた。親が自分を捨てたのは、絆が邪魔になったからだ。本当に弱い人だったのだ。かわいそうな人だった。
長瀬には泣くしかなかった。

「死ぬのは嫌…」
アスカが言った。
「僕を一人にしないで…」
シンジが言った。
「ほら、心が痛いでしょ?」
痛い、引き裂かれそうだ。
「誰か僕をたすけてよ…」シンジはうめいた。「父さん…父さん!!」
「欲しいのならあげるわ」聞き憶えのある声が言った。目の前に白衣の女性が現れた。「何者にも侵されぬ神の魂、誰も傷つくことのない優しさの世界、欲しいのならあげるわ」
「リツコさん…」
シンジは泣きながらつぶやいた。
「人は弱いものでできている。心も体も、弱く脆いもので出来ている。だから作り上げるの。何者にも侵されない世界を。恐怖も、身を裂かれる痛みもない世界を」
「もう嫌だ…」シンジはうずくまった。「僕はこんな僕でいるのは疲れた…」
「嫌なの?生きるのが」
ミサトさんが現れた。そうか、ここにいたのか。
「僕には何もないんだ…僕には母さんがいない…父さんがいなくなると、僕は消えてしまうんだ」
「本当に?」ミサトさんが念を押すように言った。
「僕が消えてしまう。でも死にたくない。繰り返すのは辛いんだ…」
「自分には何もない、あなたが勝手にそう思ってるだけじゃないの?」
「本当に何もないんだ!みんなが大事にしてくれる価値も、生きる理由も!!」
シンジが叫ぶ。
「でもあなたの体はそうは言ってない」ミサトが言った。「あなたの右手は感触を憶えてるわ」
シンジの手にチェロが現れる。
「あなたはチェロを引けた。それはあなたの意思ではないの?」
「ミサト!」
リツコが叫んだ。しかしミサトは無視する。
「やれって言われたから始めたんだ。好きだったわけじゃない…」
「でもやり続けろとは言われなかったはずよ。あなたがチェロを引いたのは、あなたの心がそれを望んだから…」
「ミサト、何を言ってるの!?」リツコさんが怒鳴る。
「あなたには自分自身がある、他に何もなくとも」手の中でチェロと、弓が踊り出す。「あなたは人を求めることも出来る」アスカとレイを見た。「何になると望むこともできる」着ている服が変わっていく。学生服、プラグスーツ、カジュアルなタンクトップ姿…「でも、あなたは決して自分以外にはなれないの。自分以外の何かにだけはなれないの…」
「ミサト!何を考えてるの!?」リツコは絶叫していた。それでもミサトは続ける。
「あなたがどうするか、自分で決めなさい。他の誰かに頼るのではなく、自分自身で決めなさい。どんな結果になろうとも、それはあなた自身であるということよ」
「いい加減にしなさい、ミサト!」リツコがミサトに掴みかかる。「あなた死にたいの!?」
「違うわ!」ミサトが始めて反応する。「死にたくなんかないわ!」
「だったらどうして!?私達にはこれしか生きる方法はないのよ!?」
「こんなのが生きてると言えるの!?」ミサトが怒鳴り返す。「真実も何もない世界で生きることが生きてると言えるの!?私はただ生きたいだけなのよ!」
ミサトが絶叫する。
「本当の意味で、生きたいだけなのよ!!」
その叫びとともに、シンジははじき飛ばされた。

***

シンジは目を覚ました。気付くと泣いていた。
あんな状況でも、まだ死にたくないとあさましくもがいている自分に気付き、泣いていた。
補完計画は失敗するべくして失敗したのだ。人間は、恐れ、傷つきながらも自己を求める。自己の喪失、それは死と同義だ。死を恐れる、それは理屈ではなかった。造物主が彼らに課した、最大の命令。しかし望むと望まざるとに関わらず、それが人間の唯一の生存の、存在の意義なのだ。
どんなに惨めで、苦痛にまみれていても。それを放棄することも出来る。そうしたのは渚カヲルだ。しかしシンジは今、そうしたくなかった。
アダムを見る。床に打ち付けられたまま、もがき、はいずり出ようとしている。しかししっかりと打ち付けられた槍はびくともしない。ATフィールドもその前には何の役にも立たない。
しかしアダムの背面の床がきしみ始めてる。床を壊して逃げるつもりだ!
周りを見ると、アスカとレイがうずくまって泣いている。意識はないようだ。自分が何とかするしかない。しかしどうやって?
シンジはアダムの打ち付けられてる場所を見た。カタパルト、そしてその前には槍を押え込むようにして初号機がうずくまっている。アダムの真正面。しかしおそらく初号機自体はもう動かないだろう。
だが、初号機の武器はもう一つだけあった。

「お父さん、ごめんなさい…」
気がついた時、長瀬はうずくまって泣いていた。どうして泣いてるのだ?
「おい、長瀬君、大丈夫か?しっかりしたまえ!」
冬月が呼びかける。ようやく今の状況を思い出してくる。アダムが追い詰められて、で、どうしたのかしら?そうだ、碇シンジ、綾波レイ、アスカ・惣流・ラングレー!
モニターを見る。碇シンジが初号機によじ登っていた。どうせシンクロ出来ないだろうに、何故?

「碇シンジ君!」突然長瀬の声がした。どこかのスピーカーだろう。「何をする気!?アダムが解放される前にすぐに逃げなさい!」
丁度いい、シンジは思った。シンジはどこにカメラがあるのだろうかとあたりを見、それを見つけた。
「長瀬さん!!」シンジは絶叫した。「お願いだ、カタパルトを!」
「シンジ君、何を言いたいの!?」長瀬の声が帰ってくる。「こっちには音声が入ってないわ!」

長瀬はシンジの口が動くのを見た。しかし集音マイクは死んでいて、声が聞こえない。しかしシンジの口が必死に動くのを見る。







じばく…自爆?碇シンジは初号機を指してそう繰り返していた。自爆、そうか、ATフィールドのないアダムの正面で初号機を自爆させれば、アダムと言えどひとたまりもない。
しかしそこで爆破させれば、彼らも死ぬ。それにシンジは何かを訴えようとしてるようだ。何を?
シンジの口の動きが変わる。











カタパルト、カタパルトで射出しろと言っている!?
そうか自爆装置起動直後に、カタパルトで外部に射出すればたすかる、そういうことか!
「全員さっさと起きなさい!」気絶してるネルフスタッフを長瀬は叩き起こす。「あなた達が寝ててどうするの!」

「わかったわ、シンジ君」長瀬の声が響く。「自爆装置を起動させたら、すぐにカタパルトから離れなさい!」
長瀬はこちらの意図を了解したようだ。シンジはそのまま登り続け、エントリープラグに入り込む。
馴れた空気。母の子宮。それを今、シンジは自らの手で破壊しようとしていた。自分が生き残りたい、自分の世界を守りたいと言う欲求の為だけに。
「ごめん、母さん」シンジの目から涙があふれた。罪に脅え、快楽の喪失に脅え、そして同時に死に脅えた涙。「ごめんよ、母さん!」
シンジは自爆の起動装置に手を伸ばそうとした。
その時。
再びアダムの叫び声が聞こえてきた。そしてひきずり込まれる感覚。まだアダムはあがいていた。

***

シンジに向かって声がした。
「お前などいらん、出てけ!」
もういいよ!父さんなんて、もういいよ!シンジは耳を塞いだ。ちくしょう!僕を捨てた父さんのことを見せたって、止めないからな!みんなみんな、殺してやる!
「はい、もう二度と会うこともないでしょう」
シンジは顔を上げた。それはシンジの声ではなかった。しかし聞き憶えのある声。少し声のトーンは違うが、碇ゲンドウ、彼の父親の声に間違いなかった。
誰と話しているのだろう?まだ若い碇ゲンドウと、そして彼に似た誰か。ゲンドウの父?つまりシンジの祖父?

別のゲンドウ。顔を張らせて、自嘲ともとれる笑いを浮かべている。
「人に好かれるのは苦手ですが、疎まれるのには馴れてますから」
だが、疎まれるのには馴れてると言ってるが、好きだとは言ってない。平気だとも言ってない。

母に微かな笑顔を浮かべ、話しかけている。
「男の子だったらシンジ、女の子だったらレイだ」
シンジ、レイ。でも望まれた子供?望まれない子供?

突然右手に軟らかく温かい感触がする。一瞬、綾波レイの胸の感触を思い出した。しかし違う。
目の前に見えたのは母のあえぐ顔。自分はただ、黙々と愛撫をして、腰を動かしている。
シンジは自分のしている行為に気付いた瞬間、吐き気を催した。
なんてことをしているんだ!僕は!!
しかしそれをしているのはシンジではない。母の胸に触れている自分の手は、自分のものではなかった。だが、否応なく押し寄せてくる感覚と、快楽に、シンジはただおびえるしかなかった。
母を犯す感触。
やめてくれ!シンジは絶叫したくなったが、その口も、彼のものではない。
やがて一瞬、目の前が真っ白になるような目のくらむ快感。
再び気がつくと、彼−いや、その誰かはベッドから起き上がって服を着ている最中だった。視界に色がついている。眼鏡をかけているのか。
後ろからシーツを羽織っただけの母がそっと抱きしめる。
止めてくれ、母さん!
しかしシンジの声は、届くわけもない。
「あなたはずるいのね…」
「ずるい?」母のつぶやきに、自分の口が言葉を発する。予想した通りの声。これが誰かは実は解っていた。
「そうやってすぐ、眼鏡の奥に自分の気持ちを…自分の心を隠してしまう」
そして母が自分の方へと、両手で顔を向けさせる。
「私は何も隠してなどいない」
自分が言った。
「そう、あなたは自分からも気持ちを隠してしまってるのね…」
そう言って、かけている眼鏡をそっと外す。
「あなたが眼鏡をかけるのは、涙を隠すため…いえ、きっとあなたは泣き方を知らないのね…」
シンジはぎょっとした。母の目から涙がこぼれてる。母が泣いているのだ。
「どうして泣いている?」
自分が不思議そうに聞く。
「私があなたの分まで泣いてあげる」彼女は言った。「私があなたの流せない涙の分まで流してあげる」
シンジも泣いていた。
親は子を愛するもの…それが当然だと思っていた。だが、親に愛されなかった子はどうすれば良いのだろう?
どうやって自分の子供に愛を表せばいい?どうやって自分の子を愛すればいい?

シンジは涙を流していた。
それは父の為に流す、始めての完璧な涙だった。

***

「シンジ君、どうしたの!?」
長瀬の声がする。シンジは涙を流し続けてる自分に気がついた。
手で涙を拭う。もう父を怨んでいなかった。父のやったことは許していない。それは決して許されることではない。
しかし父への怨みは消えていた。父がどんなに弱い人間だったか、可愛そうな人間だったか知ったからだ。
「酷いや…」シンジはつぶやいた。アダムの中に父がいるのは知っていた。もし怨んだままなら、このまま何もためらわず自爆装置を起動させられたのに…
それこそがアダムの意図であることも知っていた。
しかし、その行為そのものによってシンジは父と切り離されていた。本当の意味で、この世に生まれい出る事になったのは皮肉としか言い様がなかった。
殺さねばならないのか?父を、そして母を。食い散らかして生きていくしかないのか?
シンジは手を動かし、自爆システムを起動させていく。涙を流したまま、起動させていく。
自爆モードが起動すると、シンジは母のエントリープラグに別れを告げ、降りて行った。

シンジが降りてくる姿を見て、長瀬がうなずいた。
「カタパルト射出の用意!」
長瀬は叫んだ。

シンジが床にたどり着くと、みしっと嫌な音がした。アダムの方からだ。
見ると、アダムの背後の床が陥没しかかってる。あともう少し、すき間があればアダムは身をねじって槍から抜け出せるだろう。床の立てる悲鳴の音は、次第に高くなっていく。
駄目だ!シンジはとっさにアダムの方へ駆け寄り、アダムの体を押える。アダムは意外に強い力で押し返すが、シンジは必死に押えた。
「早く!」シンジは叫んだ。「早くカタパルトを!」

長瀬はアダムを押え込んでるシンジを信じられない様な目で見た。
馬鹿な、あの子は死ぬ気なの!?
しかしシンジの口が、はやく、と動いている。その間にも床はきしみ続けている。
ここでアダムを逃がせば、今度は確実に人類が滅びる。迷ってる暇はない。
「カタパルト射出!今すぐに!!」
長瀬は声を張り上げた。

アスカが目を覚ましたのは、シンジの絶叫でだった。
何を叫んでいるのか、判らなかった。しかし、アダムを押えつけるシンジを見て、その意図を次第に了解する。
「シンジ、駄目!」
その瞬間、カタパルトが射出された。一瞬でシンジたちが見えなくなる。
私は馬鹿だ。
アスカは思った。
失うことばかり恐れてて、欲しがることを閉じ込めようとしていた。いずれ失うものかもしれない。だが今はある。それでいいではないか。それでよかったではないか。
今また、失おうとする瞬間にそれを悟った。
突然、アスカの背後から何かが飛び立つ。意識を取り戻した綾波レイだ。レイは出来る限りのスピードでシンジたちの後を追う。しかしカタパルトは加速し続けている。もはやとても追い付けるものではなかった。

シンジは目の前の、もの凄い形相で暴れるアダムを見つめていた。どこかで見た顔だと思っていた。今、それが何故なのか始めて解った。
なんだ、僕の顔じゃないか…
アダムの顔はシンジの、そしてゲンドウの顔に似ていた。補完計画の時の影響かもしれない。しかしそこにいるのはある意味、確かにさっきまでの自分だった。親を怨み、恋して、親の望む子供になろうとする自分。
過去の自分と今、運命を共にしようとしている。
体が震える。死ぬのは恐かった。しかしとっさにこうしてしまった。多分、自分の世界が壊れるのが恐かったから。
父さんと母さんと、一緒に死ぬのか。
シンジがそう思った瞬間、突然動くはずのない初号機の左手が動いた。より一層深く槍を刺し、手を離すとシンジをカタパルトの外へとはじき飛ばす。
「母さん!!」シンジは落下しながら、どんどん小さくなるカタパルトを見て絶叫した。
遥か頭上で数瞬、閃光が走った。

ネルフ本部から飛びだし、地下空洞の天井近くまでカタパルトが放り出された瞬間、爆発が起こった。
全てを飲み込むような閃光に、全員が目を閉じる。
熱い爆風が本部に叩きつけた。破片が吹き飛ばされる。
その後、全員が最初に気がついたのは、地下大空洞の天井に大きく空いた穴から滝のように水が流れ落ちる音であった。
「上の湖から水が流れ込んで来るわ」長瀬が言った。「ここは水没するわね。全員すぐに退避の用意をしなさい!」
スタッフ達があわただしく各所への連絡、撤退準備をし出す。
「これからどうするのかね?」後ろから長瀬に冬月が問いかける。「君もこれからただでは済まんだろう?」
「まあね」長瀬がどこかふっきれた口調で言う。「つまり戻ったら、やらなきゃいけないことが山の様にあるということね」
そして微かに笑った。

シンジが気がつくと、床の上に横たわって寝ていた。どうして助かったんだっけ?
すぐ目の前に綾波の泣いてる顔が見える。
そうだ、綾波が僕を拾って、守ってくれたんだ。手を伸ばすと綾波の髪に触れる。
アスカも泣きながら駆け寄ってくるのが見えた。
遥か上を見ると、見えるはずのない月が見える気がした。
月、冷たい岩の固まり、女を支配するもの、銀色の皿、母の子宮、死と再生の象徴、そして二度と孵らざる神の卵。
王国は確かに地上にあった。しかしそれは、死と生という脆弱な地盤の上に立つ、儚いもの。その弱さを、人は絆と言う一方通行のかよわい糸を絡ませてかろうじて保っている。
しかしそれこそが人間の世界、一人一人の王国に他ならないことを今は知っていた。
両手を広げた、ほんの2mに足らない王国。その中心にはいつも自分がいる。全ては自分次第だった。
シンジは涙を流していた。父と、母と、決別した今、言い知れない孤独と不安を感じて。
それでも生きていかねばならない。他ならぬ自分自身の為に。

しかし今だけは流したかった。
父の為に、母の為に、人間という全ての孤独な世界の王達の為に、なによりも自分の為に、
ただひたすらに、完璧な涙を。

***

Final Chapter: Eyes Do More Than See.


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