第十五章: 完璧な涙

***

そこは何時の間に日が暮れ、夜の闇に包まれていた。真っ赤に染まった海も闇に包まれ、穏やかな波をたたえていた。全てはいつもと変わりがなかった。
そう、いつもと何ら変わりはなかった。海中から奇妙なオブジェの様に突き出したエヴァンゲリオンの引き千切られた巨大な腕が何かを掴もうというように天に向けて突き立っているのと、東から昇る赤い月を除いては…

***

「システムの回復を優先!後、現状をすぐに確認を!」
長瀬が焦って怒鳴る。しかしオペレーターたちは言われるまでもなく既に回復に奔走していた。
「マギシステムに異常ありません!」
システムが段々復旧していく。しかしその中で長瀬は呆然としてるしかなかった。
一体あれは何なのだ?カメラをズームさせる前に映像は消えてしまったが、リリスの腹の中から出てきたあれは確かに人のように見えた。そして巨大な羽。
まさか本物の天使?
長瀬は思わず自分の考えに笑ってしまった。何人かが長瀬を奇妙な目付きで見る。しかし笑い事ではなかった。今も身体は微かに震えている。
まるで母親の腹を食い破って生まれ出る赤子の様に、髪や顔、腕、肩、身体に血をからませて這いずりだしてきたあれを、見た瞬間、長瀬は初めてアダムに対する戦慄を覚えた。
あんなものを利用しようとしてたなんて…自分の考えはとことん甘かった。ネルフの再生という目的をかなえるためには、あの無人のエヴァンゲリオンの群、そしてアダムの存在ははっきり言って好都合だった。
アダムを捕獲し、その存在を盾にする事により、その権限は絶対的なものになる。そう思っていた。
しかし実際はどうだ?システムの復旧に奔走するスタッフを見て、はっきり言って人間など相手にならない事を思い知った。
アイツは何をした?ただ叫んだだけだ!攻撃の為の行為ですらないのだ、それは。
そうだ、あれは産声にすぎない。世に生まれ出でた事を呪い、己を呪い、世界を呪う産声に。
しかし長瀬は頭を振って、不吉な考えを振り払った。今しなければならないのは悲観する事ではない。あれをどうにかする事。そうしなければ野望も何も関係なくなる。今、自分に出来る事はすべてやらなければいけないのだ。
「日本国政府、及び国連本部にコンタクトを」長瀬は呆然と事態を見ている内務省エージェントに言った。
「え?あ、はい?し、しかし…」エージェントは気がついたようにうろたえはじめた。既に上司ではなくなった人間の命令に従うべきか否か、躊躇している。
「早くなさい!死にたくなければ!」
長瀬自身が殺しそうな勢いで言う。
「こちらで、連絡をつけます」
そう言って青葉が何人かのスタッフに指示を下した。
流せは思わずため息をついた。この状況で頼りになるのが、昔敵として対峙し、道具と割り切って集めたネルフスタッフだとは…目的意識のない官僚どもは、現状にただうろたえるばかりで役に立たない。
その時、微かに爆発音がした。
「何!?戦自!?」
「い、いえ!」日向が振り向く。「が、外部からの侵入です!ジオフロント内への敵エヴァンゲリオンの侵入です!」
なんて最悪のタイミングだろう!よりにもよってこんな時に…いや、と長瀬は思い直した。こんな時だからこそ、こいつらは寄ってきたのかもしれない。完全なるアダムの再生を予感して、ここへひかれて来たのだ。そして今、その進行をはばむものはない。
ジオフロント内の映像が回復する。爆発が、そこかしこで起こっている。戦自の部隊と接触したのだろう。しかしかなうわけがない。使徒に、エヴァンゲリオンに対抗できるのはエヴァ自身かロンギヌスの槍だけなのだ。ロンギヌスの槍はある。しかし肝心のエヴァが動かない。補修作業中の8号機、5号機共にまだ補修はすんでないばかりか、肝心のコアをまだ入れていない。入れていたとしてもまだ、操縦者とのシンクロテストなどもまるで行っていないのだ。
全ての材料は絶望を示している。だが戦わなければならない。しかし何の為の戦いなのだ?これは!
「今外の映像が回復します!」ジオフロント外の映像も復旧していく。外は既に闇がとばりを落としていた。しかしそこに映ったものに、全員が目を釘付けにされた。
月。赤い月が天に昇っている。
さびた金色ではない。まるで血のような赤。これは一体…
「カメラの故障なの!?」
「違います!全てのカメラ、正常に作動してます!」
オペレーターが操作しながら必死に叫ぶ。次々と映像が変わってくが、どのカメラが映す月も赤い月だった。
長瀬は呆然としながらも、以前冬月に尋問を行った事を思い出していた。
月、月に眠るもの。
アダムの復活。
エヴァンゲリオンの集結。
これらは一体何を示すと言うのか…長瀬にはまるで予想もつかなかった。

***

榊ユリはすっと立ち上がった。一緒にシェルターに避難してる両親がユリを見上げる。
「どうしたの?」
母親が尋ねた。
「行かなきゃ…」
ユリが呟く。
「行くってどこへ?」怪訝そうに聞き返す。
「私の行くべき場所」
そう言ったユリを見て母親はぞっとした。これは、三年間娘として育ててきたユリの顔ではない。三年前、突然彼女らの前に現れた吸い込まれるような無表情。そのくせ何か思いつめた様な瞳。
「行くべき場所って!?」
今度は父親が問いただした。
「もう時間がない…」目の前の彼女はつぶやいた。「全てが終ってしまう前に」
その瞬間、母親のびんたが彼女の頬を襲う。
シェルター中にその音が響いた。周りの人間殆どが彼女らを見つめる。
「勝手なこと言うんじゃありません!」母親は涙交じりに言った。18年前、娘は人生を迎えてすぐ、生きる事の意味すら知らないうちにこの世から消え去ってしまった。残されたのは、子供を産む事の出来なくなった彼女と夫。三年前彼女が現れた時、天の恵みだと思った。幸いセカンドインパクト時のどさくさで娘の戸籍は消してない。八方手を尽くして必要な書類を偽造してもらった。
最初に彼女が自分の事を「母さん」と呼んだ時の事を今でも忘れない。
『お母さん』彼女は機械的に言ってから、無表情ながらもどこか戸惑ったような様子だった。『何か、変な感じ…』
そうだ、この子は誰にも渡さない。だってこの子は、だってこの子は…
「いいかげんになさい!あなたは私の娘なのよ!」
しかし彼女は叩かれた頬を赤くし、横を向いて俯いたままだった。
「もう少し、あなたの娘でいたかった…」ユリが呟く。その表情は影になって捉える事が出来ない。そう、もう少し人間でいたかった…
その言葉に両親がはっとしたような顔をする。
ユリはそのままシェルターの出口へ向かっていた。
「お願い、誰か止めて!」母親が叫んだ。「誰か私の娘を止めて!」
泣きながら叫んでいた。
ユリは、緊急用の開閉扉に着くと、母親に振り向いた。ここは中からは開けるが、外からは開けない。つまり一度出たら二度と戻れないのだ。
「あなたたちは、私が守るわ」哀しい瞳でそう言った。「じゃ、さよなら」
周りの人間が止める暇はなかった。あっという間に彼女は外へ飛び出していってしまった。その後に残されたのは、二度目の娘にも捨てられた母親の悲痛な叫びだった。

***

『シンジ、逃げてはいかん』

父さんは、どうして僕を捨てたの?

『乗るならさっさと乗れ!でなければ帰れ!』

父さん、僕はいらない子なの?

『よくやったな、シンジ』

父さん、父さんは僕の事、愛してた?

『お前には失望した』

父さん、僕はどうしたらいいの?これからどうやって生きればいい?

『もう二度と会う事もないだろう』

父さん、何か答えてよ、父さん!

『人の魂には常に心の空白がある』

何だ、これ?どこかで聞いた。でもどこでかは覚えてない。

『その心の隙間を埋めねばいけない。そうしなければ人は生きてゆけいない』

ねえ、空っぽの僕の隙間はどうするの?僕には何もないんだ。やらなければならない事も、したい事も、嬉しい事も。
あるのはつらい事だけなんだ。
エヴァに乗ってればみんなが誉めてくれた。みんなが僕のことを注目してくれた。みんなが必要だって言ってくれたんだ。こんな僕の事を、必要だって言ってくれたんだ。

『お前が乗るんだ』

嫌で嫌でたまらなかったんだ。怖かったんだ。死ぬのは…傷つくのは嫌なんだ。本当は乗りたくなかったんだ。でも、女の子が、綾波が苦しんでたんだ。傷ついてたんだ。僕が乗らなきゃしょうがなかったんだ。僕は乗りたくなかったんだ。みんなが言うから仕方なく…

『人のことなんか関係ないでしょ!!』

みんな僕に乗れって言ったじゃないか!エヴァに乗ってさえいれば、みんな僕に優しくしてくれる。みんな誉めてくれる。
父さんだって誉めてくれたんだ!

『よくやったな、シンジ』

そうだ、何がいけないんだよ。誉めてもらって、みんなが喜んでくれて、気持ち良くなって、悪いことなんか何もないじゃないか!エヴァに乗ってればみんな幸せになれるんだ。それでいいじゃないか!

『君になら出来る事が、君にしか出来ない事があるはずだ』

そうだよ、だから僕は乗ったよ、エヴァに。トウジを傷つけて、僕も傷ついてそれでも僕はエヴァに乗ったんだよ?誰か僕をもっと誉めてよ!
誰か僕の事もっと愛してよ!!

『さあ、僕を消してくれ』

僕は殺しちゃったんだ…カヲル君を…どうしてカヲル君は笑って死ねたの?カヲル君は優しくて、明るくて、悩みなんか何もなさそうで…うらやましかったんだ。僕はカヲル君になりたかったんだ。
どうして殺さなきゃいけなかったの?

『使徒を殲滅せよ』

使徒って何なの?どうして使徒はみんなの敵なの?殺さなければいけないの?

『使徒は高い学習能力と自己修復能力を備え…』

だから殺すの?自分より優れたものが怖いから。

『君に逢えて、うれしかったよ…』

そうだ、だから殺したんだ。僕はカヲル君を。怖かったんだ。僕はこんなにどうしようもない僕なのに、カヲル君は僕よりずっとずっと優れてるのに、好きでいてくれたのに。
どうしてそうなの?
どうして僕をこんなふうに産んだの?ねえ、答えてよ、父さん、母さん!

『そう、よかったわね』

エヴァに乗ってさえいれば幸せになれたんだ…アスカのこともアスカを言い訳にしてただけなんだ。本当はエヴァに乗る口実が欲しかったんだ。
でも駄目なんだ。傷つけたんだ、トウジを。殺したんだ、カヲル君を!

『乗るならさっさと乗れ!でなければ帰れ!』

でも父さんに嫌われる。嫌われたらどうしよう。僕は消えてしまう。僕はからっぽなんだ。何もないんだ。

『心と魂の補完。それが人類補完計画』

補完…?…補完計画…?その為に父さんは、僕や綾波が必要だったの?嫌がる僕を無理矢理エヴァに乗せたの?綾波を殺そうとしたの?みんなを傷つけ、そして、そして…













































そうだ、みんな殺されたんだ。リツコさんも、ミサトさんも。そうだ。思い出した。どうして僕は忘れてたんだ?

「何なの!シンジ君をどうしようというの!?」
ミサトさんが言った。僕はネルフ保安部の人に両側から挟まれ、無理矢理プラグスーツに着替えさせられていた。
「この子達の力が必要なの。人類補完計画には」
リツコさんが言った。アスカは既に無理矢理弐号機の中に詰め込まれていた。最後に見たのは何も映さない虚ろな瞳だった。
「何なのよ、人類補完計画って!一体何の為にそんなことするの!?」
「あなたにも判るわ、すぐにね」
リツコさんはミサトさんと目を合わせようとしなかった。
「そんなの許さないわ!彼らは作戦部預かりです!許可しません!」
ミサトさんが言った。
「それならばもう君に用はない」何時の間にか父さんが後ろに立っていた。「現時点をもって君を解任する」
「碇指令!」
「すぐに連れて行け!」
父さんが僕を無理矢理廊下に引きずり出させた。僕はもうどうでもよかったんだ。つかれたんだ。戦うのにも、苦しむのにも。
銃声がした。突然、保安部の人が肩を抱えてうずくまった。
「シンジ君を放しなさい!」ミサトさんだった。ミサトさんが銃構えてこちらへ向けていた。「シンジ君をこっちに渡しなさい!」
「本気なの?ミサト」
リツコさんが言った。
「ええ、本気よ。今度は殺すわ」
「わかった」父さんが言った。そしてミサトさんに近付いていった。「シンジは君に渡そうだから君もその銃を…」
突然銃声がした。撃ったのはミサトさんだと思ってた。でも違った。ミサトさんが膝をついて崩れ落ちた。後ろの壁にはミサトさんのちがべったりとついていた。
そして父さんの手には銃が握られていた。
「ミサトさん!」その時僕は初めて絶叫した。「ミサトさん!ミサトさん!」
でもミサトさんは微かに動き、苦しそうに息をするだけだった。
「早く連れて行け!」
「放してよ!止めてよ!ミサトさんが、ミサトさんが死んじゃう!!」
どう見ても手後れなのは判ってた。でもなんとかしたかった。ミサトさんが死んじゃうなんて、信じたくなかった。
でも僕は無理矢理引きずられていった。
連れてこられたのは初号機の格納庫だった。冷却中の、初号機の前で立ち止まった。僕はその時泣いてるだけだった。
「赤木クン、準備をしたまえ」父さんがリツコさんに言った。
でもリツコさんは動こうとしなかった。
「何をしている、早くしろ!」
リツコさんはゆっくり振り向いた。銃を持って。
「何のつもりだ?」
「私はそんなに物分かりの良い女じゃありません」リツコさんは言った。「あなたに協力するつもりなんかないわ。最初からこうするつもりだった…」
銃口は僕の方を向いていた。
「あなたの目の前で、あなたの大事な計画を壊す。そのつもりでした」
「ばかなことを…」
父さんは言った。
「馬鹿?」リツコさんは自嘲気味に言った。「ええ、そうよ、馬鹿よ。でもあなたが私の事ほんの少しでも愛してくれてたら…少しでも心をよせてくれてたらこうはならなかったわ。でももう手後れ。あなたの計画はおしまい。ざまあ見ろよ!」
リツコさんが銃の引き金を引いた。しかし弾は発射されなかった。ただ撃鉄のカチッと言う音がするだけだった。リツコさんはあわてて何度も引き金を引く。でも何度やっても同じだった。
「弾は抜いてある」父さんが言った。「私が気付いてないと思ったか?」
「畜生、ちくしょう!」リツコさんは何度も何度も、無駄と判ってるのに引き金を引いた。
「ご苦労だった、赤木博士」銃声と共に後ろにのけぞるリツコさん。そのままエヴァの冷却漕の中へ落ちていった。
「父さん、なんてことを!」
僕は叫んで力いっぱい抵抗した。でも駄目だった。僕は無理矢理エントリープラグに押し込まれた。
思い出した事実はそこまでだった。
その後、気がついたのは、エントリープラグのハッチが開かれ、引きずり出されたこと。
ミサトさんやリツコさんの死体は何時の間にか無くなっていた。父さんもいなくなっていた。
冬月さんや、日向さんや青葉さん伊吹さんが話し合っていた。委員会のメンバーが消失したとか、日本政府の査察が入るとか言っていた。
最大の争点は僕たちをどうするかだった。ここにあるオーバーテクノロジーはどの国も垂涎のものだ。しかしそれを渡すわけにはいかない。かといって、今からすべてを破棄してたって間に合わない。
それに、いずれかの国に保護されても僕たちは政治の道具に使われるだけだと言っていた。エヴァという兵器を操るためのキー、道具としてだ。
「君たちには潜伏してもらう」冬月さんは僕に言った。「潜伏中の資金、書類等はこちらでなんとかしよう。逃げ惑う生活を送る事になると思うが、君たちをこれ以上大人の道具にしたくはない。私たちの勝手が引き起こした事だが許して欲しい」
僕にはどうでもよかった。もう誰もいなかった。父さんも、ミサトさんも。
僕はせめて綾波やアスカと一緒にいさせて欲しい、と言った。みんなは顔を見合わせた。
綾波はいない、と言った。
死んだの?そう聞き返したが、わからない、と言っていた。
アスカのことについては、みんな暫く話し合っていた。二人一緒では目立つが、アスカがあの状態ではいずれにせよ世話するものが必要だ。しかしネルフスタッフでは間違いなく監視がつき、かくまう事ができない。
しばらく喧々囂々としたあと、兄妹として身分を偽る事に落ち着いた。

そしてまた僕は逃げ出した。

そう、逃げ出したんだ。僕はいつも逃げていた。
もう逃げない、そう言ってた時も逃げていた。逃げるとつらいという事実から。そのつらさから。
逃げるのは嫌だ。でも逃げてばかりだ。
どうして逃げるのが嫌なんだ?逃げたら父さんに嫌われる。「逃げてはいかん、シンジ」そう言ってた。父さんが僕を嫌いなのは、僕が弱い子だからだ。
父さんは、綾波がいればそれでいいんだ。
でも綾波はどこへ?零号機はすでにない。綾波は死んでしまった。僕を守るため。
ならあの綾波は何だ?僕の知ってる綾波ではない?それとも綾波?
綾波は僕を守って死んでしまった。僕は綾波を守りたかった。それは、きっと母さんを通さんから守りたかったんだ。
榊さんは、綾波レイなんだろうか?それとも綾波でない綾波?
父さんはどうして綾波を必要としてたんだ?綾波は、どうして父さんに必要とされてたんだ?
父さんはどうして僕がいらなかったんだ?

父さんはどうして?
どうして?

父さん!誰かが叫んだ。どうして僕を捨てたの!?
誰だ?これは。僕か?いや、違うのか?
誰だ、君は?
一気に流れ込んでくる虚脱感、虚無感。自分の体の感覚が押し流されていく。
頭の中で子供の泣き声がする。それも一つではない。段々段々泣き声が増えていく。頭の中が埋め尽くされる。
やめろ!やめてくれ!
月、月が見えた。月がどうしたんだ?
何かのイメージ、光り輝くもの。天使?神様?いや、違う。これはそんなものではない。遥かに巨大な、人間でも使徒でもないもの。
父さん!また誰かが叫んだ。
とたんに爆発のイメージが広がる。地表を引き剥がし、海を吹き飛ばす爆発。
4枚の羽が天に向けて伸びている。
ファーストインパクト!?
皆帰っていってしまう。僕たちを残して。僕たち?一体誰がいるんだ?他に。これは、これは…

使徒!?

アダム!?

そうなのか?僕たちは兄弟なのか!?捨てられたのか?親に!?

泣いている。親に捨てられて、泣いている。月、月に何があるんだ?どうやって月に行くんだ?
爆発?インパクト!?
止めろ!みんな滅びる!みんな死んでしまう!

父さん!そいつは泣き叫んでいた。

父さん!!

…ンジ…

何かの音がする。いや、音じゃない。

シンジ…

声だ。誰かの声…

「どうしたのよ、バカシンジ!早く目ェ覚ましなさいよ!」
シンジは目を開けた。目の前でアスカが叫んでいた。
「アスカ…」
シンジはつぶやいた。
「いきなり苦しんだかと思えば、気絶して、どうしたのよ!?」
「止めなきゃ…」シンジは言った。「早く止めなきゃ…アダムを…みんな死んじゃう!」
アスカが驚いたような顔を見せる。
「ちょっと、それってどういうこと!?」
「アダムは僕なんだ…」シンジはうめくように言った。「アダムは僕なんだ!!」

***

LCLプラントの映像が回復した。アダムは丁度完全にリリスの身体から這いずりだして、LCLの海の上に降り立った。羽は既に完全に消えている。少年の姿だった。髪は白く、目は赤い。しかし、それはチェシャキャットとして現れた少年の姿とは明らかに違う。もっと年上の、殆ど成熟しかかった体だった。それに顔も違う。しかし長瀬にはどこか見覚えのある顔だった。
少年はLCLの水面を、地面を歩くように軽やかに歩いていくと、LCLプラントを出て行く。そのままメインシャフトへと向かって行った。
「アダムがメインシャフトへ向かうわ、隔壁を遮断して!」
長瀬が叫んだ。
隔壁が次々に閉じていく。アダムはそれを下から見上げていた。
「リポソームを用意!」
館内の異物排除の為のレーザーシステムが次々作動してく。
「発射!」
レーザーがアダムに向けて伸びていく。しかし、全て少年の前で折れ曲がってしまう。
「駄目です!ATフィールドです!」
少年の周りに光の壁が次々現れては、消えていく。
少年はそれを何の気無しに見つめてた。
「センサー類、回復しました!」
日向が最下層の模式断面図を示す。そしてアダムのいる辺りを拡大した。矢印がアダムの位置を示し、人間のゲノムに似たパターンが別のスクリーンに現れる。
「今までの反応と違います、完全なBloodType-Blueです!」
今までと違う。確かにそうだ。今までは周期的な変動を示し、完全なBlueを示すことはなかった。しかし今ははっきりと示している。
これは実体と影の差なのか?
長瀬は報告の中にあった論文を思い出していた。確率場理論。量子状態を支配するもの。それが本当だとすれば、あの影はATフィールドと基本的に同じ理屈で存在してるのではないか?存在の確率はいつもは取り込まれたものはアダムの中か、どこか、とにかくどこにも存在しない。それが必要に応じて現れる?
冬月は言っていた。「確率だけなら床を突き抜ける可能性も…」そう、可能性はあるのだ。力学的、既存物理とはまったく異なる力。それが使徒の力だというの!?
あの変な反応はその反応に過ぎなかったのか…しかし今はそんなことを考えても詮無い。
「戦自と国連軍にも出動の要請を…」
言いかけて長瀬が止まる。画面の模式図が別の反応を示している。最下層より、遥か上。
「し、使徒です!」日向が叫んだ。「もう一体の使徒です!」
「何!?それ!?」長瀬が呆然とする。「エヴァンゲリオンではないの!?」
「いいえ、完全にBloodType-Blueを示してます!」
「もう一体の使徒…」予想外の事が多すぎた。何だというのだ?第三使徒から第十七使徒まで、全ての使徒は現れ、消えた。あとあるのはアダムと…
「リリス!?」長瀬は叫ぶ。オペレーターたちが長瀬を見た。「リリスを映して、今すぐ!」
日向がすぐ言われた通りにする。さっきまでと変わらない光景、壁に打ち付けられた青白い巨人。
しかし、それのつけてるゼーレの仮面が落ちかけていた。今まで何をしようとしてもはがれなかったのに。
ゼーレの仮面がLCLの海に落ちる。そして彼らは見た…いや、何も見なかった。
そのリリスの顔には、乱雑に作られたような口が開いているだけで、目はなかった。
のっぺらぼうだった。
「これは一体どういう事なの…?」
目のない、コアのないリリス。そのコアはどこに行ったというのだ?

***

「バカシンジ!何言ってんの!?アンタがアダムなわけないでしょ!?」
アスカが怒鳴る。
「同じなんだ、僕と、同じなんだ…」シンジは泣きむせびながら答えた。「親を求めながら、憎んで、泣いてる子供なんだ!」
「何言って…」アスカは言いかけてはっとした。覚えがある。あの時見たアダムの記憶。あれがそうだというの?
「とにかく、このままじゃみんな死んじゃう」シンジは涙を拭った。「アダムはサードインパクトを起こす気だ」
「サードインパクトを?どうして今ごろ…」
「すべて思い出したからなんだ。それで月に行くつもりだ」
「月?」アスカは一層怪訝そうな顔をする。「月に何で…」
「わからない」シンジは言った。「でもこのままじゃみんなサードインパクトで死んでしまう。止めるんだ」
シンジは起き上がった。
「止めるったってどうやって!?相手は使徒なのよ!?エヴァもないのに、勝てるわけないじゃない!」
「エヴァならある」シンジは言った。
「この目の前の奴!?」アスカは手で示して言った。「こんなの全然駄目じゃない!コアもないし、エントリープラグだってないのよ!?」
「初号機だ」
アスカは、え?という顔をする。
「ここの地下に初号機があのままの状態で眠ってる。そこまで行けばあるいは…」
シンジは出口に向けて歩き出す。アスカは慌てて追いかけてシンジの前に立ちはだかった。
「ちょっと正気!?」アスカはシンジの鼻先に指を突きつけて言った。「初号機だって、ずっと放っておかれてたんでしょ!?整備も何もなしで動く訳ないじゃない!」
「だけどそんなのやってみなくちゃわからないだろ!」
シンジが怒鳴る。
「アンタバカ!?相手は機械なのよ?恒常的なメンテナンスが必要な事ぐらい分からない?例え初号機本体が大丈夫でも、エントリープラグなんて使い物にならないわよ!」
アスカがすっかり馬鹿にした様子で言う。しかしシンジは真面目な顔で怒り出した。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ!?このまま手をこまねいて見てろ、っていうのか?アスカは!」
すごい剣幕で怒り出したシンジに、アスカはたじろいでしまった。
「いや、そういうわけじゃないけど…」
突然、アスカの背後のドアが開いた。アスカは思わず振り替える。
そこには一人の少女が立っていた。
「ファースト!?」
少女の方も、一瞬だけ少し驚いたような顔を見せたが、すぐに元の無表情に戻った。
「榊、さん?」
シンジが呟く。アスカが、え?ファーストじゃないの?という顔でシンジを見た。確かに髪は黒いし、目も黒い。でもこの表情はどう見ても綾波レイだ。
ユリは二人を無視するように格納庫の奥へと進んで行く。
「榊さん、どうしたの!?」
シンジはユリを追っていく。確かシェルターへの避難命令が出てたはずなのに。
「ちょっと、シンジ!」
アスカも慌てて後を追う。
ユリはまっすぐに8号機の所へ進むと、その前で立ち止まり振り返った。
シンジとアスカも、ユリとはまだだいぶ距離があったが思わず立ち止まる。
「碇君…」ユリが口を開いた。綾波の声だった。あとの声は聞えなかった。ただ口の動きだけがはっきり見えた。
シンジはそれを見て、呆然とした表情になった。
「え?ちょっと、何?何て言ったの?」
アスカはその言葉が読み取れず、シンジにしきりに尋ねる。しかしシンジは慌てた様子でユリの方へ駆けだそうとする。
「駄目だ!行っちゃ駄目だ、綾波!」
その瞬間、榊ユリの身体が浮いた。文字どおり、ふわりと。
アスカは呆気に取られて見つめてる。ユリは、否、綾波レイはそのまま8号機の肩へと飛んでいき、降り立った。
「おねがい、手伝って」レイはそっと8号機に囁くように言った。と、たちまち地響きの様な音がしだした。
「駄目だ、やめるんだ、綾波!!」
シンジの声がかき消される。8号機が、その拘束具を引き千切って動き出す。上から砕けた鉄骨やコンクリートの破片が降り出す。
「ちょっと、なにぼさっとしてんのよ!」
アスカがシンジの襟首をつかんで、無理矢理引っ張ってその場を離れる。かろうじてシンジは廃材の山の下敷きにならずに済んだ。
動き出した8号機はそのまま、壁をぶち破って、地面をゆるがせながらメインシャフトの方向へ向かっていった。
アスカは呆然とその姿を見送った後、はっとしてシンジを見た。
シンジは「いっちゃだめだ、綾波」と繰り返し繰り返し呟いてた。
「ちょっと!ちゃんと説明しなさいよ!」アスカはシンジの襟を掴んで迫る。「あれはやっぱり優等生なの!?なんで優等生が空を飛ぶの!?なんでコアもエントリープラグもないエヴァが動くの!?どういう事!?それと、最後に何て言ってたの!?聞いてたんでしょ!?」
シンジは唇を震わせながら答えた。「サ・ヨ・ナ・ラって…」
アスカが怪訝そうな顔をする。
「さよなら、って言ってた。やっぱり綾波だったんだ!どうして記憶が戻ったのかわからないけど、綾波レイだったんだ!しかも綾波は綾波は…」
「優等生が、どうしたのよ」アスカが不機嫌に言う。
「死ぬ気だ」シンジがはっきり言った。
アスカが息を飲み込む。
「死ぬ?」
「そうだ。綾波はアダムと戦う気だ、きっと…」
「どうしてアンタにそんなことが解るのよ!?」
「解るんだ!あの時と同じだから…」そうあの時と。第五使徒と戦った時。
そして第十六使徒と戦った時…
「止めなきゃ!」
「何なのよ、それ…」アスカは髪をくしゃくしゃにかきあげた。「いったい何だってのよ、あの女が!髪は白いし、目は赤いし…」
アスカは呪いの言葉を吐くように吐き捨てる。
「止めろ、アスカ!」
シンジは怒鳴った。
「おまけに空を飛んで、コアもないエヴァを動かすなんて…」
「止めるんだ、アスカ!」
しかしアスカは止まらなかった。
「人間じゃないわよ!バケモノよ!あの女!使徒と同じバケ…」
シンジがアスカを張り飛ばす。張り飛ばしたシンジの方がむしろ驚いたような顔をした。叩いたのか?僕が。アスカを?
アスカは頬を腫らせながらキッとシンジを睨み付ける。
「何よ!そんなにあのバケモノ女のことがいい!?あんな女、アダムにお似合いじゃない!バケモノ同士のカップルよ!殺し合うなり何なり好きにさせればいいじゃない!!」
「止めろよ!アスカ!!」
「もう嫌!アンタも優等生も、みんな嫌い!さっさとアダムとバケモノ女の心中でも見に行けば行きなさいよ!」アスカをじっと見るシンジに、アスカは涙目で更に吐き捨てた。「ほら、何してるのよ、さっさと行きなさいよ!」
「…わかった」シンジは呟いた。「わかった、行くよ。アスカは近くのシェルターに避難してて。後で僕も…」
「うるさいわね!私に指図しないで!」
アスカは涙声で怒鳴りながら、どうしてこんなに腹が立つのだろうと思った。さっきシンジに抱きしめられていた瞬間を思い出す。今思い出すとはらわたが煮えくり返る思いだ。
どいつもこいつも私の側からいなくなる。私の世界とは、すなわち私の周りの人々だ。私を中心に、いろんな人がいる。でも私を抱きしめてくれるべきママはもういない。私を道連れに…私の偽者を道連れに死んでしまった。日本では"シンジュウ"と言うのだろう。何で大事なら子供の気持ちを無視して自分の思い勝手に出来るのよ!関係ない子供まで殺すのよ!何で子供を残してどこか行っちゃえるのよ!
私を抱きしめてくれるはずの手は、いつも私で無い物を抱きしめていた。そしてママが死んだ後、私はパパの手を拒んだ。あの手は私からママを奪ったあの女を抱きしめた手だ。汚らしい!不潔!男なんて、みんなみんな不潔だわ!
加持さんは違ってた。私がそうして欲しい時に抱きしめてくれた。でも加持さんは突然、いなくなってしまった。加持さんも私より、あの女…ミサトの方がよかったのよ!不潔だわ、男なんてみんな!結局身体だけが目当て。
さっきはシンジが抱きしめてくれた。シンジの腕の中で泣いたなんて、腹が立って、へ吐が出そうだわ!
でもそう思ってるのはとても安らいだから。私を抱きしめてくれる手が、そこにあったことに。ずっとずっと抱きしめていて欲しかったのに…
みんな私を捨てていく。ママも、パパも、加持さんも、アダムも、シンジも!
「ちくしょう!」アスカはさっき落とした銃を拾い、マガジンのカートリッジを確認するともう一度セットする。「冗談じゃないわ!」
アスカは呆気に取られるシンジを尻目にぐっと立ち上がる。
「どいつもこいつも私のこと馬鹿にして!…私の人生めちゃくちゃにしておいて!」
アスカがシンジの方をすごい形相で見た。シンジは一瞬びくっとした。シンジに食ってかかろうとでも言うような目だ。持ってるものが持ってるものなだけに、洒落にならない。
「何ぼさっとしてるのよ!シンジ!!」アスカはシンジに怒鳴りつけた。「行くわよ!」
「え…?」シンジは呆気に取られて聞き返す。「行くって…?」
「アダムの所に決まってるじゃない!」アスカは憎悪のこもった眼差しで言う。「私の人生めちゃくちゃにした大元の最期を見てやろうって言うのよ!見てやらなきゃ気が納まらないわ!」
そう、そして綾波レイの最期も。そしてそれを見た瞬間のシンジの顔を見なくては気が済まない。
どいつもこいつも、みんな馬鹿にするな!!

***

俺は何故こんな所を歩いているのだろう。びしょぬれになって歩きながらそう思った。この惨めな身体を引きずって、言い知れぬ虚脱感を引きずって歩きながら思った。
何故俺は生きている…?歩きながら思った。これ以上、生きたい理由なんかどこにもなかった。でも俺は生きている。生きて歩いてる。どうしてなんだ?
やりきれなかったからだ。

わたくしといふゲンショウは…

歩きながら呟いた。

カテイされたユウキコウリュウデントウのひとつのアオジロいショウメイなのです!

声を張り上げた。安息など結局どこにもなかった。それはきっと本当はわかっていたことなのだ。なのにどうしてこんなに悲しい?どうしてこんなにとめどもなく涙が出る?
両親の夢を見た。それは決して今まで見る事のなかった幸福の夢。なのにそこに安住する事は出来なかった。どうしてだ?
どうしてアダムの中から出てきてしまったのか。彼は歩きながら頭の中でずっと呪文の様にその問いを繰り返していた。繰り返していたのは答えを知りたいからじゃない。答えなら本当は分かっていた。それなのに質問をずっと繰り返していたのは、何もなくなってしまうのが怖かったからだ。虚無が、空白が怖かったからだ。
空っぽの自分。どうしてこんな自分がここにいるのかは分かっていた。まず、アダムのこと。アダムは誰かを拒絶した…恐らく、記憶を失ってから初めて。拒絶を知らない赤子が、初めて拒絶を覚えたのだ。拒絶という言葉の本当の意味を、感情を知らなかったろう。
だから今まで拒絶しなかった。出来なかった。それが何かを知らないのだから当たり前だ。
でも、誰かが拒絶を教えた。激しい憎悪で。何人かがはじき出された。どのくらいの人間が、誰がはじき出されたかは知らない。おそらく彼らは自分と同じようにこのネルフ本部内をさまよってるのだろう。それはどこか、あの黄昏の楽園と相容れなかった者達。ある者は激しい憎悪と拒絶。ある者は後悔…原罪。そう、それは俺だ。
彼は思った。少し前はトードと言う名前だった。でも今はわからない。名前などにアイデンティティは持っていないつもりだった。でも今はわからない。"トード"と言う自分と"宮坂タカシ"と言う自分。どちらも自分だったものだ。でも今はどちらでもなかった。両親と共に在った宮坂タカシという少年。特に幸福と言うわけではない、不幸と言うわけでもない、当たり前の生活。いるべき両親がそこにいて、帰るべき家が迎えてくれる。別にそんなのは当たり前の生活だ…普通の子供にとっては。しかしそれこそが彼にとって幸せだった。少なくともそうその目には映っていた。
でもそれを決して許さない自分がいる。両手に染み付いた血の赤と、硝煙の臭いが決してそれを許さない。決してかなえられない夢、それから自分を引き剥がす現実。今までは後悔しようとも思わなかった。生と死の日々の中に、それらは忘却してきてしまった。
しかし忘却とは忘れ去ることではない。目を閉じ、耳を塞いでもそれはそこに確かにある。
皮肉な事に、それこそが彼を現実に引き戻した。彼を救けたのだ。安寧と決して相容れない自分。自分を許せるものは、神か、死、のみだろう。しかし彼は神など既に死んでいる事を知っていた。少なくとも十八年前のあの日、潰された空缶の様な列車の中で両親が肉の塊になった時に、育ての親の村が日に包まれているのを丘から見た時に。
もう一つのもの、死は彼を避けて通る。目の前の戦友の下半身が地雷で吹き飛ばされるのを見た時、ある作戦で強硬に撤退を主張し、命令無視をして撤退した彼の部隊だけが生き残った時も、アダムに皆が取り込まれた時、自分だけ逃げて生き延びた時も…
いや、違う。彼は思った。死が彼を避けてるわけじゃない。自分が死から逃げ、脅え惑っているのだ。今もからっぽな自分なのに、希望も何もないのに、なのに生きてる。死にたくない。なんと中途半端な自分なのだろう。
今、彼は全てを呪っていた。戦場に立ってる時はこうではなかった。生きてる事に感謝し、他に何も望む事などなかった。しかし心の奥底のものが手に掴めない今、呪わずにはいられなかった。
その呪いは、一つの対象に収束していった。彼はそこに足を向けていた。ここがどこかは知っている。
そして目指す場所も。
彼は、その場所にたどり着いた。人気のないコンパートメントブロック。その中の一つの扉の前に立ち、扉を開く。自動扉は音もなく開いた。
部屋の中にはその男がいた。避難勧告を無視して、ここからシェルターには逃げようとはしなかったのだ。
かつん。
靴音を立てて部屋の中に入る。部屋の中の人物はその音に気付き、振り向いた。その男は振り向くと、驚いたような顔をした。そうだろう。事情を知ってる者ならここに立ってるのは幽霊だと思うだろう。でも違う。幽霊ではない。それに限りなく似た者だ。
「冬月コウゾウ」トードと言う名前だった者は銃を脇のホルスターから抜いて彼に向けた。「アンタを探していた」
「君は…」白髪頭の老人は言った。「確か死んだと聞いていたが…」
「残念ながら、天国の門の前で追い返された」自分自身が追い返したのだ。「地獄は顔なじみばかりで居心地が悪い」
「亡霊、ではないのだね?」
冬月が言ってる意味を、彼は理解できた。脚を叩いて見せる。
「俺は生きてここに立っている。だが幽霊より悪いかもしれない。俺には何一つないのだからな…たった一つ、復讐を除いては」
その言葉に、冬月は目の前に立ってるのが本物だと確信したようだった。「せめて一つ聞こう、殺される前に。どうして私は殺されるのかね?」
穏やかな口調だった。
「あのセカンドインパクトさえなければ、そう思ってない人間がこの世にいないと思ってるのかい?」
冬月はため息をついた。
「知ったのか、全てを」
冬月の言葉にうなずく。冬月は静かに後ろを向いた。そしてしばしの沈黙。
「撃ちたまえ」冬月は言った。
その言葉に、引き金を引く手が動きかける。しかしどうしてもあとほんの少し、最期の1gの力が出なかった。
「どうしてだ」彼は言った。「どうしてそう簡単に死を受け入れる」
「君には復讐する権利がある」冬月は答えた。「いや、この地球上の殆ど全ての人間に、その権利があるのだ」
トードの手が微かに震えていた。「どうしてだ」トードは俯いて身体を震わせていた。「どうしてネルフなんて組織に手を貸した!セカンドインパクトを引き起こし、大勢の人間の人生をめちゃくちゃにしたのに、どうしてそんな奴らに手を貸した!!」
「撃ちたまえ」冬月は静かな口調で繰り返した。
「俺は、アンタのことは決して嫌いじゃなかったんだ!」
トードの声が震えていた。冬月は後ろを向いたままトードの方を横目でちらりと見た。
冬月の身体が動く。反射的にトードの銃が冬月を狙った。
「何もしはしない」冬月は止まって言った。「老人には立ったままというのはきついのでね…座らせてもらうよ」そう言って椅子を移動して、トードの方を向いてそこに座る。
「私の知ってる全てを話そう」冬月は言った。「もし撃ちたかったらいつでも撃つがいい」
トードは答える代わりに銃口を向け続けていた。冬月はそんなトードの目を見てふっと笑った。
「きっとあの時の私の目も、そんな目だったのだろう」
トードは沈黙し続けている。
「私もかつては君と同じだった…セカンドインパクトを引き起こした碇ゲンドウと、ゼーレの連中を許せなかった。私は持てる全てを以って彼らの起こした罪の証拠を集め、碇ゲンドウに迫った。全ての事実を白日の下に晒すとな。しかしその時、私は見せられたのだよ、あれを…」
「あれとは何だ?」トードは話を促す。
「アダムの複製たるイブ、エヴァンゲリオンだよ…」
「…」
「それは何を意味するのか?すなわち来るべき使徒の襲来だよ。彼らのしたことは確かに許され得べからざるものだ。しかし彼らは同時に人類の未来を切り開こうとしていた。私には何が正義か判らなくなったよ」
「そんな戯言はどうでもいい」トードは冷たく言った。「さっさと続けろ」
冬月は微かに笑った。
「その時の碇ゲンドウは最初会った時とすっかり変わっていた。彼の妻、碇ユイ君と、二人の子供碇シンジ君がそうさせていたのだろう。見た目はとっつきにくく、無愛想な男のままだったが、彼には他人を受け入れる心の余裕が出来ていた。そう、あの14年の運命の日に」
トードはただじっと睨み続けている。
「碇ユイがこの世から姿を消した。その時に碇の全てが変わった、いや、元に戻ったと言うべきかな?世を呪い、この世の全てを呪う男にだ。しかも本人はその事に気付いてなかった事が、なお始末が悪い。そして碇は立ち上げたのだよ、『人類補完計画』を」
「その単語は何度か聞いた」トードは言った。「だが俺には興味がない」
「老人の戯言だ。付き合うのが嫌なら何時でも撃つがいい」冬月は言った。「『人類補完計画』とは何か?それこそが全ての今の状況を引き起こし、全ての厄災の始まりだったのだ。今日生きてる者にとってはね。君はエヴァンゲリオンとは何かを知ってるかね?」
冬月が銃口の前と言う事も忘れ尋ねるが、トードは何も答えない。
「ああ、すまん。柄にもなく興奮してしまった様だ」冬月は落ち着きを取り戻す。「さっきも言った通りエヴァとはアダムの複製、使徒のイミテーションだ。それは本来、使徒と互角に戦える唯一の存在としての意味しかなかった。だが、実験が繰り返される内に奇妙な現象が繰り返し起こるのが観測された。本来使徒の心の中心足るコア、エヴァにおいては有人制御をするためこれのまっさらな、基本的に何も入っていないコピーが使われ、実際にはエントリープラグの中の人間からのフィードバックによりさもコアが思考しているようにエヴァの肉体に錯覚させ、動かす。本来そうあるべく設計されたはずだったのだ…」
「何があった?」何か冬月の言動に奇妙なものを感じて聞き返す。そうではないのか?碇シンジや惣流・アスカ・ラングレーはそうやってエヴァンゲリオンを動かしていたと聞いている。違うのか?そう言えば全ての適格者は当時14歳前後…現在は18歳程度。これは何を意味する?
「被験者となった研究者達の精神が、次第に犯されていったのだよ。分裂症に似た症状を呈し、完全に発狂する者すら出てきた。これ自体は実は予想できたことではある」
「予想できた?どうして?」
「エヴァとのシンクロは脳の報償系のA10神経を中心としたコアとのシンクロにより初めて可能となるのだが、このA10神経はドーパミンを多く含む。ドーパミンとは何か?それは人間の愛情に伴う幸福感をもたらす物であるが、同時に過剰に放出された場合は精神分裂症を引き起こすことでも知られている」
「つまり心の病気ってことか?」
「そうだ。君は覚醒剤中毒の患者を見たことがあるかね?」
トードはうなずいた。今まで何度も見ている。戦場の恐怖に耐え切れなくなりクスリに逃げた者達。国によっては食料も資材もなくなった兵士たちに国が配る酷いところもあった。しかしその末路は常に哀れなものだった。次第に正常な判断が出来なくなり、最期には何もかもやる気を失ったようにベッドの上で宙を見詰める患者になる。トードがクスリに逃げなかったのはそんな連中を何人も見てきたからだろう。
「あれと同じような症状になる。それが精神汚染だ」トードは平然と言う冬月に思わずぞっとした。引き金を引きそうになる。なんでこんなに冷静に話せるんだ?他人を壊したんだぞ!?科学者というのはこんな人間なのか!?しかしトードはなんとか堪え、話の続きを聞いた。「しかしそれだけならさっきも言った通り予想は出来た。しかし予想が出来なかったのはそれに伴う現象だ」
「何だ、それは」
「心のないはずのエヴァに、心が生まれたのだよ」
「ココロ?」
「そう、心だ。まるで被験者達の心を吸い取った様にね。その現象の解析は、一部マギにも転用された。人格移植OSの技術はマギで確立されたんじゃない。正確にはエヴァで起こった現象の複製にすぎないのだよ」
「…」
「心を持ったと言っても、まるで人間の物ではないようだった。ほとんど本能で動く獣。その制御が切れた時はまさしく"暴走"状態だった。しかしさらに驚くべき事に、既婚の、と言うより子供を持った女性が精神汚染を受けた場合、そのコアがその子供と非常に高く、効率的なシンクロ率を有するという事実が発見された。その実験の一番最初の被験者がセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーだ」
「惣流・アスカ?あの娘か!?」
トードは虚ろな目でベッドの上に横たわってた娘を思い出す。それと同時に幸福を常に問い掛けていた姿もだ。あれ?トードはふと思う。なんで俺はあの娘のこんな姿を?見た覚えはないぞ?
「そうだ。彼女が人間でエヴァを制御した最初の者だった。その次が他ならぬ碇ゲンドウの息子、碇シンジ…」
「じゃ、碇シンジの母親も?」
「そうだ、彼女の場合はもっと特殊だ。肉体ごと、消えてしまった。まるでコアに吸い込まれた様にね。碇シンジにも幼い頃何度かシンクロテストが行われたが、彼女の消える現場を目の当たりにしたショックからか、芳しい数字は示していなかったのだ…」
トードは目眩を覚えた。自分と同じだ。親の死を目の当たりにし、その記憶を封印しようとしていた。失われた楽園は、二度と戻らない事を知っていたから。しかしトードは冬月の言葉を思い出した。
「惣流・アスカはセカンドチルドレンだったな?確かファーストチルドレンは綾波…」
「そう綾波レイだ。君が何度も会ってきた榊ユリ、彼女は綾波レイに違いないだろう」
「って、ことは彼女も母親を…」
「いや、違う」冬月がはっきりと言った。トードは意外に思った。
「あんたさっき母親のコアとシンクロするって…」
「私は同時に人間では、惣流・アスカ・ラングレーが初めてだと言った」
「人間では?」そう言えば言っていた。その時は奇妙に思わなかったがあまり気に留めなかった。ナンバリングなど何かの事情で狂うものだ。しかしこの冬月の物言いはまるで…
「過去、多くのネルフを調べた人間が綾波レイの事について『過去の記録は抹消』以上のことは調べ上げられなかった。これは何故だと思う?キール議長の娘、長瀬女史の場合ですら、完全には消しきれてなかったというのに」
トードは冬月が長瀬の過去を知ってると言う事に驚いた。しかし肝心のその言葉の意味が解らない。
「何が言いたい?」
「早い話、初めから過去などないのだよ。綾波レイには。綾波レイは初号機のコアからサルベージされた碇ユイの肉体なのだ」
「何だよそれは…」トードは何か現実と剥離した印象を覚えた。「つまりクローン人間って事か?ばかばかしい!SFじゃねえか、それじゃ!」
「正確にはクローンではない」冬月は付け加えた。
「アンタの言いたい事はそれだけか?言い訳にもならない戯言をぐだぐだ続ける事が…」
「撃ちたければ何時でも撃てと言ったろう」冬月は諭すように言う。「それに話が少し脱線してしまったな。私の話したかったのは碇ユイが肉体ごとエヴァに取り込まれたと言う事実だ」
「それがどうした!小僧が母親を失ってエヴァを操れる様になったってだけの…」怒鳴りかけて口が止まる。「取り込まれた…人間が…?」
「そうだ、君は身を以ってその現象を体験したはずだ。君の場合はエヴァではなく、アダムだったがね」
「それはどういうことだ?」
「人類補完計画は、文字どおりそこから始まったということだよ」
「言いたい事がさっぱり分からねえぞ!」トードが銃を冬月に押し付ける。しかし冬月は顔色一つ変えない。トードは死にたがっている人間を脅す事の愚を悟った。「つまり、人間をエヴァに取り込ませて、何かしようってのか!?」
「ある意味そうだ」冬月は言った。「少なくともゼーレの連中はそう思ってた」
「思ってた?」
「人類補完計画には二つのフェーズがあったのだよ。その一つはエヴァとのシンクロ、融合だ。ゼーレの老人にはそれしか知らせてなかった。人間の心、神の肉体、新たなる生物の誕生と無邪気に信じていたよ、彼らは」
「つまり弱い人間の衣を捨て、まったく別の存在になろうってのか?」
「そうだ。しかしその末路は君も知っての通りだ」トードは目の前で槍に貫かれたエヴァを思い出していた。あれはそのなれの果てだったのか。「人間とは呼べない、本能だけで動く中途半端なケダモノ。それが末路だ。碇は恐ろしい男だ。ゼーレの老人たちを満足させ、黙らせるのにその様な手段を使った」
「ちょっと待て、それじゃ二つ目のフェーズってのは何だ?碇ゲンドウとやらが画策した、本当の補完計画ってのは?」
「それこそが本題なのだ。人類補完計画とは、人の魂を結び付け、心の空白を埋めるもの。すなわちエヴァのA10神経のシンクロを利用し、全ての人間の心を融かし合わせ、また肉体をも融かし合わす計画。とにかく人間を取り込んでいくアダムの奇妙な行動。変だと思わなかったかね?あの行動はその時再生されたアダムにインストールされたプログラムの名残に過ぎん。何故今アダムは人間の姿なのか?その時人間から受けた影響のせいだ。しかし考えてみたまえ。その様に魂の融合した人間が人間と呼べるかね?人間の器のままで耐えられると思うかね?」
「つまり、どういう事だ?新しい肉体は、アダムってことか?」
「それも違う!」冬月は声を荒げた。「アダムを依代とし、エヴァの共振を仲介させて全ての人間をアダムに取り込ませるなど、計画の前段階に過ぎん。アダムの肉体でも全ての人間の魂の許容には達しないだろう。限界は来る。本当の碇の求めた肉体は、もっと別の場所にあったのだ。しかし、計画はそこまで行かなかった。失敗したのだ」
「失敗?どうして?」
「理由は二つ、一つ目はエヴァ初号機が全世界の人間と共振しなかったのだ。いや、した事はしたが、中途半端なまま終ってしまった」
「何故?」
「その理由は解らん」冬月は落ち着きを取り戻していた。「おそらくはパイロットの碇シンジ君のその時の精神状態が関連してると思われる。いずれにしてもその結果は世界中の人間が悪夢を見たにすぎん」
「二つ目は?」トードが促す。
「いや、もういい」冬月は言った。「私が言いたかった事は全て言った。私の罪は全てね」
「罪?人類補完計画か?」トードは銃を握りしめた。
「それもそうだ」冬月は答える。「私はその計画に非常な嫌悪を覚えると共に、同時に科学者として非常に興味をそそられた。計画が成功すれば人間の、人類の新たな黎明を迎える事が出来る。全ての人間が滅ぶわけではないだろう。可能性としての進化に人類という種を株分けしてもいいのではないか?そう思っていた。私自体は新たな種の誕生に加わるつもりはなかった。人間として、その誕生を見守るつもりだった。だが最大の罪はそんなことではないのだよ」
「最大の罪?セカンドインパクトか?」
冬月は震えながら答えようとしていた。奮える。この冷静な科学者が、脅えているのだ。
「違う!それを起こした組織に荷担した事も罪だ。しかしもっと恐ろしい罪は、それは、私は碇の本当の目的を知っていて、なおかつ自分の学問的欲求からあえてそれを利用した事だ!」
「本当の目的?人類のココロのスキマを埋めるって事か?」トードにはいまいちピンと来なかった。しかしあれがあの幸福の夢ならば、気持ちはわからないでもない。だが、トードにとって所詮は叶わぬ夢なのだが。胸が切なくなった。
「そうではないのだ!」冬月が絶叫した。もはや完全に取り乱していた。「碇の本当の目的は、本当の目的は、あいつは初号機の中のユイ君と一つになりたかっただけなのだ!人類の救済など、あの男の大義名分に過ぎん!いや、本人はそれが本心からだと信じていたかもしれん。それこそがユイ君の意志だと本当に信じていたからな!しかしあの男の本心は違う!あの男は自分の亡き妻を取り戻すため、全人類を犠牲にしようとしていた、そして私はそれをわかってて見逃したのだ、それが私の罪だ!」

***


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