***

検事達は取りあえず地検に連絡をし、指示を仰ぐ間、じっと長瀬を見ていた。内務省のエージェントたちはただおろおろするしかなかった。
命令系統がいきなり消失して戸惑ってるのだ。
急に警報音が管制室に鳴り響く。
「何なの!?」
長瀬が日向に言った。
「そ、それが…」日向がパネルを前に戸惑う。「多数のエヴァンゲ…いえ、敵性体と思われる反応が、このネルフ本部に近づいてます!」
日向が正面パネルにレーダーを大写しにする。
「勝手な事はするな!」
検事が叫んだ。
「馬鹿言わないで!あなた達それどこじゃないかも知れないのがわからないの!?」長瀬が怒鳴ると、検事達はたじろいだ。「間違いないの?」
「はい」日向は答える。「先ほどまで第三系統までがオフにしてあったので気が付きませんでした。調整の途中で予備以外は切ってあったようです」
「なんでよりによってこんな時に…」長瀬は爪をかんだ。そして妙な事に気が付いた。「ここに?」
「え?あ、はい。ここに近づいてる様です」
「まさか…」長瀬の顔が青ざめる。「本部内の使徒の反応は調べてる!?」
「いえ、それも調整中で…」
「すぐに調べなさい!」
「は、はい!」
日向がすぐに作業にとりかかる。
検事が命令を下す長瀬に耐えられないと言うふうに怒鳴りかけた。
「長瀬!いい加減勝手なことは…!」
「何もしない人間はだまってらっしゃい!」
長瀬がぴしゃりと叱り付ける。検事達は気おされてしまった。
やがて日向が顔色を変えて振り向いた。
「ネルフ本部内に、周期的変動を示す反応発見!アダムと思われます!」
スタッフたちがざわめく。
「総員、戦闘配置に!態勢をフェイス1へと移行しなさい!」
「いい加減にしないか!」検事が怒鳴った。「お前にはもう何の権限もないんだ!ここで命令を下す権利はないんだぞ!」
検事の言葉に、動き始めてたネルフスタッフの動きがぴたっと止まる。お互いの顔を見合わせて不安そうにしていたが、やがて視線が長瀬に注目しはじめる。
長瀬がそこにいる全員の顔を見渡した。何人かのものは長瀬が直接尋問した事もある。一通り見渡すと、側にあったマイクを取ってスイッチを入れた。
「全員聞いての通り」長瀬は話し出した。「私には今、何の権限もありません。この中には、上司でなくなった以上、私はただの嫌な女でしかないという者もあるいは多いでしょう」
そう言って青葉の方をちらっと見る。青葉は目をそらさずに長瀬を見詰めてた。
「あなたがたには私の言う事に従う義務は一切ありません。従えば、むしろあなたがたの将来の為にはならないでしょう。しかし、今迫ってる事態がどういうものであるのか、それはあなた方がこの世界で誰よりも良く知ってるはずです」長瀬はいったん言葉を切り。深呼吸をする。「今、何をすべきなのか、あなた方が自分たちで考えて決めなさい」
長瀬はそう言うと、マイクを放した。しばらく沈黙が続くかと思われた時、
「総員、戦闘配備へ!」
そう言ったのは青葉だった。長瀬が驚いたように彼を見る。かならず誰かが動くという確信はあった。しかしまさか彼が最初に動くとは思わなかった。青葉を皮切りに、次々にスタッフたちが動いていった。
青葉がちらっと長瀬を見る。
「自分は、あなたが嫌いです」はっきりと言う。「でも、自分の仕事は知ってるつもりです」
長瀬は少し微笑んだ。
「そう」
そして検事達の方に振り向いた。
「と、いうことですわ。どうします?」
検事達は暫く唖然としていたが、やがて口を開いた。
「馬鹿な事を!お前達、自分が何をしてるのか…」
言いおわる前に長瀬がつかつかと歩み寄る。検事達が反応する前に、長瀬はスーツの上着の下から銃を取りだし、一番年配の検事の口に突きつける。
優美ですらある機能美的な銃身をつきつけられ、検事の口は凍り付いた。
「私の起訴状に、恐喝罪、傷害未遂も付け加えておくことね」長瀬は笑みをたたえて言った。「でも、今のところは静かにしてくださるかしら?」

***

シンジが見た光景は、まず、少年と話をしていて心を引っ掻き回されたところからだった。無理矢理綾波レイと、そして渚カヲルのことを思い出させられた。右手に残る嫌な感触。あれを思い出すたび、必死でチェロを弾いた。でも消えない。
消えない血の匂い。
シンジは絶叫していた。
そしてアスカが現れた。何故現れたのか?そんなことは解るはずもない。シンジはすがるようにアスカの名を呼び続けた。
助けるために。

本当に?本当は自分が助けて欲しかったのではないか?
しかしシンジの期待は打ち破られた。アスカはずっとシンジを見下すような目で離していた。
その後、アスカが誰かと話すようなそぶりをしていた。しかし口は動いても声は出ていなかった。そしてとたんに埋め尽くされる人、人、人。大勢の人間が何時の間にかアスカを取り囲んで、問いかけ、責め立てていた。
そして現れたのは…
現れたのはあのシンハと言う男。アスカに何事か話しかけていた。シンジにはわからない言葉。しかしアスカには解ったようだった。激しく動揺をしはじめ…そして持ってた撃った。
弾は足をかすっただけだった。しかし男は力無く倒れ込んでしまった。
そしてアスカが次に取った行動は…次に取った行動は…
アスカはシンジに銃を向けた。
どうして!?
シンジには訳が解らなかった。裏切られた気分。しかし考えてみれば、勝手な思い込みで動いてたのはシンジの方だ。アスカは本当にはシンジの事なんか望んでなかったのかもしれない。そうの思いが一層シンジに絶望感を味あわせた。
それにアスカの心が少しだけ伝わってきた。
きっとアダムはシンジの心を放し切ってなかったのだろう。
怒り、自己欺瞞、脅え、依存、愛情、憎しみ。
どれも当たり前の感情だ。当たり前だ。アスカはシンジの人形じゃないのだから。
シンジが望むこととは別に、アスカの心はある。
でも何故かアスカは撃たない気がした。シンジの楽観だろうか?見切りの甘さだろうか?
そうかもしれなかった。だが、シンジにはアスカの行動が泣いてる子供の物のように思えた。
帰る家は一つしかないのに、帰りたくないと駄々をこねる子供のような。
世界に対する違和感、孤独感、不安感。それでも帰るべき家は一つしかないのだ。
とたん、アスカの身体が揺れ…いや、ぶれだした。アスカが何かを絶叫する。言ってることは相変わらずわからない。しかし胸を突く悲痛な叫び。
声は聞えないはずなのに。
とたん少年…アダムが苦痛の叫びを挙げる。
突然の事だった。アスカの苦痛が伝わったのだろうか?そしてアスカが…床に投げ出された。軽く身体を叩き付けられる様な音をさせて。
音?
シンジは妙だと思った。嫌、妙ではない。倒れれば音がする。歩けば足音がする。当たり前の事だ。だがさっきまでのアスカはそうじゃなかった。アスカはそこにいるのに、気配はそこにあるのに、何か妙に存在感が希薄だった。今は…普通の人間だ。
同時に周りに現れてた人々も消えた。
そのアスカが、今シンジの前で倒れていた。

シンジはアスカに近づく。さっきまで見てたアスカと何ら変わらない。最後に見たアスカとも。
しかし何時の間にか全身がぐっしょりと濡れている。汗のせいなんかではない。まるで頭から水をかけられた様だ。
シンジは恐る恐るアスカの頬に手を伸ばす。外気にさらされ急速に冷えていく液体の感触。そしてその奥からアスカの体温が伝わってきた。
生きてる…
シンジは確信し、ほっとした。思わず何故か泣き出しそうになる。
アスカを揺り起こそうとし、後ろの気配にはっとする。
まだアダムはそこにいるんだ!
思い出すと共に戦慄が走り、思わず振り返る。
しかしアダムはすぐ後ろにはいなかった。アダムはゆっくりと膝をついて倒れ込んでいる男の方に歩いて
いく。
男は何かを言い、にっこりと微笑んだ。少年はただつらそうな顔で男を見つめ、そしてしゃがみこんだ。
少年が再び立ち上がった時、もう男はそこにはいなかった。最後にアダムがシンジを見つめた。
シンジは動けなかった。恐怖からだろうか?それとももっと何か別な?
ただ一つ言えるのは、シンジは先ほどまでの様な危機感から来る恐怖は感じてなかった。なんとなくそう思った。なぜなら今見てる少年の泣き出しそうな顔は…シンジが初めて見る、少年の人間らしい顔だったからだ。
少年が何かを言おうとし、口を開きかけたが…言葉が発せられることはなかった。
そして急に…現れた時と同じようにアダムの姿が消えた。
シンジの能力ではもはや一連の現象を関連付けて帰結するのは無理だった。見たがままを受け入れるしかない。特に最後に…消えるほんの直前に、少年が涙を見せた気がしたというのは。
「ん…」
アスカの方から微かに息が漏れるような声がする。シンジは慌ててアスカの方を見た。アスカが微かに身体を動かしている。
シンジはすぐにアスカの上半身を抱き起こした。
「アスカ!」
シンジが呼びかけると、やがてアスカがうっすらと目を開けた。

***

部隊長は双眼鏡でじっとかつての第三新東京市、第四芦ノ湖の様子を見つめていた。
万が一、ネルフの連中が強硬手段に訴えた時の備えでしかない。
迎撃システムの弾丸、装備の補給率はかなりのものだ。それを考えると慎重にならざるを得ない。
実際には、そんな可能性は皆無に思えた。子供ではあるまいし、そんな駄々をこねる子供のような真似はすまい。聞き伝えられてる長瀬の噂から、そう思っていた。だが…
「!?」
思わず双眼鏡を取り落としそうになった。山肌が動いてる。迎撃システムが作動してるのだ!
それも一個所ではない。かなりの程度。恐らく、動けるシステム全部だ。
「伝令!」部隊長は叫んだ。「突入用意!」

長瀬は生きている外部の監視モニターをサブのモニターに移させていた。強行突入車両が車両進入口へ入っていき、その後に徒歩の自衛官達が続く。画面を切り替えさせると、侵入口は幾つか確保されてる様だった。
あの時と同じだ。旧ネルフを制圧した三年前。あの世界の全員が悪夢を見た直後の突入と。あの時若干の行き違いで揉め事はあったが、基本的にネルフスタッフは抵抗しなかった。
若干行方不明者がいた以外は。そして長瀬は突入する側だった。
今は違う。こちらは場合によっては応戦するつもりだし、長瀬は攻められる側だ。
「侵入の最短ルートは!?」
長瀬が確認する。
「Bの17です!予測到達時間は、13分!」
「そこから遮断しなさい!」
「ですが!」青葉が反論する。「時間稼ぎにしかなりません!まだ補修の終ってないルートもあります!」
「時間稼ぎで結構」長瀬は言い切る。「その間に、政府首脳たちとけりを付けるわ!」
「は、はい!ルートB−17を閉鎖します!」オペレーターがルートの隔壁を閉じさせる。
「予想侵入ルートの出来るだけの隔壁でいいわ!全て下ろしなさい!」

突入車両の前で、いきなり隔壁が降り、一中隊の進行をはばんだ。
「中隊長どの、どういたしますか?」
突入車両からの無線を受け、伝令が走る。
「突入隊、一時後退し、工作部隊を前へ!隔壁を破壊して前進せよ!」
中隊長が命令を下した。

「しっ!」
ケンスケは人差し指を口に当てて、ヒカリとトウジに静かにするように言った。
「なんや、どうしたんやケンスケ?」
いいかげんシェルターに閉じ込められるのに飽きて来たトウジが退屈そうに言った。
「静かに!聞こえないか!?」
小声でトウジに注意する。
「聞えるって、何が?」
「今爆発音がした気がするんだ」
「爆発音?」
トウジがいぶかしげに聞き返す。
「何かあったのかしら?」
ヒカリが心配そうに口を開く。
「そないなはず…」言いかけたところに、今度はトウジの耳にも聞える程度にははっきりと、爆発音が聞える。
とたんにシェルターにいる人々がざわめきだした。場に一斉に緊張が走る。
「一体何が起こってるんや?」
一転、真剣な面持ちになったトウジが呟いた。
ケンスケにもヒカリにも、当然解るわけはなかった。

***

「アスカ!」
シンジの呼びかけに答えるように、アスカの目がうっすらと開いていく。
最初、アスカはもうろうとした意識の中で目の焦点を合わせることも出来なかった。
上はどっち?
アスカが最初に思ったのは、上の方向はどこかということだった。上下の感覚がおかしい。空間感覚がはっきりしない。それを確かめる様に周囲の物に視線を移動させてく。
あれは…天井?壁?床?いや?私の足が触れてるのが床のはずだから…壁か。
扉の位置、タラップの階段、それらを目で追い、自分のいる場所を確認付けてく様に一つ一つ、時間をかけて認識していく。
えーっと、それからこれは…
アスカは自分が上半身をもたれかからせているものに気が付いた。人間。男の子。アスカを嬉しそうな顔で見ている?
これは…誰だっけ?…碇シンジ?誰だっけ?
「アスカ、大丈夫!?」
アスカ?アスカって…ああ、そうだ。私のことだ。その呼び方は日本語よ。ドイツ語で呼ばなきゃちゃんとわかるわけないじゃない。”大丈夫”って…えーっと、えーっと…そうだ、これは名前じゃない。”怪我はない””痛くない”ってことね。
アスカはなんとなく認識し、頭をふらふらさせながら首をうなずかせる。一度じゃわからないかもと思い、何度かうなずいてみせた。
それを見てシンジはほっとした。どうもまだ意識がまだ朦朧としてるようだけど、言ってることは解るようだ。
「アスカ、じゃ、起こすからね」
アスカがさっきと同じ朦朧とした目付きでうなずく。シンジはアスカを立たせようと、まず上半身を完全に起こさせた。アスカは地べたに座り込んでるような格好になる。虚ろな目付きで中を見つめていた。
シンジは起き上がってアスカを起こそうと手を差し出す。しかしアスカはそれを無視して辺りをきょろきょろと見回しているだけだった。
シンジはその時初めて、アスカの様子に危惧感を抱いた。良く考えてみれば、アスカの状態が本当に大丈夫という保証はないのだ。特に、精神面は。
当のアスカは頻繁に首を動かして辺りを見回してる。
えって…ここどこ?どこかの倉庫?いや、他に見覚えのある…
シンジはさすがに心配になってきた。しかし、一時的に錯乱してるだけかもしれない。
「アスカ、ちょっと待っててね。人を呼んでくるから!」
そう言うシンジの後ろに、アスカは何か人影の様な物を見た。
人間…?な、わけはない。姿勢がどこか不自然な格好で直立してるし、第一大きさが全然違う。目の前のシンジがこのくらいと言うことは…10M?20M?40M?
人形…大きな…人形…人型…エヴァ…
朦朧としていたアスカの意識が突然はっきりする。
エヴァ!?
アスカはまざまざとそれを見る。あの大きさ、シルエット、間違い無い。しかし頭部は見たことのないものだ。何?これは!
アスカははっとしてシンジの方を見る。シンジは壁に設置された内線の受話器の方へ向かおうと身体の向きを変えたところだ。アスカの様子には気付いてない。
アスカは今まで起こったこと全てを思い出していた。
自分が…またもや捨てられたことも。アスカはまだ自分が銃を握っているのに気が付いた。その銃をじっと見る。
さっき意識があった最後の瞬間、囚われてた数々の感情が蘇って来た。
アスカはすくっと立ち上がる。
碇シンジ…どうして、どうしてこんな奴に…!
「シンジ!」
アスカは声を張り上げた。シンジはまず、反射的に振り向く。そしてアスカがしゃんとした様子で立っているのを見た。仁王立ちで、こちらを睨み付けて…シンジは自分の心配が危惧に過ぎなかったのをまずはほっとした。それからはっとする。
睨む?なんで僕を?
しかしアスカは確かにシンジを睨み付けている…怒りに燃えた目で。
「アス…カ?」
シンジが呼びかける。
「どうして…」アスカが口を開く。「どうしてアンタや優等生はいっつも、いつもいつもいつも、私の居場所を奪っちゃうのよ!」
シンジにはアスカの言ってる意味が解らなかった。
居場所?ひょっとしてアダムに取り込まれることか?アスカはひょっとして、幸せだったのだろうか?あの中で。外に出してしまうのはひょっとしてアスカの望んでない事なのではなかったのだろうか?
シンジは戸惑った。
アスカは尚も怒りをぶちまけるように喋り出す。
「私の方がアンタなんかよりずっと頑張ってるし、アンタなんかよりずっと才能あるし、アンタなんかよりずっと我慢してるし!私の方がずっと…ずっとずっとアンタなんかより!アンタなんかより!!」
アスカは泣き出しそうな顔でシンジに銃を向ける。シンジはその場を動けなかった。
「畜生!どうしてなのよ!どうしてアンタなんかがいつもいつも!!」
アスカが引き金を引く。弾は床に当たって跳ね返る。
「何で!?どうして!?どうして私は、私は!!」
アスカの撃つ弾はシンジに当たらない。いや、当ててない。シンジは直立したままで動かなかった。下手に動いた方が当たる。そう感じたからでもあるが、それより何より、動かないことがアスカへの贖罪であるような気がした。
贖罪?何の?
きっと勝手にアスカを言い訳にしてた事への。自分が動けなくなった時、アスカのため、と人にその責任を押し付けていた事への。
「畜生!畜生!畜生!!」
跳弾の一発がシンジの頬をかする。薄い血の線がたちまち滲んで出来た。
アスカは撃つのを止め、銃を床へと落とす。
「どうしてアンタなんかが…」
アスカは泣き出していた。心が痛い。どうしてシンジなんだろう?どうしてサードチルドレンがシンジでなくてはいけなかったのだろう?どうしてアスカを負かしたのがシンジでなくてはいけなかったのだろう?どうして一緒に暮らすのがシンジでなくてはいけなかったのだろう?どうして最初に悪口を言い合える男の友達がシンジでなくてはいけなかったんだろう?どうして最初のキスの相手がシンジでなくてはいけなかったんだろう?どうしてシンジ相手にムキにならなければいけなかったのだろう?どうして私はこんなにシンジを憎まなくっちゃいけないんだろう?どうしてそのくせシンジを殺す事も消す事も出来ないんだろう?
「なんでなのよぅ…」
アスカは流れ出る涙を拭った。本当は分かっていた。望むと望まざるとに関わらず、シンジはアスカの世界の一部なのだ。自分を捨ててさっさと死んでしまったママと同じく。それを消す事なんかできないのだ。アスカの世界から。
そうだ。さっきまでの世界は結局何もかも足りなかったのだ。いたわりが足りない、怒りが足りない、苦痛が足りない、愛しさが足りない、憎しみが足りない、幸せが足りない、不幸が足りない。何もかも足りなかったのだ。
それは消す事が出来ない…アスカがアスカでいる限りは。それらはアスカのものなのだから。アスカはそれらのものなのだから。怒りも苦痛も、結局アスカの一部なのだ。
そしてアスカの世界のシンジは、シンジの一部でしかない。
誰もかもそうだ。結局自分の知らない知人は常に存在している。アスカは常に他人に自分を受け入れる事を求め、そのくせ他人のことは何も見てなかった。他人が笑顔の裏で流してる涙がどれほどの物であるのか、受けた傷の痛みはどれほどのものであるのか。
アスカと同じように。
シンジの右手の感覚を思い出す。脅えた、血と、罪の匂い。
みんな同じなのだ。みんな同じように傷ついているのだ。アスカ一人じゃない。
「わかってたわよ…そんなこと…」
アスカは涙を流し、泣き崩れそうになりながら言った。
「アスカ…」
シンジはアスカの方へと歩み寄って行く。
「苦しいのは…つらいのは私一人じゃないって、ほんとはそんな事解ってたわよ!!」
アスカは叫びながら何時の間にか泣き崩れてた。シンジがアスカの身体を支える。
「どうして、どうしてアンタがサードチルドレンなのよ!!」アスカはシンジの胸にかじりつきながら叫んでた。
どうして憎むのがシンジでなくちゃいけないのよ!
「アンタなんかいなければ良かったのに!アンタなんかにあわなければ良かったのに!」
そうだ。あいさえしなければ、こんなに苦しい事もなかったのに…
そう思いながらもそれはそれと正反対の気持ちが言わせてる事もわかってた。
(恋して、しかも憎んでるよ、君のこと)
恋かもしれない。そうじゃないかもしれない。どっちしても苦しいのは事実だった。
アスカは泣き叫ぶしかできなかった。
そしてシンジは、そんなアスカを抱きしめることしかできなかった。

***

「戦自突入部隊,本部セントラルドグマ内に侵入!一部と交戦状態に入りました!」
オペレーターが叫ぶ。血で汚すのだ自分の手を。自分を。
「銃を取れる物は銃を取りなさい!閉鎖可能な隔壁はすべて閉鎖、駄目だったらバリケードを築きなさい!」
長瀬が指示を下す。そして別のオペレーターの方を向いた。
「敵性体は!?」
「現在レーダーでは捕捉中です!映像ももうすぐ入ります!」
正面の空間投射地図上に、幾つか点が移動してるのが見える。ものすごい移動スピードだ。この前の8号機の比ではない。何かあったというのだろうか?
移動する点は全部で8体。無謀としか思えなかった。現在この数のエヴァンゲリオンと、この状態で交戦するのは。しかしやるしかなかった。状況に気付けば、国連や戦自も手をこまねいて見ているわけがない。彼らとの通信は遮断されてるが、交渉の余地は必ず出来る。そう信じていた。
点を見つめていると、ある二つの点が重なり合う。そして…止まった。
「何?どうしたの!?」
長瀬が叫ぶ。
「い、今映像が入ります!」
正面のメインモニターいっぱいに海上が映し出される。海岸線のすぐ近く。そしてそこにいる二体のエヴァンゲリオン…そして彼らの見た物は、想像だにしなかった信じられない光景だった。
二体のエヴァンゲリオン同士が海面に波を荒く立てさせながら戦って…いや、殺しあっていた。
相手の喉を掴み、目をえぐろうとし、首筋に食らいつこうとする。これは戦いなんてレベルのものなどではなかった。殺し合いとしか形容しようがなかった。
全員が呆気にとられて見つめている。地図上の他の点の内、他の幾つかも重なったまま動かなくなっていた。おそらく同じように殺し合ってるのだろう。
モニター上のエヴァンゲリオンの、優勢だった方が相手の腕を掴み、引き千切る。相手のエヴァンゲリオンは苦痛の叫びを上げながら、鮮血…いやほとばしる体液で海上を真っ赤に染める。その首筋に腕を引き千切ったエヴァが歯を立てて食らいつく。相手のエヴァンゲリオンは一層大きな絶叫を上げた。しかし、叫びながらも相手を残った手で殴り、そして肩口へと食らいつく。
何なのだ?この光景は?あまりに凄惨なその姿を見詰め、全員がしばし呆然としていた。
「いったいどうなってるというの?これは!」
長瀬がそう言った瞬間だった。ネルフ本部全体…いや、その地域全体を揺るがすような地響きが地の底から湧き上がってきた。

***

シンジの異変が起こったのも丁度同じ時だった。
シンジは突然身体を揺さぶられる様な衝撃を感じた。
何だ?何なんだ!?
シンジが戸惑う間もなく、急に一気に色々な物が流れ込んできた。
怒り、後悔、疑念、憎悪、孤独、不安、焼け付くような胸の痛み。
なんだ、これは!?シンジの物ではない!ひょっとしてアダムの!?まさかまだ完全には解放されてなかった!?
もう殆ど泣き止んでいたアスカは、周囲の揺れとシンクロする様に苦しみはじめたシンジを見つめていた。
「何!?シンジ!」呼びかけど、返事は苦痛のうめきしか帰ってこない。「ちょっと、シンジ!どうしたのよ!?」
シンジにはアスカの声が遥か彼方の物に思えた。
見えるのは苦痛。
何なんだ!?この苦しさの源は!
無制限に流れて来る痛み。
手がひしゃげる感じがした。身体が潰される痛みを感じた。

『死んでしまいたい』『ほっといてちょうだい!!』『いやっ!死にたくない!』『誰か私を愛して!』『畜生!ぶち殺してやる!』『仕方なかった、仕方なかったんだ!』『お前なんか生まれてこなければ良かったのよ!』『お願い!殺さないで!』『どうすればいいの?これから』『あの時、あの時アイツに任せなきゃ俺だってなあ…俺だってなあ…!』『ねえ、ママどこ?ママどこに行っちゃったの?』『もう嫌だ、何でこんなことやってるんだよ、俺!』『誰か僕を消し去ってくれ』『こんな世界無くなればいいんだ!』『くそったれっ!こっれっぽっちじゃ足りない、足りないんだよ!』『ママ、ママぁ!』『この能無し!』『誰がお前を育ててやったと思ってるの!』『いやだ!やっぱり死にたくない!』『死んでしまえお前なんか!』『ママ〜〜ぁ!!!!』『私のこと…』

何だ?これは!まだどんどん流れて来る!止めてくれ!誰か止めてくれ!!
「ちょっと、どうしちゃったの!?シンジ!」
アスカの声は既にシンジには届いてなかった。
やがて流れ込んできたのは…母の乳房。それを鷲掴みにする手…大人の男の手だ。

『でなければ帰れ!』

嫌だ。

『逃げてはいかん!』

嫌だ!

『お前には失望した』

嫌だ嫌だ嫌だ!

『ねえ、僕のこと、好き?』

シンジは絶叫を張り上げていた。

***

突入を開始して、ジオフロントに侵入した自衛官達は突然の地鳴りに驚き、ある者は揺れに足を取られた。その瞬間は、全ての銃声が鳴り止んでいた。
そして、全ての者が見ていた…ネルフ本部の中から、ジオフロントの天井を突き破らんばかりに天に伸びた二対の光の羽を。

***

榊ユリは、いや、綾波レイはその時何者かが目覚めるのを感じた。
とてつもなく巨大な存在感を持った何か。
もはや自分に残された時間は無くなってしまった…何故かそう感じた。それは綾波レイの部分が思ったのだろうか?榊ユリが思ったのだろうか?
どっらか一方ではなく、どちらも。私が思ったのだ。
行かなければならない。
榊ユリは立ち上がった。
全てに決着をつけるために。

***

地響きの後にネルフ本部を襲った突然の衝撃に、長瀬は床に投げ出されていた。
長瀬は机にしがみついて、かろうじて体勢を取り戻した。
「状況報告!」長瀬は声を張り上げた。「一体何が起こったの!」
「わ、わかりません!」青葉が必死にパネルのキーを叩きながら叫んだ。「強力な電磁波で、計器類が一時的に全てシャットダウンしてます!」
「電磁波!?」
なんでそんなものが?
「一部オペレーティングシステム、回復します」
青葉の声と共に、正面のモニターが生き還る。その時映し出されたのはネルフ本部から伸びる光の羽が、段々ネルフ本部の中へと戻っていく所だった。
「何なの!?あれは!」
「タ、ターミナルドグマ最下層から伸びてる様です!」
日向が報告する。
「映せる?」
「は、はい。やってみます」
日向が必死でコントロールを取り戻そうとする。空間投射地図も生き還った。ここへ接近する点は、数を5つに減らしながらも、一層スピードを上げて近付いて来る。
何かが起こってる。それは間違い無い。問題は何が起こってるかだ。
「映像、メインモニターに映します!」
モニターにLCLプラントが映る。LCLの海の上で磔にされたリリスの巨体…そう、リリスも解体などされてなかったのだ。内部のスキャニングは一切不可能。S2機関という未知の動力源が存在してるその使徒の身体は、人間が扱うにはあまりに危険すぎた。だからそのまま放置するしかなかった。
しかし今そのリリスの肉体に異変が起こっていた。リリスの腹をつきやぶり、何かが出てこようとうごめいている。人間くらいの大きさのもの。しかし写っている映像には、光の羽がその者から伸びているのがはっきりと映っていた。
血にまみれ、泣き叫びながらリリスの腹から出てくるもの…光の羽はそのものに収束していった。
「まさか…あれはアダム?」
長瀬が呆然として呟いた時、アダムが再び絶叫を上げた。苦痛の産声。
電磁波で再びシステムが狂わされる。モニターの映像が消えた。
「あれが最後の…いえ、最初の使徒…?」
これから起こる事態は一切予想が出来なかった。あれは…人間が道具に…欲望を果たすための道具にできるようなものではなかった。そう感じていた。

全員が先ほど見た光景に言葉を失っている管制室で、電磁波でシャットダウンしたはずの、操作パネルのモニターの一つの上にカーソルが瞬いていた。
カーソルは走る。そして一つの言葉を紡ぎだした。
その言葉は……

....."Do you love me?"


***

chapter 14: Do you love me?


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