「すまんな」下ろされたブラインドの隙間から外を覗きながらトードが言う。「こんなところに一週間も缶詰とは」
「いえ、構わないです」
シンジはそう言うが、軟禁にも近いこの状態には正直、神経がまいりかけていた。
「長瀬の奴も気を使いすぎだよな、いくらあんな事故があった後だって言っても」
事故、そう、碇シンジには公式発表通りのことしか知らせてなかった。ただでも家が焼失して参っているのに、このうえテロリストに狙われてるなどと言えば神経をすり減らすだけだ。
トードも口ではそう言ってるが、態度の端々に緊張感が走っている。一番警戒しなければならない事を知ってるからだ。
トードはそんな空気を和らげようと、色々話し掛ける。シンジもできるだけ明るく振る舞おうと気を使うが、やはり自宅が焼失し、一切が灰になったのはショックだったらしい。
「あのチェロは」一週間前、シンジはトードから火事で全部なくなった、と聞いた時に言った。「僕が子供の頃から持ってる唯一のものなんです。大事なものってわけじゃないけど、なんか、自分の昔のものがなくなるってやっぱり…」シンジはそこで声を詰まらせて何も言えなくなってしまった。トードもその時ばかりはかける言葉を知らなかった。
「新居の手続きと共に、転校の手続きもしてるらしい。色々手間取ってるんだろ」シンジに言い聞かせる様に言った。学校など、当然行かせられるはずもない。行かせれば今度は学校がテロの標的になる。「何か欲しい物があれば、買ってくるがどうだ?」
シンジは首を振る。トードはため息をついた。
「ま、あまり気を落とすな。すぐにいつもの生活にもどれるさ」
おためごかしに言うと、シンジのいる部屋を出ていった。廊下に出るとSPがドアにへばりつくようにして立っている。
「別に異常はないよな?」トードが彼に言う。
「ええ、盗聴の形跡、その他一切ありません」
「下の階は?」
「このフロアだけでなく、上下の階全て貸し切りにしてるのでその心配は無用です」
トードに何度も言った説明をまた繰り返す。
ホテルの三フロア分を全て借り切りっているのだ。当然一般の出入りは禁止、差し入れ、食料その他に関してまで全て厳重なチェックがなされている。どんなに厳重にしてもしすぎるという事はない。しかしこれでは碇シンジの方が先にまいるだろうな、そう思った。
エレベーターからワゴンを押してホテルの係員が降りてくる。
「そこで止まって」SPの声に、いつも通りに従う。両手を組んで頭の後ろに回し、直立する。
SPは彼の体をボディチェックし、次にシーツ類も再度チェックをする。
「異常ありません」そう報告し、肯く。「ではチルドレンを移動させてください」
ドアについていたSPが扉をノックする。「シンジ君、部屋を移ってくれたまえ」
シンジはそれを聞いて、またいつもと同じように部屋を出て別の部屋へ入っていく。その間係員は手を組んだ姿勢で後ろを向かされた。
こうやって、一日ごとに部屋を移っていく。外部からの狙撃の可能性を減らすためだ。
さっきまでシンジのいた部屋に、ホテルの係員が入っていく。
「ところで今日はやけに外が騒がしいな」トードが言った。
「知らないんですか?」SPが意外そうな顔をする。「明日この第二東京市で緊急サミットが開かれるんですよ」
「なんで急に?」トードが聞き返す。
「今回の特殊災害における討議、及び今後の方針の決定ということになってますが…」
そうなってるが実際は違うのだろう。長瀬が忙しいのは苦情の対応に追われてるだけでないのは分かっていた。新たなネルフの建設へ向けて、着々と裏工作を進めてるのだ。今度のサミットもそれにかんしてだろう。
もし半公式にアダムを迎撃する組織が立ち上がれば、彼の用もなくなる。そもそもあれは個人で太刀打ちできるレベルではない。この辺が潮時なのかもな…どこかでそう考えていた。

***

その男は口笛交じりに廃屋になったビルの一番上の階へと登っていった。曲はベートーベンの「英雄」。このビルも先の災害で傾きかけてから、無人になり取り壊しも進まないまま放置されれいる。サミットに参加する首脳陣の通るルートから少しはなれてるが、警備はしかれている。しかしビル自体には立ち入り禁止の縄が張られているだけ。わざわざ買い物袋を持ってふらふらしてるだけの外国人を詰問もしない。
部屋に入ると、彼は買い物袋からバゲットとオレンジ、チーズを取り出し流しの上に置く。そしてさらに買い物袋の中からバラバラに分解したライフルの部品を取り出す。
男はそれを新聞紙の上に広げ、黙々と組み立てだした。途中で手を休め、オレンジとライフルのスコープを持って窓の方へ歩いていく。出窓に腰を下ろして、オレンジにかじりつきながらスコープをモノキュラー(単眼鏡)代わりにして外を眺める。その十字の照準には、碇シンジのいるホテルが映っていた。

***

その日、トードは朝一番に報告を兼ねて長瀬のオフィスを訪れた。長瀬はその日、外出の用があるということで早朝しか時間が空いてなかった。
「なあ、俺はいつまでここにいていいんだ?」
トードは長瀬に尋ねた。
「そうね、暇ならすぐに仕事に行ってくれると嬉しいわ」何の気無しに書類にサインをしながら答える。
「いや、そうじゃなくって、何時仕事が終るか、ってことさ」
長瀬はペンを置く。「確か契約は一年…まだ一月以上あるわよ」
「俺が言ってるのは契約のことじゃなくて、俺のやる仕事の話さ。アンタがいま裏で動いてる事が、何の為かは大体判ってる」
長瀬はトードが自分の様な肉体労働者は必要なくなるのでは、と言ってるのに気づいた。
「私はね」長瀬はデスクの上に膝を突いてあごの下で手を組む。「アナタとの契約の更新も考えてるのよ。無論アナタが望めばだけど」
「そりゃま意外」
トードはおどけて言う。
「あなたはいろんな意味で面白い人材だもの。多分、人を動かすポストについてもそれなりにやっていけるわ」
「そりゃどうも」照れたように鼻の頭を掻く。
「あなたはどう?そのつもりはあるの?」
「そうだな」トードはじっと宙を見た。「ここも色々面白いし、まあ遣り甲斐もある。何より駒として人殺しをしなくていいのは確かだな。だが…」
「だが?」
トードは手のひらを長瀬に向けた。
「やっぱり返事はもう少し待ってくれ。俺も色々考えたいことがあるしな」
「そう」再びペンを執る。「ま、今の契約が終了するまでに考えておいて頂戴」
トードは部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「そうだ。前から聞きたかったんだが、あんた、何で俺を雇う気になった?」
「ああ、そのこと?」長瀬はつまらない事を聞く、と言うふうに答えた。「アダム…チェシャキャットと会った人間とたくさん会ったけど、そのなかで『奴と戦わせてくれ』なんて言ってきた向こう見ずはあなただけだったからよ」

***

トードはホテルの部屋の備え付けの椅子に座ってぼーっと考え事をしていた。
シンジがそんなトードを不思議そうに見ている。
考えてるのはこの数ヶ月の事、長瀬の言ってた契約更新のこと、色々だった。アダムを追ってた時は、この上ない恐怖だったが同時に最も充実していた。シンジや榊を見てるのも楽しい。自分がこういう年齢の時にこういう時を過ごせなかっただけに、余計に大事にしなくてはと思う。
第一傭兵稼業を続けていてどうなるのか、多少の貯えはあるが、引退できるほどではない。ずっと続けててもそのうち体力が衰え、戦場で野垂れ死にするのが良いところだろう。
一匹狼を気取ってた訳じゃないが、こういう生活も悪くないかもな、そう考え始めていた。
その時、とたんに廊下があわただしくなった。
トードはがばっと跳ね上がる。「どうした!?」
廊下に飛び出ると、開口一番に尋ねた。
「爆破テロです」SPが言った。
しかし爆発音など、どこからもしなかったが、そう思い眉を寄せる。
「ここじゃありません、東管区の十二ブロックです。サミット狙いの予告テロですが、爆発物処理班によって撤去されたようです」
「そうか…」トードは安堵のため息を漏らす。ふとトードはSPの持ってる端末が、携帯でないのに気が付いた。
「それは携帯電話じゃないよな?」
「え?ああ、PHSですよ」
「PHS?携帯みたいな奴なんだろ?」
「ええ、そうですが、こっちはずっと電波が弱いんです。なんで受信アンテナがあっちこっちに設置されてるんです。このままじゃ、このホテルの外にも電波が届かないですからね」
「ここにもアンテナはあるのか?」
トードが聞くと、SPは天井にあるアンテナを指す。
「ホテルの内線とは違うんだよな?」トードは何か気になったのか、再び尋ねる。
「ええ、これは持ってる人間の電話ですんで、ホテルとは関係ありません。どうしてそんなことを?」
トードは少し戸惑った。「いや、PHSってのは俺の育った国では見たことがないんで、少し気になってな」
そう適当に流しておいた。


ビルの中の男は時計を見る。標的の部屋の移動予定まで30分。念の為、移動が開始すれば盗聴をしている奴から連絡が入るはずだ。これまでの部屋の移動パターンから今日こちらに面した部屋に来ることは判っている。首脳陣への偽装テロで注意は今、そちらに向いている。
ライフルはまだ用意しない。もしスコープの反射光で気付かれたら事だ。ライフルを肩に立てかけるように持つと、壁にもたれかかって時間を待った。


「ルームメイキングの時間です」SPが言った。既にホテルのルーム係が来ている。「部屋を移動してください」
トードはうなずき、シンジに部屋を移動するよう促す。シンジと入れ替わりに係員とSPが、部屋へ入っていった。
また真新しい匂いのする部屋へ入っていくと、シンジは窓際の椅子に腰を下ろした。トードは部屋に備え付けのコーヒーメーカーでコーヒーを入れはじめた。
二人分のコーヒーを、陶器製のマグカップに注ぐ。
「ほら」彼はカップの一つをシンジに手渡した。

先ほど、標的の碇シンジの移動が伝えられてきた。出来るだけ窓の隅から、スコープで標的の部屋を覗く。距離は100m程度、彼の腕なら十分命中させられる距離だ。
照準の十字にマグカップを受け取ったシンジの姿が入った。

シンジはカップを受け取ってしばらく両手に包み込むようにして持ったままじっとしていた。
「おい、早く飲まないとさめちまうぞ」
トードの呼びかけに、我に返った様にはっとする。
「ミルクと砂糖はどうする?」
「いや、いいです。自分で入れます」カップを持ったまま、側にスティックシュガーとミルクの備え付けられたコーヒーメーカーの方へ行く。
しかし歩いてく途中、わずかなカーペットの皺に足をとられ、その反動で手に持ったコーヒーカップの中のコーヒーが大きく跳ねた。その滴はシンジの顔に当たり、シンジは小さくのけぞった。
「あちっ!」
と、同時だった。ホテルの窓に小さな穴が穿たれ、同時にコーヒーカップが破裂する。さっきまでシンジの頭があった部分に。
シンジは何が起こったかわからずに凍り付く。
「小僧!伏せろ!」
トードが跳ね起きて叫んだ。シンジはその声に反射的に伏せる。そして伏せたシンジに覆い被さるようにしてトードが伏せる。二発目が飛び込み、壁に穴を穿ったが、もはや失敗と見るや狙撃者は諦めたようだった。三発目はなかった。
「大丈夫か!?」
シンジは顔を真っ青にして震えていた。一歩間違えば自分が死んでいた。目の前でコーヒーカップが砕けた衝撃が生々しく焼き付いてるのだ。ただトードの問いかけに、必死に肯く。
「くそ!あの南東のビルだ!早く探せ!」
トードが叫ぶ。
SPがあわただしく携帯で連絡を取る。
「あんたも早く別の部屋へ移れ!」丁度運悪く居合わせたホテルの係員にトードが呼びかけた。
「あ、はい!こちらへどうぞ!」
そう言って別の部屋の扉を開きシンジとトードを招き入れる。
「アンタも災難だったな」トードが彼をねぎらった。「おい!早く狙撃手を追うんだ!後で俺も行く!」
トードが外のSPに怒鳴り付け、目がシンジのところを離れた瞬間だった。係員が口を大きく開け、舌を突き出す。舌の上にはデリンジャーよりもさらに一回り小さな、拳銃が乗っていた。それを手に持ち、シンジに銃口を向ける。シンジ自身は外の慌ただしさに気を取られ、気づいていなかった。
撃鉄を起こす、と同時にその音に気づいたトードが反応した。
ほとんど反射的に背中越しに係員を蹴り付ける。その衝撃で狙いが外れ、発砲された弾丸は空を切っただけだった。
シンジとトードがほとんど同じに振り返る。トードははじめて自分が誰を蹴ったかに気づいた。
「てめえ!」トードに殴り掛かる係員の拳を避け、その頭髪をつかむと床めがけ頭を思いっきり叩き付ける。なおも両腕を振りまわし抵抗する男を、髪の毛を引っ張りまわして部屋の外へと引きずり出すと、壁に頭を打ち付ける。一度だけではない。二度三度と打ち付けた。そのさい、暴れる彼の体に当たって廊下に飾って合った花瓶が落ちて割れた。中から花と陶器の破片に混じって、何らかの改造がなされているのが一目で分かるPHSの端末が飛び出した。
「ちっ!こいつが盗聴機かよ!灯台下暗しだな!」そう言って踏み潰す。「こいつを捕まえとけ!俺は狙撃手の方を追う!」
トードはホテルを飛び出して、狙撃地点と思われるビルへ向かった。その周囲は既に警官隊が取り囲んでいた。
「狙撃犯は!?」トードはSPの一人を捕まえて聞く。
「今ビルの中を捜索させてますが、まだそれらしい人物は…」
最後まで聞かずにビルの中へと入っていく。警官が不審げな顔でトードを見たが、内務省のエージェントの一人が肯いて見せると、敬礼をして中へ通した。
トードは無言のまま一番上の階へと登る。あの部屋を狙撃できる位置というのは、自然限られてくる。一番上の階の部屋を一つ一つ調べだした。
そのうちの一つに入ると、真新しい買い物袋と、パン屑、そして新聞紙が落ちていた。しかし、そこに人影はない。
「ここから狙撃したんですね」
内務省のエージェントが言う。人っ子一人いないが当たり前だろう。いつまでもぐずぐずしてる馬鹿はいない。
「だがどこへ逃げた?すぐに包囲網がしかれたのに、見つからない?」
それに獲物のライフルも見つからない。
「今徹底的に探させてますが…」そう言ってるのを聞いた時、彼の目にその部屋のダストシュートが映った。

***

下水道の中を急ぎ足で歩いていく。普通なら顔をしかめたくなる酷い匂いだ。しかし、あのダストシュートからビルのごみ集積場、そしてさらにそこから下水道に出られることを知っていたから彼はあのビルを狙撃場所に選んだ。
成功するにしても、失敗するにしても逃げられるように。
今、もう一件の偽装テロが行われたはずなので包囲網の注意は上に向いてるはずだ。
このまま包囲網を一気に抜け、市外、そして国外へと逃げる。けちの付いた仕事に拘るのは危険だ。
その時、不意に自分以外の足音が聞えた。最初は気の所為かとも思ったが、確かに聞える。彼は足を止め、すばやく壁に背をつけて足音の方向に注意を集中した。
向うの足音も止まる。ただこの息の詰まりそうな中で、じっと待つしかなかった。
どのくらい経っただろう?三分?五分?時間が過ぎれば過ぎるほど彼の状況は悪くなる。包囲網はどんどん広げられるだろう。焦りが出始めた時、かん、っと何かの跳ねる音がした。気が急いていた彼は反射的に音めがけライフルを撃つ。しかしライフルの弾は跳ねた空缶を貫いただけだった。
しまった!彼は自分の失敗に気付くとすぐに方向を変え、駆け出した。いままで双方手出しできなかったのはどちらも位置を特定できなかったからだ。それが位置が知れた。相手の位置も分かったが、彼の持つのはライフルだ。とっさの打ち合いになったら不利になる。とにかくルートを変えて振り切るしかない。
しかし、角を曲がったところで、背後から声がした。
「動くな!」
声に従うしかなかった。その姿勢のまま止まる。
「よし、そのままゆっくり床に銃をおいて…」急に声が止まった。「ディンゴ?」
昔の綽名を呼ばれ、思わず振り向く。そこに居たのは、彼の見知った顔だった。
「なんだ」彼は拍子抜けしたように言った。「トードとかって傭兵崩れはお前のことだったのか」
トードは銃を構えた姿勢を崩そうとはしない。「なんだよ、お前こそ殺し屋の真似事かよ」それにあまり会いたい顔でもなかった。
「何年ぶりかな…」少し懐かしむような顔をしたかと思うと、すぐ吐き捨てるように言った。「それにしても、お前がトード、トードねえ…可愛らしい名前じゃねえか」
嘲るような口調で言い、完全に振り向く。
「動くんじゃない!」トードが再び叫ぶ。「おとなしく投降しろ!そうすりゃ命までとろうとは言わねえよ」
「手前の言うことなんか信用できるかよ!」男は怒鳴った。「なぁ、疫病神」
トードの身体がびくっと揺れた。
「手前の側に居ると、敵も味方も見境無しだ!違うか!?」
「違う!」トードは叫んだ。「俺は一度も殺したくて殺したことはない!」
「嘘を付くなよ!」
揶揄するような口調で言う。
「いいから銃を捨てろ!」ヒステリックに声を上げる。「なんでテロなんて馬鹿げたことをする!?手前こそ見境無しだろう!」
「おめえにはわからねえよ」彼は、ディンゴは呟いた。「奴に会ったことのある人間じゃなくっちゃな」
「奴?」トードが不審な顔で聞き返す。
「そうだ、畜生!奴とさえあわなけりゃ、奴の存在さえ知らなきゃ俺だってこんななぁ…!」
その言葉にトードの心の琴線に触れるものがあった。感じる無数の後悔。
「奴ってのはひょっとしてガキじゃないのか?白い髪の?」
その言葉に相手の男、ディンゴの目が見開かれた。
「お前も会ったのか!?奴に!」
トードはうなずいた。
「ならわかるはずだ。あいつはオレ達にとってのバナナフィッシュなのさ!」
いきなりの意味不明の言葉に戸惑った。何を言ってるんだ?
「そうだよ!奴は会うと死にたくなる魚だ!奴と会った時お前も知ったはずだ!オレ達の生きること、死ぬことの無意味さを!」空いた手でどん、と壁を叩く。「なんで奴は不死なんだ!?オレ達の存在もやってることも意味がないのか!?」
トードは思わずぞっとした。彼の吐く言葉は、まるでトード自身の内なる声の様だった。
そうだ。トードの前に現れたあれは、あの時トードに知らしめたのだ。人間のはかなさ、脆さを。トードが逃げたのは死に脅えてではない。あれの見せた、生きるという意味の現実から、いままで奪ってきた多くの命から逃げ出したのだ。
彼の殺人という行為も、何も意味はない、ただの殺人者だとあれは示したのだ。
人に生きる意味など何もない。
しかしトードはそんな考えを頭から振り払おうとした。
「それとテロとは関係ない!」トードはディンゴの身勝手な言葉に怒った。
「あるさ!」怒鳴りかえす。「あの、俺が殺しそこなったガキは奴と関わりがある!何か、何かあのバケモノに一矢報いてやらなきゃ俺は自分をたもてねえんだ!」
またぞっとした。今目の前に立ってるのは実は自分自身じゃないのか?いや、一歩間違ってればあそこに立ってるのは間違いなく自分だったろう。俺は長瀬が現れた時、すがるような思いだった。奴への復讐の手段を得るため。そう思い込もうとしたが自分でも違うのは分かっていた。本当はもし何もしなければ自分の敗北になる。自分の今までが全て否定される。その恐怖から逃げただけだ。
本当は分かってる。勝ち目なんか…いや、それを認めるわけにもいかない。
「馬鹿野郎!」トードが怒鳴りかえした。「そんな戦い方意味がねえ!間違ってる!」
こんなに苛つくのは何故だろう?イカレタ奴の戯言だというのに。そう思うとさらにトードは苛ついた。こいつのはただの八つ当たりだ、意味なんかない!そう自分に言い聞かせた。「馬鹿な事言ってないでさっさと投降しろ!」
「やだね」はっきりと答える。「殺すなら殺せ!お前が殺した敵のように!味方の様に!」
「黙れ!」トードは堪らず叫んだ。
今まで殺してきた命。俺はそれを後悔なんかしたくない。後悔したなら、奴等の死はすべて犬死にと同じになる。だから後悔するわけにはいかない。
鼻の傷痕がずきずきと痛み出した。
「てめえは口では奇麗事を言うが、やってることは人殺しだ!結局自分可愛さのな!!」
「黙れと言っている!!」
トードは声を張り上げる。傷痕が痛い。
「自分の前の綽名、忘れたのか!?てめえの悪運と、兵士としての腕と、そして輝かしいご戦歴にちなんだ名前をよ!」
「言うな!」
トードの肩が小刻みに震えだし、引き金にかかった指に力がかかる。
「なぁ?疫病神のディアブロ?」
トードの指が思いっきり引き金を引きかける…しかし指は止まった。トードは肩で息をしていた。「…もう一度だけ言う。おとなしく投降しろ」
「答えはもう言った」ライフルを持った腕が上がる。「Noだ」
ほぼ同じに、銃声がした。しかし勝負は初めから分かり切っていた。この至近距離で、ハンドガンとライフルの打ち合いで勝負になるわけがない。弾丸は相手の脳天を貫いていた。
トードは足を引き摺るようにしてその場を去った。

***

「トード氏、もうすぐ警察の方も…」ホテルに帰ってきたトードを情報部のエージェントが迎えるがトードは無視して奥に進んでく。
「トードさん?」
シンジの横を通る時、声を掛けられたがそれも無視する。その時シンジは何かトードの横顔に薄ら寒いものを感じた。
さっきのホテルの客室係が、顔を腫れ上がらせ、手錠をかけられて床に座らされている。客室係は、トードを見ると目を背けた。
そんな男の前でトードはしゃがむと、ふっと顔に息を吹きかけた。男は顔をしかめる。
「なあ」トードがいきなり話しかける。「これ、奇麗だな」
最初何を言ってるのかわからなかった。
「このピアスだよ」そう言ってピアスのついた男の耳たぶをぴん、と指ではじく。男は思わず目を細めたが、無言のままだった。「これ高かったんじゃないのか?」そう言って無理矢理男の顔を正面に向かせる。男は睨み付けるようにトードを見た。
「だんまりか?それもいいさ。だがな」そう言ってトードはリボルバーを取り出す。「そのピアスにはお別れを言っときな」
次の瞬間、客席係の片耳はトードの銃により轟音とともに吹き飛ばされていた。
一瞬、誰も何が起こったのかわからなかった。耳をつんざく様な男の悲鳴が響き、やっと全員が我に返った。
「トード氏!何を!」あわててSPが止めに入ろうとする。
「うるせえ!引っ込んでろ!」トードが一喝した。そして再びホテルの係員に向かい、襟首を掴む。「次はどこがいい?もう一方の耳か?それとも顔の真ん中か?」銃口を顔の前で往復させる。「3秒待ってやる。それまでに誰が碇シンジを狙ったか答えな。騙すんじゃねえぞ?」
男は襟首を捕まれ、耳のあった場所から血を流しながらも恐怖で歯をがたがた言わせていた。
「ひとーつ」トードは数えはじめた。「ふたーつ」
「し、知らない!」
男は必死で叫んだ。しかしトードはカウントを止めなかった。
「みっつ」
そしてもう一つの耳を吹き飛ばす。返り血のしぶきが顔にかかった。
男の絶叫がフロア中に響き渡る。
「俺は騙すなと言ったはずだ」襟首を掴んだまま男をゆさぶる。「次がラストチャンスだ。今度は顔の真ん中だ」鼻先に銃を突き付けた。「しっかり答えろ」
またトードが数えはじめる。男は何かを言おうとするが、顎ががたがた震えて言葉にならない。全員がただあまりの光景に呆然としていた。
「みっつ」
トードがそう言うと同時に、誰かが飛び出し、トードの腕にしがみついた。引き金を引く手が大きくぶれ、銃弾は壁に当たる。
「駄目だ!トードさん!」トードの腕にしがみついて来たシンジがそう叫んだ。涙声だった。「駄目だよ、こんなの!」
妙な匂いがする。トードは男の襟を放す、と男はその場にへたりこむ。その下には小さな水溜まりが出来ていた。男は失禁していた。
「言う、言う、助けて…」
トードはがたがた震えながらぶつぶつ言う男を睨み付けた。「人一人殺そうとしといて、助けてなんてムシのいいこと言ってるんじゃねえよ!」
そう言って背を向け、シンジを腕から引き剥がした。シンジは呆然とトードを見ていた。
「トード氏!」エージェントがトードの横に近づく。
「奴から話を聞き出しとけ」トードはエージェントの方を見ようともせず言う。
「やりすぎです!」
エージェントは怒りを込めて言ったが、トードは無視した。
トードはふと、後ろを振り向いた。シンジが、トードを恐怖と嫌悪と、失望の混じった目で見ている。
「止めろ、小僧」トードはうめくように吐き出した。「そんな目で俺を見るな…」
鼻の傷痕が、ひときわ大きくうずいた。

***

Chapter 12: Todai is "A Perfect Day for Bananafish"!
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