作戦が着々と進行している時、碇シンジは市庁舎の階段を昇っていた。
第二東京市庁舎。セカンドインパクト後の日本の再興の象徴として建てられた100階を超えるトライタワー。第二東京市の官庁街の中でも群を抜きん出ているその建物も、今は人気がなく、エレベーターなどの設備も停止していた。
そのためシンジは階段の利用を余儀なくされていた。
もう何十階昇っただろう。脚はぱんぱんに張り、喉がひりひりとし、足の裏がジンジンと痺れてきた。しかしそれでも休みはしない。一歩一歩着実に昇っていく。まだ半分昇ってないことが信じられない。
そこまでして登るのは何故か、彼自身判らなかった、というより解ろうとしなかった。それが彼に残された唯一の現実から逃げる方法、そして現実と対峙する方法だということを…

***

「おい、こっちもいっぱいだぞ!」
バイクにまたがったままトードが小型の通信機に向かってどなる。
『しかたないでしょ!目標の予想到達時刻まであと一時間ないうえにまだ市内の電源が完全に復旧してなくいんじゃどうしたって交通は混むわよ!』
長瀬の怒鳴り声が帰ってきた。トードは両足をついて停車し、背を精いっぱい伸ばして延々と続く車の列を眺める。クラクションをならし続ける車の群はバイクでも通りぬけるのに苦労しそうだった。
この数日、市内脱出にあれだけの騒動があったのにまだこれだけの人がいたことが驚きだった。彼らは最後まで、必要最小限の機能維持のために第二東京市に残留した人々だった。
「なんとかならねえのか?」
『今、比較的空いてる道を探させてるけど気が利いた若いのが出払ってるのよ」
「どうして?作戦には情報部がやる仕事なんてないだろ?」
通信機越しに長瀬のため息が聞こえてくる。
『政府のお偉方が今極秘裏に日本から逃げだそうとしてるの。もっとも、そのおかげでこちらは好き勝手できるんだけど』
「それで?」
『今その証拠を集めさせてるわ。後々の役に立つでしょうからね』
トードがにやっと皮肉な笑みを浮かべた。
「あんた自分が死ぬかもしれないって時によくそんなこと考えつくな…」
『私は自分の行動予定に死後の予定は含まないことにしてるの。役に立たないもの』
見えるわけはないが、長瀬が笑いかえしたような気がした。
「珍しく意見が合うな。俺もだ」トードは思いっきりアクセルをふかし、一旦一気に加速するとわずかな車の隙間の間でターンし、方向を変える。たちまち非難のクラクションが鳴り騒いだ。「こっちも心当たりの道を当たってみる」
『わかるの?』長瀬が意外そうに聞き返す。
「作戦前に地形の確認をしておくのは常識だぜ!」
間に合ってくれよ…トードはそう思いながらスロットルを全開にした。

***

「ちょっと、速水さん、やっぱ無茶ですよ」
市庁舎付近を旋回し続けるヘリの中で、カメラマンがプロデューサーに何度目かの抗議をした。
「馬鹿野郎!泣き言言わずにカメラをまわせ!地方にとばされたいか!」
何度目かの同じ返事を返す。
「これじゃ地方にとばされた方がマシだよ…」
カメラマンは泣き言を言いながらもカメラを最大望遠にして市庁舎のヘリポートを映す。
そこには先ほどから一人の人影が見えたが、それが誰なのかは遠すぎてわからなかった。望遠専用カメラなら見えるかもしれないが、そんな用意はしてきていなかった。
「いいか!死んでもカメラをまわせよ!もし止めやがったらここから叩き落としてやるからな!」
脅えるカメラマンとは対照的に、ただの脅しとは思えない興奮しきった口調でプロデューサーの速水が叫んだ。ヘリの片隅でレポーターが小さくなって震えているがそんな事にはおかまいなしだ。どうせ間に合わせで急遽連絡がついたアイドル崩れのレポーターを連れてきただけだ。そこまでの根性は期待してない。
彼がここまでカメラマンに檄を飛ばすのは本社命令だからというだけではない。今、自分が歴史的瞬間を捉えようとしているその事実に興奮していた。以前から自分が歴史的瞬間を捉えることを夢想することはあった。予算的に恵まれた大物プロデューサーに馬鹿にされながら、低予算の深夜番組やワイドショー番組を撮り続けた鬱積がそうさせたのかもしれない。しかし今、夢想は白昼夢でなく現実のものとなろうとしている。最初のうちこそ野望や欲望がないまぜになっていたが、もはや彼の意識は決定的な瞬間を捉える、その一点にピントが絞られていた。
速水がふと目を移した第二東京市郊外に、何かの影が見えた。目を凝らしたが何かはよく見えなかった。
「おい、大崎」
彼はカメラマンに呼びかけた。
「なんですか、ちゃんと撮ってますよ」
諦めたような口調でそう答える。
「あそこの影見えるか?」
「影?」大崎は速水の指す先を見た。「あ、なんか見えますね」
「見えますね、じゃない!さっさとあれを映せ!」
速水が怒鳴りつける。大崎はぶつぶつと小声で文句を言いながらカメラの方向をその何かの方へ向けた。
「…?なんだ、あれは?」
大崎の声を無視して、速水はチェック用のモニターを凝視していた。そこに映ったのは、はっきりとはしなかったが明らかに人の形をした何かだ。しかし妙な違和感がある。
「なんだ?こりゃ?」
「人、ですかね?」
大崎が言う。
「馬鹿野郎!何処に目ぇつけてる!」速水が驚愕すべき事実に気づいて、冷や汗を流しながら怒鳴った。「奴の周りを見ろ!なんで人間がビルと同じ高さなんだ!?」

***

「目標、市内に進入しました!」青葉の声が指令車の中を走る。
「巨人機はどうなってる?」冬月が尋ねた。
「現在高度3000で旋回しながら目標位置で待機」
「では戦自の中距離迎撃部隊の方は?」
「そちらも配備完了です」日向が答え、そして怪訝そうな顔をした。「しかし、敵性体に通常兵器は効きませんが…」
「わかってるわ」長瀬が平然と答えた。「効果がないからこそ意味があるのよ」
その言葉に、日向だけでなく全員が奇妙な顔をした。
「トード氏から連絡が入ってます!」女性オペレーターがトードからの通信をスピーカーへ切り替えた。


「おい、ビルに着いたはいいがエレベーターも何も動かねえぞ!」
トードが罵詈雑言のオンパレードを口にするのをなんとか控え、そう言った。彼の罵倒のパターンはさっき動かないエレベーターに対してほとんど使ってしまっていたからだ。
『今そのブロックの電源を優先的に回復させてるわ。あと二、三分待って頂戴』
長瀬の声がそう言った。
「早めに頼むぜ!」

長瀬は通信機のスイッチをオフすると、全員に向かって言った。
「ともかく私の指示通りに」長瀬はうむを言わせぬ口調だった。「その他無人機は予定の位置へ。民間機へは早急に退去命令を」


シンジが屋上へたどり着くと、ヘリポートへの扉はしっかりと閉まっていた。辺りを見回し、緊急用の開閉ノブを見つけるとためらうことなくそれを手にした。
扉が開いていくと、外から高所特有の冷たく強い風が吹き込んでくる。その刺すような冷たさに思わず目を細めた。
どうにか人の通れるだけの隙間が扉の間に出来ると、シンジは身体をねじ込む様にして扉の間から外に出る。外に出てまず受けたのは冷たい風の歓迎だった。
風に逆らって目を見開くと、ヘリポートの縁の方に少年が腰を下ろしている。シンジはその少年の方へ歩いていった。
少年はシンジの方を振り向くことはなかったが、気配に気付いたのか、シンジに向かって話しかけた。
「君か…」
シンジの身体は小刻みに震えていたが、それは寒さゆえなのか、高所への恐怖からなのか、少年と対峙したことによるものなのかは本人にも判らなかった。
「アスカと…話をさせて欲しい」
その時郊外で爆発がおこった。


「初弾全弾命中!敵性体への効果は認められません!」
青葉が叫ぶ。
「では続けて第二射」長瀬がひるむことなく淡々と命令を下す。
「しかし、民間への被害が…」日向が建物を踏み潰しつつ進撃するモニターのエヴァを指して行った。中距離弾の破片や爆発により、なぎ倒された建物、家などが幾つか見える。
「構わないわ」長瀬は取り合おうとしない。「どうせ無人よ。気にすることはないわ」
長瀬がそういう以上、他の人間にはどうすることも出来なかった。
「ところでサードチルドレン保護に向かったトード氏からの連絡は?」
「まだビルの中の様です」モニターのトライタワーのヘリポートにはには、二人の人影の姿しか見えなかった。長瀬は歯噛みした。
「作戦の続行、どうしますか?このままではサードチルドレンの安全が…」
「構いません」長瀬はきっぱりと言い放った。「作戦はこのまま続行、敵性体の軌道のトレース及びマギによる投下の再計算もそのまま続行」
「長瀬さん」通信オペレーターが長瀬に呼びかけた。「トード氏から通信が入ってます。緊急の用だそうです」
モニターを見るがまだヘリポートには着いていない。サードチルドレン保護のニュースではない様だ。
「何なの、トード氏!?」長瀬は通信機のスイッチを入れて尋ねた。
『ビル昇る途中で民間人の爺さんを保護した…って、おい!よせよ爺さん!」
その後スピーカーからはその爺さんのものとおぼしき罵倒句が飛び込んできた。


「悪かった!爺さん呼ばわりしたことは謝るからおとなしくしてくれ!」
トードは通信機のスイッチを切って目の前の初老の人物に言った。
「当たり前だ!こんなところで引っ張りまわされた挙げ句、爺さん呼ばわりされたんじゃ割が合わん!」
その初老の、小太りした人物は言った。
「で、何でこんなとこにいるんだ?他に人がこの中にいるのか?爺…じゃない、えーっと…」
「大滝だ」彼はそう言った。「私の連れが一人、屋上に向かってった。私も追ったんだが、置いてかれてな。おかげで脚が痛いわい」この体型で階段を足で昇って来たのだ。確かに疲れるだろう。
「わかった。その連れは俺が連れてくるから、このビルを出てすぐに近くの建物に避難するんだ。ここは危ないからな」
「ここを、また降りるのか?」大滝はショックを受けたように言った。
トードは舌打ちする。
「大丈夫だ。今はエレベーターが動いてる。あっちの方だ」
トードが指差すと、大滝は立ち上がってそっちの方へ歩いていった、が、途中で足を止めてトードの方を振り向いた。
「そうだ、言い忘れてたが、私の連れは少し、変わった奴でな…」
老人の対応に疲れたトードは、いらついて返事をした。
「安心しろ!俺の知り合いもそうだ!」


「彼女はね」少年がシンジの方を向きながら言った。「誰にも会いたくないみたいだよ」
少年は、少なくとも外見上はシンジよりかなりの年下だったが、シンジはその少年に圧倒されていた。しかしすくみそうになる脚を必死で支えながら耐えた。
「それでも話をしたい!」シンジは叫んだ。「どうして君はアスカを、みんなを取り込んだりするの!?]
少年の顔がさびしそうになる。「知らない」そしてシンジから目を離し、さっき爆発が起こった方角を見る。「君たちが僕にそうさせてるんだろ?」
「僕たちが?」シンジが少年の意外な発言に、聞き返す。
「なぜ僕はそうしなきゃいけないのか。僕は何者なのか、何をしたらいいのかまるで知らないんだ。ただ望むようにするだけ…でも自分から望むはずなのに拒む人もいる。君の様に」
少年が話してるうちに、シンジの視界の中の少年が段々歪んでいく。いや、視界そのものが歪んでいく。奇妙な違和感を感じた。
「君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が君が望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだ望んだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ」
しゃべってるのは少年の声ではなくなって来た。何処となく無機質な声。いや、それは自分の声だった。
「いつも逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて
なのに拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで拒んで
どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?」
頭の中で響くように同じ声がリフレインする。遠くで爆発音がした気がする。しかし現実感が全くない。
「止めて!」
シンジは叫んだ。ふと両方の頬に冷たい手が触れ、現実に引き戻す。見上げると、何時の間にか自分はうずくまって、間近に迫った少年の顔を見上げていた。
「そうか…」少年がつぶやいた。「君が僕を拒んだのは一度じゃない」


世界自体がざわついていた。それに合わせて周りも騒いでいる。少年の不安がダイレクトに伝わってくる。しかしアスカはそれとは別の感覚を感じていた。ちくちくと胸を刺すような痛み。不安そのものではないが、それは不安をかきたてる。
わずかな痛み、しかしそれは彼女にはつらい痛みだった。
『やめて…』
アスカはうずくまって泣いた。世界がその彼女を抱きかかえるように包み、彼女の涙をぬぐう。
アスカにはそれが嫉妬だということも、もっと大きくなるということもまだわからなかった。


「第二射も命中!効果は相変わらず見られません」モニターから嘲笑うかのように、エヴァンゲリオンの巨躯が前進を続ける。
「敵性体の目標到達までの予想時間は!?」
長瀬が尋ねる。
「現在の進行状況より、よそう到達時刻まであと10分程度、予想より若干早いです」
「サードチルドレンの方は?」
市庁舎の映像の状況は相変わらずだった。
「そちらも依然伸展がないようです」
「そう…」長瀬は少し俯いた。「計画は予定通り続行します!」


「君は僕を拒絶した…」少年が囁くようにつぶやく。「どうして?君が望んだのに?」
君の父が望んだのに
みんなが望んだのに
シンジには少年が何のことを言ってるのか、わからなかった。ただ、自分の記憶の中で薄れている、三年前のあの日の事を言ってるのだと思った。一体あの時何をしたんだ?僕は。
「君は君は拒絶拒絶拒絶したんだんだんだだだ僕を僕を僕をを」
拒絶?覚えてない。
「どうして?して?して?」
わからない。
「君は僕の存在を握ってる握ってるてる」
知らない。僕はただアスカに会いたいだけなんだ。
「そこまでにしておきなさい」
まったく別の声が割り込んできた。
ヘリポートの出入り口から、見知らぬ男が現れた。
「君の記憶を持つのは私だ。君の捨てた記憶をね」
それはシンジの知ってる言葉ではなかった。その声の主は強風に臆することなく、二人の方へ近付いてきた。肌は濃い褐色のアフリカ人種、しかし髪と瞳だけが置き忘れられたかのように色素を失っている。
「誰?」
少年がその男に尋ねた。シンジたちの立っている足元に、異様な振動が伝わって来たのはその時だった。


「敵性体、ビルに取り付きました!よじ登ろうとしています!」
さすがに自分の身長に倍するビルのてっぺんにそのまま飛んでいくことは出来ず、エヴァンゲリオンはビルの窓に指を突っ込み、それを手がかりにしてビルを登りはじめた。
「投下予定時刻まであと一分ありません!どうしますか!?」
長瀬はぐっと奥歯を噛み締めた。
「投下は予定通りに!」

トードがヘリポートに出た時見たのは想像してなかった光景だった。シンジとアダムがいるのは想像できた。しかしもう一人、おそらく先ほどの老人の連れだと思われる男の存在は予想外だった。その男の白い髪、そして赤い瞳が。
そしてその三人がそれぞれ対峙している。これはどう局面を捕らえればいいのだろう?
「君が望まずとも、私は君に返さねばならない。そうでなければ私は私に返れないからだ…」
意味不明の言葉を吐く。再びエヴァンゲリオンがトライタワーを登ってくる振動が伝わってきた。時間がない。
「そこの二人、動くな!」トードは銃の狙いをアダムにつけて言った。無駄と解って言ってるのが自分でも滑稽だった。「小僧、ここは危険だこっちに来い!」
「でも、でもアスカが!」
シンジがどこか錯乱したように叫ぶ。アダムの影響を受けたのか、そう判断した。
「馬鹿野郎!手前が死んじまったらアスカをたすけるもクソもねえだろうが!!」
トードの一喝にシンジが我を取り戻す。トードの方へ急ぎ足で戻ろうとした。
「そうだ、早く来い!」
トードが叫ぶ。しかしシンジには先ほどからあの二人が気になっていた。何か胸騒ぎがする。アダムはじっとしているが、トードの銃口に恐れているわけではなさそうだ。そちらはわかる。予想してたことだ。しかしもう一人の男の方もトードの銃口を無視するかの様にアダムに向かって歩き出した。
「くそ!動くなと言ったろう!」
突然二人の背後に、巨大なエヴァンゲリオンの腕が表れた。それがポートの縁を掴むと、続いて鉄仮面の鬼の顔が現れる。
ちっ!タイムリミットか!トードがシンジの方に向かって一気に駆け出した。
ところが当のシンジがトードがいるのとは、逆の方向に向かって走り出す。
何だ!?何考えてるんだ!?
トードは心の中で毒づいた。
そっちはエヴァンゲリオンの、そしてアダムのいる方向だ!
トードは一瞬シンジが自分から逃げたのかと思ったが、そうでないことはすぐに分かった。シンジは少年に近付こうとしている男の体に手をかけた。
「駄目だ!」
シンジ自身、何をしてるのかよく分からなかった。ただこの二人が一緒にいることは、触れてしまうことは今迫ってるエヴァよりももっと悪いことの様な気がした。
トードもシンジのやってることの意味が分からなかった。しかし元々彼の目的は一つだった。トードはシンジの側へ走ると、シンジと、そしてシンジの捕まえている男を掴んでアダムの側から引き剥がした。そして押え込んでむりやりに伏せさせた。
「いいか!地面にへばりついて、両耳を押さえてるんだ!」
トードは二人に言った。シンジはただがむしゃらにトードの言う通りにした。
今まさに巨大な手がアダムに伸びようとしてる、その時だった。


最初、それが天から下ってきたのに彼は気が付かなかった訳ではない。しかしビルにへばりついた不自由な格好で、移動できる空間もない場所でよける手段はなかった。それに目の前に彼を突き動かした、渇きにもにた衝動を起こした小さなものがいる。
彼にはよけるまでのことではないと感じられた。
彼は今までそうしてきたように、”壁”を張ることでそのものを防ごうとした。今までの快進撃が、それで十分だと判断させた。しかしそれが過ちだった。とんでくるものが、それで防げるという判断は。
それに気付いたのはATフィールドが薄氷が溶けるように消え去った時だったが、もはや遅かった。次の瞬間、彼は槍にトライタワーごと貫かれてる自分に気が付いた。
彼のなすべきことはもはや断末魔の叫びを上げることしかなかった。


そのすさまじい「音」が、エヴァンゲリオンの「声」だと言うことに気が付いたのはしばらくたってからだった。槍の投下による衝撃と、衝撃波で全てのビルがなぎ倒されんばかりに震え、窓は木っ端微塵になった。シンジたちもビルから投げ出されないように地面にしがみつくので精いっぱいだった。
大地をも震わせるようなその叫びは、いつまでも続くように思えた。


指令車の中でも、全てのモニターに砂嵐が映るだけだった。強力なノイズが全てのセンサー、カメラを盲にしていた。ただの質量体の投下でこんなことが起こるわけがない。あの槍は、一体何を起こしたのだろう?しかしセンサーが働かない以上、それを調べる術がなかった。
「モニター、センサー類、今回復します!」
オペレーターの声と共に映ったのは、槍に貫かれ、ビルにぶら下がったエヴァンゲリオンだった。
その光景を見た時、誰も何も言葉を発しようとしなかった。
「!敵性体の状態は!」
長瀬がはっとしたように叫ぶ。その言葉に、日向も我を取り戻したように自分の仕事を思い出しした。
「内部熱源、その他、認められません!敵性体、完全に沈黙してます!」
それを聞いても、暫くは誰も何も言葉を発しようとしなかった。罪人のように磔けられた巨人の姿の異様さが、それを許さなかった。
「サードチルドレンの安否は!」
長瀬が続けて確認を求める。
「今無人機を回します]日向が慌てて答えた。
最初、ヘリポートが遠巻きに映った。そして視点が何度か変わり、やがてある一点を大映しにした。人影が三つ、見えた。一人は無人機に向けて手を振っている。おそらくトードだろう。近くの一番小さな人影も動いている。
「サードチルドレン、無事です!」
その声と共に、初めて歓声があがった。
しかし長瀬は歓声の湧き起こる中でも、冷静に、しかし小声で日向に尋ねる。
「もう一人の人影は?」
「わかりません」日向は答えた。「アダムではないようですが…」
それを聞いて長瀬は安心したように椅子に戻った。
「これで」冬月が長瀬の側で、口を開いた。「これで君は槍と、ほぼ無傷のエヴァンゲリオンを両方手に入れたわけだ」
その口調からは、どういう意図なのかは読み取れない。しかしそれでも長瀬の唇が笑みに歪んだ。
ククク…
その口の端からこぼれるように笑いがもれた。

***

トードはただなんとなく黒塗りの車から車外を眺めていた。丁度今通ってる辺りは例の物が通過したあとで、なぎ倒された建物の被害も生々しい。
人々は街に戻ってきているが、いつもの生活に戻れるのはいつのことだろう。
戻ってきた人々の車の渋滞の列に巻き込まれた車の中からタイフーンの通った跡のようなその光景を見て、トードは確か日本は平和な国のはずではなかったかなぁ、と考えていた。
「おい、あんた」向かいの席から大滝と名乗った男がトードに呼びかけた。「これは何とかならないか?これじゃまるで犯罪者だ」手錠のはまった腕を、鎖をじゃらつかせて示す。
「戒厳令下でふらふらしてりゃ、撃ち殺されたって文句は言えねえんだ。生きてるだけよしとしときな」トードの返答は冷たい。
老人も諦めたようにおとなしく窓の外を眺めた。もう一人の男は何処を見てるのか分からない顔でおとなしくしていた。
その髪と瞳の色はトードに嫌な思い出を思い起こさせずにいられなかったが、トードは努めて平静を保っていた。彼が何かをぼそっと言った気がした。
「おい、車を停めてくれ!」
大滝が急に叫ぶ。そのおおきな声に驚いて運転手も車を急停車させた。後ろからクラクションの音がする。
「何だよ、いきなりでっかい声を出して!」
席から危うく放り出されそうになったトード怒鳴った。
「私じゃない、彼が止めてくれと言ったんだ」そう言って隣に座ったシンハを指差す。
また彼が何事か言った。
「車から降ろしてくれ、だと」大滝が諦めたように言う。
あからさまに不審な顔をするトードを見て、シンハが車外を指差した。その先には塀の崩れた家の、瓦礫の散らばった庭の中で泣きじゃくってる少女がいた。


「いいのですか?トード氏」トードと一緒に車外に出た情報部のエージェントが言った。「手錠まで外して」
「構わんだろ。逃げる様子もないし」トードは肩を竦めた。「第一手錠が掛かったままじゃ、子供が怖がるからな」
碇シンジの件でピリピリしていたエージェントは苛立たしそうな顔をしたが、何も言わずに引き下がった。
「何故泣いているのかい?」
少女に近付いたシンハの言葉を、大滝が訳して聞かせる。少女は一瞬、いきなりの侵入者に驚いたようだったが穏やかな物腰にどこか安心したようだった。
「チャコがね、動かないの。ちっともしゃべってくれないの…」
少女の腕の中には小さな小犬が一匹、横たわっていた。ぐったりとして傍目から見てももはや手後れなのがわかる。
シンハは少女の抱く子犬に手を伸ばし、そっと手を触れた。
「連れてけないからって、うちに置いてったの…連れてけば良かった…」
恐らく瓦礫の下敷きになったか、飛んできた破片に運悪く当たったのだろう。外傷はほとんどない。
「この子は、神の御許にいかれたのだ」また大滝が訳す。しかし大滝の訳が必要ないくらいに、シンハの言葉はいたわりに満ちていた。
「神様の?」少女が聞き返す。
「そう。だから君が悲しんでたら、この子はいつまでたってもゆっくり休むことが出来ない。君が心配でね」
少女はうなずくと、家の中に一旦戻って、小さな園芸用のスコップを取ってきた。そして庭の片隅を掘って、小犬が収まるだけの小さな穴を作った。
少女はその中に小犬をそっと置くと、上から土をかけた。途中からシンハも一緒に土をかけるのを手伝った。
それを見て、トードは何か歯がゆそうにしていたが、やがて庭先に落ちてた枝を拾うとそれをいじりだした。
少女とシンハが小犬を埋めおわり、手を合わせて祈ろうとしたところでトードがいきなり手を差し出して来た。
「ほら」その手には拾った枝を組み合わせて作った十字架が握られていた。「墓標がなくっちゃさまにならんだろ?」トードはぶすっとしたように言った。
シンハはにこっと笑うとそれを受け取り、小さな墓に立てた。
少女がトードを見てありがとう、と言うとトードはぎこちない笑いを浮かべた。

Dust to dust....

出し抜けにシンハが祈りだした。少女もそれに合わせて手を合わせて祈る。

Ash to ash...

ひとしきり祈りおわると、シンハは手で十字を切った。

「まるで玄人の神父はだしだな」車内に戻ってトードが言った。
「え?」大滝が聞き返す。その手には再び手錠がはめられている。
「さっきのお祈りだよ」
大滝がトードの言葉をシンハに訳して聞かせる。それにシンハが何事か答える、と大滝の顔に軽い驚きの色が浮かんだ。
「昔は本職の神父だったんだと…」
「へえ…」
トードは軽く、驚きを表して見せた。

***

シンジが内務省情報部の人間に連れられて今回の後始末と現場検証に立ち会ってる長瀬の元へ行った時、長瀬は瓦礫の散乱した市庁舎ビルの前で技術主任と会話の真っ最中だった。
「全体的なスキャンを行った結果、サンプルに内部の熱源、電磁波、その他エネルギー反応は一切認められません。安定した状態であると思います。詳しいことは明日にでも例の場所に送って調べます。状態は外装、胸部、右腕の一部、コアを除いてほぼ無傷です。現在解ってるのは外装などからおそらくエヴァンゲリオン8号機であることくらいですね」
「あの、部長」情報部員が話の切れ目を見計らって声をかけた。「サードチルドレンを連れてきました」
長瀬が横目でちらっとシンジの方を見る。
「そう、悪いけど少し待ってくれる?シンジ君」
そう言って再び報告の続きを聞こうとした。
「あと、外務省の方からのつつき上げが非常にうるさくなってきました。国連からの敵性体サンプルと槍の引き渡し要求が厳しくなった様です」
長瀬が眉をしかめて眉間を押さえる。「まったく、返事の引き延ばししか能がないと思ってたけどそれすら満足に出来ないなんてね」そう言ってため息を付いた。「現在サンプルの状態が安定しないために非常に危険な状態で、安全確認が済むまでサンプルの引き渡しも槍の返還の交渉にも応じられない、そう答えときなさい」
技術者が長瀬の言葉を聞いて、自分の報告を聞いてなかったのかという顔をする。
「しかしそれで納得するかどうか…」
「適当な資料を作って渡しておきなさい!あらかじめ向うに渡した旧ネルフの資料にもダミーを混ぜてあるからそれで問題無いと思うわ。もしそれでもぐずったら安全保障条約を盾にでもしなさい」
情報部員が長瀬の指示を受けいれて引き下がると、長瀬は再び報告の続きに耳を傾けた。
「その他、エントリープラグ内部の調査も行いましたが、内部に人のいた形跡はありますが遺体その他は見つかりませんでした。現在LCL成分の解析を急いでます。エントリープラグの構造自体もわれわれの知る物と異なり、その辺も調査を要します。また乗っていた人間のものと思われる残留品も何点かありましたが…」そう言ってクリップでまとめられた写真を長瀬に手渡す。それには残留品が、番号のついた札と共に写っていた。長瀬は何気なくそれを見ていたが、ふと一枚の写真に目を留める。それには細いスリットの走ったホロスコープ・グラスが写っていた。「残留品から乗っていた人間は人類補完委員会議長のキール・ロレンツと思われます」
長瀬はしばらくその写真を眺めてたが、やがて目を離して呟いた。
「そう、やっぱり…」
「え?」技術主任が怪訝な顔をする。
「いえ、なんでもないわ」そう言って残りの資料を受け取る。「では残りの調査が済み次第、サンプルを例の場所へ輸送して」
技術主任も立ち去ると、長瀬はシンジの方に向き直った。「待たせてごめんなさい。わざわざ来てもらって悪いわね」
「いえ…」シンジはどことなく無関心そうに返事をする。
長瀬は一回息を吸い込むと、話を続けた。「アナタ、決心してくれたそうね」
「ええ」長瀬を視界に捕らえながら微かにうなずく。
「今更私がこんなこと言うのもなんだけど…」長瀬がシンジの目を覗き込むように見て言った。「本当にいいのね?」
「はい」シンジは視線を逸らさずに答える。「もう、逃げるわけにいかないんです」
全てを取り返す為にも。そう心の中で呟いた。
「そう…」長瀬はそうとだけ言うと、先ほど受け取った資料に目を移し、時々走り書きで何かを書き加えていった。
「あの…」シンジがいきなり声をだした。
「ん?」長瀬がちらとシンジの方を見る。
「あの、さっきの『やっぱり』って…」
シンジが質問を発しようとした時、それを別の声が遮った。
「おい、こんな所にいたのか!」トードが声をかけながら二人の方に近付いてくる。
「あら、遅いわよ、トード氏」
「これでも急いで来たんだ」長瀬に抗議する。
「ちゃんと彼らは送り届けた?」長瀬は例の現場にいた二人の事を聞いた。
「ああ、一人は囚人みたいだって最後までぼやいてたけどな」
「囚人の扱いにしてはマシだと思うけど。まぁ身元がはっきりするまで我慢してもらうしかないわね」長瀬がボールペンの端で額を押さえる。「で、なんだったかしら、シンジ君?」
「いえ、あの…」シンジは再び話を振られ、少し戸惑った。「さっきの『やっぱり』って、あれに人が乗ってたってことがなんですか?」
「ああ、さっき私が言ったことね?丁度いいわ、そのことで、聞いて欲しくてアナタたちを呼んだのだもの。私用だけどね」
「仕事じゃないなら手短に頼むぜ」トードが言った。
それに長瀬がくすりと笑う。
「そうね、じゃぁ昔話からしましょう。私は14歳以前の記録が残ってないの。もちろん残ってないだけで私にも14歳より若い子供時代はあったわ。私のことかぎまわってるお偉いさん方はそれを私が抹消したと思ってるみたいだけど、違うの。私の過去と過去の名前を消したのは私の父なの。私が14の時、母と離婚した時、ついでにね」長瀬は再び資料に目を落とした。「父といっても遺伝子のつながりしかないような、一緒にいた記憶も愛情も湧かないような父だったけど。14歳の時母と離婚した時も、離婚そのものよりも記録が消されたことの方がショックだったわ。自分の全てを否定されたみたいでね。それでも憎むとかそういうことはなかったつもりだけど、やっぱり何処かで憎んでたかもしれない」そう言って資料から写真を抜き出し、それをじっと見た。「でもだんだん解ってきたのよ。父は私たちが足枷に…自分の弱みになると思ったのね。その挙げ句馬鹿げた計画を立てて、あんなことになって…」再び言葉を切ると長瀬の表情が一瞬冷たいものになる。「馬鹿な男」
「あんたの父親の話はいいが、それが小僧の質問とどう関係があるんだ?」
一向に話が本題に入らず、トードがいらついて聞いた。
「だからこれが質問の答えよ」長瀬がそう言う。「自分でもそうじゃないかと思ってはいたのよ。そんな男でも、父親なのに、いなくなっても、ましてや自分が手にかけたにも等しいのに何にも感じてないの。悲しいとも、嬉しいとも。予想はしてたけど、やっぱりショックだったのね」
「あの、どういうことなんですか?」さっぱり要領が掴めないシンジが我慢できずに聞いた。
長瀬はなんとも掴めない表情でじっと写真を見つめたままだった。「つまりね、私の消された昔の名前はヒロコ・長瀬・ロレンツ…」そう言って今まで見つめていた写真をひっくり返し、二人に示すように掲げた。それには先ほどのホロスコープ・グラスが写っていた。「キール・ロレンツは私の父よ」
微笑さえ浮かべて、彼女はそう言った。

***

chapter 11: In the Name of Father
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