第10章:還る時

***

「第十三艦隊の回避後、敵性体は太平洋上をそのまま西進。これまでの軌道から日本の関東から東海地区までの沿岸上に上陸の見込。上陸までの予測時間は72時間から120時間。国連は敵性体が未だ確認されていない『使徒』である可能性があるとし、米国海軍を中心に捕獲、あるいは殲滅を目的とした艦隊を編成中…」

***

内務省情報部部長室は重苦しい空気に包まれていた。トードはいつものようにソファに脚を組んで座ってたが、顔のあちこちに貼られているばんそうこうが痛々しかった。
「それで、むざむざセカンドチルドレンを奪われたというわけね」
長瀬が冷ややかな目でトードを睨んで言った。
「ばか言え、あれ以上はどうしようもねえよ。第一あんたのところの奴等だって全員やられたんだろ?」
「まったく、貴方の報告を改めて見てみるとつくづく化け物よね」
諦めたように書類をぽんとデスク上に投げ出す。
「しかもアンタはその化け物にケンカ売ってるんだぜ?」
トードがしかめっ面でガムを引っ張り出してくちゃくちゃとやりだした。
「そう、私たち、がね」わざと『たち』を強調して言い返す。「それより碇シンジは?」
「だめだね、ありゃ」トードは肩をすくめた。「取り敢えず休憩室で休ませてるが、暫くは事情聴取なんて無理だな」
「そんなこと言ってる場合じゃないの」長瀬が立ち上がる。「あなたも言ったとおり、私たちは化け物にケンカ売ってるの。しかも今もう一匹の化け物がこの日本に向かってるのが確認されてるわ」
「もう一匹の?」
トードがいぶかしげに聞き返す。
「『ガリバー』と称されてるわ。恐らくその正体は行方不明中のエヴァンゲリオン・シリーズのいずれか…」
「俺としては、あのアダムとか言うバケモノ小僧以上のバケモノなんて想像できないがね…」
トードが立ち上がる。
「いずれにしても時間がないのよ。検査では身体に異常はないのでしょう?彼には嫌でも現状を認識してもらうわ」
そう言って長瀬は部屋を出た。
トードもその後を追う。
「碇君」休憩室に入るや否や、灯りもつけずに椅子に座って壁を見つめているシンジに詰めよった。「いい加減になさい!いつまでそうしてる気!?」
シンジの体は小刻みに震えている。
「何か答えなさい!」
シンジの体がびくっと震える。
「…ご、ごめんなさい…」
奥歯をがたがた震わせながら答える。
「誰も謝れなんて言ってません。いい加減、自分の立場の重要さをわきまえたら!?それとも何時までも逃げ通すつもり!?」
「おい、やめないか…」
トードはシンジを庇うように言うが、長瀬は聞き入れた様子もない。
シンジは震えたまま、何も答えない。
「何か言いなさい!」
「あ…」シンジが声を出す。「もう嫌だ…こんなの、もう嫌だ…」
長瀬の顔が怒りで赤くなり、眉がつり上がる。椅子に座ったシンジのむなぐらを掴み、無理矢理立たせた。
「甘えるんじゃないわよ!」長瀬が声を荒げた。「こっちはアンタみたいなのでも、エヴァパイロットだから必要としてるだけなのよ!!そんなに生きるのが嫌なら、さっさと死になさい!真面目に生きてる人間の迷惑よ!」
「おいっ、いい加減にしねえか!!」トードが長瀬のシンジを掴む手を握る。長瀬ははっとしたように我に帰ると、シンジを離した。「何興奮してるんだ、アンタらしくもない」
長瀬はトードに握られた部分をさする。
「悪かったわね、やりすぎたわ」長瀬が言う。しかし罪悪感は微塵もこもっていない。「現在第二東京市には市民の退去命令が下ってるわ。君も避難しますからそのつもりで心の準備をしておきなさい」
事務的にそう言って部屋を出ていく。
「小僧、今は何も考えずに休め、いいな?」
トードがそう言い残し、長瀬の後を追った。
暗い部屋に再びシンジ一人になった。
「ミサトさん…綾波…アスカ…誰かたすけて…」

***

「おい、待てよ!」トードは早足で前を進む長瀬に追いつくと、肩をつかんで止めた。「なんで小僧にあんなことを言った」
「あなたには関係ないわ」
冷たく流し目をくれて答える。
「小僧の気持ちも考えて…」
「考えたくもないわね」長瀬が吐き捨てるように言う。「闘わない人間は、クズよ」
「自分一人が闘ってる人間とでも言う気かよ!」
トードが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「そんなこと言ってないでしょ!」
長瀬も怒鳴り返した。
トードは深呼吸して落ち着きを取り戻そうとした。
「惣流・ラングレーのことにしてもそうだ。アンタはどうしてそんなにNERV関連のことになるとむきになる?」
トードの手が長瀬の肩から離れた。
「それこそあなたには関係ないことよ」
長瀬が勤めて平静に言う。しかし頬が紅潮している。常には見られぬ様子に、トードも少し戸惑っている。
「これ以降の行動は迅速さが必要だわ。碇シンジの警護は他の者に任せて、あなたは非常時に備えて待期していて」
しだいに落ち着きを取り戻した長瀬が言った。
「いくら俺でも全長数十mの怪獣と格闘はできんぜ?」
まぜっかえすように言ったが、長瀬は真剣な面持ちのままだった
「私にも何が起こるかわからないわ」長瀬の顔に緊張が走る。「だから万が一に備えて、よ」

***

市内のマンションの一室に、黒服の男たちが訪ねて来た。マンションの外では首都を脱出しようとする人々の車で、道路が渋滞していた。
「ユリを、ですか?」
ユリの母親は言った。
「はい、お嬢さんを私たち政府の者で、責任持ってお預り致します」
「でも…」
躊躇するユリの母親の耳に、男は口を近付けた。
「こちらとしましても手荒な真似はしたくないのですが、合法的にお嬢さんの身柄をこちらで拘束することもできるのですよ?」ユリの母親の顔が青ざめるのに構わず、男は続ける。「それにそちらさまも叩いてホコリのでることはあるようですし…」
「待って!」部屋の奥から声がした。ユリが姿を表す。「それは、私が決めるわ」
「ユリ!」母親がユリを叱りつける。
「まあまあ、黒服の男がたしなめる。「なかなかしっかりしたお嬢さんのようだ。で、どうなさいます?」
ユリの方を向いて聞く。
「その前に、碇君も一緒かどうか教えて」
男はうなずいた。「それなら、よろしいですか?」
しかしユリはそれに答えず、さらに言葉をつぐ。
「もう一つ、父さんと母さんも一緒に非難させて」
黒服は少し困った顔をした。後ろの男と話し合う。
「いいでしょう」男は暫く話をした後、そう答えた。「そのくらいでしたら、結構です。では準備を急いでください」

***

「戦況は?」
長瀬が聞き返す。
「現時点では敵には被害は見られず。十三艦隊は空母1、巡洋艦2、戦艦1が大破。巡洋艦3、戦艦3が中破で、およそ60%の被害と見られます」
「ま、最終決戦兵器相手じゃこんなものね」モニターに表示される経過を目で追う。
「そうだな、使徒と同じ力を持ったものにかなうわけがない」冬月が言う。そして背後に立った情報部員を気にするように目を動かした。「ところで私がこんなところに呼ばれる訳は何だね?
「協力していただきます」長瀬はじっと冬月の目を見た。「現在統括的に使徒殲滅のノウハウを持つ人物は先生しかおりませんもの」
冬月は同意とも諦めともとれるように肩をすくめるしぐさをした。
長瀬はそれを見て再び情報部員に顔を向けた。「で、例の件はどう?」
「今国連側も準備が整ったようです。今からつなげます」そして情報部員がけげんそうに聞き返す。「でも、大丈夫なんですか?外務省あたりがまた文句を言ってきますよ?」
「大丈夫、勝てば官軍よ」長瀬はそう答える。「それにこれは私の責任で行なうことだから心配なんてしなくていいわ」
情報部員が心配そうな表情のまま、受話器をとる。「そうだ、つなげるように」
暫くして、長瀬にうなずく。長瀬がそれを見て、モニターのスイッチを入れた。どこかの会議室が画面に現れる。そのテーブルにはずらりと人が並んでいたが、いずれも額に気難しそうなしわを寄せている。
「君かね?これを送ってきたのは」
モニター中の、テーブルの中央に座っている初老の男が手元のプリントアウトされた紙の束を手の甲で叩いた。国連総長、その顔は新聞で比較的頻繁に見られる顔だった。
「気に入って頂いた様ですわね」長瀬が手を組んで、その上に顎を乗せる。
「何のつもりだね?これは?」
「敵に関する情報データ、及び、それに対する迎撃プランその他ですわ」
悪びれずに答える。
「どういうつもりだ?」
「そちらの資料にある通り、現在旧NERVの施設・設備の75%、人的資源の93%がこちらの手中にございます。それらは正体不明の物体の迎撃に欠かせないものでは?」
なおも解説を続けようとする長瀬を総長が手で静止する。
「つまり?」
モニター越しにじっと睨み付けられたが、長瀬は落ち着いた様子で暫く間をおいた。
そして口を開いた。
「迎撃の全件を私どもにお譲りいただきたい」
長瀬が言うと同時にモニターの向うからざわめきが聞こえる。長瀬の口が微かに微笑んだ。
「正気かね?」総長は苛立ちを隠せない様子で言った。しかし長瀬はまるで気にしていないようだったい。「確かに君のプランは面白い。とっぴだが、可能性はあるし確かに旧NERVの資源が必要だ。しかし…」男は長瀬を睨んだ。「君らが我々に協力すべきではないのかね?」
「どうして?」
長瀬が笑いながら聞き返す。
「このプランには、君らになく、我々にあるものが必要だ。そしてそれを我々が渡す訳もない…」
「『槍』ですわね?」
「そうだ。あれを渡すことを認めると思ってるのかね?」
「少しの間お借りするだけですが…」
「それでも駄目だ」
きっぱりと拒絶する。
「では、もう一つ、資料をお送りしますのでそちらも御覧下さい」
長瀬は再び端末をいじる。
モニターの向うで男がじっと自分のモニターを見つめる。その表情が突然凍り付いた。モニター越しのざわめきが一層大きくなる。
「これは…」
「お気に召しまして?」
「何だねこれは?」
一瞥すると、男が長瀬を睨んだ。
「別に。私どもが独自に調べたNERVとゼーレの報告の一部ですが、それが何か?」
「何のつもりだね?」
「いえ、ひょっとしたら興味を持つ方もいらっしゃると思って」長瀬はにっこりと微笑む。「特にゼーレと国連の関係について」
「迂遠に言うのは止めたまえ。つまり我々を脅す、と?」
「そうです」長瀬が表情を改めて答えた。「未確認の敵性体への全作戦権をこちらに譲渡頂けなければ、第三世界各国及び世界各国の報道機関のおよそ75%にそれらの資料を公開致します」
あまりに大胆なもの言いに一瞬むこうも言葉を失った。
「それこそ正気の沙汰ではない!」さすがに興奮が隠せず、語気が荒くなる。「君らもただではすまんぞ!」
長瀬が真剣な面持ちでじっと睨み返した。「覚悟の上です」
暫く会議室全体が騒然となった。
総長は周りと小声で話しあい、ややして長瀬に話しかけてきた。「結論を出すまでに48時間ほど欲しい」
「24時間です」制限時間を長瀬が指定する。「それ以上は待てません」
「わかった、24時間後に返答しよう」
「良いお返事をお待ちしております」長瀬がそう言うと、憎々しげな視線を残したまま通信が切れた。
長瀬がふう、と安堵の息を漏らした。ふと手を見ると汗がにじんでいる。
ハンカチで手を拭いていると、側で一部始終を見ていた冬月が呆れたように話しかけてきた。
「国連が今の取り引きに応じると思うかね?」
「いいえ」長瀬があっさりと否定する。「あんな脅しで屈してしまうようじゃ、それこそ国連ももうおしまいですわね」
冬月の表情が怪訝なものになる。「ではどうするつもりかね?」
「まあ見ていてください」冬月の表情を見て、長瀬がにやっと笑った。「手品のタネは大胆に行なうものですわ」

***

「カズミ、そっちの準備は終った?」
母の声が一番奥の部屋から聞こえる。
「うん。もう終った。でもミホがまだみたい」
大きな声でそう答える。彼女は8つ年がはなれた妹の準備を手伝おうとする。しかし姉妹共通の部屋には姿は見えなかった。
「ミホ、どこなの?」
呼びかけたが返事がない。しかし居場所に心あたりがあるのか、やがて一階へ降り、庭に出ようとした。そのとき、階段脇にある電話が突然鳴った。
彼女は足を止めて電話を取る。
「はい、もしもし、川津です」
『あ、あの、川津、カ、カズミさんのお宅でしょうか』
妙に緊張したような男の子の声が受話器から聞こえてくる。
「はい、カズミは私ですけど…」この声には聞き憶えがあった。「ひょっとして山本君?」
『なんだ、川津か』電話の声が安堵する。『緊張して損したわ』
「なんだ、とは何よ」少しむっとする。「ところで何の用?」
一瞬返答につまった様に間が空く。『いや、用って程のことはないけど…』
「なら切るけどいい?こっちも忙しいから」
『あ、いや、ちょっと待った』慌てて声が入る。『その…元気でな』
川津はため息をついた。
「何言ってるの?ほんの一週間、田舎に疎開するだけでしょ?」
『あ、まぁそうだけどな…』
あいかわらず落ち着かないような声だ。
でも確かにこの避難命令は奇妙だった。今から4日以内に全市民は第二東京市を退避すること、郷里などのあるものはそこへ、ないものは自費で宿泊か、あるいは政府の用意した簡易避難所へ移動すること。その旨を伝える通告があったのは3日前だ。
区間内で大まかに9つの組に分けられ、退去の時間を割り当てられる。公共の交通機関もそのために増発されていた。
学校などもすべて休みだ。喜ぶ子も多かったが、しかしやはりがてんがいかない。
不可解なのは、これほど大がかりな退去命令が出ているのに詳しい理由は何一つ公表されていないのだ。
ニュースや政府広報では、「未確認の巨大物体」がここ、第二東京市近辺に近付いているとしか言っていない。
とにかくニュースはこれらの話題でもちきりなのに、正確な情報はまったくと言っていいほど出ていない。一部のスポーツ新聞ではクーデターか、という冗談の様な憶測が書き立てられたが、もちろんほとんど本気にはされなかった。
本当にクーデターだったらこんな記事が書ける訳がないからだ。
子供の間では一部、怪獣が近付いてるという噂が流れてるが、いかんせん子供の噂話、こんな短期間では影響力のある噂にはなりそうになかった。
子供向け映画じゃあるまいし、ばかばかしい。そうは思いつつもやはり正体の見えないものに対する不安が人々の奥底にはある。
「ところで山本君、東君はあれから見てない?」
『ん、シンジか?いや、全然見てないけど』
少し不機嫌そうに少年は答える。
「そう…」もう4日も姿を見せない同級生の安否を気遣う。それは同級生というからだけではなかった。
『あ、も、もうそろそろ切るからな…』
電話器が告げる。
「うん、それじゃ…」
彼女は少年がどういう意図で電話をかけてきたのか全く理解できないまま受話器を置いた。
そして妹を探していたことを思い出す。
「ミホ、いる?」
サンダルに履きかえて庭に出ると、飼い犬の背をなでている妹の姿を見つけた。
「ミホ、早く準備しなさい」
年の離れた妹に優しく話しかける。
「ねぇ、チャコ連れてっちゃだめ?」
犬を抱き抱えて言う。
茶色の毛並だったからチャコ。犬なんて世話しなくなるから駄目という両親の反対を自分が世話するから、と押し切って妹が飼った犬だ。
両親とも子供の気まぐれ、飽きたらすぐに世話しなくなると思っていたが予想に反してミホはかいがいしく世話を続けた。だからこの犬を一番可愛がっているのも妹のミホだ。
「だから犬は連れてけないの。世話は隣のおばさんが疎開の直前まで見てくれるし、その後はちゃんと餌をたくさん置いておくようにするから、大丈夫」
「でも…」
なおもぐずる妹の手を引いて立たせる。「あんまりママやパパを困らせちゃ駄目でしょ?」
しゅんとして少女は愛犬を見た。
「ごめんね。ゴハン、たくさん置いてくからね」

***

首相官邸の執務室に電話の呼出音が鳴り響いた。ただの電話ではない。主要各国首脳と直接につながるホットラインだ。
「やあ、首相」
受話器を取ると米国大統領が話しかけてくる。自動の同時通訳の日本語と、英語が混じりあっている。
「これはこれは、わざわざなんの用でしょうか?」
「忙しい所申し訳ないのだがね。こちらも火急の用なので早速用件からいかせてもらう。これは他の常任理事国首脳とも話し合って、私が君に連絡することになった。私の一存ではなく、全常任理事国の総意と思って欲しい」
「何か、問題が?」
不安を隠し切れずに聞き返す。
「うむ、実は君の国の内務省の…」
ブチッ
いきなりそこで通信が途切れた。画面も真っ黒になった。慌てて総理は何度もスイッチを押す。しかし応答はない。
しばらくして別の電話が鳴った。
「もしもし、私だが」
『申し訳ありません』女の声が告げる。『只今ホットラインの通信施設が何者かのテロ活動により破壊されました』
「なっ…!」
返すべき言葉を失う。
『現在犯人のわりだし、及び復旧に全力を注いでますが、1日は普及できないと思われます」
女の声は淡々と続けた。
「待ちなさい!」
『では』総理の止める声を無視して、通話は途切れた。

「さてと…」受話器を置いて長瀬はつぶやいた。「こっちはこれでいいわ。こっちのトップに圧力をかけてくることなんてお見通しよ。でも脅し文句が届かなければ、脅すこともできないわね」
「まったく、とんでもないことをする女だな、君は」
冬月がぼそっと言う。
「まだまだこんなものでは済みませんわよ」
長瀬がほくそえんだ。
「一つ間違えば身の破滅、いや、十中八九そうなるだろう。あまり賢いとは言えないと思うがね」
「あら、そうですか?」長瀬は意外そうに聞き返す。「どうせこれがうまくいかなければ世界が滅びるんですもの。部の悪い賭ではないと思いますけど?」
「自分だけが世界を救えると言いたいようだね、君は」
しかし冬月の皮肉にも全く動じなかった。
「現時点ではそう考えざるを得ませんわ」両手の手の平を顔の前で合わせ、楽しそうに笑った。「さて、次はどう出てくるかしら?」

***

「待ちたまえ!これはクーデターじゃないのかね!?」
英国大使が大声で抗議する。 耳を塞ぎたくなるほどの大きな声だった。
いきなり出入口の全てが自衛官たちに塞がれてしまっていた。それを抗議しているのだ。
大使館に入ってきた自衛官の中から、士官と思われる人物が前へ進み出た。
姿勢を正し敬礼をする。
「君が責任者かね?事情を説明したまえ!」
「現在当第二東京市からの戒厳令及び避難命令が出ています。自分らは各国大使を護衛、こちらで用意した避難所へと移動して頂くよう命令を…」
「だからといって君らは我々の職務を妨げる権利はないはずだ!」
「現在は非常事態ですので…」
かたくなに態度を崩さない。
「非常事態なんてことはわかっている!だが我々は今から首相官邸に…」
「外出はお控え頂きます」
頑迷な自衛官の態度に大使はじっと睨みつけた。
「何があっても出さないつもりかね?」
「命令ですので」
入口で頑張り続ける自衛官に、ついに大使の方が折れた。背を向けて室内へと戻っていく。
「国際問題になるぞ、覚悟しておけ」
「御協力を感謝します」
大使に向かって敬礼をした。

***

首相官邸の前はあまたの人、人、人の群れで埋めつくされていた。多くは市民だが、かなりの数で報道陣も混じっている。中にはメガホンを手にした宣伝カーもあった。

TVレポーターが人混みの中でしきりにカメラに向かって喋っている。そんな様子をTVで見ながら冬月が長瀬に話しかけた。
「これも君の仕業かね?」
「まさか自国の首相を閉じ込める訳にはいきませんものね」くく、と笑う。「少しばかりマスコミに怪情報を流しただけですわ」
「これじゃ総理大臣も外に出るには一苦労だな」冬月はそう言ってため息をついた。
「やることがでたらめだな、この女は」トードが呆れ顔で言う。「これじゃクーデターじゃねえか」
「あら、人聞きの悪い」長瀬がさして怒らずに答えた。「少しの間、皆様の行動を制限させていただいてるだけですわ」
「しかし、これで国連が折れてくれるかな?」
「これだけじゃ難しいでしょうね」長瀬は素直に認める。「でも鞭ばかり与えてる訳ではありませんわよ」
「どんな飴を与えるつもりかね?」
「それは色々と」長瀬はデスクの上で手を組んだ。「使徒に関する全ての資料の引き渡しも含めてますけどね」
「本気かね?」冬月が意外そうに言う。
「まさか」長瀬が肩をすくめる。「でもかなりの部分は渡しますわ。現に既に一部、引き渡してます」
「行動が早いな」
「有難うございます」
そう言った時、急に電話が鳴り響いた。長瀬が受話器を取る。
しばらく電話の相手と話をした後、受話器を置いた。「国連が折れたようですわ」
冬月が怪訝そうな顔をする。「意外とあっさりと折れたな」
「まだ確定した訳ではありませんわ」そうはいいながらもなおも言葉を続ける。「米国が早々に折れたのが効いたのでしょうね」
冬月は長瀬の言葉にはっとした。
「何かやったのか?」
「現在日本に接近中の物体の正体の公表をする、と言っただけですわ」
長瀬はそう言って何らかの資料の束を手にとり、眼鏡を取り出してかけた。
「どうしてそれくらいで…」冬月の怪訝そうな表情が深いものになる。
「米国はエヴァンゲリオンの建造に着手しようとしてます」
一瞬冬月が言葉をつまらせた。「…本当かね?」
「秘密裏に予算が議会に承認され、現在建造施設の竣工に着手したようですわ」分厚い資料の束に目を走らせながら言う。
「今公にされると世論が恐いというわけかね」
「でしょうね」
「このぶんでは他の国にも脅しをかけたのだろう?」
「脅しなんて人聞きの悪い」長瀬は執務の手を止めた。「でもこの御時世、すねに傷持たぬ国なんてありませんわ」
「しかし」冬月がわずかに不安げな表情を見せる。「どうやってエヴァなしでエヴァを倒すのかね?現在世界中のどこにもエヴァンゲリオンは存在してないのだぞ?」
「ええ、現在起動及び制御可能なエヴァンゲリオンは、ね」
一瞬場の空気が張りつめた。
「それはいったいどういう…」
しかし長瀬は冬月の言葉を長瀬は手を挙げて遮った。
「まあそれは黙って御覧下さい」
長瀬は不敵としか言いようのない笑みを浮かべていた。

***

灯りの消された部屋の扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
暗い部屋の床と壁に光の影を投げ出す。
シンジはその音が聞こえないかのようにじっと壁を見つめていた。
「小僧、いいか?」
トードの声がする。しかしシンジはなおも黙ったままだった。
「小僧、一つ聞くが、お前は戦う気があるか?」
トードは問いかけた。しかし沈黙が返って来ただけだった。
トードは思わずため息をつくと、シンジの方に近寄っていった。
「まあいい。それを決めるのはお前だ。だがもしお前にその気がないんだったら…」そこで言葉を切り、シンジの耳元へ口を寄せ、つぶやいた。「ここから逃げろ」
シンジの体が一瞬びくっと震える。そしてトードを見上げた。
「どうする?」トードがシンジの返事を促した。
「乗れって…」シンジがやっと口を開いた。「エヴァに乗れって、言わないんですね…」
トードは深く息をした。「それはお前が決めろ」
「…僕にはわかりません…」
シンジはなおも視線を合わせようとしなかった。
「いいか?」トードはシンジの頭を両手で挟み、ぐい、と持ち上げた。「逃げたいのなら逃げても構わん、戦ってでも得たいものがあるのなら残れ。だがそれを決めるのはお前だ。俺でも、長瀬でもない、お前が決めるんだ」
トードの口調はあくまで静かだったが、どこかトードの怒りを感じずにはいられなかった。
トードの息が顔にかかる。呼吸が心持ち荒くなっていた。
「僕にはわからないんです…」そう言ってシンジがぎゅっと目をつぶる。
トードはシンジから手を離すと出口に歩いていった。
「もし逃げたければいつでも逃げろ。後のことは俺がなんとかする」
トードは部屋を出ていく際、振り向かずに言った。
シンジは再び暗い部屋の中に取り残された。

トードが部屋を出て、廊下の角を曲がると長瀬と出くわした。しかし偶然にではない。長瀬は壁にもたれかかり、明らかにトードを待っていたふうだ。
「ちゃんと部屋の鍵は閉めた?」
長瀬がそのまま通り過ぎようとするトードに言った。トードがぴたっと立ち止まる。
「何のことを言ってるんだ?」トードは丸いレンズの色つき眼鏡をポケットから取り出してかけると長瀬の方を向いた。
「入れ込むのは勝手だけどね…」トードの顔を正面から見すえる。「でも思い入れで動かれるのはこっちにとっても迷惑なの」
「人に戦いを強制するのは思い入れでないとでも?」
「逃げ出してばかりいる者が利用される側になったからといって、文句を言えた義理じゃないでしょう?」
トードがじっと長瀬を睨みつける。
「勝手な言い分だな。戦いたい者が戦う、どうしてそれじゃいけない?」
「そういう訳にはいかないのは判ってるでしょう?割り切りなさい。味方を殺した男とは思えないわよ」
トードの体が硬直する。「どうして知ってる!?」
「私たちが何もあなたのことを調べてないとでも?5年前のベトナムの傭兵部隊の惨劇は有名だけど、あなたも当事者の一人だとは、正直驚いたわ」
トードは何も答えない。
「5年前、ベトナムの政府側の傭兵部隊がゲリラ側の奇襲にあい、孤立無縁の状態になった。政府側は救援を行なわないことに決まり、負傷者を抱えたまま撤退。だけど途中で弾薬、食糧、医薬品の尽きかけた部隊は一つの決断を決定…」
トードはただ長瀬を睨みつけていた。
「約半数にのぼる全負傷者を見捨てて、半数のみで撤退を続行。残りの負傷者は弾丸の節約のため自決さえも許されず、味方に殺された、と、いうことだそうね。あなたが今、ここにいるということはつまりあなたは少なくとも殺される側ではなかったということ。そのうえ他にも…」
「もういい!」トードが声を挙げて遮った。「もう止めてくれ!」
「別に責めようってんじゃないわ」長瀬が言う。「でもプロなら割り切りなさい、でないと死ぬことになるわ。それはわかってるでしょう?」
トードはクッとのどをつまらせた。
「今回のシンジ君との接触の件については不問にふします」
「ありがたくって涙が出るね」トードは毒づいた。
「それはともかくついて来なさい」
命令口調で長瀬が言った。
「小僧の方はどうする?」
「それは暫く他の者に任せるわ。今から大切な話し合いがあるの」

***

「国連は只今より謎の敵性体迎撃に対する全権を日本政府に委任することに決定した」国連事務総長は委任状を示し敗北宣言を淡々と行なった。「但し今から48時間の間だ」
長瀬はモニターの画面に向かって敬礼した。「御協力感謝致します」
「これで国連軍は全て君の指揮下に入った。満足かね?」国連総長が厭味を言ったが、長瀬はそれには答えなかった。
「それとこちら側の提出した対仮称使徒迎撃プランの採否は?」
「取り敢えずOKだ、しかし気違い沙汰としか思えないがね」
「しかし通常攻撃の連続で倒せる相手とも思えませんが?」
「その通りだ」総長も長瀬の言葉に反論しようとはしなかった。「しかしこのロンギヌスの槍による使徒迎撃作戦、実行可能か非常に疑念が残るところが多い。例えば当のロンギヌスの槍の輸送だが、どうやって運ぶ?海路では間に合わんぞ?」
「現在旧ネルフのエヴァンゲリオン輸送用巨人機を三機、そちらに向かわせています。槍をこう、A機、B機とC機の三機につないで離陸すれば…」長瀬はモニター上に巨人機による槍輸送の摸式図を示す。二機の巨人機を結ぶ形でワイヤーが渡され、そこの真中に槍がぶら下げられている。一機のみ長いワイヤーで槍につなれている。「離陸時の推力は十分得られるはずです。巡行時にはA、C機のワイヤーを外し、B機一機のみの推力で計算上は十分です」
「計算上は、ね…」総長が繰り返した。「まるで曲芸だな」
「その曲芸も、こちらに徴収されている旧ネルフスタッフの技術があれば、可能ですわ」
「しかし肝心の槍はどうやって使うのかね?こんなものをどうやって使用する?君がその細腕で投げつけるかね?」
モニターの画面の枠の外から、忍び笑いが聞こえてくる。長瀬は気にせず続けた。
「いいえ。勿論人力で投げられるものではありませんわ」
「ではどうやって?旧ネルフ所有のエヴァンゲリオンは全機解体、それは国連の査察によっても確認されている。そういえば日本では昔ジェットアローンという無人の人型兵器の開発を行なってたそうだが…」
「ジェットアローンは開発中に起動事故を起こし、全計画は凍結、実験機も破棄されています」自分が責任者だったころではないとは言え、過去の内務省の失敗をあげつらわれて長瀬はやや機嫌を悪くしたがそれは面に出さなかった。「もっとも計画がとんざしていなくても、機動性能、格闘性能など全てにおいてエヴァンゲリオンにはかないませんでしたけど」
「君らの過去の失敗の反省など聞いてはいない。どうするのかを聞いているのだがね」
総長に促され、長瀬は咳ばらいをして続けた。
「巨人機による槍の投下です」
背後のモニター上に巨人機によるエヴァンゲリオンに対する槍の投下の摸式図が示された。
「まさか敵が黙って槍に当たってくれると?」
「黙って続きをお聞きください」長瀬が相手の言葉を遮った。「国連軍の方々はこれが国の軍隊同士の戦争と勘違いなされてるようですが、相手は言うまでもなく通常兵器の一切聞かない存在です。目下判っている有効な攻撃手段はエヴァンゲリオン、もしくは槍によるATフィールドを無効化しての攻撃のみです。これは戦争よりも害鳥獣の駆除に近いとお考え頂きたい」
「あれが獣かね?」
「そうです。目標の目的、意図は一切不明ですが、現在日本に向かってほぼ直進し、その前進を阻むものは実力で排除しています。攻撃力こそ未知数ですが、その行動パターンは至って単純です」
「で?どうするのかね?」
「罠を張ります」モニターの画面が日本の関東から東海にかけての地図に変わった。「現在の予想進路では敵は駿河湾沿岸のこの地点に上陸すると思われます」長瀬が示す場所にマークがついた。「この場所にN2地雷を敷設し、敵性体の活動を一時的に停止させます」
「しかしN2兵器ではATフィールドを無効化できんぞ?」
「それも判っています。しかし過去の記録では、第三使徒サキエルならびに第七使徒イスラフェルに対するN2兵器の攻撃によりかなりの長時間の活動停止が確認されています。つまり、不意うちに対してはATフィールドは完全には攻撃を防げないと思われます」
一同は黙って聞きいっていた。もはや厭味を言うものもいない。
「現在松代に移設されているマギがあれば槍の投下の軌道、タイミングは計算できます。槍の投下には、3000mの上空からでも1分程あれば十分です」
暫くの沈黙を破り、総長が口を開いた。
「しかし、失敗したら…?」
「その時は終りなだけですわ」
長瀬は妙に涼しげな目つきで、そうとだけ答えた。

***

「全くむちゃな作戦を立てるな、君は…」
作戦指揮車の中で冬月がつぶやいた。
「あら。自分では葛城ミサト作戦部長程ではないと思ってましたが…」
長瀬が冗談混じりに答える。そんな長瀬をじっと見つめて、冬月は口を開いた。
「気のせいかもしれんが、どうも君はこの状況を楽しんでる様に見えるのだが…」
「そうですか?」長瀬は少し意外そうに答える。しかし気分を悪くはしていない。
「ところで俺がこんなところにいるのは場違いじゃないのかい?」トードが長瀬に言った。「俺がいたところで何の役にも立たないぜ?」
「今、役立たずなんてことは判り切ってるわ。別に何かしろ、というわけじゃないわ。でももし気になることがあったら言って頂戴。今回は戦争というよりは狩りに近いわ。あなたの実戦での肌で感じた感覚が役に立つかもしれないわ」
「そうは思わんがね」トードはそうつぶやいたきり壁にもたれた。「ところで椅子ぐらいはないのかい?」
「悪いけど、指揮車の中は狭くてね。オペレーター以外の人間が座る程広いスペースはないの。我慢して頂戴」
長瀬の冷たい一言に、トードはただ肩をすくめただけだった。事実作戦指揮車内はあわただしい雰囲気に包まれていた。オペレーターたちはあるものは計器をいじり、またあるものは国連軍への指示を出している。車内を駆け足で移動するものもいた。長瀬は彼が通るたび邪魔っけな体を壁際によせて通路を空けてやらなければいけなかった。
メインオペレーター3人の内、2人は旧来のネルフのオペレーターの日向マコトと青葉シゲルだったが、技術オペレーターの青葉マヤ旧姓伊吹マヤは現在妊娠中ということもありこの作戦には参加していなかった。それでもこの作戦ではエヴァンゲリオンを投入していないので、不慣れな他のオペレーターを当てても十分問題はない様だった。
時々青葉シゲルが複雑な感情の入り混じった目で長瀬を盗み見ていたが、それも作戦行動には何ら関係なかった。
「国連軍はどうなっている?」冬月がオペレーターに尋ねた。
長瀬が直接指揮しないのは、青葉を始め旧ネルフのメンバーの感情を考えてのことだった。
「現在第十三艦隊が所定の迎撃位置への配置が終った様です」
青葉がつとめて冷静を保って現状の報告をした。
「ロンギヌスの槍は?」
「それも現在こちらに向かっています」日向が答える。「B機はそのまま上空で旋回運動をしながら待機、A機、C機は既に帰投しています」
「N2地雷は既にセット完了しました」
別のオペレーターが告げた。
「では敵性体は?」
「そちらも間もなく無人探査機の視野に入ります」
そう言って本当に間もなく、正面のモニターに海面が映し出された。海面には何か巨大な影が映っている。
「計算より少し早いな…」
冬月が言う。
「それでも予測の範囲内ですわ」長瀬がそう言った。「では現時点より、使徒と推測される敵性体、迎撃作戦を行ないます。現時点以降、当作戦は「GOLGOTHA」と呼称します」
「"GOLGOTHA"ね…」トードがぽつりとつぶやいた。「高く十字架に掲げられるのはどっちになるのかな…」

***

”第十三艦隊は遠距離攻撃で敵を誘導”
魚雷が次々に投下される。戦艦も主砲、副砲を問わずにうなりをあげていた。射程距離ぎりぎりの距離をとりながら、ほぼ海中の敵と並行して航行している。時々敵は艦に向かって方向を変えようとするが、すぐさま艦は攻撃を止め、全速力で離脱する。この繰り返しだった。
主力は旗艦のペンドラゴンと同クラスのランスロ、それを中心として艦隊を構成していた。
実際少しでも敵にダメージを与えられるわけではないのだが、上陸位置までの誘導と、あと敵の警戒心を艦隊に集めておくという意味があった。
だからぎりぎりまで攻撃を続けなければならない。
”敵性体の現在の状況は?”
「現在予定通りポイントBを通過」
旗艦のペンドラゴンからそう通信を発したとたん、海面にひときわ大きな水柱が立った。
「どうした!?」艦長が状況をすぐさま確認しようとする。
「巡洋艦、ガレス・ザ・ボーメン大破!」
離脱の遅れた巡洋艦が一隻、エヴァによって沈められたのだ。
「現在近くですぐ手の回る艦は何がある!?」
「グリフレットがあります!」
「では敵の離脱を確認後、すぐさま要救助者の救援にむかわせろ!」
副艦長が返事をし、通信士に命令を走らせる。
どうしようもなく嫌な予感を艦長は感じていた。

***

「碇シンジ君」部屋の中に内務省のエージェントが入って来た。「今から三時間後に第二東京市に下った市民への退去命令に従い、こちらが用意した避難場所へ移動する。いいかね?」
シンジはエージェントの方を向いた。
「身の回りの品はこちらで準備する。心の準備だけしておくように」
「あの…」用件だけ告げて立ち去ろうとするエージェントをシンジが呼び止める。「避難って、どこへ行くんですか?」
「残念だがそれは言えない」返事は冷たかった。「私にはそれを口にする権限はない」
シンジは少し落胆した。そんなわけはないと思いつつ、なんらかの答が貰えるとわずかに期待していたのだ。
エージェントが出ていった後、シンジは部屋に備え付けられている洗面台に向かった。
顔を洗おうとして鏡を覗く。
「ひどい顔…」
事実ひどい顔だ。頬もややこけている。ここ数日、シャワーもあびてないしまともに食事もとっていない。睡眠すらも椅子の上でうつらうつらとした程度だ。
シンジは顔を洗い、かけられていたタオルで簡単に体を拭くと、扉の方へ歩いていった。
ドアに手をかけるが開かない。鍵がかけられていた。
休養のためということでこの個室に入れられてるが、事実上監禁である。
さっきのエージェントの対応もそうだ。自分の職務のみをこなし、それ以外ははみだそうとしていない。エヴァパイロットとしてのシンジのみが必要とされている。でもそうでない人々もいた。学校のみんな、トード、榊ユリ、そしてアスカ。それらの人々の中にいることを望みながら、それらを失うことを常に恐れていた。そして今、誰もいない。
学校のみんなにはまた会えるかわからない。会っても、エヴァパイロットとしての自分が彼らの知ってる自分と変わらないか不安だった。彼らの知ってるシンジは東シンジであって碇シンジではないのだ。名前、身元、それ以外に誤魔化しているものはなかったが、それでも彼らと接していてそれが本当の自分ではないような気がしていた。
トード。最後に会った時、逃げたければ逃げろと言った。
自分で決めろ。3年前加持リョウジにも言われた言葉だ。しかしどうしたらいいのかわからない。大事なものは、大事だと思っていたものは全て消えてしまった。まだ頭ごなしに命令された方が楽だった。自分で決める>?どうやって?自分にとって大事なものもないのに。
榊ユリ、彼女は綾波レイではないのだろうか?その疑問はいよいよ現実味を帯びてきた。しかし真相はわからない。では彼女とあった時どういうふうに接したらいいのだろう?榊ユリとして?綾波レイとして?それともかつて水槽に浮いていた得体のしれないものとして?
今、会えないことにどこかほっとしていた。そしてそんな自分を情けない、と思っていた。
アスカ。彼女は消えてしまった。この3年、彼女が彼のレゾンデートルだった。彼女を守りたい。そう思ったのは嘘ではない。しかしそれは自分の過去に、固執していたのにすぎないのではないか?嘘をついている後ろめたさもも、逃げ続けてることも全て彼女を守る為、と正当化していたのではいか?
しかしもはや彼女はいない。どこにも、だ。
シンジを守り続けてた壁は全て崩れ去った。そしてただおびえ続けていた。
いや、本当におびえていたのだろうか?実はただそんなポーズをとっていただけではないのだろうか?恐怖した犬の様に、より強い恐怖の対象に自分が無力だと示し、身の安全をはかろうとしてたのか、それとも自分がかよわい存在であることを示し、より強い何かの庇護を求めていたのか。
自分でも何なのか良く判らなかった。しかしこの数日間、救いの手はさし述べられなかった。いつしか恐怖する自分を冷めた目で見ている自分がいるのに気がついた。次第に本当におびえてるのか、おびえてる振りをしてるだけなのかよくわからなくなってきていた。
自分はどこかおかしくなったのだろうか…?
そう思えるほど今は妙に落ち着いていた。何の解決もみつかっていない。しかし諦観にも似た落ち着きがどこかにあった。
気がつくと数日の疲労が襲って来た。シンジはこの日、久しぶりにぐっすりと眠った。

***

「ちょっとお客さん、これ以上は駄目だわ」
検問のすぐ手前の林の影に止まったタクシーの運転手が後ろの客席に言った。
「そうか、すまんね」後ろの中年太り、というか老年太りの男が返事をし、運転手に札を一枚渡す。「釣りはいいから」
「お客さんももの好きだね。わざわざ戒厳令の出てる市内に戻ろうってんだから」
料金を受けとって運転手がそう言う。
「一度人気のまるっきりない街ってのを見ておきたくてね」適当に返事をした。
男は車内から出るともう一人の乗客を促して下ろした。
黒い肌と対象的に真っ白い髪、赤い瞳。
タクシーが去っていった後で二人は検問を抜けるため林の中に入っていった。
「しかしなんだって今、市内に戻ろうなんて言い出したんだね?」
中年の男。大滝が言った。
「今だからだ」もう一人の男、シンハが答えた。「私の求めている『彼』に会えるのだ…」
大滝は首を肩をすくめ、諦めた、というポーズをとった。フィールドワークで多くの魔術師と会った。もちろん色々な魔術師がいる。自分のやっていることは効能よりもむしろ心理的なものを与えるためだとわりと割り切ってるもの、本当に神がかりとしか思えない預言を行なうもの。色々いるが、共通するのは「一度言い出したらテコでも引かない」ということだ。
この男は魔術師ではない、と言ってるが似たようなものだと大滝の中ではカテゴリー分けしていた。だから言い出したらやはり他人の制止など聞かない。
とにかく気の済むようにさせるさ…
大滝は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

***

もはや船舶の航行できる限界だった。第十三艦隊は船体を陸に向けての斉射に切替えていた。
海中から巨大な頭が姿を見せる。外装の塗装はほとんど禿げている。欄々と輝く両眼に加え、額に大きな光学レンズがあった。しかし大きな亀裂が走っており、機能してないことがわかる。大きな牙の様な顎が波間に見えかくれしていた。
艦載機が海面から頭をもたげた巨影に向かってミサイルを発射した。目標にロックオンされたそれは海面すれすれに巨人に向かっていく。しかしそれを受け止めるように巨人は手を挙げると、ミサイルはその手の中で爆発した。しかし次々に同様にミサイルが発射されていく。巨人は受け切れずに何発かを直接、頭に受けた。しかしまるで効いた様子はない。
「やはり駄目か」双眼鏡で旗艦のブリッジから覗いていた艦長がそうつぶやいた。「3年前と同じだな…」
彼は副艦長として使徒と会戦を交えた当時のことを思い出していた。しかしそこから得るものは、使徒に触れるな、という一点しかなかった。
「全艦撤退準備!」
艦長の決断の叫びがブリッジに響いた。

「撤退ですって!?予定より早いわよ!」
長瀬が指揮車でそう叫ぶ。
「しかしこれ以上の誘導は無用なうえ、我が艦隊にも尋常ならざる被害が出ている」雑音混じりの通信で艦長の声が聞こえてきた。「しかもN2地雷による衝撃も考慮せねばいけない。これ以上ここに留まると我が艦隊への被害は甚大なものになる…」
「計算では十分N2爆弾の範囲外への離脱は可能よ!」
「しかしN2地雷によりおこる高波まで正確には計算できまい?むしろ恐いのはそっちだ」
長瀬はヘッドセットを手に握り締め、ぐっと言葉に詰まった。
「やばいな…」モニターで戦闘の様子を眺めてたトードがつぶやいた。「奴め、船の方を見やがった」
「奴とはエヴァのことかね?」冬月がトードのつぶやきを耳にして不思議そうに尋ねる。「どうしてエヴァが艦隊の方を見てはいけないのかね?」
「ほら、見ろよ」トードはモニターを示した。「艦隊の撤退が始まったと思ったら、少しもたついただろ?奴はそれを不審がるみたいに見たんだ」
「警戒心を抱いたかもしれない、ということか?」
「抱いてないかもしれないがな…」トードは額の汗を拭った。この中はやはり暑い。冷房など殆んど効いていない。「撤退するならさっさとすべきだったな」
「いずれにしても作戦は続行するしかないな」
「わかったわ。では足の遅い順に撤退させて頂戴」長瀬がそう言って通信を切った。「なまじ戦闘経験者だけに奴への恐怖がわずかに先走ったみたいね…」
「そりゃ恐くないって方が不自然だろう?」トードが長瀬に言う。
「臆病は破滅の元よ。特に今はね」長瀬は答えた。「ところでさっきのあなたの話、どういうこと?」
トードは眉をひそめた。「話って?」
「やばいとかなんとかって話よ」
トードは内心長瀬の地獄耳に舌を巻きながら冬月にしたのと同じ説明をした。
長瀬はトードの話を聞き終ると、「そう」と言って考え込むよう腕を組んでにモニターを見つめた。やがて腕組みを解くと、日向マコトに向かって言った。「現在巨人機は?」
「予定通り3000M上空で投下の準備に入ってますが?」
「では何時でも連絡できるよう通信網は開いておいて」日向にそう言って、さらに技術オペレーターに向かった。「マギの演算結果はどう?」
「現在予想命中率は65%、順当にいけばほぼ100%まで上がりますが…」
「そう、では無人機にできるだけ多くの角度から敵性体のモニターを続けさせて頂戴。一刻たりとも目を離さないようにね」
長瀬の命令を不審がりながらも、オペレーターは他のオペレーターたちにその指令を伝えていく。
「ミスター」長瀬はトードに向かって言った。「もし、またなにか不審だと思える点があったら言って頂戴」
トードはただ、あぁ、とだけ答えた。しかし視線は食い入るようにモニターを見ていた。
既に巨体は半ば以上海中から姿を見せている。
「何もおこらなければいいがな…」冬月がそうつぶやいた。
エヴァが岸にむかって進む間、かたずをのんで見守る、そんなじりじりした時間が過ぎていった。エヴァンゲリオンがほぼ巨体の全てを海中から現した時、誰からともなくどよめきがおこった。かつて自分たちを守っていた守護神を今反対に迎撃する立場にいる、ここのオペレーターたちはどんな思いで見ているのだろうか?トードはそんなこともちらと考えたが、すぐに頭の隅においやられてしまった。
もはや艦影はどこにも見えない。撤退は完全に完了した。
巨人の足が一歩、また一歩と波うち際へと歩いていく。そしてもう一歩で完全に陸に上がると言う時、N2地雷が起動するという時…巨体が一瞬、ほんの一瞬止まった。そしてトードはその瞬間、悪魔の顔にも似たその巨人が笑ったような気がした…
実際そんなわけはない。あの鉄のマスクは笑うようには出来てないのだ。そんな気がした、それだけのことなのだが…
しかしあの笑いを見た瞬間の恐怖、それは以前始めてあのバケモノと、アダムと呼ばれるあれと遭遇した時感じたものと同じだった。あの時は恐怖のまま逃げた。だから助かった。だとすれば…
「やばいぞ!奴は気付いてる!!」トードがそう叫んだのは今まさに最後の一歩が踏み出されんとする瞬間だった。理屈も何もなかった。ただの直感だが、しかし確信があった。
「投下を中止して!」
長瀬がそう叫んだのは、モニターに閃光が走った時だった。
遠く離れた海岸から、衝撃波が指揮車を襲い、車体をゆすった。

***

「シンジ君準備はいいかね?」
シンジは話しかけられうなずいた。目が醒めたら消えたと思っていた不安は再び甦っていた。しかし前ほど取り乱してはいない。どうしたらいいかは判らないが、ただおびえてるだけよりはましなはずだ。シンジはそう思った。

そしてほぼ同時刻、第二東京市のはるか南の空が一瞬輝いた時、内務省に奇妙な訪問者が訪れていた。
「どうする?」
受け付けに立った内務省の役人は困って隣の男に言った。話しかけられたエージェントが代わりにその訪問者に話しかけた。
「残念ながら長瀬情報部長は現在特殊任務行動中につきあなたにはお会いできません」
「そう、なら待たせて頂きます」
彼女ははっきりとそう答えた。
「待たれても無駄ですよ。第一現在は避難命令及び戒厳令下のはずです。どうやってここまで来たのですか?」
彼女はそれには答えなかった。
「それより彼女の特殊任務、エヴァンゲリオンの迎撃でしょう?」一般人の知り得ない事実をはっきりと口に出され、エージェントは明らかに戸惑っていた。「早く長瀬さんと連絡を取るように。それと私の名前も忘れずにつたえなさい」
命令口調でその場違いな白衣の女性は言う。脱色したと思われる金髪−何故なら眉は黒のままだったからだ−をいじりながら彼女は誰に言うともなくつぶやいた。「あれがそう簡単に止められると思ってるのかしら…?」 彼女の落ち着いた雰囲気にそぐない胸元の猫のアクセサリが輝いていた。「彼らは還ろうとしてるのよ、母なるアダムに」

***

chapter 10:When You Return
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