Backlit By the Moon
;or A Fairy Tail never told
第一章:鴉 the Raven
第三話:烏の魔術師(1)
ティムはあの黒づくめの男を知っていた。自分は知っているという強い確信だけがただ昇ってきた。既視感などとは比べ物にならない支配力を持った確信だった。
しかしその確信には何故か裏付けとなる記憶を伴っていなかった。
目の前の男は一度バイクのエンジンをふかすと、そのまま一気に騎士めがけ加速していった。騎士の一人も向かってくる男目掛け馬を走らせ出す。一騎駆けだった。
ティムの記憶は明らかに混乱していた。その混乱は判断力と精神状況にも影響を及ぼす。ティムは何故かこの二人の激突に見入っていた。
およそ現実的でない光景、そして状況。しかしティムが考えていたのはそんなことではなく、何としてでも自分の記憶を塞ぐ何かを取り除かなくてはならないという、およそ非実際的な強迫観念だった。
騎士が左手で手綱を掴んだまま、右手に持った馬上槍を振り上げる。二騎がぶつかり合う瞬間、騎士の馬上槍が振り下ろされた。
黒い男は躱そうと身をねじらせながら身体全体で彼の鉄の馬をねじ伏せ、操ろうとしたがスピードを持ったままの車体は自らの身体を乗り手ごと地面にもんどり打とうとする。後輪が浮き、スライディングするような奇妙な姿勢で車体は地面に横殴りに倒れかける。
しかし騎士の穂先は容赦しなかった。倒れる車体の軌跡を追いながら錐形の先端近くで男の頭を捕らえ、弾き飛ばすように振り切る。
男の頭はポロのボールの様に一瞬跳ね上げられるが、すぐに倒れる車体に引っ張られ、その勢いで地面に激しく擦り付けられながら打ちつけられる。
男の頭から鮮血が弾け跳んだ。そして同時に、烏のけたたましい叫び声が聞こえた。
ティムは目の前の光景に息を飲み、そして我に返った。悲鳴を上げようにも声が出ない。身体は動かず、震える事さえ忘れていた。先ほどまで二人に視線を注がせていた奇妙な脅迫感は既に驚愕に身を潜めてしまっていた。そして立ち上るのは恐怖、何が恐怖の対象化すらよくわからない、純粋な恐怖感だった。やっと身体が震え出す。
逃げなくては。
ようやく当然の思考が上りかけてきたその時、高速で滑りながら地面に頭を打ちつけて弾け飛ばしていたはずの男の両腕が動く。車体ごと横倒しにスピンしたまま、右手に厳ついハンドガンを握っていた。
三度鋭い爆裂音がし、瞬間ティムの逃走への思考を奪った。その爆裂音が銃の発砲音と気付くのは数秒もかからなかった。しかしその間に男は片足をぐっと地面に蹴り出し、車体を力づくで止める。黒いブーツから摩擦で焼けこげる匂いが立ち上った。
車体が制止すると、男は大股でバイクと地面に跨る形の姿勢のままで騎士を睨み付けた。騎士も自分が獲物をしとめられなかった事に気付き、馬を無理矢理止め馬首を向き直らせようとする。しかしそれはあまりに悠長な動作だった。男は何時の間にか両手に銃を握り、二つの銃口を騎士の方に向けていた。しかし男は撃たない。まるで騎士に振り向く猶予を与えてやってるように沈黙した。
一騎駆けの騎士は馬の方向を切り替えし、再び男目掛け馬を駆る。
まず一発、男の右の銃が轟音を上げた。そして左。左右の銃口が切れ目なく火を噴きつづけた。
馬の頭がはじけ、馬体が跳ね上がる。馬上の騎士も鞍から振り落とされるが、その時既に騎士の身体は力無く馬上から転げ落ちているのに、ティムは気付いていた。無数の弾丸のうちのどれか、あるいは幾つかが既に騎士の命を奪っているといういかにもありうる理性の帰結を、ティムの感情は拒否していた。
騎士の身体が重い鉄の音を立てながら地面に落ちる中で、男がけたたましい笑い声を上げていた。その笑い声は烏の声に何故か似ている気がした。
「ぶち殺してやる!」
明らかに高揚した声で、恍惚とした表情の男が叫んだ。
「貴様ら皆殺しだ!!」
残り二騎の騎士達の躊躇を感じ取ったかのように、彼等の騎馬が不安そうに頭を左右に振る。鞍越しに馬の脅えを感じ取った騎士は手綱を引き絞ると槍を構え、男を待ちうけた。
動く事すらためらわれる瞬間。ティムもその沈黙に絡み取られたように動けなくなった。
だがそれを破ったのは黒い男の方だった。
たん、と軽く地面を蹴る。
たたたん。再び続けて地面を蹴る。
男は騎士に向かって走り出していた。軽やかなステップをすら感じさせる足取りで。
ひゅん、と何かがそのリズムを崩すかのように音を立てる。男が軽く上体を崩した。肩の付け根に短い矢が突き刺さっていた。
男の足取りが止まり、刺さった矢をみつめてから今度はその矢が飛んできた方向を見た。
もう一人の騎士が、手に持った弩弓に二の矢を番えようとしているのが見えた。
男の口の両端がゆっくりと釣り上がる。笑っていた。
ク、クククク…
最初押し殺すようだった笑いは次第に高いものになっていく。
ク、クハ、ハハハハハハ…
突然男が再び駆け出した。笑いながら、今度は全速力で。男の姿が黒い矢になる。
後ろの騎士は慌てて狙いを定めひきがねを引き絞る。ほぼ同時に男の銃も火を噴いた。くごもった様な衝撃音と共に騎士が手に持つ弩弓がばらけながら叩き落とされる。
しかし放たれた矢も、男の眉間に突き刺さった。男の足が再び止まる。
男は矢の衝撃で、身体を数瞬の間上体を大きく引き絞った弓のように後方に反らしていたが、勢い良く上体を跳ね上げると、その反動で大きく前へ跳び出していた。
それはどうみても不自然な跳躍力だった。明らかに5mは離れてる騎士の元へ、立ち姿勢のまま踏み出して届こうとしている。その動きは重力に逆らうかのように不自然だった。
槍を構えた騎士が反応する。滞空中の男を槍が襲った。重い金属の固まりが男の腹に叩き付けられたと思ったその時、男の体が崩れた。崩れて、ほどけ、ばらばらに飛び散った。
その破片は当の騎士の顔にもぶつかる。騎士は振り払おうとして、手にぶつかったときにそれが何かを悟った。烏だった。
男の体が無数の烏になって飛び去っていた。
騎士は明らかに取るべき対応を見失っていた。当然だろう。目の前で、敵がばらばらになって消え去ったのだ!
しかし、その戸惑いはすぐに無用のものになった。
後ろで短い悲鳴が響く。
振り向いた先には馬上で首を後ろから締め上げられる仲間の姿が有った。額に短い矢が突き刺さったまま、黒い男が笑っている。唯一むき出しになった白い顔の、額に突き刺さった矢が奇妙に目だって見えた。
男は額から矢を引き抜いた。再びどこかで烏の鳴き声がする。男は手の中で矢をへし折ると、銃を引き抜いて鎧の首筋の隙間に銃口を押し当てると正確に五回、連続で引き金を引いた。隙間から血が飛び出、薄ら笑いを浮かべた男の顔と、ゴーグルを濡らす。
なんだ、こいつらは…
一人蚊帳の外のティムは思った。黒い男の腕の中で息絶える鎧の男。最初に撃たれた男は、馬から落ちながらもかろうじて息はあるようだったがそれも虫のそれだった。
唯一残された騎士は、剣に手を伸ばしながら凍り付いている。
目の前にはただ闇が広がっていた。
ティムがすがれるものは、何も、ない。
そのティムに答えるように、目の前の闇に第三の存在が現れた。小さな、子供の姿をしたもの。しかし、それはティムが求めるものではないことは分かっていた。何故か子供の姿をしたそれが、見た目そのままのものでないこともわかっていた。
分かっているのは子供に見える何かが目の前にあるということだけ。何の感情も思考も浮かんでこなかった。
永遠とも思われた光景が再び動き出す。まず動いたのは子供の口元だった。
「ようこそ、闇の世界のゲームへ」
その顔には、黒い男と同じ表情があった。
「そしてようこそ、気違い沙汰の世界へ」
続
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