Backlit By the Moon
;or A Fairy Tail never told

第一章:鴉 the Raven
  第三話:烏の魔術師(2)

 どうしてこんなことになったんだろう? 考えてみるが答えは見つからない。これは悪い夢で目が覚めれば一切忘れているのではないか? ほのかにそんな期待を抱く。そう、今朝のように。

「俺は誰だ?」

 二度影の中から現れたあいつはそう言った。知る訳がなかった。
「そうだ、お前は俺を知らない。知らないから思い出す事もできない…」
 確かに知らないものを思い出せるわけがなかった。
「お前は俺の事を思い出せない。眠りについて、起きたら俺の事はすべて忘れる。何故ならお前は俺の事を知らないからだ。知らないということは存在しないということだ。存在しないものは知覚できない。影響を受けることもない。だから記憶に残ることも…」
 目の前に仮面のように白い、黒づくめの男の男の顔が浮かぶ。頭の中で男の言葉が渦を巻いて繰り返されていた。そして目が覚める。それが今朝あった事の全て。

 記憶は確実な記録(レコード)ではない。記憶は頭の中に残る過去の事実の残滓。少なくともそれはバラバラになった不完全な部品(ピース)にしか過ぎないし、ともすればそれすら簡単に捻じ曲げられる。
 しかしそうであろうとも消えることは決してないし、消し去ることも出来ない。出来るのはただ忘れ去ることだけだ。
 だからティムは思い出した。
 思い出せた。

「お前は俺を知らない」

 血まみれの、さっきよりよりはっきりと浮かぶ男の顔。黒い服を着ているということがわかる。

「お前は俺を思い出せない」

 黒い服はコートだった。足首まで隠れる長い黒いコート。

「俺は存在しない」

 黒いコートについた飾り鎖の鈍く軽い金属質の音に、烏の鳴き声がする。
 そして黒い手−黒い革の手袋に包まれた手が伸びてくる。それは恐怖であり、恐怖は実在の証拠であった。どこかで烏の鳴き声がする。
 と、同時にティムはガバッとベッドから跳ね起きた。息を荒くし、回りを見渡す。机に本棚、やや雑多な部屋、紛れもない自分の部屋だった。そして奇妙なことに気がついた。
 何故か靴も脱がずにベッドに入っている。だが、記憶はあった。今朝、何があったか、誰と会ったかを憶えていた。そのことは前と違っていた。
 そう、会ったのはあの男…今夜会ったあの、黒い男…騎士に追われていた。そしてティムの目の前でその騎士を撃ち殺した。今夜と同じように。
 今夜? ティムはそこで始めて違和感を憶えた。窓から外を見る。夏至近くの早い朝、初夏ではあるが肌寒い空気…「おかしい」はじめて思った。何故今夜の事を「憶えている」? しかもこの「今朝」は「今夜」憶えてた「今朝」と違う…ティムはあの男の事など憶えてないはずだった。実は今は翌日なのか? ただ単なるデジャヴでしかないのか?
 否、それははっきりわかっていた。自分以外は、全て記憶にある通りだった。
 もし、本当に記憶にある通りなら、もうすぐ母親が呼ぶ声がする…

 果たして、階下から母親がティムを呼ぶ声がした。ミルドレッドの声もする。たわいのない会話が聞こえる…それは記憶にある通りだった。
 狂わされた時間感覚が、嘔吐感を引き起こす。あまりに気持ち悪さに、床につっぷした。

 なんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれは!

 耳元で烏の鳴き声が響く。うるさい、とてもうるさい。

 やめろ! 鳴き止め!

 しかし声は続く。

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!

 ひときわ大きく、烏の鳴き声が響く。

Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaah!!!

 ティムは再びはっとした。目の前に広がるのは夜の暗闇。そしてあの少年…黒い男と同じ笑顔をはりつけた少年が立っていた。
「どうした、お目覚めかい?」
 少年が言った。今のも夢だったのだろうか、それとも今が夢だろうか、ティムの頭の中で何かがガンガン鳴り出した。
 しかし一つ、はっきりわかった事がある。あの男の事を忘れていたのではない。確かに憶えている自分がいた。しかし、その自分に気付かない自分がいたのだ。自分でもどういうことかはよくわからない。だが、そういうことなのだ。
「ゲラゲラゲラ…!」
 鳥の鳴き声にも似た声が響き渡る。あの黒い男だった。その笑いは、最後の騎士に向かって投げつけられていた。
「オラ、どうしたよ…」男が口を開いた。鳥のような、甲高い声。「怖じ気づいたのか?」
 最後の騎士は馬上で剣を握りながら、押し黙っている。
 男がにやっと笑った。「腰抜け…」
 そう言って、手から銃を地面に落とす。と、同時に騎士が動いた。馬が男目掛け飛びかかる。切っ先が男の胸へとまっすぐに伸びる。
 男は驚いた顔も見せず、地面に転がった銃を蹴り上げ。前に伸びた腕がそれを宙ではっしと掴んだ。
 切っ先が男に触れるほんの一瞬前に、銃口が火を吹いた。カン、と鎧に弾丸がはじかれる。空しい音を立てたのは、銃身と剣身が交差するのと同時だった。ブローバックしたイングラムのスライドがゆっくりと元の位置に戻る間に、男の身体は騎士の剣に貫かれていた。
 ティムはひっと息を呑んだ。本当にこれも夢なのか? それとも現実なのか? それはもうわからなかった。ただ目の前に広げられる惨劇だけが、認識されていた。貫かれた男の身体が断末魔の喘ぎにもがく。ティムには正視してられなかった。
 しかし男のとった行動は全くティムの、そして騎士の予想に反していた。
 男は前のめりに体重を掛けると、みずから剣をより深く身体へと突き刺した。刀身の上をスライドしながら男の身体が騎士に迫る。
 騎士が恐怖に息を呑む音が聞こえた。
 血まみれの男の顔が、にやっと笑った。男の左手の袖からもう一挺、イングラムが滑り出す。逃れようがなかった。兜の面当ての隙間から覗く騎士の眼光が、恐怖に濁る。鎧の隙間目掛け、両手の銃が寸分の隙間なく発砲音を立てる。そして騎士の身体が男ごと馬上から落ちていった。
 そして、やがて男だけが立ちあがる…胸に剣を突き立てたまま。しかし不意にからん、と剣が音を立てて路面に落ちた。そして男がティムの方を向いた。
「何をやってる、ロビン…」
 その声に反応するように、だっと、ティムの足元から犬が草叢目掛け駆け出した。さっきの少年は消えていた。何時の間に消えたのかも、どこへと消えたのかもわからなかった。
 ざっ…男が一歩、ティムに向かって踏み出した。
 ティムはあわててあたりを見回す。自分しかいない。だから当然、ティムが目当てなのはわかりきっている。
 しかしティムは逃げ出す事も出来ず、その場に凍り付いていた。震える事も出来ない。
 やがて男が、すぐ息がかかるくらいにまで近付いて止まった。
 ティムは目だけで男を見上げた。遠くの街灯の明かりに、かすかに映える痩せた輪郭、そして湿った光を跳ね返すゴーグルが何故かくっきりと見えていた。
「ふん…」男は不意に声を出した。さっきまでの声と打って変わってぼそぼそとした低い声だった。そしてティムの顎に手をかけ、上を向かせ、それから右、左と顔を動かさせた。「ロビンの奴め…」
 苛立つような一言に応えるように、草叢からさっきの少年が顔を覗かせた。そこは先ほど犬が駆け込んだところだった。「なあ、ソイツは本物のニオイがするってばさ、鴉ぅ」
 媚びるような、甘えるような声を上げる。
「黙れ、駄犬」鴉と呼ばれた男はぴしゃりと跳ね除ける。「いいか、ロビン。コイツが本物かどうかは俺が決める」
 そう言われ、ロビン、と呼ばれた男の子はちょっとだけ困ったように肩をすくめた。
「好きにするがいいさ。アンタが大将だ」
 男−鴉はそんなロビンの言葉などもはや聞いてはいなかった。ティムの方をじっと見ていた。
「安心しろ」男はティムの顔から手を放すと、着易いふうにティムの肩を軽く叩いた。「お前の為に、一人残しておいてやったんだからな」
 え? ティムが聞き返そうとする前に、鴉の裏拳がティムの頬に炸裂した。いったい何が起こったかわからなかった。わからないままに路面に投げ出された。
「つっ!」
 ティムは呻き声を上げた。そして男を睨み付けようとした瞬間、目の前の路面に何かが飛んで来た。弾丸、ではない。長くて、アスファルトの路面に突き立っていた。
 ティムの身長ほどもある、金属製の槍。それを鴉がティムの目の前に投げつけていた。
「エモノは用意してやった。獲物も用意してある」ティムの背後で物音がした。さっき鴉に矢を射ち込み、そして代わりに弾丸を射ち込まれた騎士がのろのろと立ち上がってきていた。
「わざわざ止めはささずにおいてやったんだ」鴉と呼ばれた男の顔に再びあの笑いが浮かんでいた。「狩るか狩られるかは、お前が決めるんだな」
『暴力とは』ティムの頭にふと、昔どこかで聞いた言葉が浮かんできた。『暴力とは突然で理不尽であるからこそ暴力なのだ』




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