NO NEED TO ARGUE

 エンジン音にまじってラジオから音楽が流れる。深
夜の番組の、ありふれたオールディーズ。
 別に好きでも嫌いでもない。古びた乗用車の中でア
クセルも踏まず、ハンドルをただ持つ空白の時間は耐
えられない。それだから流してるだけだ。
 ライトが照らす地面、そしてその先の夜の湖を何を
するでもなく眺めている。不気味ですらある暗く淀ん
だ夜の水面。しかし彼女は何も思わなかった。感じな
かった。
 もう考えることはやめた。感じることもやめた。決
断は既に済ませてしまった。
 ハンドルに一度頭を付け、それから助手席で軽い寝
息を立てている弟に目を向けた。狭い車の席を、背持
たれを倒してだらしない格好で寝入っている。口から
は少しだけ、唾液がこぼれていた。
 運転の途中で寝入ってしまったのではない。眠って
いる彼を彼女が車へと乗せたのだ。眠らせたのも彼女
だ。睡眠薬を食事に混ぜて。
 もう一度彼の寝顔を横目に見る。多分、この寝顔か
らは彼女がなぜこんな決断をしたかはわからないだろ
う。しかし、起きている時の彼の姿を見ればわかるか
もしれない。
 医者は、家族の理解と協力が必要です、と言った。
彼女がまだ子供の頃だ。
 死に至る病というわけではない。いや、その方がは
るかにマシだった。寝たきりでもまだいい。だが今の
弟は体格と腕力は大人のそれだが、知能や行動は子供
並。情動の発散のさせ方も子供と同じだった。
 それが、一緒に暮らす者にとってどんな地獄か想像
がつくだろうか? 「無邪気」「無垢」そんな言葉で
片がつくようなものではないのだ。家に帰ると家中の
窓や、食器が割られ床一面に散らばってたのは一度で
はなかった。思い通りにならないとなると、大声でわ
めき、むずがるのもままあることだった。
 弟と一緒に出歩くことはとても嫌なことだった。人
々の好奇の目はまだ耐えられる。だが弟自身が裏切る
のだ。それはとても耐え難いことだった。
 家の中でもすぐにだだをこねる。それも大人の力で。
それだけではない。行動は子供でも、身体はあらゆる
意味で大人なのだ。着替え中の彼女の部屋を、口元を
歪めた笑みを浮かべて覗いている弟に気付いたのは何
時のことだろう?
 両親が生きていたころはそれでもまだよかった。父
親が死に、そして母親もすでに死んだ。彼女は働きな
がら彼を養わねばならなかった。彼を施設に預けるこ
とも考えた。しかし、良い施設はそうやすやすと見つ
からない。やっと苦労して見つけた施設に預けても、
小さい頃から両親に我儘を許されて育ってきた彼には
職員も手を焼き、挙げ句の果てに脱走を繰り返した。
お手上げだ、と言われた。
 ただ職場のスーパーと、家を往復し、弟の世話にあ
けくれる毎日。そんな中でどんどん歳を取っていく。
 人並に恋をしたこともあるし、恋人もいた。弟のこ
とを理解してくれてると思っていた。しかし実際に弟
に接し始めるともうおしまいだった。次第彼女の家に
寄ることが少なくなり、やがてまったく会うことがな
くなった。
 ルームミラーを自分に向け、鏡の中をのぞき込む。
そこには疲れた三十女の顔があった。四十、と言って
も信じるかもしれない顔だった。
 憎んでるわけではない。憎しみなんかもうとっくの
昔に枯れ果てた。彼女の人生は彼に吸いとられていた
のだ。両親の感心も、プライベートも、恋人も、何も
かも。
 彼女は生ける死体だった。弟に殺された。
 憎めてた内はまだマシだった。ある日、弟の割った
硝子を片付けながら、もう何も感じない、考えていな
い自分に気が付いた。
 今度の決断は自然と何の引っかかりもなかった。食
事を食べた後、寝息を立て始めた弟を見ても何も思わ
なかった。たぶんこれで憎しみが涌き上がってくれば、
ひょっとしたら止めたのかもしれない。だが、何も感
じなかった。そしてそのまま車へとひきずって乗せ、
この場所に来た。
 この場所を選んだのに特に意味はない。以前、綺麗
な場所だと思ったことがあった。それを憶えていたか
らだ。
 今は何も感じない。かつてある男と愛を語りあった
場所だと考えても、何も感じない。何か感じるべきだ
と思っても。
 ラジオの曲が変わった。何とはなしに、彼女はハン
ドルを握り直し、そしてギアを変えてアクセルを踏み、
車体を向け直した。湖に向かって。
 ラジオから歌声が響いてきた。
「もう争う必要はない」と。
 彼女は何も感じなかった。湖目がけ、アクセルを踏
み込んだ。そうすることは既に決定していたのだから。
「争う」の意味など彼女にはもう何の意味も持たなかっ
た。これは復讐ですらなかった。
 ラジオの歌が何度も繰り返した。「もう争う必要は
ない、もう争う必要はない」と。
 そして湖の水が一気に、乾いたはずの彼女の涙を押
し流した。