Backlit By the Moon
;or A Fairy Tail never told

第一章:鴉 the Raven
  第二話:ツイてない日 Unlucky Day

 なんでこんなことになったんだろう?ティム・ウェーバーは自分よりだいぶ体格の大きな男の拳を頬に受けながらそんなことを考えていた。
 今朝は起きた時から何処か調子が悪かった。朝早く家の周辺をロードレーサーで一回りするのが日課なのに、何故か今日に限って朝7時まで寝過ごしていた。夏至が近いから早朝でもかなり明るい。それなのに目が覚めなかった。でも起きた時には何故か服はサイクル用のものに着替えられてた。靴まで履いたままで寝ていた。わけが分からない。着替えたけどまた寝てしまったのだろうか?それとも気が付かない間に夢遊病の様に出かけて、また戻ってきたのだろうか?
 釈然としないまま着替えてベッドルームから階下へ降りると、妹のミルドレッドが朝食のことでぐずっていた。母親が健康にいいからと海苔のペーストをトーストに沿えて出したのだが、それが不興だったらしい。内心はティムもミルと同意見だったが、そこは兄貴のつらいとこ、まさか10歳になるかならないかの女の子と同じ反応をするわけにもいかず、無理矢理平らげてみせた。
 中国人や日本人はこれが好物だそうだが、いったいどこをどうすればそうなるのか、不可解な気分になりながらもかなり無理をして作り笑いをしてみせた。
 今日は全くツイていなかった。
 登校中にバスから降りたところで女の子が革ジャンを着たチンピラっぽい男ともめてるところを見てしまった。女の子はティムと同じ16、7くらいの年だったが、ピアスを幾つもしてたり髪に少し赤いメッシュが入っていたりして、見るからにどうせ自業自得なんだろうとは思ったが、そうは思いつつも見逃すことが出来なかった。自分でも大概馬鹿だとは思っていたが、どうにもそういうのが許せない性質だから仕方がなかった。正義感とかそういうものじゃない。ただ、無性に暴力が振るわれることに対して、激しい嫌悪感を感じざるを得なかった。自分でも変な性格だとは思っていた。その挙げ句が人通りの少ない路地裏に連れ込まれてこの有り様だから、なんとも格好がつかない。
 殴られて地面に転がった時に、周りを見たが例の女の子はどこにもいなかった。さっさと逃げたらしい。別にあの子に同情したわけじゃないからいいけど、と思いつつもどうにも虚しかった。今までにもこういうことはなかったではないが、ここまで酷くやられたのは珍しかった。
 上体を起こしながら口を拭うとぬるっとした液体が手の甲についた。唾液が流れたのかと思ったが、少し違う。半ば予想しながら見てみると、少し黒ずんだ赤い液体が、手の甲になすりつけられていた。それは予想通りのものであったが、それを見たティム自身の身体の方が予想外の反応をした。急に心臓が高鳴り出した。身体中をアドレナリンが駆け巡り、一瞬全く自制が効かなくなってしまった。
 気がつくと、叫び声を上げながら男に殴りかかっていた。突然の豹変に男は思わず避けることも忘れ、まともにその拳を受けていた。
 男も意外だったがもっと意外だったのはティム自身だった。思わずティムが呆気に取られてるところに逆上した男が掴みかかり、ティムを滅多打ちにしだした。
 身体をうずくまらせて男の猛攻に耐えながら、いったい自分が何をしたのか反芻し出した。今まではこんなこと、一度だってなかった。喧嘩に巻き込まれたことは幾度もあったが、どんな時でも自制は完全に効いていた。だいたいは殴られる一方だったが、それでも、どんな時でも殴られて逆上するなんてことはなかった。それなのに一体なんで今日に限ってこんなことをするなんて…他人に暴力を振るうなんて!殴られている痛みより、むしろそちらの方がショックだった。それに比べれば、蹴り付けられようが彼のオレンジがかった金髪をつかんでひきずり回されようが、精神的にはたいして苦ではなかった。
 今殴られてるのは自業自得の様に感じながら、ティムは黙って耐えるしかなかった。何で今日に限って血を見たとたんにあんなカッとなってしまったんだ?全く自分でもわけがわからなかった。今朝の不調と関係あるのだろうか?
 このままではティムが病院送りになるまで続けられるのは誰の目にも明らかだったが、リンチの終りは意外にも早くやってきた。
 不意に男の身体が崩れ落ちた。全く意外で、何が起こったか、事の展開がまるでつかめなかった。誰かがその辺に落ちていたらしい鉄パイプを手に立っているのが見えた。逃げたと思っていたさっきの女の子だ。男がうめきながら立ち上がろうとしているのを見て、少女は問答無用でティムの手を引っ張って逃げ出した。路地裏から出る時にバイクにまたがった黒いコートの男とすれ違ったが、ティムは混乱しながらも何故かその男の事が気になったがそんなことを悠長に考えている暇はさすがになかった。
 息を切らせた少女にひきずられる格好で、路地裏から足早に逃げていった。

 ティムにはすれ違っただけの男のことを考えてる暇はなかった。しかし冷静に考えれば男の様子から、彼が恐らくは路地裏でのティムのことをずっと見ていただろうこと、それにも関わらず立ち去ろうとも助けを呼ぼうともしていなかったことはわかっただろうし、それをおかしく思っただろう。
 黒づくめの男は大きめのゴーグルを押し上げながら、誰かに話しかけるように口を開いた。
「なんだ、『お前』が気になるというから見てたが、ただのガキ共の喧嘩じゃないか」
 そう言ってバイクのシートの前のタンクの方に手を伸ばした。何時の間にか、タンクの上には、子犬がちょこんと座って自分の前足の臭いをかぐ様な動作をしていた。伸ばした手は子犬の首ねっこを掴むと無遠慮に摘み上げる。子犬は情けなく二度、三度と鳴き声を上げたが、男は無造作にその辺に投げ捨てる。
「いい加減なことばかり言ってるんじゃない」男が再びバイクのエンジンに火を入れようとすると、バイクにどんとぶつかって来た者がいた。少女に頭を殴られ、昏倒しかけたチンピラがティムと少女を追おうと、よろめきながらバイクにぶつかってきていた。まだしっかりと覚醒していないらしかったが、チンピラはじろっ、とバイクにまたがった男を睨みつけた。
「こんなところでぼさっとしてるんじゃねえ!」
 チンピラが吠え終るか否かの内に、男の右手がすっと伸びた。チンピラの歯に何時の間にか男の手に握られていたハンドガンの冷たい銃口が当たってかちりと音を立てた。
「ガキは礼儀を知らないから困る」
 男はその場に凍り付いたチンピラを後目に、再びゴーグルを深くかぶりスターターに足をかけキック一発でエンジンをかけると、そこからさっさと走り去ってしまった。

 ティムと少女は息の続く限り走ってさっきの路地から離れた。何故か方向はティムの学校の方だったのが、ティムには気にかかった。少女が突然、立ち止まった。うつむきながら乱れた呼吸を整えようとして、深呼吸をしようと努力していた。
「あの…」ティムは取り敢えず何と言えば良いか迷いながらも、声をかけた。それに何はともあれ、礼はいわなければなるまい。「有難う。でもあんな殴りつけるまでしなくても…」ティムの言葉が終らない内に、少女がティムの横っ面をひっぱたいた。石畳の路地を歩いている道ゆく人々が、驚いて彼らの方を見た。
「弱いくせにでしゃばって来るんじゃないわよ!」呆気にとられるティムに少女は吐き捨てた。「ヒーロー気取りででしゃばられて、それで感謝でもすると思ってるの?バッカじゃない!?」
「だからって!」ティムは殴られた余韻で興奮気味になってまくしたてた。「意味なく暴力振るわれてるのにみすみす見て見ぬ振りをしろとでも!?冗談じゃない!君だってあのままあの男に殴られてれば良かったとでも!?」
 思わずかっとして、初対面の少女だということも忘れて食ってかかっていた。なんで朝からわざわざ殴られた上にこんな不快な思いをしなければならないのか、まったくツイてない日だと思った。
 ティムのもの言いにカッとした少女がティムの胸を片手で突いた。「アンタ、本当に噂通りのええカッコしいね!ティム・ウェーバー!」
 ちょっと待て!ティムは少女の言葉に逆上しかける自分に静止をかけた。何でこの娘はおれの名前を知っているんだ?前にどこかで会ってたか?「なんでおれの名前を知ってるんだ?」
 少女は一瞬あっけに取られ、とたんに意気消沈してばかばかしい、という態度になった。「アンタさ、自分のクラスメートの顔も忘れたの?」
 そう言われてティムは少女の顔をじっと見る。知合いにこんな柄の悪いのがいたか?と思いながら記憶の糸をたどり…
「あぁ!そっか、ノエルだ、ノエル・ブッシュ!!」
 ティムは突然叫び声を上げた。すっかり忘れていた。しかし忘れていても無理はない。殆んど喋ったこともない上、彼女はサボリの常習犯だった。それに確か前に見た時には髪にメッシュなんか入ってなかった様な気がする。忘れてたって仕方があるまい。
「まあ忘れてたってそっちの勝手なんだけどね」少女−ノエルはティムに背を向けた。「逃げようと思えばいくらでも逃げられたんだから、これからはこっちのことに口を出さないでくれる?」
 少女の言葉はあくまで冷たかった。

 まったくその日はツイてなかった。少女と別れて学校に来ると、とたんに殴られた顔や身体中のあちこちが痛み、腫れ出した。
「お前、どうしたんだよ?」
 同じ陸上部の友人が心配して声をかけてきた。朝連をさぼった上に顔を腫らしての御登校だから心配しない方がおかしい。
「別に、いつものことさ」ティムは半ば諦め口調で答えた。教室を見回すと、例のノエルが自分の席に座ってつまらなさそうに窓の外を見ていた。今日はたまたま学校に来る気になったらしい。彼女はティムの視線に気付くと、一瞬彼の方を向いたがまたつまらなさそうに顔をそむけてしまった。
「お前、喧嘩は弱いくせにすぐ口を突っ込むからなぁ」友人の方ももう慣れっこと言うふうに受け答える。とはいえ、いつもにも増して腫れは酷かったので一限目の授業は休まさせられて保健室に送り込まれた。ティムはなんともない、と言ったのだが他の連中はそうは思わなかったらしい。現に保健室の校医も一瞬ティムをお化けでも見るような目で見た。取り敢えず顔の腫れに全身の打ち身、あと口の中も切っていたのでそこも消毒させられた。校医は今日は家に帰ってもいい、と言っていたがティム自身には別に大事とは思えず、そのまま二限目から授業に復帰した。
 午前の授業が終る頃にはもう殆んど腫れは引いてしまっていた。
「お前、本当に頑丈な身体してるなぁ」例の友人は食堂でランチを食いながら半ば感心して、半ば呆れた様に言う。「普通あれだけ腫れれば熱でも出そうなもんだけどな」
「ほっといてくれ」ティムは軽口を叩きながらサンドイッチを平らげる。その食欲には自分でも惚れ惚れするくらいだ。
「ねえねえ、ティムってばまた喧嘩したって本当?」女の子が不意にティムたちのテーブルに割り込んできた。
「この顔見ればわかるだろ?」
 ティムはむすっとしながら答える。
「ケイト、喧嘩じゃないぞ。一方的に殴られただけだからな」友人がからかう。
「混ぜっ返すなよ、ロジャー」
 ティムは自分を指さすロジャーの手をはたいて、一応抗議の意を示した。暴力は嫌いだが、だからと言って女の子の前で喧嘩が弱いのをアピールされて嬉しいわけはない。
「あんまり無茶しないでね、ウチの部のホープなんだから」女の子は笑いながらティムに言う。笑いながら言っているが、言っていることは冗談でなく事実だ。
「こいつ、運動神経だけはいいのになんで喧嘩はあんなに弱いのかねえ」
 ロジャーが不思議そうに言う。
「『だけ』は余分だよ」ティムは再び憮然とする。「走るのは好きだけど、蹴ったり殴ったりは好きじゃないんだよ」一応ボクシング部もあるが、ティムはどうもそういうのは肌に合わない。今でもノエルに殴られたあの男が無事か、気にかかる。
「ま、何はともあれ身体には気をつけてね、ホープ君」暫くたわいもないやりとりをした後、そう言い残して少女はその場を去っていった。残り香がティムの鼻をくすぐる。
「おい、ティム」少女が立ち去った後、ロジャーがティムの肩に手を回した。「ケイトの奴さ、お前に気があるんじゃないのか?」
 そう言われ、とたんにティムの顔が真っ赤になる。「な、何言ってるんだよ!」
「お前から誘えばさ、案外と二つ返事でOKかもしれないぜ?」
 ティムは思わず鼻の下が伸びそうになるのを必死で押えた。
「バ、バカ言うなよ!」
 動転して食ってかかりそうな勢いのティムにロジャーは冷静に突っ込みを入れた。
「鼻血、出てるぞ」
 冗談でなく、本当に出ていた。

 まったくその日はツイてなかった。ロジャーにからかわれたお蔭で、放課後の練習もいまいち身が入らない。ケイトを見かけると、つい目の端で追ってしまう。ウォーミングアップしているケイトの、タンクトップの脇からスポーツブラが少し覗いているのを見て思わず顔を赤くして目を逸してしまう。ケイトもティムに気付いて手を振るが、ティムの方は手を振り返すどころではなかった。そんなところにロジャーのからかいが入り、それで顧問に叱られる。全くツイてなかった。
 調子が悪いながらも練習も終り、帰りに少しロジャーたちとファーストフードの店に寄り、本屋で買った雑誌を読んでいたら既に辺りは暗くなってしまっているのに気がついた。ティムはあまり帰りに寄り道などはしない方だが、今日はたまたま遅くまで寄り道してしまった。もうすぐ夏至だからそれでもかなり明るいのだが、急がないと家族が心配する。たまになれないことをするとこうだ。
 バス停に向かう途中で、ティムの視界の端にバイクにまたがった黒いコートを着た男が映った。ティムははっとしてそちらの方を見たが、しかし曲り角を曲がったのか、バイクも男ももはや見えなかった。
 何か気になりながらも、ティムはバス停へと向かった。丁度ティムが着くのと同時に到着したバスに急いで飛び乗ると、一心地ついて読みかけの雑誌をめくった。先ほど見た黒いコートの男のことも忘れ暫くそうしていたが、ふと窓の外を見ると一瞬何か白い影がよぎったような気がした。
 一体何が見えたのか、気になってじっと窓の外に目を凝らしたがそれらしいものは見えない。気のせいかと思い再び雑誌に目を移した時、再び窓の外に何かがバスと並走しているのに気がついた。はっとして目を向け殺那、白い馬が視界に飛び込んできた…と思った次の瞬間には、目の前には見なれた光景があるだけで白い馬は忽然と消え去っていた。
 気のせいだったのだろうか?そうも思ったが、一瞬見えたあの馬の律動、躍動感、そして存在感は気のせいだとは思えなかった。ティムはしばらく考え込んでいたが何故か妙に気になっていた。幻覚だと言って済ませればいいのだが、先ほどの黒いコートの男のことと言い、何故か気にかかる。考えた末に、ティムは自宅近くからまだだいぶある停留所でバスを降りた。すでに辺りはだいぶ暗くなってきていた。
 バスが去っていった後、暫く周りを見回していたが人通りの少ない細い道で馬どころか人一人見えはしなかった。道を外れてしまうと背の高い雑草が生い茂るくさむらで、そこに隠れてると言うのもあり得ないではなかったがあまりありそうにないことだった。
「なんだ、気のせいか…」ティムは自分の徒労に気付き、やはり今日は運がなかったのだと苦笑しかけたところで、妙な胸騒ぎを感じた。
 背後から感じる人間でない、もっと大きな動物の呼吸の音、鳴き声、そして足音。ティムは思わず振り返った。
 振り返った先には何時の間にか、馬が三頭、ティムの方に歩み寄ってきていた。それだけではない。その上には鎧をつけた人物たちが、各々の馬にまたがって手綱を握り締めていた。
 ティムの心臓の鼓動が早まる。それは何もおかしな格好をした連中が目の前にいるからばかりではなかった。なぜかとても目の前の人物たちが気になった。
 ティムは彼らを見て、どうしようもないデジャヴを感じていた。テレビか何かで見たのか?それとも博物館で?いや、違う。もっと最近、彼らを目の当たりにしているはずだ。この圧倒的な存在感を伴って。
 そう考えた瞬間、いきなり背後から強烈なライトの光が当てられた。丁度ティムが乗っていたバスが来た方向だった。ティムはまぶしい人工の光に目を細めながら、そちらの方を向いた。はっきりと姿は見えない。しかし光の源がバイクのヘッドライトであること、そのバイクに長身の人物がまたがっていることはわかった。
「今晩もまた会えたな、クソ騎士ども」
 バイクに乗った人物はそう悪態を吐いた。ティムは突然に思い出した。ティムは確かに彼らを見たことがあった。この騎士達と、目の前にいるバイクにまたがった男を。何故か今の今まで忘れ去ってしまっていた。理由はわからない。しかし、ティムはまだ自分が本当にツイてなかったことを知らなかった。
 そう、本当にツイていなかったのだ。


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