これから先は見てはいけない。
これから先は怒りと苦痛の物語。
魂の救済なく、ただ怨念に満ち満ちた
熱き炎(ほむら)を吐き出すのみ。
正義なく、慈悲なく、
いかなる神の御手も届かぬ深淵。
もし汝が魂の救いを求めるなら、
この先は決して見てはいけない…


Backlit By the Moon
;or A Fairy Tale never told



第一章:鴉 the Raven
  第一話:闇に啼くもの


 月が輝いていた。その人物は月を見上げる。スモッグに霞んではいるが、しかしそれでもしっかりと月はその光の内にこの世の全てを均等に包み込む。あらゆるものに平等。それは死と同じだった。死する事に意味はない。ただ死という冷厳な現実があるのみ。そしてそれは、いかなる者に対しても同義、決して避けようのない運命。死神は全てに平等だ。そう、この月光と同じように。
 その人物はビルの屋上から下を見下ろす。と、口元が微かに緩んだ。冷たく、湿気を含んだ風が彼のコートに吹き付ける。しかしその黒い、闇に溶け込むような色の革のロングコートは決して主のもとを離れない。真夜中というのにつけている大きく真っ黒なサングラス越しにじっと闇の世界をねめつけた。
 全てが黒い。頭の先から、爪先まで。長いコートも、コートのすき間から覗くロングパンツも、靴も、短く刈り込んだ髪の色さえもあつらえたように黒い。ただ唯一表に出ている顔の肌の色だけは、透き通るように白かった。
 既に人気はなく、生きているものの気配のない暗闇の中で、そいつは足元の虚空をその長身を折り曲げる様にしてのぞき込んだ。口元の綻びが更に大きくなる。
 じゃら、とコートに付けられたやはり黒い装飾鎖が鳴った。次の瞬間、彼は既に宙に向って跳んでいた。彼の体は当然重力に従って落ちていく。風をうけたコートが、彼の意外に細い、いや細すぎる程の体の線をはっきりと象っていた。
 突然彼が壁に着地した。落下の勢いは急には収まらず、そのまま靴底の削られる音を立てながら壁に脚をつけ、着地していった。靴底の痛そうにきしんで悲鳴を上げる。
 彼は落下が収まるとそのまますくっと立ち上がった…壁に垂直に。本当の地面はまだ遥か下だ。壁がモルタルで舗装された道の様な錯覚すら覚える。彼を支配する重力は、明らかに普通のものではなかった。
 彼は目の前の硝子張りの床の様に思える窓を見つめ、薄い唇を舌なめずりすると懐中に手を突っ込み、黒光りする拳銃を取り出した。そしてそのまま手招きするような手付で銃を構える。
 それと同時だった。突然馬の嘶きが響く。すぐ下の窓をぶち破って一頭の馬が飛び出してきた。馬につけられた手綱を引き、馬上の騎士は巧みに馬を操り壁面に馬を着地させる。
 その銀色の鎧に包まれた姿を見て、黒づくめの男はサングラスを押し下げ、馬の蹄の先から騎士の兜まで値踏みするような視線を這わせた。先ほどとはうってかわり、明らかに失望を浮かべた表情で舌を打つ。
 その舌打ちの音は、明らかに馬上の騎士にも聞こえた。その証拠に騎士の兜の奥の目は明らかに不快な色を讃えていた。黒い男の侮蔑が伝わったらしい。騎士は憤りを抑えながらも怒りのこもった動作で大剣を抜き放つ。
 しかしそれを構え終る前に騎士の兜にぽつっと赤い点が点いた。黒い男の手にいつの間にか握られたハンドガンのレーザーサイトから、まっすぐに赤い光線が伸びていた。
 騎士がそれが何かを理解する前に銃口が火を吹いた。鉄板を叩いた様なにぶい金属音を立てて、騎士の首が後ろにのけぞる。騎士を乗せた馬が発砲音に驚き暴れ出す。黒い男はそのまま躊躇することなく立て続けに三発撃った。その度ににぶい金属音が響く。
 しかし、男の口から先ほどとは違い焦ったような舌打ちの音がした。騎士の腕が手綱をしっかりと握り、愛馬をなだめるべく動き出したのがはっきり見えた。
 今までとは勝手が違うか?彼は内心敵を侮り過ぎていたことを認めざるを得なかった。重装タイプの敵ではこの口径では十分な貫通力はない。始めからわかってたことだが、あちらが銃の作動原理を理解するのはもう少し遅いと思っていた。
 だが、これから起こることの結果に何ら変わりはない。男は再び銃を構えた。
 騎士は馬をなだめながら今まで恐るべき兵器だったものが、今や彼には何の効力も持たないことを悟り気を良くした。兜の奥から勝ち誇った笑みがこぼれてくるような気がした。
 それでも男は騎士めがけて銃を撃ちながら駆け寄っていく。銃弾は騎士の鎧と、彼の馬の鎧じみた馬具に全て弾かれていた。
 騎士は剣をしっかりと構え、名乗りを上げようと口を開きかける。しかしそれより男の動作の方が早かった。あっと言う間に騎士の間合いへと入っていく。銃を持って剣の間合いへ入る…気違い沙汰としか思えなかった。騎士は面食らいながらも、それを返り討とうと剣を降り被った。と、突然男が地を蹴って宙に跳ぶ。騎士はその姿めがけ剣を降り下ろし真っ二つに切り裂いた…と思った。
 しかし手応えはなかった。男は騎士の予想した軌道で落下しなかった…それが勢い良く降り下ろされた切先の行く先を失わせた。男は勢いを失うことなくそのまま馬上の騎士めがけて跳んで…いや、飛んでくる!加速すらしている様に見えた。不自然な落下軌道、それが騎士の認識に伝わった時には既に男は騎士の胸板めがけ飛び乗って来ていた。
 予想以上の衝撃に、騎士は思わずもんどりうって落馬し、そのまま男と一緒に落下する…壁ではなく、本物の地面に向かって。落下しながら、騎士はやっと男の不自然な動きの理由を理解していた。男は飛んでいたのではない。壁の重力から身を離し、本来のあるべき地面の重力に身を委ねる先を切替えた。そして今、騎士ごと地面に向かって墜落している。
 騎士は始めて死の恐怖に捕らわれた。男は騎士に密着しながら、にやにやと笑うだけだった。その表情を見て騎士は更に恐怖に捕らわれる。この男はまともじゃない。このまま落下すれば、この男だってただでは済まないはずだ。なのにそれでも楽しんでるのだ。この殺戮を。
 騎士は明らかに脅えていた。脅えるということが屈辱だと言う思考は頭の隅に追いやられていた。この目の前の敵はまともじゃあない、自分とは全く異なる次元の生き物だ、そう肌で感じそれが彼を恐怖に陥れていた。自らの死よりも理解不能な化け物に対峙したことの恐怖が彼を捕らえていた。
騎士は叫ぼうとするが戦慄に喉がひきつり声を上げることすらできない。男はそんな騎士の姿を見て嘲るような笑い声を立てる。まるで動物の様な、けたたましい笑い声だった。
 騎士はせめてもの抵抗で剣を振りかざそうとするが自由落下状態で思い通りに振るうことができなかった。もともと無重量の感覚など、予想すらしてなかったのだ。その騎士の兜の隙間から、何か硬く冷たいものが押し込まれた。頬にその感触が伝わる。騎士の視界からはそれが何かは見えなかったが、それが何であるのかは容易に想像がついた。連続して何発も銃声が響く。兜の隙間から血と脳しょうが飛び散り、黒い男の顔にしぶきになってかかったが、それでも男は撃つのを止めなかった。むしろこうこつとした表情で撃ち続けている。
 けたたましい笑い声を上げながら、ただひたすらに撃って撃って撃ちまくって、その銃声がいつまでも続くかもしれない、そう思った時突然銃声がやんだ。二つの影は折り重なったまま固い地面に叩きつけられる。たちまち地面に大きな血の模様が描かれた。
 再び静寂が闇を支配したと思った頃、奇妙な音が聞こえてきた。何かの、重い硬質な足音。人間のものでないのは確かだ。それが複数、折り重なった死体の方へ向かって来る。
 街灯の下に現れたのは、新たなる騎士。栗毛にまたがり死体の方へ歩み寄る。しかしそれは先ほど死闘を繰り広げた騎士とは明らかに異なっていた。もっとも違う点は最初の騎士と違って比較的軽装であったことだ。同様にしてまた一人、そしてもう一人、合計3人の騎士が姿を現した。
 手綱を引いて死体の側で馬の歩みを止める。馬は一瞬嘶き、熱い息が死体にかかった。三人の騎士達は、しばし死体を見つめる。普通なら目を覆いたくなるほど原型をとどめぬ鉄と肉との固まりを、動揺した様子もなく試すように見つめ続ける。一人の騎士がめくばせすると、他の二人の微かにうなずいたき最初に現れた騎士が手にした馬上槍で肉塊を貫こうと振り上げた。
 その瞬間、信じられないことが起こった。ゴミの様な死体の中から銃を手にした腕が跳ね上がり、銃を振り回すように前後左右に揺れたかと思うとその槍を向けた騎士目がけ銃口を定めた。一瞬その騎士は何が起こったのか理解できなかったが、反応は早かった。振り上げた槍に構わず、とっさに銃口を避けるように馬上で身体を捻った。鼻先を弾丸がかすめたのはその直後だった。彼の愛馬が震え、嘶き、暴れる。その騎士は馬から振り落されないようにふんばるのに必死だったが、一拍遅れて何が起こったのか理解した他の騎士が肉の塊目がけ槍を突き刺す。しかしその直前に肉の塊から黒い何かが分離し、地面を転がるように槍から逃げた。
 二人の騎士はかつての仲間から槍を引き抜くと、全身から血をしたたらせながらようやく立ち上がった黒い塊に向けて槍を構え直す。三人の騎士の目の前で立ち上がったそいつは、少しでも顔についた血を落そうとするように口の回りを舌で一度、なめ回した。しかし口元に奇妙な血の青刺を施したかのような模様が出来ただけで、余計に陰惨な表情になっただけだった。
 騎士達が見てる前で、男は片手で銃の弾倉を外すと、何処からか取り出した別の弾倉を込めた。その動作は敵の目前と言うにも関わらず大胆なものだったが、すでにそれを覆い隠すもののなくなった、ねめつけるような視線が、騎士達を釘付けにしていた。サングラスの奥から現れたそれは獣の目だった。
 躊躇したような時間が流れる。男は銃を握り締めてはいたが、構えて騎士達に撃とうとはしない。騎士の一人がようやく動き出そうと溜めた身体のバネを解き放とうとした瞬間、男は突然銃を持たぬ方の手を天目がけ差し上げた。
 意表を突いた行動に、騎士達は身体をびくっと振るわせ、馬達は主の心の動揺を鋭く察知して足元を乱した。
 突然男が手を高くかざしたまま奇声を上げた。騎士達はその声に呪縛されたかの様に動けなくなった。そして続けて薄暗い夜空を、急に暗雲が覆う。いや、雲ではなかった。数多の鳥の羽音が小さく響いてくる。天を覆っていたのは無数の黒い鳥だった。この都会のどこにこれほどいたのかと思われる死神の追従者どもが、男の声に感応したように、夜天を覆い尽くしていた。
 その鳥どもの王は、天を指さしたままもう一度奇声を上げ、そしてけたたましく哄笑した。
「鴉…」
 騎士の一人が幻想的とも思える光景に思わず声を漏らした。
 殺戮の夜は未だ明けてなかった。


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