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2002年02月12日(火) 旧暦 [n年日記]

富士宮焼きそば

 富士宮は、 実は隠れた焼きそばの名所らしい 。で、ちょいとこの富士宮焼きそばを入手することができたので、食ってみる。うむ、もっちりとしていて、歯ごたえがあり、なかなか美味である。肉かす(ラードをとった豚の脂身の残りかす)もカリカリとした食感で美味しい。通常売られている焼きそばよりはっきりいって好み。近所で売らないのかなぁ。
 連休は、ちっと 林氏 にくっついてSF関連の集会へ。ヒートして明け方の五時まで飲んでました。自分も歴戦のSF者の前でかなりヒートしてしまってはいたのだけど、SF界隈の現状と問題点がそれなりに見えてきた気がします。基本的に、良い方たちばかりなんですが、多少、外部からの視点との認識のずれがあるような気もしたり。でも、人の言うことに耳を傾けないということでは決してないので、それなりになんとかならないこともない気もしたり。
 とりあえず、デジモン劇場版第一作は傑作ということで合意。<おいおい
 日曜のテレビ。ガオレンジャーは、アギト以上にカタルシスに問題があった気が。いや、まああれでもいいんですけどね。
  龍騎 の二話目。おお、なんとなく変身ヒーローものの王道だ。特にキックのインパクト時のエフェクトがかっこいい。これ以上、ナニを望むというのか。でもやはりアギトのほうが個人的に(戯言は以下省略)
 テイマーズはお休みだったので、裏の ギャラクシーエンジェル を見る。シリーズ構成はアギトの井上氏なのだけど、キャラ同士の絡み、立たせ方を重視する人なので、そのへんはやはり上手い。作画は崩れてるけど、馬鹿コントとしては無邪気に笑える。特に後半のネタ。
 カートゥーン・ネットワークに こんなもの が。わたくしは勿論インストールしましたのことですよ?

演出の話

 先日の「フルメタル・パニック!」の銃に対する反応の描写で一部誤解をされてるようなので補足。(今日の放送分は見てないっす)
 別に、創作として日本人が銃に対して平和ボケの反応を示しても構わない。大抵の日本人にとって銃はテレビ画面や銀幕の中の存在でしかなく、リアルなものではない。私だってその意味ではたいして変わらない。ただ、銃を突きつけられてるのを見ていて、それに無反応であることはまずないだろう。興奮して目に入ってなければ別だが。本物かどうか疑いつつも、黙って指示に従うこともあるだろう。偽者だと思い、そのまま無視することもあるかもしれない。いろんな理由から、本物でも相手に食ってかかることもあるかもしれない。そういった反応がすっぽり抜けていた。描き方の問題ではなく、描かれていないことが問題、そういう話である。作画量の問題もあるけど、まったくどうにかできないわけではない。やはり、人間の「自然な動き」に対する観察不足だと思う。


2002年02月13日(水) 旧暦 [n年日記]

薬膳ラーメン

 なんか食い物ネタが続くなぁ。
 ちょいと連休中に体調崩したらしく、いつの間にか熱とかも出てたりした。で、昨日薬膳ラーメンの「好陽軒」にラーメンを食いに行く。よーしらないが、薬膳ラーメンは名古屋のご当地ラーメンらしい。開店直後の誰もいないところに行ったからかもしれないけど、ここのオヤジさんが無茶苦茶乗りのよい人で、替え玉やらライスやらをサービスしてくれた。いや、もー腹いっぱいでした。
 その効き目かどうかはわからないけど、今日は体調良かったです。
 世間様ではオリンピックが話題らしいけど、どうもイマイチぴんと来ず。ソルトレイクシティっていったら、トラボルタが核爆弾持ってゴトゴト列車で向かったところというくらいにしかイメージないしなぁ。
  日本テレコムのBBS で電波の書き込みがあったけど、消された模様。たまたま消される前に見たけど、本当に電波としか思えない内容だった。電波法違反で取り締まれないだろうか? でも、多かれ少なかれ、今のオタクの現状はその電波君と同様の無根拠の優越感と独善と視野狭窄に陥ってる部分はある。独善に陥ってはいけないが、根のはった自分の価値を持たないのもいけない。いろいろと難しいものである。
 アニメ版の「フルメタル・パニック!」を評して「軍事ファンタジー」といっているのを見かける。なるほど、そういう視点もあったか。ファンタジーならば、それを必要とする者もいるのだろう。
 他意はないのだが、 野尻抱介氏がギャラクシーエンジェルのことを口にする のを見るのは、微妙に妙な心持ちである。いや、別になにもおかしいところも悪いところもないのだけど。
 あと、上記掲示板では自由意志に関して、妙な勘違いをしている(あるいは意図的に?)ような気がする。生物の体内の現象の多くは熱力学的な確率過程であり、ある程度の不確定性は内在してるが、結果としては概ね確定的に現象が起こる。また、そうでなくては生命維持そのものに重大な問題が起きかねない。ある意味では決定論に近い。もし、ラプラスの悪魔か何かによって体内の分子の運動・反応が逐次わかるのであれば、なおのこと決定論に近付くだろう。しかし、それをもって人間が自由意志を持たないということにはならない。決定論であるか否かは自由意志とは関係がない。もし、ここに完全にランダムなサイコロがあったとして、その不確定性をもってサイコロに意思がある、というだろうか? 逆に、ある人間が社会規律や倫理とされるもの、要はルールに従った行動を取ったからといって、その人物に自由意志がない、ともいわない。自由意志とはなんであるか、というのは哲学的・生物学的・心理学的に難しい問題だけども、決定的であるがゆえに自由ではない、というのは、決定論を運命論と取り違えていると思う。
 薬膳ラーメンで持ち直したといっても、まだ少々体調が悪いみたい。さっさと寝ておくか。


2002年02月16日() 旧暦 [n年日記]

その名も人呼んで…いや、誰も呼ばないが

 映画の日でもないのに連ちゃんで映画。昨日は「戦国野郎」、今日は「暗黒街の対決」と「 助太刀屋助六 」……そう、岡本喜八特集だったりする。
 戦国野郎。時は戦国時代、甲斐の武田信玄からの忍びに命を狙われる青年忍者・越知吉太。彼は妙に意気投合して一緒に抜けてしまった元追っ手と共に、正体不明の田舎侍(実は木下藤吉郎)の口添えで、身分を偽り馬借(馬による運送業者)の有吉党に身をよせる。藤吉郎が二人を馬借に送り込んでのは実は思惑があり、最新式の種子島三百丁を主君・信長のもとに送る役を、有吉党に頼もうとしていた。最初は政治に関わることをよしとしなかった頭首も藤吉郎の押しの強さにしぶしぶ承知。しかし当然無事に済むわけはなく、甲斐の忍びにくわえて、藤吉郎にいいようにあしらわれた村上水軍までまざって、三百丁の鉄砲をめぐる争奪戦がはじまる。
 古い映画だからか、あちこちフィルムがとびとびになっていたが、漫画的ともいえる岡本喜八独特の演出は当時から健在。これもまた独特の気を引く展開と演出で、最後まで観客をひっぱる。おおらかな作風と、権力者にいいように翻弄される民衆の側からの視点の中の怒りと風刺が、微妙にミスマッチしている。1.5点。
 暗黒街の対決。新旧ふたつのヤクザ組織が対立するとある街。その街に、汚職により左遷された刑事がやってくる。はたしてその目的は…?
 大藪春彦原作らしいのだが、ここでも岡本調のコミック的演出は健在。目にもとまらぬ速さの往復びんたとか(原作版ゲゲゲの鬼太郎のアレのようなヤツ)、警棒でぶん殴られて気絶して、拘置所で目覚めた時にまったくおなじかっこうで寝てるだとか(口じゃおかしさが伝わらないか)、殺し屋トリオがなぜかクラブで歌わされたりだとか、妙なのだが何故かおかしい。しかし、筋自体は救いのないラストへ向かう。権力に翻弄される力なき人々の怒りと悲しみは、岡本作品の共通テーマである。1点。
 本日の本命、助太刀屋助六。ひょんなことで加わった仇討ちの助太刀がなぜか病みつきになり、ついには助太刀を稼業にしてしまったやくざものの助六、その助六がなんの気なしに七年ぶりに故郷に帰ったところから話ははじまる。唯一の係累である母親の墓に参るが、どうしたわけか、菊の花が一輪添えてあった。親類縁者はほかにいないし、父親はどこの誰かも顔が知れない。不思議に思いながらも町に入ると、小さいながらも宿場町のはずがなぜか人っ子ひとりいない。家の中に引きこもった住人に話を聞いても埒があかない。とほうに暮れたところで通りかかった番太(番所役人)がおさななじみでワルともだちの太郎、再会をよろこぶも、この町のようすのわけを聞いてみると、敵討ちが始まるところだという。三度のめしより仇討ちが好きな助六、これを聞いて、いざ、加勢、と意気込むが、この仇討ちは実は元同僚に斬られた関八州廻り同心二人の敵討ち。当然奉行所の肝いりであり、鉄砲やら加勢の浪人やら準備は万端、さらに関八州取締役の榊原織部も検分と称した見物に来る段取りが決まっており、万に一つの打ち損じもないという。なんだ、つまらねえ、と肩を落とす助六だが、その仇が昔馴染みの棺桶屋にいると聞き、野次馬根性丸出しでその顔を見に行く。その当の仇の元関八州役人・片倉はどう見てもひとかどの人物で仇を持っているような後暗い人物には見えない。逃げるのにも飽きた、と潔くいう片倉だが、助六が母親の墓の話題を口にすると、とたんに顔色を変えた。助六にはどうも片岡が悪人に思えず、助太刀をしようかと申し出るが、片岡はそんな助六を殴りつけ気絶させて桶屋を後にする。自分のためにしつらえさせた棺桶の中に、助六の母の墓に添えてあったのと同じ、菊の花を一輪、残して……
 コミカルでシニカル、ウィットでウェット、テンポの良い岡本節は健在。喜寿をこえてなおエンターテイメントにこだわる姿は、さながら日本のジョン・カーペンターというべきか…っていいのか? コントを見てるかのような役者のオーバーアクションの演技もなのだが、岸田今日子のナレーションがまた笑える。おかしいのはコメディであるからあたりまえなのだけども、上映中にこれだけ笑い声がはっきりと、劇場内に響いた映画も久しぶりだ。ただ、クライマックスあたりの爽快感はいまひとつ、なところはある。敵役の憎々しさ、悪たらしさが、足りないようには思えるのだ。これは、岡本監督が前作「EAST MEETS WEST」撮影中に怪我をし、言葉が自由にならないことが無関係ではないとおもう。それにも関わらず一級の娯楽作に仕上がってるのには、「岡本組」ともいえる出演者たちやスタッフ、そして岡本夫人らの存在は欠かせないのだろう。私情だけども、岡本監督が私財を投げ打ってまで作った映画だけに成功してほしいと切におもう。ジャズピアニストの山下洋介氏によるBGMも粋だ。2点。

踏んだり踏んだり

 昨日は踏んだり蹴ったりで、というより踏んだり踏んだりで、半徹明けに駅前に映画に見にいくと、なぜか安全ピンを踏みつけて自転車がパンク。泣く泣く自転車を引きずりながら自転車屋を捜し求めるが、なかなか見つからず、やっと見つかった店では二時間かかるといわれる。そんなに待ってられるけえ! ってんで「あ、お忙しいところすいません」とニコニコ顔で退去しながら(内心と態度とが一致しない男だな、オイ)、ふたたび歩くこと5kmばかり(言い忘れてたが、すでにその時点で4kmくらい歩いている)やっと次の自転車屋を見つけ、ここではパンク修理をしてもらえる。しかし、工賃の市価の1200円前後より少し高めの1500円だったのでここでまた少しマイナスのフラグが……まあしかたないのだけど。ここからようやく自転車に乗って帰宅。しかし理学部のほうへ学位関係の手続きの用事があったので、息をつくひまもなく理学部へ。で、行ってみると、アクセプトされたけどまだ雑誌に掲載されてない論文を副論文にするには、なんらかの証明書類が添付されてなくてはいけないという。学位申請規定に何も書いてなかったじゃんか〜。ってえか、そゆこた電話かメールで言ってくださいよう。内心無茶苦茶いらつきながらも、ぺこぺことあやまりながら退散(だから内心と態度が違いすぎるってばよ)。で、家に帰って録画しておいたビデオを消化してからようやく寝る。ちなみに、内心怒っていても態度に出さないのは腹黒いとかではなく、私のくせで、一時的な腹立ちで八つ当たりすると後で後悔するだとか、寝不足でまともな判断ができない時にはむしろ判断停止したほうがいい時があるとか、そういう経験則的なことからついそうしてしまうのであるので、半ば以上自分でも意識せずにそうしてしまう。どうしようもないヤツですなぁ。

スイッチ

 そんな私が、最近またひそかにムカムカ来てることがあって、なにかというと 日本テレコムBBS の大塚さんの書き込みへの一部の反応。いや、もうそろそろ変な反応も出てくるころなので、大塚さんもネットであまり目立つ行動はとらないほうがいいと思うのだが、それはそれ。アニメの「動き」に対する大塚さんの言及に、極端なはなし、「動きは重要でない」という声が結構ある。先日の電波君の電波にもそれが含まれていた。電波君だけなら気にしないのだが、私がROMってる、ある掲示板でも、そういう意見が少なくなかったりする。決して頭の回転が悪いとは思えない人ですら、である。そういう人は、ストーリーこそが大事だ、のような言い方をし、動きに関しての大塚さんの言及に否定的な物言いをする。私は、それは変だと思う。というか、失礼ながら「アホちゃうか?」とすら思う。別に大塚発言はストーリー性を否定してはいない。なのに、なぜストーリー否定のような流れになるのか。それは「ストーリー」アニメの出現により、アニメの評価が描写中心からストーリー評価中心、というより偏重へ移ってきたからではないかと思う。それだけであれば対立しないのだが、こまやかな動きによる演出・描写を多用したストーリーは、言葉でその良さを表現するのが難しいことが多い。たとえばデジモンアドベンチャー劇場版。ストーリーにして見れば、話の筋はたわいもないものだ。原稿用紙半分で筋は書いてしまえる。しかし、実際に見て覚える感動は、そんな原稿用紙半分の粗筋に書けるたぐいのものではない。それならば、いっそのこと「とにかく見ろ」とでも言えばいいのだけども、たちの悪いことに、一部のマニアは明文化しやすいストーリーのみがストーリーではないのに、明文化できるストーリーのみを、というのは極端だが、少なくともそちらのほうを評価する傾向がある。別にいいのである。明文化しやすいストーリーのものも、しにくいストーリーのものも、面白ければどっちでもいい。だが、「ストーリー重視」と称する偏重したマニア層の評価が、偏りを生み出してることには気付いてないのだろうか?
 しかし、先も述べたが、動きによる描写や演出は明文化しにくい。それが問題であるのに、文章にできないが重要だ、では話にならない。ところが、たまたまこれを明文化してくれているとこにでくわした。今日たまたま通りかかった マグマート杁中店 で行われていた 水口哲也氏トークショー である。このイベントはスペースチャンネル5Part2の発売記念であり、このゲームはいうまでもなく、キャラの動きが非常に重要な位置を占めている。そのために、人間の動きに人はどうやって面白がったり笑ったりするか、あるいは、キャラクターが人々に好かれるとはどういうことか、を徹底的にリサーチしたらしい。その水口氏が述べたのは「人間の感情ってのは、非常に精密で複雑に反応が定義づけられている」ということだった。ちょっとした動きにも人間が笑ったり泣いたり興奮したり好きになったり嫌いになったりするのには、全部ちゃんとした裏付がある。つまり、動きによって人間の感情のスイッチを入れることはできるし、水口氏や、いくつかのアニメーション作品は実際にそれを行っている。しかし、それを意識している人は少ないし、それをきちんと理論づけられる人はなお少ない。大塚さんが意識しているのは、たぶんそういうことなのだ。そして、それを否定している人は、そのことをわかってないのではないかと思う。アニメーションの名のゆらいは、そもそも命あるもののように書かれた絵が動くからそう名付けられたはずである。動かないアニメというのも、それなりの事情があるし、意義だってもちろんあるだろう。しかしそれは動きによる快楽の全否定には当然繋がらない。繋がるわけがないのだ。

 長くなったけど、三日分ってことで。


2002年02月18日(月) 旧暦 [n年日記]

カスミンは全26話

 コメットさん早期終了で一部ファンは大騒ぎしてましたが、四十数話も放映されてなにが不満なのだろう。っつーか カスミンが2クール だということは寝耳に水。あれを通年でできたらたいしたものだとはおもってたのだけど。
 最近は 龍騎 だとか、デジモンテイマーズだとか、子供向け番組に日記の傾向が流れていることはお気づきと思いますが、理由はとくにありません。あえていえば、高年齢視聴者向けの番組は、つまらないとまではいわなくとも面白くないものが多くなった、というところです。「面白くない=つまらない」ではないことは、「つまらなくない=面白い」でないというのとおなじ。面白い・つまらないは主観の問題であるので私個人の感想は、すなわち、番組の質が低いということではないですが、要はそういうことです。
 イマイチターゲット層がつかめない新刊漫画誌「ワル蔵」の創刊二号に イダタツヒコ 氏が夢枕獏氏原作で「ころぽっくりの鬼」を読みきり掲載。もともとホラー畑出身だけども、「ゴルディアス」や「美女で野獣」だのでは作風を170度くらい転換していた作者ひさびさの本格ホラー。読みきりだったからでもあるけど、キレは良かった。
 急激に「ライジング・インパクト」が終了。微妙な位置だとは思っていたけど、エピローグで主人公達の成長後の姿を書いちゃったから、今度は復活は無理なのかなぁ。テイマーズファンでレオモンファンだという一事で、鈴木央氏は私内部ではいい人に決定している。無論、お会いしたことなぞありません。
  こんなところに モビーディック 。モビーディックってのはなにかっていうと、そのむかし伊藤明弘氏がコミカライズした「バトルガール」ってオリジナルビデオがあって、それを作ってたのがこのモビーディックだったのだけど、ビデオのほうは、噴飯ものというかなんというか、苦笑なしには見られない出来だという。そうか、映画自主制作集団の制作だったのか。自主制作集団といっても実力はピンキリだからひとからげにはできないけど、なんとなく納得。


2002年02月19日(火) 旧暦 [n年日記]

尻拭い

 昨日から続いてひとさまの尻拭い。ひとの尻拭いは、最終的な責任はその当事者に降りかかるから気楽なぶん、あまりこちらのプラスにならないのでいい気分というわけでもない。こうなる前にきちんと注意をしておくべきだったが、去年の10、11月となるとこちらもテンパってたからなぁ。
 フルメタルパニック!、とりあえず欲望には忠実なアニメである。おねてぃほどではないけど。そういうアニメなのだから、とやかくいうことではない。せっかく料理次第なのに、と私が思うこともさして意味はない。そういうアニメも、需要があるからにはおそらく必要とされている。癒しとは概して欺瞞であったりもするが、欺瞞も必要なことはある。…フォローしてるように見えんな。してるつもりなんだけど。
 スピードスケートショートトラック寺尾選手の予選失格について、 ISUは強固に裁定の再審議を拒否 。いまどき、ビデオ判定も拒否するだなんてのは頑固という話ではない。はっきりと客観的に判断できるようになっては困る、というだけの話だ。誰が困るのか、いうまでもない。その困る誰かのために、寺尾はこれまでの研鑚を無に帰された。たいしたことではない。この世の中のどこにでも転がっている、クソのような連中の胸糞悪くなる話というだけのことだ。
 今日は「ナビィの恋」をBSでやっていた。とにかく、ジジイとババアがイカス映画。中でも健達じいじがお気に入り。
 シルバー・ゴールド劇場では岡本喜八特集の最後のプログラム「どぶ鼠作戦」がはじまっている。明日見にいきたいが、間に合うかな?


2002年02月20日(水) 旧暦 [n年日記]

岡本喜八愚連隊

 こないだから、フルメタルパニック!を悪く書いていて、「世紀の駄作」みたいに受け取られたらいけない、フォローしようと思ってはいるのだけど、うまく行かない。良く考えたらいろいろ余計なことをいいすぎるのがいけないのだな。よし、シンプルにこういおう。「演出はメリハリが欠けていて、情緒には訴えない作品だが、見れないことはない」。うん、やればできる。
 なんとか見てくることができました、「 どぶ鼠作戦 」。「 独立愚連隊 」シリーズの続編的な位置にあるとされてる映画だが、内容そのものは関係はない。先の大戦下における大陸を舞台とした、西部劇的な娯楽活劇映画というところが共通してるくらいか。「どぶ鼠作戦」で検索すると「不良番長/どぶ鼠作戦」という映画も引っかかるけど別物。
 話の筋は、軍を辞めて日本軍に協力する中国人特務部隊を率いる人物「白虎」が、八路軍に囚われた新任の参謀を救出に、脱走兵を率いて敵地の中へ向かう、という内容。正直、前二作(「独立愚連隊」および「独立愚連隊、西へ」)ほどの鮮烈さはないのは事実。しかし、佐藤充らはいうまでもなく、加山雄三もステロタイプな熱血若大将ではない、一癖ある脱走兵役を好演し、後味のいい映画には、しあがっている。
 劇中、敵陣に潜り込んで、軍病院内にいる目的の参謀に、佐藤充演じる白虎が、参謀の父親である師団長から預かってきた懐剣を見せる。「父上から預かってきました。これがどういう意味か、わかりますね?」との言葉に、まだ若い参謀は青い顔のままうなずく。「生きて虜囚の辱めを受けず」などという気違い沙汰の教育がなされていた時代だ。しかし、佐藤充はにやりと笑ってその懐剣を、再び自分のふところに戻す。「まあ、これで鉛筆でも削れということなんでしょうナァ」。
 岡本喜八映画の根底に流れるものはこれだ。体面だの面子だのとくだらないもののために、死ねの、殺せのと簡単に末端のものの命をないがしろにする、公権力に対する強い内心での反発だ。最後の、日本軍撤退のために見捨てられた白虎の特務部隊中国人たちを救出に、白虎、救出隊、救出された当の参謀、しんがりの部隊長や部隊長にあとをまかされた下士官までもがこぞって町へともどっていくラストは、突然だけど、この怒りがわかると感情移入できる。
 一見、戦争や公権力とは無縁な「大誘拐」であっても、ラストでとし子刀自に「お国が私になにをしてくれたんや」と語らせ、この狂言誘拐が実は公権力に対する老女のささやかな反抗であったことを明らかにさせている。このテーマを大上段に振り上げた作品もないではないが、岡本監督の娯楽作品の多くは、上の意向をけむにまき、茶化すことで反発を柔らかく描いている。だからときどき突飛な感じもするが、肩が凝らない。見てるほうもつくるほうも、肩に力を入れすぎない。真摯であるにもかかわらず、晩年の黒澤明監督のように息切れせずに、喜寿のこんにちまで岡本監督が見る側のための娯楽作をつくりつづけられているのはそのせいだろう。
 ひさびさに「独立愚連隊」が見たくなった。
 春秋新書刊・高島俊男著「漢字と日本人」を読みおわる。漢字がはいってきたことによって、日本語がことばとして、どうゆがんでしまったかがわかりやすく書いてある。少しだけ端的に説明すると、文章というのは本来口で話したものを記述しただけのものにすぎないのに、日本語はまったくべつの言語体系のためにつくられた漢字を導入したために、頭の中で漢字を照らし合わせないと、高等な概念をあやつる言語としては用をなさなくなることばになってしまった、ということだ。非常に納得できる。筆者の主張は、いまの日本語ははなはだ不便なものではあるが、漢字なくしてはもはやいられないのも事実であり、漢字本来の意味を考え文字を大切にし、本来の日本語の文字系統を反映した部分(ひらがなで書いて遜色ない部分)と、漢字で書かねばならない部分をきちんとしよう、漢字も文字の意味をきちんとかんがえよう、ということだ、とおもう。文章を書く際には参考になるとおもうのでオススメ。
 本書中に江戸時代の漢学者・頼山陽が書いた漢文としては意味はまったくなさないが、漢文っぽく書いた文章をあげて「はなはだ頭の悪い行為」といっていたのが笑える。たしかに、珍走団が無意味に画数の多い漢字でチーム名とか書いたりするのとおんなじなんだものなぁ。
 なんだ。それじゃ中学高校でやらされた漢文の勉強ってやっぱ意味ないんじゃん。