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2002年01月01日(火) 旧暦 [n年日記]

あけましておめでとうございます、ってことにしておこう

 旧年中はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
 年賀状を用意してないのでここで済ませてしまうおう…って駄目か。帰ったらなんとかしよう。
 いや、個人的には学位関係に完全にけりが付くまでめでたいも何もないのですが。
 実家に帰ると、何気にテレビがハイビジョン化している。ずげ、何時の間にですか? こっちにいればシュガーもナジカもまほろも普通に見れるのになぁ…
 おおみそかにスターチャンネルで「砂漠の流れ者/ケーブルホーグのバラード」をやっていた。やっていたけど「ペイチャンネル契約してないの?」の質問に「してない」との無情なるお言葉が…よよよ。せめて「海の上のピアニスト」くらいは見られれば良かったのに…
 なにげにキテレツ大百科をやっている。コロ助はCGで声が小山茉美と云うあたりはわかっているが、EDはやはり「はじめてのチュウ」でなかったのはいかんでしょう。キテレツのパパ上が山寺宏一なのは別にそんなにおどろかないけど、奇天烈斎の声がもとむーだったのはちょいとびっくりかも。
 先日の疲れがかさんでて、今日はほとんど寝正月。初詣にも行く気分ではないので殆ど親と一緒にテレビを見ているだけ…うぐぐ。
 年末の アギト は、新展開。独立した翔一や涼の前にそれぞれ気になる女性が。一方一時大人しくしている謎の青年も何事かを企む。やっぱり沢木(本当の津上翔一)は雪菜の後追い自殺していたのを青年が復活させていた。あと残り四話でどういう展開になるのか。
 まあ、今日はテレビでやってる「雨あがる」を見て寝ようか。


2002年01月02日(水) 旧暦 [n年日記]

僕たち義民、酒井家だけについていく〜♪

 老中水野の時代、領主の封地替えに反対し、庄内の農民が直訴を起こし、ついにはこの決定を覆すと云う事件があって、「義民が駆ける」と云う歴史小説になってたりするけど読んでません。<おいおい
 実家に帰ってすっかり寝正月を満喫していた頃、親が最近読んだ本でこれが良かった、と云うのでぽんと渡されたのが池宮彰一郎「島津奔る」。戦国時代を生き延びた薩摩の国主・島津義弘を描いた歴史小説と云う事になる。まだ上巻の半分くらいまでしか読んでないけど、慶長の役の見事な撤退から始まり、時代の大きなうねりの中でどうにか生き抜くために政略軍略の知恵を振り絞る様が描かれる。
 この本で気に入ったのは、誰か一人を「悪者」とするような、つまり、薩摩長州土佐側から描かれる時にしばしばあるように家康を野心家で狡猾に描くようなことはなく、戦国大名の振る舞いは大名一人の私心により決定するものでなく血族、臣下などの内政、また外部との止むに止まれぬ相互作用により流動的に決するものであり、後年から見ればまるで一個人の人格であるかのような振る舞いも、実際にはそうでない事を描いている事がある。
 二つ目に気に入ったところは、一つの戦場における一つの勝利が体勢を決するのではなく、それも外交の一つに組み込み、更にその上でどうやって生き延びるか知恵を振り絞っている事を描いている事にある。確かに戦場では比類なき猛勇で知られたが、政治に翻弄されて敢え無い最期を遂げると云うのはいかにも日本人好みである。しかし、実際に戦国の世をどうにか生き延びた諸大名の多くは政治的にもしたたかだった。一武将としてであればともかく、上に立つ人間はその下の人間に責任があり、それを放棄して我を通すと云うのは、ある意味無責任である。そうしなかった人と云うのは、もう少し評価を受けてもしかるべきではないかと思う。
 あと一つ気に入っているのは、秀吉の朝鮮出兵の目的が長い戦争状態の終焉による終戦不況が訪れる事を見越し、国外との戦争で武器など戦需品の需要をある程度維持しようとしていた事と書いている。それが史実であるかどうかはわからない。おそらくはそう云う一面もあったのではあろう。しかし作者はそんな景気対策に異を唱えている。戦争で戦争の尻拭いをして、それを軟着陸させるのは至難の業である。当然秀吉の朝鮮出兵は上手く行かず、よしんばもし上手く行ったとしても深い禍根の種を残したであろう事は間違いない。どこかの国に見せてやりたい話ではないか。


2002年01月04日(金) 旧暦 [n年日記]

違いの分かる男の

 まずは 年賀状 。ごめんよう、干支がらみって云ったらこんなんとかあんなんしか思いつかなかったんだよう、しくしく。
 年末に後輩のI垣君と暇つぶしに話していたら、妙に気になる物言いをしていた。
 時々日記に出てくるこのI垣君もオタク、それもちょっとアングラ系のオタクで、彼と話してると否応なく回りの人間置いてけぼりでどんどん話題がオタクな方に進んでいく。いや、ワシに外に話題があるかっちゅーとないのだけど、もう少し学術関係の話題も出てもいいものとは思うのだが…ま、ソレはともかく、この時もオタクな話が進行していた。話の流れで出てきたのが週刊少年ジャンプに連載中の「ブラック・キャット」と云うマンガ。これが2chではカウボーイ・ビバップのパクリとして槍玉に挙げられていたのだけど、個人的には出鱈目な銃器の取り扱い(いや、別にリアルであれってんじゃないのよ。銃器の取り扱いに代表される締りのなさ、と云う辺り)で見切りを付けたのだけど、このI垣君は「マンガ業界のイニシアチブを握っているジャンプがこういう物真似マンガを載せてるなんていい加減すぎる」と彼にしてはちょいとご立腹だったのだ。(ま、それでも大して怒ってる訳ではなかったが)
 ここで気になるのは、彼にはビバップ自体物真似の塊だと小一時間説教したのだが、何故か「物真似がいけない」と云うのはジャンプに向かい、ビバップには向かっていないらしい事。曰く、ジャンプを読んでこれを本物だと勘違いしてしまえば本物(ビバップの事だと思う)に損害だし、読者も偽物を掴まされて損をする、と云うような趣旨っぽいのだが、なんか違う、と感じる事おびただしい。
 最初に断っておくが、私は自分に審美眼はないと思っている。だから簡単に偽物に騙されるし、偽者でもそれなりに楽しめてしまう。でも本物とあからさまな偽物を並べておけば、なんとかその差はわかる、かろうじてそのくらいの判断力を持つだけだ。だから本物についてI垣君に説教するほど本物を知るわけはなく、「ジャンプってのは分かりやすい、一般向けの娯楽を提供する媒体だ(それだって血肉を削る大変な作業なのだけど)」と云う事を繰り返すに留めておいたが……
 実際に本物と云うのはほんの一握りである。一から作り出すより模倣する方が遥かに楽である。だから「模倣」は際限なく広がる。しかし見る人が見れば本物と偽物は一目で見破れる。本物を知らずとも、偽物である事も看破しうる。もし偽物と見えず、そこまで血肉としたものであれば、それはその時点で本物となっているはずである。本物との差異はどこで感じるかと云えば、違和感、不快感、疑問点、様々な形となって心で感じる。偽物がいけないのではなく、本物を知ってしまった人には偽物は本物ほど楽しめない、と云うことのはずである。娯楽は楽しんでこそ本分。本物を知りたい、本物を感じ取れる人間になりたいと思うのは結構。私もそうありたいとは思っている(その方法は本物を多く目で見て、触って、味わって、考えて、感じる事しかないと思うのだけど)。ただ、彼の云ってる事はなんとなく順列が滅茶苦茶な気がしたのだ。
 本物とは何であるかを知らずに本物を語るのは、偽物を本物として取り扱うのと同じくらい失笑ものである。正直、数年前の自分自身をちょっと重ねて見てしまった。とは云え私も本物を語れるほど本物を知らない。我知らざるを知る、と云ったところか。でもまだまだ知らないのに知ったような口を利く事は多いし、自分でもちょっとはそう云う青臭いところもあってもいいかななんて思ってはいるのだけど…
 本物云々、ってのは別にオタクごとだけでなく、万事に通じる事であると思うので、ちょいと気になってしまったことではある。彼とは先輩後輩とは云ってもほんの半年も年齢が違っていないので、きっとこの事は知人や友人に触れるうち、有意識的あるいは無意識的に教えてもらった事なのだろうと思う。知人友人に恵まれた事に感謝する事しきり、である。


2002年01月05日() 旧暦 [n年日記]

失言

 昨日の日記で書き忘れてましたが、一昨日の「薩摩奔る」は「島津奔る」の間違いでした.ご指摘ありがとうございます。こっそり直してただけではダメダメよね。しかも作者名まで間違えている。じゃ、佐藤雅美って辺りはどこから出てきた? うーん、謎だ。
 あと、私信で「勝るとも劣らない」と間違えて書いてしまったのだけど、「勝るとも劣らない」では良く考えたら「勝る事はあっても劣る事はない」なので「以上」と云う意味にならないか? 「同等」の意味のつもりだったけど……それなら「負けず劣らず」の方が良かったのか。うぎゃー、失礼&ハズカシイ!
 どうも風邪ぎみっぽい。一応今日は大事を取ってお休みする事に。ま、日曜でもなんとかなる用事だしな。
 実家から届いたニンジンも煮付ける。コレが色も濃いしいい匂いなのだ。煮崩れもしないし。ナマ物も一緒なので早めに食べてしまおう。
 2chのシャア専用板にも ザブングルスレッド が。アンタも好きねえ。TV版と映画版の違いに トロン・ミランが出ていた と云うのは爆笑。これが動撮だ!
 あすのデジモンは実はサクヤモンの究極進化シーンが無茶苦茶楽しみです。ムダに力が入りまくってると云う噂なんで。


2002年01月07日(月) 旧暦 [n年日記]

島津は奔(はし)る、お前も奔れ

 ってワケで池宮彰一郎「島津奔る」読了。粗筋はひとまず置いといて、この本の柱の一つとなるのは冒頭の朝鮮出兵から繋がる「戦時景気に支えられた経済の戦後処理」と云う事になり、その重要性と意味に気付いた島津義弘が関ヶ原の合戦において戦術上以上の意味を持つ位置付けに置かれるのだけど、正直「戦後経済の面に目を向けてたのが三人だけ(家康、義弘、三成)ってこたなかんべ」とは思うものの、最大の疵瑕としてはそのくらいのもので、あとはとても面白く読めた。敗戦国であるのに領地を保ったばかりか(徳川方に組みしても領地没収となった大名は多い)、沖縄に関する権益まで入手したという事実上の勝利を収めたと云うのは僥倖と云う外ない。沖縄に関してはまるっきりのとばっちりでこの後薩摩藩支配下においてそれこそ塗炭の苦しみを味わう事になるのだが、まあ、一応ここではひとまず置いておこう。ラストの部分(これから読もうと云う人にこればらしたらそれこそ殺されそうだから伏せておくが)と、その前提となる関ヶ原と関ヶ原後の脱出劇は悲惨ながらも鮮烈なのだが、やはり最大の山場は下巻に入ってすぐの、島津兵約千人の義勇兵の島津走りだろう。国許の前藩主龍伯が弟義弘への嫉妬から判断を誤り、兵を出し渋ったことにより義弘は窮地に陥るのだが、殿様一人を死なちゃならんとばかりに「自発的に」(義弘派の作戦ではあったのだけど)千人ばかりの薩摩兵が取るものもとりあえず薩摩から大阪へと駆け上っていく。その心理は単純に忠義とも云えず一種の異常心理ではあるのかもしれないが、以下の部分がその感想を簡潔に示していると思う。
「(前略)あるじの危急に数百里の道を遠しとせず、一心不乱に走る、その意気は壮、その至情は純、これぞ薩摩の国振りと存じます。」下巻P41
 え〜っと、ついでなんで正月に実家で見た「雨あがる」の感想。今の静岡県大井川、江戸時代当事は地方からの軍勢が江戸に上ってくる事を恐れ橋がかかっておらず、その為雨などで川の水かさが増えたりすると旅人は川止めをくらい、長いこと逗留を余儀なくされた。裕福なものであればそれでもさほど困りはしないが、宿泊費ですらようようの貧乏人にとっては死活問題になりえた。そんな川止めを喰らっている木賃宿の人々の中に浪人三沢伊兵衛夫婦の姿があった。この伊兵衛は剣術指南として幾つかの家に仕えたのだが人を押し退けて出世するような宮仕えが性に合わず、浪々の身に甘んじていた。そのように心根が優しい男だったため、長引く逗留に同宿の人々が神経を尖らせて餓えていくのに耐え切れず、妻から止められていた賭け試合で幾ばくかの金を用立て、それで同宿の者達に糧と酒を振舞った。人々から感謝を受け、その内に雨もあがり、川の水が引けば川も渡れるようになるとなったある日、地元の侍のつまらない諍いを止めた事が元で、城主に目を止められる。剣術指南として是非召抱えたいと請われ、殿様らしからぬ城主の気さくな人柄に、ここでなら宮仕えも勤まるのではないか、と期待に胸を膨らませるが、思わぬ横槍が入る。それは、同宿の人々を慰める費用を調達する為に行った賭け試合の件だった……
 「用心棒」とか期待すると肩透かし食らうけど、非常にまったりとしながらも「これはこれで」と思わせる内容。黒澤監督が撮っていたらどうなっただろうかと思うと共に、撮らなくて良かったんではないかとも思わないでもなかったり。ただ、全編三沢伊兵衛夫婦の優しい人柄に和まされていくような空気に、人生の皮肉的な話の展開ではあるのだが、このようなハッピーエンドとは云いにくい結末もいいのではないだろうかと思えてしまう。難しいかもしれないが、このように自分の信念を貫き、それを悔いない人間でありたい。1.5点。
  イダタツヒコ 「ゴルディアス」の三巻ゲット。わりと大き目の書店にも置いてなく、マンガ専門書店に行かないとなかった。「エリートヤンキー三郎」なんて置いてなくてええんじゃ、うきゃー! 内容は……見事に「未完」。ちょっと編集とどんなやり取りがあったのだろうかと思ってしまうが、再開できるといいなぁ、とは思ってしまう。ちなみに桐島は「外道の書」、榊原は「HeRaLd]の登場人物……だっけ?(榊原の方はちょっと記憶あやふや)
 古橋秀之「サムライレンズマン」入手。「島津奔る」の次に読むのがこれかい! とか思われそうだけど、いいじゃないかよう。
 あ、それと忘れないうちに昨日見た番組の感想。
 ガオレンジャーはマッスルにっぽんVS正月仮面でした。以上。普通ならこの手の馬鹿話、インターミッションのはずなんだが……
  アギト はあと三回しか残ってないのに沈滞振りがちょっと気になる。大丈夫か?
 デジモンテイマーズは、サクヤモン進化シーンは噂に違わぬ力の入りようでした。いや、それだけの話だったけどな。
 話では、サクヤモンの進化バンクシーン(使い回し用のシーン)はキャラデの人が自分の描いた原画にすらリテイクを出した拘りようだとか。道理で。


2002年01月10日(木) 旧暦 [n年日記]

たまには先輩風を吹かせて…

 後輩がセミナーのために論文読みをしてるのを高見の見物^H^H^H^H^Hもとい、ちょいと見てみたり。でも二人のうち一人の読んでるのはちょっと初心者にはきつ過ぎ。お前がやれと自分に言われても0.2secくらいで「ヤダ」と即答するだろうシロモノ。素人にはお薦めしない。
  MSが大量投票で自作ジエーン 。所詮はネット投票なのだけど、そこにここまでむきになるMSも可愛いと云うか…
 ここんとこなんか妙に自称「ファン」と云う存在の厭らしさがそこかしこで鼻につく。完全に自分の立場を履き違えた発言(例えばナイター見ながら「俺が監督だったら絶対優勝」と云ったほろ酔い加減のくだでこそ許されるものを公言して憚らないような真似)なんてのは、プロの送り手側にとっては失笑に伏すくらいのものにすぎないのだろうけど。ちょっと毛色の変わったものを作ると「ファンを裏切った」「ないがしろにした」とか騒いで、まるで生死に関わるかのように叫びだす。別にファンはそれで死ぬわけではないが、作り手はそれに生活をかけてるのだ。もう少し腰を落ち着けた視点が持てないのだろうか? 出来たものを見た上で面白い・面白くない、好き・嫌いを判断すればいいんではないか。ファンってのは作り手を育てる物(良い意味でも悪い意味でも)だとは思ってるけど、「同じファン」と括られるのが恥ずかしい人を最近よく見てしまうので。ちなみにこの話は私がファンサイトやってる作品とは違う作品の話ね。
 あと愚痴ついでにもう一つ。ここ最近風邪で体力が落ちていたせいだろうか、オタクのすまし顔が異様に気に食わなかった。自分だってオタクだろ、と言われればそのとおりなのだが、つまりは自分のすまし顔も気に食わないのだ。個人的な考えで申し訳ないが、人間の趣味とか嗜好とか云うものは、根っ子の方はどろどろと生臭くおぞましいものが渦巻いているように思う。結局はそれをどう昇華させているか、なのだが(別に趣味の問題なのだから、人様世間様の迷惑にならなければ昇華させる必要はないのだけど)、底が浅い癖につまらない文化人面をしていて、自分のつまらない趣味を小奇麗に飾り立てているつもりになっている人間と云うのは見るも無残だ。自分のハラワタにつまった排泄物を薄皮一枚でどうにか体裁を整えているようなものだ。自分自身がそうだからかもしれないが、オタクがその手の人間の中で最も目に付く。薄皮の向こう側が透けているのにも気付かずに好い気になって恥ずかしげもなく世間様を堂々と闊歩しているのを見ると(全員がそうと云う事ではないが、そう云うのが少なからずいるのも事実)反吐が出ると云うのが正直なところ。別に罪悪感を持てとか趣味を改めろと云う事ではない。だが何が透けてるかよく見返して、世間様をそれで闊歩する事を慎む程度の羞恥心は持って欲しい。「マイノリティの権利」で美意識のなさが正当化されるわけではないのだ。