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2001年04月01日() 旧暦 [n年日記]

京都より帰還

 ってワケで学会終了。まあ、いつも通りの学会でした。(ソレだけか?)
 壬生にも行ってきました。八木邸(新選組屯所)跡も見てきました。にこやかに案内のおじさんが「ここで芹沢鴨が殺されたんですね。ここにまだ刀傷が残ってますね」などと説明。なお、局中御法度については、あれは創作であった気が。
 八木家の現当主は御菓子屋の社長さんで、八木邸宅の隣に店舗を構えて「屯所餅」なるお菓子なども売っているのである。ちゃっかりしてる。いや、ちゃんと食べましたけど。
 今回は他には殆ど回らなかったなぁ。加茂川沿いに一定間隔で並ぶアベックも見てみたかったけど、寒かったし、天候も悪かったので見に行けなかった。
 でもやっぱり京都にもいました。電波さん。京都の地下鉄駅付近で、女の人に「ちょっとあんた。何するの!?」と女の人を変な喋り方でとがめてる男性がいたわけっすね。まあ、いかにもそれっぽい感じだったんですが、見た目だけで判断するのもなんだし、その場はひとまず無視して地下鉄の駅に入ってったわけです。
 で、ホームで電車を待つ事しばし、その変な男性もホームにやってきて(多分先の女の人には無視されつづけたので諦めた)、携帯でメールを打っていた人を見つけ、近付いたかと思うと、 「ちょっと、私具合が悪いんでメールとか打たないでもらえます?」
 彼の具合とメールとどういう関係があるのかは勿論不明です。ええ。きっと彼の頭の中にはシリコンゲルマニウムが埋め込まれてて、電波で命令されるんでしょう、びびびっとね。
 いや、そういうこと言われても何も言い返さずに無視する京都の方ってのは、本当におとなしい方が多いんだなぁと思いましただよ。
 土曜の学会終了後、京都の友人と落ち合ってメシ。手土産の一つも持たずにすいません。でも餅はあげたし(屯所餅)。
え〜、ちなみに今年の 神経科学会 の会場は 国立京都国際会館 だそうです。ハイ。なんだ。比叡のお山の麓か。
 もう一人、京都の知人の職場(飲食店)を訪れて嫌がらせグッズを置いて行こうかとも思ったけど、よく考えたらその職場の場所がわかりませんでした。おまけにメールアドレスも何も控えてなかったので連絡つけられず…きゅう。

 そんなこんなで学会に行ってる間に何時の間にか MOZILLA が、0.8.1をリリース。うむ? なんか履歴がIEライクになってる。こんなん真似せんでいいのになぁ。項目に「サーバー名」というのがあるのだから、それで整理すれば同じ事だから全く不要な改変なのだ。
 それと最近諸事情からちとMLM関連を調べなおしてることがあり、 悪徳商法マニアックス 見たら こんなページ が存在してる事を知りました。タメになるなぁ。ふむふむ。~  学会中にS・ハンターの最新作「悪徳の都」となんかジュディ・フォスターが映画化するらしい「放課後のギャング団」を読み終えたので後で感想でも書こう。あ、その前にいい加減「パヴァーヌ」の感想書かないと…


2001年04月02日(月) 旧暦 [n年日記]

氏んで花見が咲くものか

 花見ってのは、言葉面だけ取ると桜の花の鑑賞会ってことになるけど、実際は桜を口実に飲むと言う、日本人のお家芸である。四月は花見だ酒が飲めるぞ〜。
 口実と言う事は、喩え裏庭に桜の花が咲いていて、それを肴に飲んだとしても、一人では「花見」と言わないのである。ううむ。寂しいのう。
 も一つ。「死」をわざと「氏」と誤変換させて使うというのは 2ch 用語なのだけども、なんか2chがニッセイのスレッドが元で閉鎖を求められているらしい。
 詳しくは ここ とか ここ 参照。
 たって見てもちっともよくわからないので、閉鎖が要求されてるのが当該スレッドだけなのか、全体なのかというのが不鮮明。まあ、匿名で言いたい放題言ってたって責任ってものはついて回ってくるわけで、ある意味自業自得なのだが、しかし天下のニッセイが2chに目くじら立てるというのも面白いかも。
 まあ、生保関係は悪徳と言わぬまでも結構勧誘に関してアレやコレやとあるのは 悪徳商法マニアックス で詳しい所。ちと面白そうなのでワッチ。(これも性質が悪い)
 「悪徳」つながりで最近読んだS・ハンター最新作「悪徳の都」。(苦しいな)
 原題であるHotSpringsは舞台となる街。文字通り元は温泉が中心の田舎町だったが、太平洋戦争直後ではマフィアが街を牛耳り、買収、賭博、ドラッグと文字通り無法の街と化している。町ぐるみでマフィアに丸め込まれている為、警察を始めとする公的機関は全く役に立たない。主人公のアール・リー・スワガー(「極大射程」を始めとするハンターの3作の主人公ボブ・リー・スワガーの父親)は硫黄島の激戦を生き延びた叩き上げの曹長だが、あまりに多くの死を見過ぎた為、平和な日常というものに違和感を覚えずにはいられない。そこへ舞い込んで来たのは件のホットスプリングズの悪の一掃という仕事。アールの役目は現場での実働ではなく、兵隊となる警官達を鍛え上げ、使い物になるようにすること。最初は乗り気でなかったアールだが、直属の上司となる伝説のガンマン、D・A・パーカーの人柄と兵士としてくすぶっていた残り火がゆえに、この闘争へと身を投じる。しかしそれにはかつておこった列車強盗事件と、そしてアール自身の父の死にまつわる因縁が隠されていた。
 「狩りのとき」でボブ・リー・スワガーの物語は幕を下ろしたと思ったら、今度はその父親。パターン的にはこれまでのものを踏襲している…つまり言い方を悪く言えばいつものパターン。しかし、やはり面白い物は面白いのである。ボブ・リーの誕生に絡めて父を許せないアール、父親となるアール、という葛藤も一本筋として通っている。シリーズを読んでる人間にはニヤッとする登場人物もいたりするし、他にもベンジャミン・“バグジー”・シーゲル(ラスベガスを作った男。映画「バグジー」の主人公)やアラン・ラッド(西部劇「シェーン」で有名な映画俳優)など、実在の人物も出ている。いや、ハンターファンなら取り敢えず読んどけ。
 あと、「放課後のギャング団」と今日見てきた映画「ユリョン」「小説家を見つけたら」「サトラレ」の感想は後日。
 ちなみに今日見てきた映画は、結果から言うと「サトラレ」が一番面白かったです。ハイ。
P.S.あ、そういえば忘れてた。何時の間にか吉原昌宏氏の「女戦士(ワルキューレ)の伝説」が。篁樹里が主人公の「ニムロッド」も無事収録。それと西川魯介氏の「強襲ミドガルド蛇」も「SFフェチスナッチャー」の2巻に無事収録。これで旧作の単行本取りこぼしは消えたか…?
 それにしても「栗本玻瑠」の名前の元ネタが「宇宙人デカ」の作者ハル・クレメントということにこないだまで気付かなかったワシって…


2001年04月03日(火) 旧暦 [n年日記]

従者の危険な日々

 え〜、端から片付けてかないとね。(ってパヴァーヌは?)
 ジョディ・フォスターが映画化権を買ったというクリス・ファーマン著「放課後のギャング団」。原題はDENGEROUS DAYS OF ALTER BOYS。ALTER BOYってのはカトリックのミサとかで神父さんにくっついて補佐する役目の従者の少年のこと。これは主人公たちがカトリックの街に住み、カトリック系の学校に通っている事と、あともう一つ意味がある。主人公はヘルニアをわずらってて、「ゴッドファーザー」を読んで友達とギャング団を作ったりするちょっと悪ぶろうとしている13歳の少年。しかし根は素朴でやさしいところがあり、クラスのいじめっ子が学校の鶏を苛めてるのを止めさせるようなところがある。その主人公とギャング団が、学校の課題の絵画でポルノコミックを描いてしまったのが問題になり、退学させられそうになる。たかだかポルノコミックで卒業させられるなど不名誉の極み、とばかりにいつもろくでもない計画を思い付く参謀格の少年が、豹を捕まえてきて学校に放すというロクでもない計画を思い付く。これに主人公が密かにあこがれてた下級生との恋も絡んできて…
 田舎町の少年たちのちょっとした冒険、そしてその顛末が綴られる。
 少年たちはわるぶってはいるけども、あくまでワルのスタイルにあこがれてそれらしくぶっているだけ。行儀のいい教会のしつけにウンザリしたり、イヤないじめっ子や大人たちも出てくるけど、基本的に皆普通の人間でどうしようもなく悪い奴は出てこない。淡々と、どこかで見たような風景、出来事、感情が描かれる。
 舞台となる時代は70年代。懐かしく、そしてラストはほろ苦い、大人の為の子供の冒険物語である。その意味ではスタンド・バイ・ミーを思い出すかも。ま、あくまでノスタルジックにひたることがメインの小説だと思う。


2001年04月05日(木) 旧暦 [n年日記]

やっと映画の話

 週刊チャンピオン見たら何故かデジキャラットが…そのせいか、近所のコンビニではいつも数冊は残ってるのに今週は一冊だけ…マジ?
 他にも個人的にオシてる馬場民雄氏の「虹色ラーメン」(いつも思うけどこの人、タイトルのセンスだけはないなぁ)が新連載。ヤングアニマルで掲載されていた「ご馳走さまっ」から続いての(その間に麻雀漫画の「トバクチ」があったのだけど)ラーメン漫画。もしや、と思って月刊の方のチャンピオン見たら、思ったとおり同氏の「やんちゃゴール」は連載終了。そんなにたくさんアシスタントを使ってる人には見えないので、多分週刊以外に連載をかかえるのはキツイと思う。ハデさは足りないけど、漫画的ケレンはあるし、良い漫画を書く人です。
 で、今週見てきた映画。「ユリョン」と「小説家を見つけたら」と「サトラレ」。
 「 ユリョン 」。やむを得ない事情により上官を射殺してしまった軍人、イ・チャンソク。上官殺しは当然大罪であり死刑を宣告され、射殺られる。しかし、次に彼が目覚めたのは見知らぬ部屋の中。そばにはやはり見覚えの無い男が立っていた。「202」と名乗る彼は、チャンソクは既に死んだことになっており、韓国の非公式原子力潜水艦部隊に接収された、と語った。「生前」とは全てが切り離され、名も「431」とさせられた。ロシアからの現物借款により入手したシエラ級原潜「ユリョン(幽霊)」に乗る男達は皆チャンソクと同様、何らかの罪により死んだことになっている男達ばかり。431となったチャンソクは、202にどこかうさんくさいものを感じながら、「ユリョン」に乗り込むのだが、案の定韓国領海を出た所で副艦長である202が官庁を射殺し、艦を乗っ取る。その目的は、沖縄で原子力潜水艦の開発をする日本に搭載している核ミサイルを撃ち込む事だった。服従の歴史を語り、我慢するのはもうたくさんだと言う202。どんな名目であれ、武力の行使は侵略であり正義は無いと言う431。艦内が全て敵の状態で、431=チャンソクは核の発射を防ごうとするが…
 え〜、まず、この映画、どう考えても「お笑い」です。「日本が原子力潜水艦を開発しているのは公然の事実だ!」とか、まあその他色々。これが韓国の一般的日本観だとしたら即刻韓国と手ぇ切ってもいいんじゃないかというカンジの日本=ワルモノ。まあ、一昔前のハリウッド映画におけるソ連の扱いと同じですな。でもそのワリに作中で日本が何か悪い事してるかってえと、別に領海侵犯した国籍不明艦を追い払おうとしてるから別に悪いコトしてないのである。202は沈む日本の潜水艦の圧壊音と搭乗員の悲鳴をわざわざ聞くという悪趣味っぷり(日本語で「バカ!諦めるな!」とか潰れる瞬間「おかーさーんっ!」という叫びが聞こえるなど、イヤな感じ120%)。つまり行動原理が完璧テロリストのイカレ具合なのに、主人公も根っこの所ではそれを否定してないのである。う〜む。更に、潜水艦で潜水艦を海底に引きずり込むという荒業や(船体の大きさは同じくらいなのだが、そういうことって出来るものなのか? そもそもアンテナを狙って相手の船に引っ掛けるなんて芸当が出来るとは思えんが)恒例の「敵の魚雷を敵潜水艦にぶつける」も披露。ラストも爽快感も救いもへったくれもありゃしねえ。悲壮感ですら漂わないってのは問題ですぜ。いや、もう言う事無いです。0.5点と言いたいトコだけど、潜水艦釣りに免じて1点。
 「 小説家を見つけたら 」。途中から見始めたのであらすじは省略。要は、ブロンクスの貧民街に住む母子家庭で育った黒人の少年が、大昔に一作だけ本を出した伝説の小説家と出会い、思わぬ文才を開花させるけど、あまりに出来が良過ぎるので、国語の教師に盗作の疑いを持たれる。しかし、小説家との約束で、彼の事を他に漏らすわけにはいかずに窮地に陥るという話。
 「恋愛小説家」や「グッドウィル・ハンティング」のガス・ヴァンサントの監督作品。う〜む、結構楽しめるのだけど、はっとする所や、絶え切れないくらいの重みを感じさせる所とかにはちょっと欠ける感じ。良くも悪くも「佳作」ですかね。1点。
 最後は「 サトラレ 」。佐藤マコト原作の漫画の映画化。「サトリ」というのは昔話に出てくる人の心を読む妖怪。一方「サトラレ」は、周囲の人間に心を「読まれて」しまう人間。しかも本人にも周囲の人間にも否応無く。周囲の人間に自分の考えてる事が筒抜けなどという状況下で、まともに生活出来る人間はいない。しかも「サトラレ」である人間は、何故か皆IQ180以上を誇る天才揃い。知的財産である「サトラレ」を守る為、日本ではサトラレ保護法が施行され、サトラレ本人に自身がサトラレである事を知られぬよう、彼らを守る「サトラレ対策委員会」が存在していた。物語は日本で7番目のサトラレである外科医、里見健一の元に委員会から派遣された小松洋子が接触する所から始まる。里見健一は医薬品開発に非常な才能を示しながらも、決して外科医志望と言う自己の信念を覆すことがなかった。これは医薬品開発分野における多大なる損失であるのみならず、守秘義務を要求される医者にとって「サトラレ」であることは生得的な欠点であるとも言える。洋子の任務は、健一が外科医を志望する理由を調べ、彼を医薬品開発の道へ向かわせることだった。洋子も最初はサトラレの思考伝播の為に迷惑する病院の人々を見て彼を病院から追い出すべき、と思うが、しかし異形の天才「サトラレ」とはいえ普通の人間、恋もすれば悩みもする、むしろ人間として真摯で純粋な健一の姿を見て、そして健一が医者を志す理由が、幼い頃高熱を出した時に助けてもらった祖母の姿が心に焼き付き、医者になって祖母が病気になったら助ける為ということを知り、「サトラレ」に対する考え方を変えていく。しかし病院内外からの働きにより、外科医としての自らの適性に疑問を持ち、方向転換を決意する健一。そんな時に彼の祖母のキヨが悪性のすい臓癌に侵されていることが判明した。無論サトラレである健一には知らされない。キヨは自らの病状が軽くは無い事を知り、健一にオペをさせてもらえないか、と頼む。そしてオペの当日、何も知らずに医科学研究所へと送られる健一を乗せた車を追って、洋子は祖母の本当の病状を知らせる為に走るのだった…
 ベースは原作の「サトラレには向かない職業」。それを原作の様々なエピソードを繋いで映画化している。基本的に原作のエピソード順にわりと忠実に映像化してるので素材の勝利と言えない事はないのだが、こういう場合にありがちなエピソードのバラバラ感というのは薄い。と、いうのも影の主役として「サトラレ以外の人々」、例えば小松洋子やサトラレ対策委員会の部長国光のサトラレに対する考え方、態度が全体を通して変化して行くというのがちゃんと描かれて行くせいだと思う。最初は世間的にはやっかいもの扱いで、正面切って以外は「サトラレ」としか呼ばれなかった健一が次第に名前で呼ばれて行くなど、あからさまと言えばあからさまだけど良い効果を出している。最後のシーン、どこで切るかも秀逸。映画としてはあそこをラストシーンにするのがベストだろう。色々言えるけど、良い映画かどうかと問われれば、「面白かった」とはっきり言える。2.5点。


2001年04月06日(金) 旧暦 [n年日記]

風邪が酷い

 いや、熱はさほどでもないんですが、咳がひどくって、夜もまともに寝付けない始末。
 日記は後で書き直します。げほげほ。世話をかけてすまないねえ。それはいわないやくそくでしょう、おとっつぁん。(ちょーん)
 ってワケで書き直し分。いや、これが想像以上に酷い。のど飴なめてもちっとも咳が収まらない。 それどころか口の中は荒れてくるし、胃腸もきゅるきゅる鳴り出すし、おまけに本格的に頭もぼーとしてきたり。 花見の日付も思いっきり間違えてた事に気付く。きゅう。
 こんな時になんで夜を徹して実験なんぞせにゃいかんのだろうと思ったりもするが、実験標本がナマモノを殺して採取したものである以上、足が早いのでほっとくと痛んでしまうし、なにより食うわけでもないのに生き物をこっちの事情で殺してるのだからちょっとやそっとの体調不良で文句を言った日には化けて出られて七生+消費税分まで祟られるってものです。
 とはいえ身体が資本。まあ出来るだけ養生するようにしときます。トホホ。


2001年04月07日() 旧暦 [n年日記]

大須に画廊

 なんかオタク街化の一途を辿り、危機感が募る名古屋市中区大須商店街ですが、またもう一つそれ系の店が…
 「アートスクエア」という店なのですが、「画廊」なのです。画廊の何処がオタクやねん、と言うかもしれませんが、扱ってる商品がすごい。天野喜孝をはじめ、末弥純、ひろき真冬、いのまたむつみ等々の複製原画等なのです。なんつーか、オタク向けかと言われると完全に首を肯き難いものはあるのですが、しかし一般向けかといわれるとそれもまた…天野さん以外の知名度はそれほどはなかろうて。実力云々は全く関係無く。っつーか、末弥さんとかひろきさんとかの絵は大好きなので思わず堪能してしまいました。くそう、悪いかよう!
 ま、今やってる特集でソレ系は終わりって可能性もありますけどね。

追記

 上の件、姉から指摘がありましたが、ええ、その通りです。実にそれっぽいです。かなりキャッチセールスの臭いがします。以前展覧会にかこつけた販売会にうっかり行ってヒドイ目にあった事があるのですが、それとそっくり。
 ただ、店舗を構えてしまってるので、そこまで問題になるような強引な商法というのは取るかわかりませんが、この不況の御時世にわざわざ絵を売ろうなんてんですから、まああまり信用はしない方が良いでしょう。ってわけで行くなら行く際には「あまり裕福そうな格好はしない」「人が出る日曜・休日に行って店員が自分に向かってくるプライオリティを下げる」などするとじっくり内部が鑑賞できます。うっかり行ってバカ高い買物をせざるを得ないなんてことにならないよう。
 「絵を見たい」というだけでしたら名古屋美術館のルノアール展に行くのが安全でしょうね。


2001年04月08日() 旧暦 [n年日記]

自己嫌悪

 すいません。自己嫌悪で暫く死んでます。
 明日はきっと良い日…


2001年04月09日(月) 旧暦 [n年日記]

緑の親指

 コリンは人生の半分を塀の中で過ごした。長い囚人生活は、世界に対する期待も、希望も彼から奪っていた。しかし同房の老人ファーガスから貰ったスミレの種が彼を変えていく。
 という出だしで始まる映画「 グリーン・フィンガーズ 」。実話が元、と言っても「Based on」と「Inspired on」ではやはりビミョーにニュアンスが違うのだが、この映画は「Inspired」の方。
 コリンはある日、模範囚として先進的な刑務所「エッジフィールド刑務所」に移送される。そこは今までの刑務所と違い、塀もなくものものしい看守もおらず、まるで別天地の様な場所だった。しかしコリンは誰とも打ち解けようとはしない。同房(というより同室)の老囚人ファーガスはなにくれとなく気を効かせて話しかけてくれるが、それにも素直に反応する事が出来ない。しかしクリスマスパーティの晩、ファーガスは半ば無理矢理にスミレの種を手渡す。コリンは投げやりにそれを刑務所の灰質の土壌の庭に埋めるが、春が来て、信じられない事にそのスミレが花を咲かせた。それを知った所長がコリン、ファーガスを始めとする5人の囚人に新しい職業訓練カリキュラムを言い渡す…殺人犯(一人は冤罪)、強盗犯、その他諸々にすぎない彼らはその日から「俄か庭師」となった! 古びた農作業具と園芸入門書だけを頼りに必死に庭園を作り上げて行くコリンたち。世の中全てに絶望していたコリンにとって自分の手にかけ、そして応えてくれた「庭園」は初めて感じる生きがいだった。所長の奥さんの計らいにより、英国でも有名な園芸家ミス・ウッドハウスに紹介される。彼らの、特にコリンに「庭師の才能」(グリーン・フィンガーズ)を感じたウッドハウスは、刑務所で新しく始める「一般就労カリキュラム」の一環として彼らを雇うことにする。庭師として目覚しい活躍を見せるコリンたち。ウッドハウスの娘プリムローズともなんとなく良い雰囲気に。そしてなんと彼女の推薦により英国でも由緒ある「ハンプトン・ガーデニング・コンクール」に出場が決まった。しかし物事はそう上手くは行かない。彼らが庭を手がけた家で絵画の盗難事件が起こった。犯人はすぐに捕まったが、「庭師から間取り図を手に入れた」と主張していた。彼らに降り注ぐ疑惑の目。特に刑務所の職員を孕ませてしまい、金が要りようだったトニーに仲間からも疑惑の目が注がれた。それに絶え切れずに彼は刑務所を逃げ出してしまう。こうなるともはやガーデンニング大会どころではない。意気消沈するコリンたち。そして彼らの中心だったコリンも、刑期を終えて釈放される事になった。刑務所を去る日、コリンはファーガスに、自分の罪…恋人を寝取られ、逆上して思わず浮気相手だった男、実の弟を殺してしまった事を打ち明ける。ファーガスは酒のせいで過去三人の妻を殺してしまい、決して外には出られない自分の代わりに世界を楽しんでくれ、と言葉を託す。そして一年。前科のせいでまともに庭師としては就職できず、プリムローズとの仲もこれに限っては良い顔をしてくれないミス・ウッドハウスに阻まれ、それでも真面目に働いていたコリンの目に、エッジフィールドの囚人達が再度ハンプトン・ガーデニング・コンクールに挑戦するという記事を目にする。それを目にし、まだ「塀の中」にやり残したことがあると気付いた彼が取った行動とは…
 ありていに言えば「フル・モンティ」の系統の映画。コリンが打ち解けたり、急に園芸に目覚めるところは唐突という点がちと気になる。でもファーガス老人の陽気さと、極悪犯罪者のはずなのに何故か皆園芸を通すと善人みたいに見えてしまうという殺伐としてるはずなのに妙に感じるほのぼのとした雰囲気。そして全身から「庭を愛してる」というオーラを出す出演者の演技はなかなかに良い。特に終盤、コリンが決意を実行してからの展開はお約束といえども泣かせる。やっぱジジイはいい。1.5点。


2001年04月10日(火) 旧暦 [n年日記]

池波正太郎のかわいいところ

 池波正太郎って言うと、どうもイメージ的に「江戸の暗黒街」とか、どうも人間のほの暗いところからおこる悲劇と言うか、明るい面も暗い面も淡々と描くというイメージがあったのだけど、「忍者丹波大介」ではこのイメージとちょっと違った。
 主人公の丹波大介は、裏切り、下克上が横行する戦国時代の、中でも忍びなどという暗いところを一手に担う存在であるのに、信義にそむくような頭領のやり方に反発して甲賀を離脱、己の思うままに生きようと、上田の真田昌幸・幸村に身を寄せる。石田三成も立場を利用し横専を欲しいままにしたわけでなく、大名の合議を確立させようとした人物として描かれてるし、主人公の立場が豊臣方だから家康はそんなに良くは描かれてないが、だからと言って完全に嫌らしい野心家に描かれてるかというとそうでもない。そして、主人公達に作者が言わせる、「死別生別のない世界がくればなあ」という言葉は、なんとなく作者の真情であるように思える。
 物語はハッピーエンドでは必ずしも終らないが、池波の描く「人情」が、ある意味舞台が戦国ゆえに際立った小説だと思う。