2001年01月01日(月) 旧暦 [n年日記]
■ 日本の芸能とエンターテイメント
相も変わらずつまらない日本の正月番組見てたりするのである。何故つまらないかというと、やはり身内誉めと白々しいリアクションといった見てるもの置いてけぼりな構成に尽きるのではないのだろうか? つまり誰の為の番組か、見ててわからないのである。これでも視聴率が稼げるというのなら、それを視聴者が望んでるという事だろうが、しかしもっとエンターテイメントに徹した番組があればそちらに流れるのではないだろうか。
見てる側に気を使わせて笑わせるのは、エンターテイメントではない。こう考えると、実は日本にエンターテイメントってのはそもそも根付いてないのではないかという思いに刈られる。本当にそうだろうか? 日本にエンターテイメントな作品がなかったわけではないと思うし、また今だってないわけではない。スタージョンの法則によれば九割は屑なのだから、つまらないものがあるのは仕方ないという考え方もあろう。しかし、例えばハリウッド作品のつまらないと国内作品のつまらないとは明らかに違う。向いてる方向がそもそも違うのだ。日本人もエンターテイメントに関心がないわけではない。だからこそハリウッド産の受けたエンターテイメントが日本でも受ける。
多分、日本人はエンターテイメントに餓えているのだ。もっと日本人はエンターテイメントを重要視してもいいのではないだろうか? 少なくとも芸能人だけが楽しむための番組作りはやめてくれ。
2001年01月02日(火) 旧暦 [n年日記]
■ 「面白い」と言える事。
前もって言っておきますが、これは知人と話した時にその知人が言った事が含まれており、従ってその影響も大きい、という事を述べておきます。ネットに素人批評と言うのは多い。非常に多い。そしてその大半は批評と呼ぶに値しないものです。さらにその中でも、悪口を書いているものが、「ここがダメ」と書き連ねているものが多い。いや、こういうこと書くとまんま自分に跳ね帰って来るから怖いんだけど。そういうのは大抵は批評のレベルでなく、ただの感想である。それが書いた人にとって面白いかつまらないか、ということを書いたのみのもの、と私はみなしています。ただ、性質が悪いのは書いた人が楽しんで見たようであるのに、悪口が書かれている、というのがあります。面白いなら面白いと(悪口書いちゃいかんとは思わないけど)、素直に書けばいいのに、誉めると自分の負け、というように意地になって悪口を書く人もいます。
なぜそういう人は誉めないのか。単純に名の知れたものを貶めて自分を偉く見せよう、偉くなった気になろう、という心理もありますが、「面白いものが何故面白いか」というのを書くのは実は難しいことなのです。もしそれを的確に分析でき、リストアップできたとしても、その書かれている事=面白いと言う事ではありません。面白いものというものは要素でなく、実体を持たねば「面白いもの」にはなりえないからです。この意味では非常に的確な批評家であっても、三流エンターテイナーにすら敵いません。実際にものを作る人間と、ただ見るだけの人間の立場の差です。
だから批評をするな、とは私は思いません。感想レベルであれば、感想として言えばいいのであるし(金を払って見た以上、面白いかつまらないかを堂々と述べる権利がある)、的確な批評はそれを読む/聞いた人に何かを残すと思うからです。ただ、「面白い」ということは形にする事が案外と難しい、ということを忘れず、面白いと言う事にもう少し敬意を払ってもいいのではないか、と思います。
誉め殺しは問題外だけど、面白いものを面白いと素直に言える人間の方が私は信用できます。
2001年01月03日(水) 旧暦 [n年日記]
■ イヤよイヤよも松の内
「だからどうした」って言われそうな題名ですが、意味はありません。まあいつものことか。最近検索エンジンで意味不明な単語の組み合わせ(「黒人」と「ソープ」とか。一体何を探したかったんだ???)で辿って来たりする人がいて、そういう人に大変申し訳無いので なまず でも設置して検索出来るようにしようと思ったのだが、何故かインストールできず。ふむむ。実はこないだ メディアワークス から「電撃大王」という単語で検索してきたのがあったので、それが直接的な動機なのだが。いや、ここに「GPMの漫画化はさなづらさんでなく広江さん希望」とか書いといて検索に引っかかったら、編集の人の目にかかるかもしれないしねえ。
まあそんなことばかりしてる暇もないのだけど、そんなことする暇がまるっきりないわけでもないので。
2001年01月04日(木) 旧暦 [n年日記]
■ 年賀です
こんなかんじ で…いえ、あの〜、スネーク・ブリスケンと言いましてね。詳しくはジョン・カーペンター監督の「ニューヨーク1997」か「エスケープ・フロム・LA」でも見てください。見ろってんだよコンチクショウ!<逆切れ
いえ、すいませんすいません。多分普通の人には死ぬほど退屈な映画なんですけど。アホっぽさを笑って見れる人向けの映画。
2001年01月05日(金) 旧暦 [n年日記]
■ こないなものやってます。
こないなもの ね。無意味な続編大作の独占を許すな!(おー!)
ドラクエがなんだー!(おー!)
FF9なんてポイだポイ!(おー!)
コナミの横暴を阻止しろー!(おー…お?)
なんか最後のは若干違う気がするけど、でもみんなが同じものばっかに入れたらつまらんでしょ。
2001年01月07日(日) 旧暦 [n年日記]
■ メモメモ
Oさんに600円の借り。姐さん方面(姉さん方面ではない)にクウガビデオ。名古屋の知人で新年会。いや、結果的に新年会になっただけだけど。
面子はH氏にT姐さんにOさん。
メシ食って深+へ。マスターに帰り際檄入れられる。うう、そんなにダウだったか。
風邪もずるずる引っ張ってるし。頑張らないと…
それとは何の関係も無いが、今年も 星雲賞非公式ノミネート やります。もうちっとページ整理してから、あちこちに宣伝始めましょうかね。
2001年01月08日(月) 旧暦 [n年日記]
■ 今日は静養
いや、そんなに余裕無いのだけど。でも風邪がいい加減長引いてたのでこの機会に一気に治す。最低限の栄養を摂って暖かくして寝る。これに限る。まだちょいと喉に残ってる感じがするので油断できないのだけど。
ああ、でもナマモノの世話と大沢在昌の「心では重過ぎる」を買ってこないと。深+のマスターから直々に「買ってあげてください」なんて言われたのでは買わないわけにはいかんだろうし…まあ1回映画にいけなくなるくらいか。
2001年01月09日(火) 旧暦 [n年日記]
■ 言葉では軽すぎる…
昨日「心では重すぎる」を買ってきて、冒頭の十数ページだけぱらぱらっと見たのですよ。お、重い。確かに冒頭からしてこれは重い。
最初薬物中毒者のセーフハウスの話からはじまるのですが、なぜそういう施設が中毒者に必要なのか、心が弱い、というのは本当なのか、ということを「薬物中毒者の社会」から説明してるんですわ。他人からさげすまれる立場、そこへ落ちて行くことにある暗い喜びに何時の間にか足をとられてしまった者たち、そういうどん底の者どうしだからこそある、脱却への足の引っ張り合い。それを数ページ足らずでさらっと書かれてしまう。う〜む。こいつはまいりました。2000円(税抜き)を払って読む価値ありそうですわ。
■ 「予告編」について
いやいやいや、実は アヴァロン の予告編を見たのだけど、これがマジで見てみたくなる出来なんですわ。押井守ファンの友達から「途中で寝そうになった」と感想を聞いていてなお、そう思うんですから凄い事ではないですか。実際予告編でいいとこ出しすぎて、本編を見たら予告以上のものはなくてがっかりとか、予告で全然別の話を作ってて「なんじゃこりゃー!」みたいなこともあったりすると言うかそういう事の方が多いのでなかなか考え物なのだけどそれはそれ。でも予告編は劇場へ足を運ばせることが目的である以上、「面白いと思わせる」というのは予告編の意味としてはこの上なく正しい。劇場で見たらつまらなかったら、まあ予告編の作りがそもそも方向性が違うと言う事もあるのかもしれないけど、でも大体はそれは本編の力不足が悪いのである。
だから期待させない予告編はだめなんだって。
■ マトリックスってなんだ?
え〜、ウィリアム・ギブスンの小説を読んでください。いじょ。<こらこらっつーか要約すると、危険思想のテロリストが「世界の解放」を訴えながら、無垢な一般人を片っ端から殺しまくる話です。<おいおい
いや、だって本当じゃん。そんな頭悩ます話じゃありませんって。
2001年01月10日(水) 旧暦 [n年日記]
■ 泥沼の様な
え〜、昨日、一昨日と「心では重すぎる」の話をしたわけですが、ちょいと一晩読み進んでみた訳です。進まねえ。いや、文章はいわゆるいかにもな「名文」ではないものの、読ませる文章なんですよ。確かに厚い本だってのはあります。ハードカバーで一段組で原稿用紙1300枚分だっつーんだからあなた、ホントに人を殴って殺せますよ。しかしいつもめんどくさい文章は斜め読みですっとばすオイラが、数時間かけてようやく400ページ弱とは…
内容が難解とか、読む気がしないというならわかります。だがそうではないです。続きが読みたくてたまらない。しかしなかなか進ませてくれない。一文、一文に世界、物語の背景、人物の背景、感情、そういったものが練り込まれている。一文も落として読めない。ちょっと眠いと、何かを頭の中から取りこぼすのが恐くて続きが読めないくらいに。
正直まるで目の前に岸があるのに、泥沼の中で重い足を引きずって岸へ辿りつこうとしてる気分。それでも岸に向かわずにはいられない。
■ 甘くてスイート
実家に帰ってた時の話。お節に入ってた人参が京人参だったのですよ。こんなに美味い人参は初めて食った、って気になりました。注意しときますが、これはうちの母親の料理の腕が上手いってことじゃありません。むしろ下手の部類です。最近は父親の教育の成果か、上手くなってきたみたいですが。人参そのものが違うってことなんです。甘くない。それでいて噛むと味が出る。人参ていうと子供の嫌いな野菜No.1みたいなものですが、何故かというと苦いから。で、最近の人参ってのは甘さを上げた品種が主なわけです。子供は甘いもの=おいしいという単純な味覚になりがちですから。でも、何故かその甘い品種ばかりが出まわるようになってしまった。理由は知りません。ただ、消費者の選択の巾は狭くなり、味覚と価格以外のもので市場が支配されてしまった。もし、自分が食べてるものがどう変わったのかちゃんと観察してれば、ここまで一方的にはならなかったかもしれません。娯楽でも同じ。子供の食べやすいように噛み下したような、そして甘く味付けされたものが大量に出まわってる。流行とかは世代やグループで通じる共通価値の確認の為の貨幣の様な部分があるので、奥深くないとか精神性が無いとかいうのは間違いという事もります。しかし、みんながみんな子供の味覚になった結果、本当に「美味しい」ということがどういうことかわからなくなってしまった。あるいは、噛み下されたものしか受けつけなくなった大衆は、それに飽きた時何処へ向かうのか。
昔の主婦とかは生活とか家事に追われてたと思われてるし、事実そういう側面もあると思います。でも、その中には美味しいものが何処へ行けば手に入るのかとか、そういうコトを考える事も含まれていたでしょう。今では本当に忙しい共働きとかもいるだろうので、別に家事に頭を使わないことを責めるとか、そういう意図はありません。でも消費者である以上、性別とか年令に関わらず、一体自分が何を欲し、何を消費しているか、というのをちょっと考えてみるってのも必要ではないでしょうか?
噛み下した甘いお菓子しか受けつけない大人の社会なんて、なんか気持ち悪い。